12



 ゆっくりと、目を開ける。

 ぼやけた視界が徐々に鮮明となり、白い天井が見えた。見慣れたトラバーチン模様の大理石から、すぐに病院のものだと分かった。

 どれくらい眠っていたのかな、……曖昧な記憶を辿りながら、夏樹は左を振り向く。

 そこには、――椅子に座ってうなだれた、和葉の姿があった。

「八坂、さん?」

 声をかけてみると、自分でもびっくりするほど掠れた声が出た。

 和葉は、ゆっくりと顔を上げ、

「深山君……?」

「八坂さん、どうしたの。そんなに驚いた顔して」

「よかった、本当に……」

 感極まったように、和葉が夏樹の手を取る。

 大げさだな、と思いつつ、「僕は、どれくらい眠っていたの」

「覚えてないの?」

「うん、……あ、マラソン」

 不意に、眠る前の記憶が甦る。「もう、終わっちゃったよね」

「……ええ、終わったわ」

「そっか。……ごめんね、八坂さん。僕、見つけられなかった。八坂さんとの約束、守れなかったんだ」

「ううん、深山君は、ちゃんと守ってくれたよ。こうして、目を覚ましてくれたんだから。それに……」

 瞳を潤ませたまま、和葉は言う。「約束を守れなかったのは、あたしの方だから」

「八坂さん……?」

「聞いて、深山君。あたし、深山君が目を覚ますの、ずっと待ってた。久志さんや、あなたのお母さん、ほかのみんなも……この病室で、あなたが目を開く時を、ずっと待っていたの」

 ぽつりと、――雫が降る。

 和葉が、大粒の涙を零し、夏樹を見つめていた。

「だけど、あたしや久志さんたちと同じくらい、……深山君の目覚めを、待ち侘びていた人がいたのよ」

 だけど……、と和葉は再びうなだれ、

「その人はもう、いなくなってしまったの。あなたの目覚めを見届けないまま……たった一人で、すべてを背負って、遠い世界へ行ってしまったの」

 悲しみに暮れる和葉の姿は、あまりにも痛切だった。

 まるで、ゴールまで辿り着いたあとに、大切なものを無くしていることに気づいたような、……言いようのないやるせなさがあった。

 夏樹の中で、たくさんの訊きたいことが生まれる。

 和葉はなぜ約束を破ったのか、自分を待ち侘びていた人とは誰なのか、――どうしてそんなにも、悲しそうな涙を流すのか。

 けれど、どの問いかけよりもまず、訊かなければならないことがある気がした。

 夏樹は、小さく笑みを浮かべ、

「ねえ、八坂さん」

 と、和葉の手を握り返す。「今日って、何月何日?」

「え……?」

 和葉は驚いたように顔を上げ、「……七月二十六日よ、夏樹君」

 不意に呼び方を変えられ、夏樹はハッと息を呑んだ。

「……改めて呼ばれると、なんだか照れくさいね」

「なによ、それ。あなたからお願いしてきた約束でしょう?」

「うん、そうだけど……本当に、生きられたんだ、僕」

「こんなこと、嘘つけるわけないでしょう」

 と、和葉が棚の上にあった置き時計を一瞥する。

 そこには確かに、今日の日付を七月二十六にと表示していた。

 喜びが、心の底から込み上げてくる。

「そっか。なっちゃったんだね。十八歳に」

 はにかんだように、夏樹は笑った。

「じゃあ僕も、約束、守らないとだよね、――和葉さん」

 言葉にした途端、体の体温がわずかに上がった気がした。

 和葉は頬を涙で濡らしたまま微笑み、「……和葉さん、か」

「あ、なんだか嬉しくなさそう」

 恥ずかしさを誤魔化すためか、夏樹はあえておどけるように言った。

「そんなこと、ないわ――嬉しいわ、凄く」

「それならせめて、涙を拭いてよ」

「これは、嬉し涙だから」

「嘘。絶対、悲しい涙だったよ」

「ううん、ちゃんと、嬉しいわ……」

 和葉はぐっと、濡れた頬を手で拭い、「幸せになりましょう、必ず」

「なにそれ」

 夏樹は、気恥ずかしそうに微笑み、「なんだか変だよ、和葉さん」

「そう?」

「なんだか、大げさというか……それに、僕と一緒じゃ、幸せになれないかもしれない」

「どうして?」

「だって、僕の明日は、不確かなままだから。……それは、やっぱり変わらないから」

 沈んだ声で言って、夏樹は顔を俯かせる。

「そんなの、誰だって同じよ」

 と、和葉は答えた。「明日のことなんて、誰にも分からない。それは、夏樹君もあたしも一緒よ」

「それじゃあ、やっぱり」

「でも、――断言するわ。あたしたちの明日は、必ず来る」

「どうして、そう言い切れるの?」

「あなたを待ち侘びていたその人が、明日を――その先の未来を、託してくれたからよ」

 きっぱりと、和葉は言った。

 夏樹は呆気に取られたのち、――ふっと、相好を崩す。

「和葉さんの言うその人が、本当に僕らに託してくれたのなら……大切にしないといけないね」

「ええ。あたしも、絶対に忘れたりしない。どんなことがあっても」

 強く決心したような声だった。

 和葉は、目尻に溜まった雫を手の甲で拭い、「あたしは、きっと覚えていてみせるわ。大切な人、あたしたちに未来をくれた人、その人の名前はね――」





 ゆっくりと、目を開ける。

「ようやっと、目を覚ましたか」

 ――リンと、鈴の音が鳴って、那月は上体を起こした。

 ベッド脇の棚の上に、シキが腰掛けるように浮かんでいる。

 小さく足を揺らしている姿は、容姿相応の子供のようだった。

「悲しい夢でも、見たのか?」と、シキが訊く。

「どうして?」

「気づかぬのか? ……そなた、泣いておる」

 那月は、ふっと笑みを零した。

「いいえ、その逆よ。とても幸せな夢を見ていたの」

「ならばなにゆえ、涙を流す」

「さあ、どうしてでしょうね。自分のことなのに分からないわ。それって、おかしなことかしら」

「いいや、……それもまた、人なのかもしれぬな」

 なにかを悟るように、シキは言った。「して、どのような夢だったのだ」

「そんなに、大したことじゃないのよ?」

 と、那月は気恥ずかしそうに前置きして、「あの子が、私の前を歩いていくの。背丈が同じくらいの男の子と手を繋いで。……あれはきっと、夏樹君ね」

「なんだ、夢とはそれのみか」

「ええ。言ったでしょう、大したことじゃないって」

「ああ、然れど確かに、幸いな夢に違いない」

 どこか満足げに、シキは微笑む。「そなたはやはり、良き母親だ」

「自分の子を、殺してしまったとしても?」

「それもまた、子を想うがゆえだろう。……そなた自身は、やはりまだ、悔いておるのか」

「もちろんよ。――だから今日まで、忘れないように生きてきたの」

 那月は目を伏せ、「……だけど時々、あの頃の自分を許してしまいそうになるの。幸せになろうとするあの子のことを思うと」

「くく、堂々巡りのようだな」

「答えなんてきっと、どこにもないんだわ。

 だけど最後は、なんのために生きてきたのか、胸を張って言えるようになりたい。それだけは、はっきりしてる」

「子のため、――そう申すか」

「ええ、そうよ」

 力強く答え、那月は目を開けた。「あなたのお母さんもきっと、同じことを考えていたと思うわ」

「母上が?」

「そう。私は、子育ての疲れから、犠牲にする理由を正当化してしまっただけ。あるいは、どんな子でも愛するとか、そういう教科書みたいな母親になれなかっただけ……」

 でも、と那月は続け、

「あなたのお母さんは、きっと違う。本当は、あなたを犠牲になんてしたくなかった。別の子の身代わりになんて、したくなかった。……あなたの将来に降りかかる多くの不幸を察して、決断したんだわ。

 薄々、気づいているんでしょう? だからあなたは、お母さんを憎むだけじゃなく、愛していると言えた。そうじゃない?」

「なにゆえ、そのようなことを申せる。根拠は?」

「――母親の勘よ。私のじゃ、あてにならないかもしれないけど」

 という那月の言葉に、シキはめずらしく呆けたような顔になる。

 が、すぐに「くく」と、喉を鳴らすように笑い、

「そなたは良き母親だ。ゆえにその勘も、いくばかの希望は持てる」

 そう答え、シキは壁にかかっている時計を見上げた。今日という日が終わるまで、残り九分ほどという時刻を指し示している。

「共にするのも最後の夜だ。そなたはどこへ行きたい? ……やはり、子のもとか」

「いいえ、あの子のところへは、行けないわ。きっと天国にいるでしょうから」

「余とそなたは、奈落かもしれぬからな」

「かもじゃなくて、きっとそうね。あんまり行きたくないけれど」

 那月は小さく苦笑した。

 シキも真似たように微笑み、「ならば行きたい処など、ないと申すか」

「そうね、……できるなら、舟に乗りたいわ」

「舟?」

「ええ。あなたと私、二人で乗って、どこまでも続く水面の上をすーっと流れていくの。悪くないと思わない?」

「……くく。それもまた、一興か」

 微笑みが、小鈴のように響く。

「だがな、那月。余とそなたが、共に行くことは叶わぬ」

「え……?」

 那月は顔を上げた。

 シキの目はこちらに向いていなかった。真夜中の空を穿つ満月の明かりを見上げている。

「また、あなたはこの世界に残ると言うの? 彌榮への恨みを晴らすために……」

「否、余はもう舞うことはない。それは和葉にも申したことだ。檜扇も、あの木箱も無に帰した――あとは余の、此岸に在り続けるための力を捨て置き、消えるのみだ」

「だから、あなたもこの世からいなくなるのでしょう? なら、私と一緒に」

「那月よ。此岸はまた発展し、様変わりしたな」

 シキは振り向くことなく、わずかに顔を俯かせて、「そなたの傍に居った時分も、この世の変わりようには目を見張ったが、此度は更に驚かされた。道は増え、町から町を行き来する方途も多岐となり、速度も格段に上がっておった。それらを知るだけでも、余にとっては中々に愉快な時間でもあった。徒に長く在った甲斐があったというものだ」

 なにを言いたいのか、那月には分からなかった。

 シキがゆっくりと顔を上げる。閉じられた左目から、一筋の雫が音もなく零れ、白い頬の上を伝っていた。

「そして一番の僥倖は、そなたという、良き母親に巡り会えたことだ――そなたのおかげで、余は母上を、真の想いで赦すことができたのだから」

「シキ……?」

「まだ分からぬのか? そなたが懸命に育てた愛し子は、そなたが考えているよりも大いに――速く走れるようになったということだ」

 時計の分針が音もなく動き、十一という数字の上に止まる。

 その時、病室の外――遠くの廊下から、足音が聞こえてくる。けたたましい音を立てて近づいてきている。

 ――そんな、まさか……。

 シキの言葉の真意を悟った時、病室のドアが勢いよく開かれた。


「――お母さん!」


 目一杯の涙を抱えた声が駆け込んでくる。

 息を切らし、辛そうに両肩を上下させている和葉の姿が目の前に在った。和葉は一瞬、救われたような笑みを浮かべたが、目尻からぼろぼろと涙を零れさせると、那月の懐へ縋りつくように駆け寄ってくる。

「和葉、どうして……」

 窓から差し込む幻想的な月明かりのせいか、那月はまた夢を見ているのではと思った。

 けれど病室のドアから、追いかけるように入ってきた義一の姿を見て、その顔に浮かぶ安堵したような笑みを目にして、すべてを理解した――彼らが確かな親子であり、自分の家族だったという、そんな当たり前の事実を。

「間に合って、よかった……たくさん、たくさん走ってきたから」

 擦り切れた声だった。

 震えている体は少しだけ湿っぽく、冷え切っているように感じられた。

「和葉……」

 手のひらは自然と、和葉の冷たい髪を撫でていた。「ダメでしょう、こんなに濡れて。風邪、引くわよ」

「そんなの……知らない。知らないわよ、馬鹿」

 和葉は、涙まみれになった顔を上げ、「言いたいこと、たくさんあるの。お母さんに言いたいこと、言ってやりたいこと……だけどもう、時間がないから……」

 震えが止まらない声を、必死に整えようとしている。

 それでも涙が溢れてきて、上手く言葉にできないようだった。

 那月はなにも言わず、和葉の言葉を待った。あやすように背中を摩ってやると、和葉はようやく、赤くなった鼻をすすり、那月と目を合わせた。


「――……ありがとう、お母さん。

 あたし、お母さんのこと……愛しているわ」


 小さなランプのように灯った微笑みが、那月の濡れた瞳の中で光った。小さく頷くと、重くなった雫が目尻から零れ、頬の上を熱く伝う。

 時計の針は止まることがなく、刻一刻と今日を終わらせようとしている。

 答えなければいけない。けれど、那月も言葉が出ない。喉の奥が締めつけられたように、上手く声にできない。

 あの手紙にすべてを綴ったつもりでいた。もう二度と会えない、会えずとも後悔しない、思い残すことはなにもないと自分に言い聞かせていた。

 けれど、――やっぱりダメだ。

 那月は、和葉の体を思い切り抱き寄せた。手放すことを惜しむように、強く抱き締めた。

 確かな温もりと、懐かしい匂いだった。たった独りで抱え続けてきた幸福だった。罪を犯した自分には充分過ぎるほどの幸せ……それでも、永遠に背負い続けていたかった。抱き締めていたかった。泣いているのなら、頭を撫でて、背中を摩って、大丈夫だとあやしてあげていたかった。

 涙を拭わないまま、那月はゆっくりと目を閉じる。

 このまま眠りに就けば、すべてが終わる。今日が終わり、死期渡しが完了する。那月は耳を澄まし、零時の鐘の音を待つように、最期の静けさを受け入れようとした。


 ――リン。


 懐かしい鈴の音が、呼びかける。

 那月はハッと目を開け、窓の方を見た。

 シキがベッドの横に立ち、両目を開いている。

 けれど、左目にかつての銀無垢の輝きはなかった。

 どちらの目も黒く、ありふれた少女のような瞳だった。

 シキは両手に銀の輝きをした光を携え、那月へと差し出す。


 ――さらばだ、那月。


 薄い唇が、そんな風に動いた気がした。

 銀無垢の輝きが那月の体に触れると、辺りが眩い光に包まれる。

 那月はぎゅっと目を閉じ、再び開いた時――すでにシキの姿はなく。

 壁にかかった時計を見て、目を疑った。

 時計の針が、零時を回っている。

 ということは、あの子は……。

 ――『あとは余の、此岸に在り続けるための力を捨て置き、消えるのみだ』

 シキの言葉が、幽かな声と共に思い出される。

 此岸に、この世に在り続ける力を捨て置く……初めから、彼女はそのつもりでいたのだろうか。

 だからこそ、最後にこの病室を訪れたのだろうか。

 ――『余とそなたが、共に行くことは叶わぬ』

 和葉を抱く手に、再び力がこもる。

 和葉も気づいたのだろう、驚いたように顔を上げ、「お母さん? どうして、まだ……」

「あの子が、託してくれたのよ」

 自然と、声が震える。

 それでも、那月は懸命に声を振り絞った。「自分の存在と引き換えに……私たちが、幸せになれるようにって」

 多くを話すことはできなかった。那月も、確かなことはなにも分からないのだから。

 けれど、和葉はすべてを理解したように頷いていた。彼女もまたシキの言葉を、声を聞いたのかもしれない。奇跡を受け入れるには充分だったのかもしれない。

 温かな幸いに手を添えたまま、那月は再び窓の外を見上げた。まだ夜明けの遠い空で、丸く浮かぶ月が銀色に光って見えた。


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