熊蜂

一縷 望

──

 空は気持ちよく真っ青なのに、気分は限りなく鈍重で。こんな日は、かの夏埋葬した熊蜂を思い出す。




 その日、僕は将来への悲壮で頭を満たしていて、その頭の重さの余り、暑苦しい空気を振り払う気力も無しにフローリングの冷気を弱々しくむさぼっていた。

外は快晴。太陽光線が垂直に街を焼いている。

 いっそのこと、外のアスファルトに顔を埋めてしまおうか。バカな考えを僕は起こした。しかし、バカな考えを馬鹿にできる肝心の脳ミソが暑さで溶けていては、バカな考えはマトモな考えに早変わりする。


 まず指先が床を離れ、続いてウデ、肘、上半身と冷えピタを剥がすが如く不恰好な起立モーション。

 頭に溜まっていた、二酸化炭素を多分に含む血が足先へ流れるあの感覚をやり過ごし、まだ視界の半分がチカチカする中、僕は亡者のように歩き出した。


聖者ではない。亡者の行進。


 玄関を荘厳に開けてみる。ゆっくり、ゆっくりと。『ここで、陰気な沼から臭気が漂って来ればお似合いだな』などと考えながら。

しかし、ここはコンクリートジャングル。沼も森も無く。

エアコンの室外機が「お前、何を夢見てやがる」とプラスチック風味の熱風を吹き掛ける。

息を止めてそこを通り抜け、目指すは焼けたコンクリートロード。あともう少しで日陰を抜ける。


ああ、太陽よ。青春の象徴よ。

陰湿な青春の産業廃棄物である私を

その御光みひかりで焼き払いたまえ!!!!


 なまちろい膝で、真っ黒く焼けた祭壇へひざまずこうとした刹那。


 道路の真ん中に、何か小さなものがへばりついているのが目に留まった。


何故か、猛烈に興味を惹かれる。


 祭典を一時中断した僕は、左右を見渡すと「それ」のもとに駆けよった。


 親指の第一関節よりちょっと大きい。黒光りする甲冑のようなその体躯の胸の辺りには、こがね色のきめ細かな毛がふわふわと生えている。


僕は思わず固まってしまった。


 クマバチだ。クマバチが、ペシャンコに潰れてカラッカラに干からびている。


 潰れ具合からして、地面で弱っていたところを道行く人に真上から踏まれてしまったのだろう。

 その証拠に、クマバチの両翼だけは、威厳を保ったまま「ぴん」と伸びている……


 近所のオバサンが、道の真ん中でしゃがむ僕の横を通りすぎた。後頭部に痛い視線を感じる。

 だが、僕はそれどころではなかった。目の前の悲劇で頭がいっぱいだったからだ。


 クマバチは、ただのハチではない。

 とっても温厚なハチで、近づいても、手でむんずと掴んで食おうとしない限りは、なかなか刺して来ることは無い。

 名前に「熊」を冠する由来となった、愛らしくぼてっとした体躯には、不釣り合いなほどに小さなはねが2対。この小さな翅で、空気の「粘り気」をとらえて、大きな体を浮かせる姿には、生命構造の美を感じる。その優雅な飛行で花から花へ飛び回り、受粉を担う。


 彼女クマバチは、僕が心から尊敬している、花園の庭師なのだ。


 そんなクマバチが、今は無惨な姿となって、アスファルトに体を押し付けられている。


産業都市の焼き印に、押し付けられている。


 僕は、この憎しみが気分によるエゴだとわかっていながらも、アスファルトを、ビル群を、太陽を、ねめつけた。光線が網膜を焼く。目を細めたが怯まずに、僕は空を見続けた。


太陽よ。なぜ罪なき彼女を焼くのか。

焼くなら、どうしようもないクズの僕だろう?


空め、なんだその愉快そうな快晴は!!

雲の一つ、夕立の一つでも降らせて、彼女を弔おうという気は無いのか!?


 その時、突風が吹いた。近所の風鈴が、パチリ、パチと叫ぶような音を響かせる。


 瞬間、今が彼岸であることを思い出した。

 まるで、「ならば、お前が弔ってみろ」と空が耳許で囁いたかのように。


ああ、言われなくてもやってやる。

罪なき夏の犠牲者を。

土に触れること無く絶えた庭師を。


 クマバチの体は、まるで取り上げられるのを待っていたかのように、簡単にアスファルトから剥がれた。幸い、体が千切れることもなく、無事にてのひらの上へ。


 もう片方の手を、船の帆のように立てて風避けを作り、ゆっくり垂直に立ち上がる。


 面舵おもかじ一杯。ヨーソロー。

 

 進路を逆に取り、向かうは我が家の庭。

今にも塵となって吹き飛びそうな彼女の身体を崩さぬよう、慎重に、いっぽ、にほ。


 黒く焼けた砂漠の外洋を過ぎ、あともう少しで庭のみずみずしい大地に着くという、その矢先。


 風が、からかうように住宅街を吹き抜け、クマバチを蹂躙した。どうにか身体が吹き飛ぶのは防いだものの、風で彼女の翅が一翼ひとよくもげて、指の隙間から、ひらひらと空におどり出てしまった。


 片手を伸ばし、急いで捕まえようとするが、中々掴めない。二度、三度、指をすり抜け、地面に落ちたところでようやく止まった。

 翅を拾って、どうしたものかとあたふたした末にポケットへ。


先を急ぐ。


──


 埋葬したのは、コケの生える地。

 

 地表に隙間無く生えたコケをめくりあげ、その下に作った小さな窪みへ彼女の身体を横たえる。静かにコケを下ろして、その上から庭のホースで少しずつ水をかけた。これで、彼女の身体は新たな生命の源となる。


 手をあわせた後、立ち上がり、ふう、と息をつく。


 その瞬間、ふと我に返った。

 僕は、クマバチを埋葬したりして、一体どういうつもりだったのだろうか?


 問うように空を仰ぐと、太陽も西へ首をかしげている。


 長く外に居すぎた。暑さで頭が痛い。

 僕は早々と家へ入ると、手を洗って、またフローリングに張り付いた。頬に感じるひんやりした心地よさにまぶたがおりてくる。


と、その時、ポケットに仕舞った翅のことを思い出した。急いで探ると……あった。指先にセロハンのような感触。翅は、幸いにも折れていなかった。


 取り出して、まじまじと眺める。

 茶の色ガラスのような翅は、光にかざすと一面がメタリックな紫や緑の光沢を示す。表面の細かで規則正しい凹凸おうとつは、彼女が大気を掴んで一生懸命生きていた何よりの証拠だ。


 自分より大きな存在が居ようとも、最期まで自分の世界を生きたクマバチ。


 僕は、貴女のように誇り高く生きられるだろうか。

 人生の道しるべとして、この翅を僕のそばに置くことを、どうかお許しください。


 こうして、彼女の片翼は、小さな木箱に仕舞われた。





それ以来僕は、今日のような、将来への不安で押し潰されそうな時、その小箱を取り出しては翅を眺めている。


 貴女のように、そして、貴女の分まで生きられるように。



R.I.P.

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熊蜂 一縷 望 @Na2CO3

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