人という字は
みーなつむたり
第1話 前編
瓦礫と、砂ぼこりと、踏み荒らされた大地に掘られた深い穴の中で、空を見上げ、何故か、思い出すのは子供の頃のことばかりだった。
「…私は、…私は、…私だって、……人として、」
* * *
暖かさと寒さの狭間のような3月。
その小学校の体育館は、卒業式の予行演習を終えて、にわかに喧騒を生み始めていた。
そんな中にあって、冷たいパイプ椅子に座ったままの小さな鈴子の隣に、その女教師はやってきた。
そのまま彼女はパイプ椅子をガタンと引くと、少し大きな身体をずしりと沈ませて座る。そして鈴子を見やると、ゆったりと微笑んだ。
(……あ、)
その顔に残る大きなケロイドは、小さな鈴子と同じ年の頃、原爆の閃光を浴びたためにできた傷だと聞いた。
この年の翌年、定年を迎える女教師。
名を、田口といった。
鈴子にとって、田口は、大口を開けて明るく豪快に笑う印象しかなかった。
人柄が明るいだけに、火傷による顔の皮膚の引きつりが、端で見ていて少し怖かった。
だが同時に、怖いと思った自分を鈴子は、子供心ににわかに責めた。
…その思いは今も心に鈍い色を帯びてじわりと広がる。
そんな鈴子を察したように、隣に座った田口は殊更明るい声で言った。
「……皆、とうとう卒業するんじゃねぇ。毎年この時期は、少し寂しいねぇ。」
「…え?…あ、はい、…そう、ですね。」
思いがけず田口に話しかけられて、鈴子は曖昧に笑ってうつむいた。
田口が、その教員人生において鈴子を受け持ったことは一度もない。放課後活動等の接点さえも皆無で、おそらく、卒業式の予行演習だったその日、二人は初めて言葉を交わした。
* * *
とある広島の田舎町。
小さな鈴子が通ったのは、全校生徒が100人にも満たない廃校寸前の小学校だった。
六年生の鈴子にとって小学校最後となる夏休み。毎年、当たり前のように登校日となる8月6日。
「あー、今年も被爆体験を聞くんかねー?毎年聞いとるんじゃけ、もういいじゃんねー」
「…う、うん、そうじゃね、」
共に登校していた同級生の新見チカに問いかけられて、鈴子は困ったように笑った。
被爆者からの被爆体験を、当たり前のように毎年聞いていた鈴子達には、夏の出来事は特別なことではなかった。
そんな、生活の一部と化した悲惨な過去に、無邪気な子供たちは悪びれることもなくまたかと嘆息を漏らすのだ。
しかしこの日、鈴子は配布されたプリントに目を通しながら、小さく怯えていた。
不安が心臓を強く打ち付ける。
(……田口先生、)
その日、被爆体験を語る被爆者たちの名の中に、田口の名を見つけて息を飲んだ。
鈴子は、田口の顔のケロイドを、ずっと怖いと感じていた。そのことが露見したようにも思えて、羞恥心に似た鈍い感情を覚えた。
(……なんか怖い。先生の話、聞くんは、)
午前8時15分。
一分間の黙祷を終えると、児童たちは次々と教室を後にして、蒸し風呂のような体育館へと移動させられた。
「揃ったクラスから速やかに座りなさい!ほら!私語はしない!」
整列させられた児童たちは、短い腕を伸ばして間隔をあけると、熱さに苛立つ教師の号令に従って腰を下ろす。
「えー、では、校長先生のお話の後、被爆者の皆様にお話ししていただきます、まず、…」
ステージ横で進行役を務める教師に促されて壇上に上がる数名の被爆者の最後尾に、田口はいた。
いつものように胸を張って堂々と歩く田口は、他の被爆者たちと同様にステージの上に立つと、児童たちの座る体育館内を見下ろすことなくまっすぐ見据えた。
「……ぁ、」
その時、鈴子は田口と目が合った気がした。慌ててうつむき、抱えた両ひざに顔を埋める。
間もなく、一人目の被爆者から、広島に落とされた原爆が、いかに無慈悲に町を焼き尽くしたかが重々しく語られた。
その話は、広島の子供たちとって昔話ほど遠くなく、説教ほど近くもない過去。それを薄く積み重ねるように彼らはぼんやり被爆体験を聞いていた。
「続いて、田口先生よりのお話です。」
やがて紹介された田口がマイクの前に立つと、児童たちはにわかにざわつき、だが見知った顔だけに皆一様に背を伸ばした。
この学校に通う児童たちは、田口の顔に残るケロイドが、原爆の爪痕であることは知っている。
しかし、少なくとも鈴子が在籍した六年間、なぜか一度も田口の口から、火傷の由来を聞いたことはなかった。
その田口が、マイクにそっと顔を近づけた。
「さて、皆さん、とりあえず五秒間、先生の真似をしてみてくださいね。」
思いもよらぬ言葉だった。
他の被爆者とは違った切り口に、児童たちは一様に面食らって顔を見合わせた。
そんな児童の動揺を意に介することもなく田口は続ける。
「まず、両手の親指で、自分の耳を塞いでみてください。そう、そうですね。次に、残った四本の指で自分の目を押さえてみてください。」
壇上の田口が、おどけたいつもの口調でそう言いながら、言葉の通りに両手の親指で耳を塞ぎ、残った四本の指で目を覆った。
児童たちは戸惑いつつも、少し笑いながら同じように耳を塞ぎ、目を覆う。
鈴子も同じく耳と目を塞いだ。しかし、
(…なんだろう、…怖い…)
遠くで田口が五秒数えているのを、闇と静寂の中で感じる。だが鈴子は五秒も耐えきれずにすぐさま手を外して目を開いた。
同時に田口が口を開く。
「はい、いいですよ。手を下げてください。」
五秒経ったらしく、田口が少し大きめに声をかけると、児童たちはガヤガヤと笑いながら一様にふざけあった。今までとは違った所作に、児童たちは少し浮き足立っていたのだ。
「はい。今のが、私があなたたちくらいの頃、学校の先生から何度も教わっていたことです。空襲警報が鳴り、防空壕に逃げるのが間に合わない時は、物陰にかくれて、目と耳を塞ぎなさい、とね。」
先生の、わずかばかり低くなった声に、児童たちは一気にしんと静まり返った。
「耳を塞ぐのは鼓膜が破れるのを防ぐため。目を覆うのは、爆風で目ん玉が飛び出るのを防ぐため。…先生はね、そう教えられました。」
「………」
「ほら、だから先生は、目と耳はなんとか失わずに済んでいるでしょう?…鼻と手には、ほら、火傷が残りましたけどね。」
「………」
それでも、田口の目は、皮膚のひきつりでとても小さく、耳もいびつに歪んでいた。
「原爆が投下されたとき、先生は登校中でしたが、…突然の激しい閃光と爆風で飛ばされてね、それでも、無意識に、目と耳は覆ってました。」
「………」
「けど、気がついたときには、…もう、辺り一面、何も失くなってて、」
「………」
「…先生と一緒に登校していたお友達の姿も、通いなれた道も学校も、…みんな、失くなっていました。」
田口は、途中言葉に詰まり、しばし火傷の痕の残る手で口を覆うと、ゆっくりうつむいた。
児童たちは、何も言葉を発することができなかった。
ただ座ってまっすぐ田口を見ていることしかできなかった。
「………」
しばらくの時間を沈黙に費やし、それでも顔を上げた田口は、身を削るほどの苦悶の表情を浮かべ、やがて震える声で言葉を紡いだ。
「何もなくなった町は火の海で、私は動くことができずに瓦礫の傍に立ち尽くしててね、」
「………」
「でも、…振り返るとね、…友達が、…典子ちゃんみたいな小さな女の子が、…炎に包まれていて、…彼女の伸ばした手の先が、青く燃えててね、」
「………」
「先生は何もできずに、…ただ、立ち尽くしていました。」
田口は、やっとそれだけ言いきると、堪えきれずに肩を震わせて、さめざめと泣いた。
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