13
七月も終わりに近づくと大学は試験期間となり、すべての試験が終わった学生はめでたく夏休みを迎える。試験期間は八月中旬までだが、受講している科目次第では七月中にすべての試験が終わることも珍しくない。大学の夏休みは長く、九月の下旬まであるから、ほぼ丸まる二ヶ月休みという学生もいる。
和葉もほとんどの講義の試験は七月中に終わったが、西洋哲学だけが八月の日程、それもほとんど最後の方の日にちだった。大学の図書館へ向かう途中、すでに夏休み気分の学生を見かけると少しだけ憂鬱になったが、西洋哲学はまだノートをまとめる作業が終わっていなかったため、そういう意味では日程に感謝する部分もあった。
「お、見つけた見つけた」
図書館二階、窓際の自習席でノート写しに勤しんでいた時、聞き慣れた声が背後から近づいてくるのに気づく。和葉は振り返らずとも圭祐だと分かった。
「やっぱここだと思った。ていうかライン無視すんなよ」
「集中するために通知を切ってたの」
返事をしながらも和葉はペンを止めなかった。
圭祐は空いている隣の席に腰を下ろし、「集中って、俺のノート写してるだけだろ?」
「よくあたしがここにいるって分かったわね」
「八坂なら、アパートでやるより大学でやる方が、冷房代の節約になるって考えるだろうと思ってな」
「それもあるけど、ここの方が誘惑がなくて、集中できるからよ」
「へえ。八坂でも、自分の部屋だと誘惑に負けるとかあるんだな」
「当たり前よ、人間なんだから。あたしをなんだと思ってるの」
「腐れ縁であり、恩人であり、初恋の相手ってとこかな」
思わず、和葉はペンを止めてしまう。「変なこと言わないで。調子狂うでしょ」
「お、てことは俺が八坂を誘惑しちまったわけか。そりゃ光栄かもしれん」
からかうように言って、圭祐は場所を弁えた静かな笑みを零す。
和葉もつられて口元が緩みかけたが、わざとらしく溜め息をつくことで自制し、「随分余裕なのね。試験も明日だって言うのに」
「俺はもう、ノートまとめも終わってるしな。人事尽くして天命をどうのこうのってやつだ」
「そこまで覚えてるなら待つまで覚えればいいのに」
「あーそれだそれ。ともかく、これで落単したら、そん時は八坂とまた来年再チャレンジかな」
「なんであたしまで落ちる前提なわけ」
「てことは、八坂は受かる自信があるのか。意外だな、あんだけ講義サボってたくせして」
痛いところを突かれ、和葉は返答に窮した。
やがて、観念したように破顔し、「……確かに、あたしは落第かもね。とんでもない過ちを犯そうとしたわけだし」
「なんだよ、まだ気にしてるのか? もう過ぎたことだろ」
「そう簡単に割り切れるものじゃないわ。それに、たとえ割り切れたとしても、忘れるわけにはいかないことだから」
「……そっか」
圭祐は椅子に深くもたれかかった。それからはなにも言わず、図書館の高い天井を見上げている。
和葉はノートまとめを再開させながら、「勉強するわけでもないなら、あなたはここになにをしにきたの。あたしの邪魔?」
「ノート見せてやってんのにその言い草はないだろ。あと、邪魔じゃなくて激励な。そこんとこ間違えてもらっちゃ困る」
「今のところ邪魔にしかなってないからそう言ったの。試験勉強しなくていいなら実質夏休みも同然なんだから、あたしに構わず好きなことしてればいいのに」
「や、だから好きなことしてんだろ?」
「……もう、分かったから」
鼻の先がくすぐったいふりをして、和葉は左手の甲で顔を隠した。
ノートまとめは十二時を少し過ぎたくらいの時刻に終わった。これでどれだけ戦えるかは分からないが、これ以上はやれることもない。和葉はペンを置き、両肩に乗った疲れが飛んでいくようにと大きく伸びをした。
「あ、終わったのか?」
隣の席で終始スマホをいじっていた圭祐が顔を向け、「これから時間ある? ちょっと話があるんだけどさ」
「ごめん、今日はお昼に用事があるから。ご飯食べたらすぐに大学を出るつもりなの」
「知ってる。どっちも今日なんだろ、退院日」
圭祐は腰を上げ、床に置いていたリュックを背負った。「飯食べる時間だけでいいからさ。どう?」
「……うん、それなら」
試験期間のため学食はどこも空いていたが、和葉たちは結局いつものカフェテリアで昼食を取ることにした。中央にある売店でそれぞれ弁当を買い、冷房の風が直接当たらない窓際のテーブルを選んだ。
「それにしても、大した偶然だよな」
唐揚げ弁当を平らげた頃、圭祐がぽつりと言った。「二人共、退院日が被るなんてさ」
「退院と言っても、どっちもまだリハビリがかなり必要みたいだけど……日取りが重なったのは、確かに偶然ね。でも、もしかしたらこれも偶然じゃないのかも」
「これもって?」
「別に。なんとなくそう思っただけよ」
和葉も三食弁当を食べ終え、水筒の麦茶を一口飲んだ。「念のための入院と、長いこと入院してからの退院だから、いい具合に重なったのかもね。見舞う側としては大変だけど」
「で、八坂はどっちから先に行くんだよ」
「そんなの、言うまでもないことでしょ」
「ああ、それもそうか……」
それまでの明るい笑みを仕舞うと、圭祐は椅子に深くもたれて、「ほんと言うとさ、俺、八坂は長い夢の中にいたんじゃないかって思ってるんだ」
「夢?」
「死んでしまう未来が分かるとか、死期を渡し合うって話だよ。そりゃ、命が危うくなるほど難病だったのにいきなり快復して、退院にまで至ったってのは奇跡みたいな話だけど、それでも結局、どっちも死なずに済んだわけだろ? それなら八坂が言ってた話と違うし、やっぱ元からそういう運命だったってだけで……上手く言えないけど、八坂もストレスかなにかで、そういう悪夢と現実がごっちゃになってたんじゃないかって」
曖昧で、圭祐自身も言いたいことが整理できていないような声だった。
けれど、和葉は「そうね」と首肯し、
「全部、夢だったのかもね。別にそれでもいいわ」
「なんだよ。いいのかよそれで」
「あなたからすれば、そう思っても当然な気がするから。あたしだってはっきり夢じゃなかったって証明できるものは、なにもないから」
それに……、と続けようとして、和葉はちらりと腕時計を見た。「ごめんなさい。もう時間だわ」
バスの時刻が差し迫っていた。一度逃すと次は三十分後になってしまう。
「そっか……じゃあ俺も部室に行くかな」
「写真部?」
「ああ。夏休みの合宿先を決めるミーティングだってさ」
「写真部がなにを合宿することがあるわけ」
「それを言うなよ。単なるサークル旅行だってみんな気づいてるさ」
二人は空になった弁当の容器をごみ箱に捨て、共にカフェテリアをあとにした。
外に出ると、煮上がったような蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、冷房で冷えていた体の奥からじわりと熱を引き出す。雲一つない空は太陽の独擅場で、容赦のない日差しが灰色のペーブメントを照りつけている。
「ようやく長い梅雨が明けたと思ったらこの暑さだもんな。ふざけんなって感じだよ」
そう愚痴りながら、圭祐はシャツの襟元でぱたぱたと扇いでいる。二人はなるべく屋根のある通路を歩いていたが、多分に熱を孕んだ空気から逃れる術はなかった。
和葉も同感という思いで苦笑しながら、「じゃあ、梅雨が明けない方がよかった?」
「や、それもそれで嫌なんだけどな。雨ばっかじゃ予定も立てづらくなるし」
「そう言うと思ったわ」
「なんだよ、八坂だって同じのくせに」
やや不満げに言うと、圭祐は校門ではなく部室棟がある方を向き、「じゃあ俺、こっちだから。また明日な、八坂」
「ええ……ノート、ありがとうね。おかげで助かったわ」
「さっき、なんて言おうとしたんだ?」
「え?」
「……や、なんでもない。忘れてくれ」
はにかむような笑みを見せ、圭祐は言った。「もうバスの時間だろ。早く行かないと乗り遅れるぜ」
「大丈夫よ。あたし、走るのには自信あるから」
「この暑い中でもか? とんでもねえな。あいつも、ついていくの大変だろうな……」
「彼なら、きっと大丈夫よ。リハビリ、凄く頑張ってるから。きっと一緒に走ってくれる」
和葉は静かな笑みを浮かべた。迷いのない言葉だった。
圭祐と別れ、バス停へと歩く。校門からはそう遠くない。まだ歩いても間に合う時刻だった。
――『さっき、なんて言おうとしたんだ?』
ふと、先ほどの問いかけが脳裏をよぎる。
唐突だったから即答はできなかったが、圭祐がなにを訊きたかったのかは和葉も分かっていた。
――すべて、夢だったかもしれない。現実だったと証明できるものは、今はもう手元にはない。
だけど一つだけ、和葉の中で確かなものが残っている。
どれだけの時間が経っても。季節が移り変わろうとも。
和葉は覚えている――大切な人たちに明日を、未来を与えてくれた彼女の名前を。
――リン。
校門までの並木道に、強い風が吹き込む。
同時に、どこかで鈴の音が鳴ったような気がして、和葉は辺りを見回す。ゆらゆらと揺らめく木漏れ日の中で、在るはずのない和服姿の影が幽かに微笑んでいるように見えたが、そんな非現実的な光景はどこにもなかった。相変わらず人をからかうのが得意らしい……和葉はこぢんまりと笑い、ゆっくりと空を見上げた。
快晴の名に相応しい夏の空はどこまでも高く、際限のない青みを広げている。
和葉は腕時計に目を落とし、そろそろ時間だと気づくと、木陰を抜けて陽の光に満ちた道を走り始めた。
死期渡し 界達かたる @Kataru_K
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