わすれもの
ハヤシダノリカズ
わすれもの
「あ゛ぁ゛?」
ガラの悪い声で智津子は不満を顕わにした。ソファの上に寝そべったまま、テレビに向けていた視線をこちらにギロリと向けて。
「いや、なんでもない」
そう取り繕ったが、日がな一日横になってテレビを見続けている妻に気遣う日々が後何年続くのかと思うと、心の奥底で呟いたはずの言葉がいつのまにやら声帯を震わせていたようだ。
「帰りたい」と。
智津子はオレからすぐに興味を失い、またテレビに視線を戻している。十年くらい代わり映えのないことをやり続けているバラエティショウが画面の中で行われている様だが、それに全く興味を持てないオレは手のひらの中の一本のアンプルを眺める。今日の昼間、得意先を数件まわる中での時間調整に気まぐれに入った骨董屋で見つけた茶色のなんでもないアンプルだ。
首が折られた跡もないし、どこかに穴が空いている風でもない。だが、中に液体は入っていない。まぁ、タバコ一箱分程の値段で売っていたものだ。ガラクタには違いない。ただ、その胴にはMyosotisそして、forget-me-notと書いてある。Myosotisはマイヨゾーティスと読めばいいのか、ミヨソティスと読めばいいのか分からなかったが、美代を思い出させるには十分な綴りだったし、美代に「忘れないで」と言われたような気がしたのだ。
大学生だった頃に恋人だった美代。オレの身勝手な都合でフッてしまった美代。小学生時代の忘れ物をした日のような心持ちがいつからかずっとオレの心の中にはあった。智津子と結婚した時も、会社に向かう日常の中でも、何も忘れ物などしていないのに、何かを忘れてきてしまったような、そんな心持ちがずっと心の中にあった。オレにとっての忘れ物は間違いなく美代だ。
「帰りたい」
心の中で発したはずの呟きは、もう一度声になっていた。
ギロリと智津子の目がこちらを向く。スローモーションで開く口は粘度の高い唾液が上下に糸を引いている。「あ、いや」と言いながら身構えたオレは思わず手の中のアンプルの首をパキッと折ってしまった。
「あ、あ、あ。ごめんよ。ガラスを落としてしまった。ちょっと待って」と、床に落ちた首部分を拾いかける中でオレはおかしな事に気が付いた。智津子のだみ声が聞こえてこない。智津子の方へ目をやると、智津子はその口を開きかけたままの姿勢で止まっている。テレビの画面も止まったままだ。そして、そういえば静かすぎる。なんの音も聞こえない。「え?なにこれ」オレは力なく呟いた。
「ふぁあーあ」
誰かの欠伸が聞こえた。智津子を見たが智津子の欠伸じゃない。智津子は相変わらず止まったままだ。
「あ、こっち。こっちだよ。ありがとね!ニーチャン!」
声の方に向くとそこには中東辺りの国の風貌をした男が立っていた。その姿は妙にぼやけ霞んでいる。
「ニーチャンのおかげでようやく出られたよ。クッソ忌々しいその瓶の中から!」
思わずオレは手の中のアンプルに目をやる。するとそいつはニュッと顔を近づけてきて言った「はー。勝手な名前を付けてくれちゃってさ」と。
「私の名は……、っと、イカンイカン。前回は名を知られた事で瓶に封じられる事になったんだった。その瓶に書いてあるのは日本語で言うワスレナグサの事だが、そうだな。ワスレナグサとでも呼んでくれたらいい。どうせすぐにお暇するがね。しかし、助けてくれた恩人には、その恩人の願いを聞くことが我々のルール。出来ない事は出来ないと言うが、望みがあるなら言ってみるがいい」
ワスレナグサとなのるその男はそう捲し立てるように言ったが、理解と感情が追い付かない。オレは「え、わ、うん」と、意味のない発声をした。
「エワウン? なんだそれは。最近出来た何かか?」
「ち、違う。ビックリしただけだ。それよりも、これは何だ? 時間が止まっているのか」
何とか声を張り上げた。その自分の声で何とか落ち着いてきた。
「あー。まぁ、そのようなもんだ。細かい事はどうでもいいだろうから、大まかに言うとニーチャンと私だけが話を出来る環境を作ってるだけでね。別に心配はしなくていい。その女も生きているし、世界はいつも通りさ」
混乱していた頭が少しまとまってきた。要するに、魔法のランプの魔人のような存在なのだな、このワスレナグサという男は。そして、願いを叶えてくれると言っている。
「なんでも叶えてくれるのか?」
「んー。私はヒトの願いに応えるのが上手い方じゃなくてね。不得手な事を頼まれたら失敗するかもしれないな」
「得意な事ってなんだよ」
「忘れ物を届けるとかは得意だな」
「なんだよ、それ。子供のお使いじゃないか」
「私は、忘れ物、とか、忘れた、とか、忘れる、とか、記憶、とか、過去、なんてものに纏わる存在でしてね。その辺りに関する事なら得意だ。」
「それなら」
オレは叫んでいた。
「いつでも忘れ物をしてきてしまったようなこの気持ち……この心持ちを解消してくれ」
「おやすい御用だ」
ワスレナグサは左側の口角をグッと引き上げてそう言った。
次の瞬間、オレは大学の構内に立っていた。自分の腕や腹や足を見てみると懐かしい服を着ている。周りを見渡し掲示板を見つけたオレはそのガラスに自分の姿を映す。若い。ワスレナグサは大学生時代に戻してくれたのか? と、左手に持っている物に気づく。ハードカバーの本だ。【アルジャーノンに花束を】ピンクがかったオレンジのその装丁を見てオレは思い出す。これは、美代に別れを告げに行く寸前のオレだ、と。
得体の知れない閉塞感を感じていたオレは、美代の貸してくれたこの本を読んで、最終的には元の木阿弥といったその内容に絶望感にも似た何かを覚えてその流れで美代に別れを告げたんだった。本を返して「別れよう」と言ったんだった。
これはワスレナグサが見せてくれている夢か。それならそれでもいい。夢の中だけでもやり直すんだ。やり直させろ。
いつも待ち合わせていた図書館前のベンチに向かう。座っていた美代がオレに気づく。微笑みながら近づいてくる美代。オレは懐かしさで泣きだしそうになりながら精一杯の笑顔で美代に近づいていく。そして、美代に本を渡しながら言った。
「ありがとう。いい本だった。それから、大好きだよ、美代」
そう言うと涙がとめどなく溢れた。美代の不思議そうな笑顔が涙で霞んでいく……。
頬を伝う涙の熱と鼻をすする音でオレは目を覚ました。
どうやらソファに座ったまま寝ていたようだ。いい夢を見ていたようだが、どんな夢を見ていたんだろう。何も思い出せない。たっぷり涙を流した後の浄化されたような気持ちは幼い頃以来で心地いい。
「どんな夢をみていたの?」
隣で美代が笑っている。
「さあ。とてもいい夢だったような気もするし、とても辛い夢だったような気もするよ。どんな夢だったかはさっぱり覚えてないけどね」
「なにそれー」
愛する美しい妻、美代はそう言ってコロコロと笑った。
「さて、コーヒーでも淹れようか」と、立ち上がるとスリッパの下で何かがパキッと割れた。足をのけてみると割れたガラスがある。小さな瓶か何かを踏んでしまったようだ。
「ごめん、小さい瓶のようなものを踏んで割ってしまったみたいだ。すぐ片付ける。踏まないように気をつけて」
「え?なんで瓶がそんなところにあるの? クッツキムシみたいな瓶を私たちのどっちかが服で拾ってきたのかな?」
そう言って美代は笑う。
その笑顔を飾るように何かの花の香りがした。初めて嗅ぐような、懐かしいような。
「ありがとう」ふと、口をついてそんな言葉が出た。
「ありがとう、ってなによ」クスクスと美代は笑ってる。
「なんかね。言わなきゃいけないような気がしたんだよ」オレもつられて笑う。
さて、美味しいコーヒーを淹れよう。
-終-
わすれもの ハヤシダノリカズ @norikyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます