第2話 後編


 3月。

 その日、鈴子は、六年間通った通学路を、いつも通りの歩幅で、しかしいつもより重い足取りで歩いていた。

 卒業式を間近にして、何度も繰り返される予行演習が、鈴子には苦痛だったのだ。


「皆さん、おはようございます。今日は一日を通して卒業式の全体練習がありますから、速やかに体育館に移動します。」


 教室に入ると、そのまま担任教師に誘導されて児童たちは席を立ち、ずらずら廊下へと出ていった。

 教室前の廊下で出席番号順に並び、そのまま男女2列で廊下の右端を歩きながら、だが、その日は誰も口を開こうとはしなかった。


「………」


 確かに、担任教師に私語をしないよう促されたこともある。しかしそれ以外の緊張感が列からじわりと滲み出ており、だからこそ重苦しい焦燥感が鈴子の小さな胸を圧迫していた。


(……なんか、…怖い…)


 まるで、あの夏の熱い8月を思い出す。


 鈴子はうつむいて、前にだけ進む足元ばかり見つめていた。


「………」


 相変わらず児童たちは誰も話しをすることもなく、ただぺたぺたと足音だけを響かせて、灰色の廊下を抜けていく。


 やがて少し離れた体育館へと鈴子が足を踏み入れた時、不意に一陣の風が、ひんやりと鈴子の頬をなぶった。


 一瞬驚き、しかし、おののき足を止めることもできずに、鈴子は、前の子から離されまいと、列を乱すまいと、必死に歩いた。


 体育館の中にはびっしりとパイプ椅子が並べられていた。普段の体育館とは趣がまるで違う。既に卒業式仕様に様変わりしていた。


 児童たちは躊躇いながらも誘導されるままパイプ椅子横に並ぶ。

 

 そんな児童たちの動揺を理解しない主任教師がステージ横でマイクを握り、ヒステリックに声を上げた。


「揃ったクラスから速やかに座りなさい!私語はしない!」


(…誰も、私語なんてしてないのに…)


 この教師には、ガヤガヤしたいつもの児童たちの様子しか頭に焼き付いていないようだった。

 その事実に、鈴子の胸はチクリと痛んだ。


 それでも、誰も何も言わないまま、児童たちは流れるようにその場に設置されたパイプ椅子に腰を下ろす。


「………」


 …しんと静まり返った体育館の、吹き止まない緩やかな風の冷たさは、なぜか今でも覚えている。


「………はぁ、…」


 膝を抱えてステージを眺めながら、鈴子は憂鬱な気持ちを溜め息混じりに何度も吐き捨てた。


 卒業式では、六年生の一人一人が卒業証書を受け取った後に、壇上で一言将来の夢を、決意表明よろしく発表するのが恒例だった。

 それが鈴子にはとても苦痛で仕方なかった。


「僕は将来野球選手になります。」

「私は看護師になってたくさんの人の手助けをしたいです。」


 壇上では、同級生たちがきびきびと速やかに予行演習を遂行していく。

 その声はどれもよく通って、大人たちには清々しく聞こえたに違いなかった。


(…みんな、すごいな…)


 鈴子はにわかに圧倒されていた。


 体育館の天井に吊り下げられたいくつもの照明よりも、キラキラと輝く同級生たちの瞳は、どれも前だけを見据えている。

 その様を見て、教師の幾人かは目を潤ませていたりもする。


 そんな中で、鈴子の番になり、鈴子はパイプ椅子から引き剥がすように腰を上げた。そのままステージへと向かう。


 階段を一段ずつ上がる重い足を見つめたままステージ上に立つと、心臓が激しく鼓動を打ちつけて、鈴子は身体が硬直していくのを感じた。

 ぎこちない眼差しのまま、壇上から下を見下ろす。


「………ッ」

 

 見下ろした目は、そのまま鈴子の足元だけを見つめた。


 しつこいくらいの練習のお陰で、辛うじて卒業証書授与までは遂行できたが、そこから先、ステージ向かって左端に足を進めていくと、いよいよ身体は石のように凝り固まっていった。


 そして将来の夢を語るべき場所に立つと、足がガクガク震えて、その場に立ち尽くすだけで精一杯だった。


「………」


 声など、喉を通るはずがない。

 息を吸うのもままならない。


 秒針を刻む時計のはりの音だけがいやに耳に付いて、鈴子の心臓はどんどん早く波打った。


「………っ」


 焦れば焦るほど声は出てこない。


 同級生の目が、教師の目が、全部が鈴子を責めているようで、鈴子の鼻はつんと痛んだ。


「曽我部さん!もういいから下りなさい!後の子が困っていますよ!」

「…ぁ、」

「もういいから!卒業式までにはきちんと考えておきなさいよ!あなたの、将来の夢でしょう?!」


 鈴子は居たたまれない気持ちに瞳を潤ませたまま、逃げるように足早にステージを下りた。


「………」


 パイプ椅子に座っても、鈴子の頭は混乱していた。混乱のまま、気がつけば予行演習は終っており、体育館の中はようやくにわかな喧騒を生み始めていた。


 そんな中にあって、冷たいパイプ椅子に座ったままの小さな鈴子の隣に、なぜか田口はやってきた。


 そのまま彼女はパイプ椅子をガタンと引くと、少し大きな身体をずしりと沈ませて座る。そして鈴子を見やると、ゆったりと微笑んだ。


「……皆、とうとう卒業するんじゃねぇ。毎年この時期は、少し寂しいねぇ。」

「…え?…あ、はい、…そう、ですね。」


 思いがけず田口に話しかけられて、顔を上げた鈴子は曖昧に笑ってまたうつむいた。


「皆、将来の夢はキラキラしとって、ええねえ。」

「………」

「でもねぇ、…そんなにキラキラしとらんでもね、ホンマは、ええんよ。」

「………ぇ」


 その言葉の意味がわからず、再び顔を上げた鈴子の赤くなっていた瞳を、田口は微笑んだままじっと見つめた。


「ただ生きとるだけでええんよ。何者になりたいって思わんでもええ。」

「………」

「人という字はね、お互いに支えあって出来とるんよ。」

「………ぇ、」

「人という字のように、時には人に支えられて、時には人を支えられるようになりんさいね。…それでええんよ。」

「……う、うぅ、」


 鈴子は、堪えきれずに、両手で目を覆い、肩を震わせながら声を殺して泣いた。田口はそっと鈴子の背中をさすり、


「…人として、生きたらええけぇね。」


 静かな声でそう言った。


 人として。


 その言葉が、鈴子にはとても温かく、じわりじわりと胸に広がっていった。


     *  *  *



 深く掘られた塹壕で、腰を下ろした鈴子の額からは、汗とも血ともわからぬ何かが流れて目を潰した。


 泥と返り血でどろどろになった服の袖で拭うが、よけいに顔は汚れていく。


 隣の兵士が、鈴子に汗臭いタオルを差し出したが、鈴子は苦笑いを浮かべてそれを断った。


「弾を十分補充しろ!来るぞ!」


 遠くで指揮官の叫び声が、戦車のキャタピラーの音にかき消されて薄く響いた。

 

(聞こえん。聞こえん。けど、。。そもそも、彼の言葉はわからんし…。)


 鈴子の顔に浮かんだ笑みは、どこか泣き顔に似ていた。


 国民総動員令が発令されて早半年。


 同盟国からの義勇兵も相まった即席の軍隊の中にあって、鈴子の目からも既に、同じ民族を探すことは困難になりつつあった。


 指揮官も何度も交代し、今やどこの国の部隊に所属しているのかさえわかりはしない。


(それでも、)


 生きるために、鈴子は震える手で銃を持ち、予備の弾倉を入れていた腰のポーチに手をのばす。


「。。。どうして、。。。どうして!」


 しかし、既に弾倉は底をついていた。

 まさぐれど、まさぐれど、ポーチの中に弾は入っていない。


「くそ!」


 白く固く握った拳で、鈴子は自らの太ももを強く殴る。

 

 走って逃げることもできない。

 逃げられる場所など、もうどこにもない。

 

 鈴子は、そっと空を見上げた。


「………」


 視界いっぱいに広がる空の青さが、目にただ眩しかった。


 そんな青空を引き裂くように、まっすぐに伸びる白い雲が、無力な鈴子の上を通りすぎていく。


 肩の力が抜けそうになるのを、歯を食い縛ることでなんとか耐えた鈴子は、そしてゆっくり銃を構えた。


『人という字は、』


「くそぉぉぉ!」


 巨大な戦車が土煙をあげて突進してくる。

 鈴子たちは、残り少ない弾を込めた小さな銃の引き金を引いた。



               了

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人という字は みーなつむたり @mutari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ