さよならフェアリーテール

塚崎亜也子

good-bye, Fairy Tale

 ゆるやかな坂道を下っていると、この感覚はひどく恋愛に似ている、と、美妃は思う。ゆるやかすぎて加速していることにも気付かない。足を取られて転ける――そうなって、初めて気付くのだ。

 そしてその頃には取り返しがつかない。

 自分ではどうすることも出来ない、今みたいに。


***


 美妃は前を歩く夏目の背中を見ている。夏目はひとつ年下の同期入社の、上司だ。


「児玉さん」


 夏目が静かに振り返る。美妃ははい、と答える。


「時間少し早いから、向こう近くなったらお茶しよう」

「いいですね」

「どこか知ってる?」

「お任せします、チーフに」


 美妃は静かに笑って答える。チーフ、という響きに、夏目が僅かに傷ついた顔をした。けれど彼はそれを隠すように目を伏せて、そして、前を向いた。黙ったまま。


 半年前、夏目、と呼んでいた彼を、美妃は「チーフ」と呼ぶようになった。彼が昇進したとか、彼女が降格したとか、そういうわかりやすい理由ではなく。

 それまでは、入社当時のまま――一浪したためにひとつ年上の美妃を、夏目は「児玉さん」、美妃は「夏目」と――呼びあっていた。配属替えになっても、夏目が上司になっても、それは変わることはなかった。――半年前までは。

 けれどもう、美妃は彼を「夏目」とは呼ばない。


(なつめ)


 胸の内では、呼ぶ癖に。

 口に出さなくなって久しいその響きは、それでも、美妃にとってとても愛おしいものだ。


(……なつめ)


 前を歩く夏目の、ぴんとして皺のないシャツを美妃は見つめる。先月まではあまり綺麗に皺が伸びていなかったはずだった。


(彼女が、かわったの)


 今は誰が洗っているのだろう。アイロンをかけるのだろう。美妃は考えてしまう。見えてしまうから。

 いつも側に、いるから。

 夏目は仕事もできるし愛想もいい。後腐れなくうまく遊んでいるのも知っている。

 けれど三十路を目の前にすると、そうそう遊んでばかりもいられないのだろう、夏目の身のまわりに、マーキングみたいに女の影が見え出した。シャツのアイロンしかり、弁当しかり。

 美妃はいつもそれに勝手に傷つく。

 夏目のシャツにアイロンをかけるつもりも、夏目のために食事を作るつもりも、ない癖に。


(悔しいからね)


***


 半年前まで、二人は互いに他で適度に遊びながら、時折二人で食事をした。酒を飲んだ。


『――なってよ、彼女』


 けれどあの日、光り輝く観覧車を見ながら、夏目は優しく告げた。

 知っていた。わかっていた。夏目の気持ちも、美妃自身の気持ちも。

 美妃はそれを、静かに断ったのだ。


『出来ない――ごめんね夏目』


 うれしかった。


『なんで?』


 好きだった。夏目を好きだった。


『……妬ましいから……』


 けれど、それ以上に、――妬ましかった。

 釣り合いもしない夏目の隣で、張り合って背伸びして疲れていく、そんな自分の姿しか、美妃には見いだせなかった。


『どういう、こと?』


 憎らしかった。悲しかった。

 自分が仕事が出来ることに対して、周囲からそんな風に思われていると想像したことすらない夏目の、その恵まれた才覚が、屈託のない精神が。

 そしてそれを持ち得ない、自分が。


『……、』


 応える言葉を、美妃は持たなかった。

 恋しい気持ちより意地の方が勝っている自分の醜さを、知られたくなかった。

 互いの沈黙の内に夏目は去り、夏目が去って初めて美妃は泣いた。

 明るくひかる観覧車は、小さいときの記憶のなかにある童話のお城みたいに眩しくて美しくて、

 だからこそ妬ましくて憎らしくて悲しくて、

 ひとり、声を上げて、泣いた。


***


 それから美妃は、夏目、と呼ぶのをやめた。隙のない笑顔で敬語を使い、食事に行くことも、飲みに行くこともなくなった。

 それでも、離れてしまうことはできない。夏目ほどではないにしても、美妃も部署では大きな戦力になっている。個人的な理由で抜けるわけにはいかなかった。

 何より、プライドが許さなかった。

 側にいれば、より傷つくプライドだとわかっていても。


「児玉さん?」


 呼びかけられた声に、美妃ははっとして慌てて表情を取り繕う。夏目がまた、小さく傷ついた顔をした。


「ここでいい?」


 それでも、愛想よく夏目が尋ねる。はい、と口を開きかけて、けれどそれは声にならないまま消えていった。

 どれだけ自分が、夏目の背中に頼りきって歩いていたのかがわかる。

 声をかけられるまで、自分がどこを歩いているのか、気にさえしなかった自分を知る。

 立ち止まった夏目に合わせて、美妃も止まる。しばらくの間、二人は店の白いドアの前で見つめ合っていた。


「……、話をしたいよ、児玉さん」


 ぽつりと呟かれた声の低さに、既に自分に逃げ場のないことを知る。それでも、美妃は抵抗を試みる。


「今日のプレゼンのですか?」


 ひどく明るく、にこやかに、それは発された。濃い朱でかたどられた唇は、店の窓に映る限りでは綺麗に微笑むことができていた。


「――違う、」


 それは、いつも柔らかな夏目らしくない、かたいかたい、声だった。滅多に聞くことの出来ない苛ついた声に、美妃は心を震わせる。同時に最後の抵抗もさらりと潰され、美妃はただ押し黙る。

 ギィと音を立てて、夏目がコーヒーショップのドアを引く。静かに怒りを湛えた瞳が、それでもレディファーストを促す。美妃は黙って従った。

 ざわざわとした人の声と、うるさくない程度のBGM。コーヒー豆をひく音、ポットの中の湯が沸く音、食器の音。そして、コーヒーの匂い。

 何度も二人でコーヒーを飲んだ店、慣れ親しんだカウンター、見慣れたマスターの顔。


「……ホットとアイス」


 夏目はさらりと注文する。夏でも冬でも美妃はコーヒーをホットでしか飲まない。それを夏目は、知っているから。

 夏目の静けさに、体の奥がつめたく震える。けれどそれを覆い隠して、美妃は唇のかたちを整える。

 児玉美妃、ではなく、部下の一人であるときの顔で、美妃は夏目の言葉を待つ。


「児玉さん」


 精一杯の優しい声だっただろうが、まだ少し苦い感情が混ざっていた。美妃は、なんですか、と答えようと夏目を見て、そのあまりに淋しげに傷ついた表情に息をのむ。言葉は声にならない。


「先に言うけど、仕事の話をする気はないよ」


 表情に似合わない、ひどくはっきりとした声だった。

 しばらく目線を合わせた後に俯いて、美妃は静かに、けれど深く深く、呼吸をした。夏目には気付かれないように、静かに。

 覚悟が決まるまでの、長い長い、一瞬。

 地味なバレッタで留めていた髪を外して、自分の中でスイッチを切り替えた。そして美妃は低く言葉を紡ぐ。


「――今更何を話すのよ」


 胸の鼓動は早い。けれど美妃は顔を上げ、夏目の目を見た。まっすぐに。


「児玉さんは……俺を好きだと思ってたって話とか、どう?」

「はっきり言い切ったわね」


 美妃は苦く笑う。互いの想いなど美妃がお見通しなのと同じように、夏目にもお見通しだったのだろう。


「ごめん、でも、……」

「謝らなくていい。――そうよ、夏目」


 夏目の言いかけた科白を遮って、美妃ははっきりと口にする。久しぶりに声にしたその名は、美妃の耳にひどく甘く届く。


「あんたのことが好きだわ」

「それならどうして」

「言ったでしょ? 妬ましいって」


 なぜ、と問われる前に、美妃は一言、付け足した。


「あんたが、上司になって……私が何も思わなかったと、本気で思う?」


 ぴくりと夏目の指先が震える。それだけで、美妃には充分だった。

 何かを答えようとする夏目の言葉は、けれど声にならない。マスターが無言のまま二人のコーヒーをカウンターに置いたからだ。

 美妃は夏目のアイスコーヒーに、ミルクを少しと、ガムシロップを多めに注いでから、それを彼に渡した。

 夏目の好みなら知っている。きっと誰より。けれどこんなことをしたことはなかった。夏目はありがとう、と小さく口にし、アイスコーヒーに口をつけた。綺麗な喉仏が上下するのを、美妃は静かに見つめた。

 満足そうに飲み終えたのを見届けて、美妃は口を開く。


「……こんな風に、私があんたのために生きられると思う?」


 夏目の瞳が、静かに美妃をとらえた。その視線に微笑んで、重ねて問うた。


「それで、私が幸せになれると、思う?」


 夏目の瞳が見開かれ、そして、グラスへと戻る。


「答えて、夏目」


 けれど容赦なく、美妃は促す。


「答えなさいよ」


 つよく、つよく。

 目を反らした夏目を、美妃は赦さない。

 話を、と望んだのは自分ではない、夏目なのだから。


「――、でも、俺は」


 夏目が必死に口を開く。こちらを向いた彼のその頬は、強張っていた。

 傷付いた夏目を哀れだと思う自分と、妙な優越感を抱く自分とが、揺れている。

 美妃は、静かに続きを待った。


「俺は、あなたが……」


 けれど、それは続かなかった。言い淀んで、また夏目は目をそらす。美妃は苦く笑んで、冷めかけたコーヒーを口に含んだ。

 苦い、苦い、味がする。

 ひどく、苦い。


「――思わないでしょ?」


 美妃は優しく囁く。


「……私も、思えないんだから、仕方ないわ」


 困ったように笑んで、美妃は応える。

 美妃には、童話の中のお姫様の夢は見られない。

 末永く幸せに、なんて思えない。

 この意地と矜持が、ある限り。

 付き合って、結婚して、子供を産んで育てて。その間に、美妃はまた、夏目に置いて行かれる。

 それが、妬ましくて、悲しくて、憎らしい。


「ごめんね夏目」


 美妃は優しく優しく、告げた。

 これ以上ないほど、優しく甘く。


「ごめん」


 夏目は何ひとつ悪くない。


(ごめん)

(すべてを諦めて飛び込めなくて)


 諦めてしまえばいいだけなのに。

 意地も矜持も投げ出してしまえば。

 ――そうできれば、一緒にいられるのに。


(でも、好き、)


 美妃にもわかっている。

 わかって、いるけれど。


「傷付けて、ごめん」


 諦められない。投げ出せない。

 何より、それができてしまう自分を夏目が愛するとは、美妃にはどうしても思えなかった。


(それでも、好きだ、と)

(言えたら)


 美妃は、夏目の横顔から目を、離さない。


(言って、くれたなら)


 確かな拒絶と――、幾ばくかの期待とに、心は揺れる。


(好きだと、言って、)


 ……揺れて、いたのに。


「もう、いいよ……」


 夏目が俯いたまま、声をしぼりだす。


「――もう、わかった」


 幾分かはっきりした声で夏目が言う。美妃は答えなかった。そのまま、夏目も話さない。

 沈黙の内にグラスとカップは空になり、迫りくる打ち合わせの時間に向けて、それぞれに会計をすませて店を出た。


「児玉さん」


 呼ばれた声に、美妃は夏目を見あげる。夏目は悲しそうに、笑った。


「コーヒー……完璧だった」


 そう、と、美妃も微笑む。


「ありがとう」


 笑うほかに、何も出来ずに。


(なつめ)

(好きよ、だから)


 歩き出した夏目の、半歩うしろを歩きながら、美妃は背中に願う。


(はやく、しあわせになって)

(みせつけて)


 夏目の、ぴんと伸びた背中が、美妃は好きだ。

 今でも。


(好きよ、だから、)


 消すことの出来ない恋心と、嫉妬心とで、どうすることも出来ない。

 転けてしまうまで止まることもできない、ゆるやかな下り坂を、今も美妃は歩いている。


「行こうか」

「――はい、チーフ」


 だから、きっと泣くであろうその日を、美妃は夢想する。

 いっそ、その涙が、愛おしく思えるほどに。


(はやく、あんたを、)

(あきらめさせてよ)


 童話の中の幸せなお姫様が、夏目をさらって行く日を、夢想する。

 いっそ、その日が待ち遠しく思えるほどに。


fin

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さよならフェアリーテール 塚崎亜也子 @ayatsukakosaki

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