11



「大きくなったね、……和葉」

 雨が、先ほどよりも勢いを増して降り注ぎ、義一の繊弱な声を聞こえにくくする。

 この人が、――自分の父親。

 名前しか知らず、顔さえ見たことがなかった。ゆえに和葉には、納得できる材料に乏しかった。

 いや、仮に顔を知っていたとしても、受け入れることは難しかったかもしれない……和葉にとって父親とは、もはや存在していないも同然の人間だった。

 それが今頃になって、目の前に現れたのだから。

 和葉の動揺は、並大抵のそれではなかった。

「一体、なんなんですか」

 現実から目を逸らすように、和葉は俯いた。「いきなり、父親だなんて」

「受け入れがたいのも、仕方のないことだ。私はおよそ十九年、君に対してなにもしてやれなかった……父親らしいことなど、なに一つ。そんな人間が突然、父親などと言って現れて、君が不快に感じる気持ちは、想像に難くない」

「……そんなことを言ってるんじゃ、ありません」

 義一の発するなにもかもが、和葉の苛立ちを助長させた。「あなたが、あたしの本当の父親かどうかなんて関係ないです。あたしに父親なんかいない、そう思って、今まで生きてきたんですから……」

「そして、母親までもいなかったことにするのかい?」

 ハッと、和葉は顔を上げる。

 義一の背景が刹那的に光り、――直後、遠くの空で雷鳴が轟いた。

「君が死期渡しを執り行ったことは、もう分かっている。その犠牲として母親を、……那月を選んだことも」

 和葉は息を呑んだ。「どうして、それを」

「今日の夕方、私のもとに封筒が送られてきた。宛名は那月で、中には彼女の手紙が同封されていた。……そこにすべて、書かれていたよ。君と那月、――それと、夏樹君という男の子のこともね」

 冷静に告げる義一。

 和葉は言葉を失い、目を泳がせた。

 あの人が、――手紙で?

 いや、そんな、……なにを言っているんだ、この人は。

「不思議そうな顔だね。……まず、どうして那月が死期渡しのことを知っているのか、そういう戸惑いかな」

 和葉の心を読むように、義一は言った。「それはね、和葉、那月も君と同じだったからだ。――彼女もまた、死期渡しに憑りつかれ、実行した張本人だからだよ」

「あの人が、死期渡しを……?」

「ああ。――信じられないかもしれないが、君には、同じ名前の姉がいたんだ。私の『義一』の『一』という字を授けた、『一葉』という姉が」

「一、葉――?」

 それは、『白扇神社』の御守りに刺繍されていた名前。

 でも、そんな、まさか……。

 和葉がなにも言えずにいると、義一は振り返り、雨に煙る麓の街並みを見つめていた。

「私と那月はこの街で出会い、結婚して、まず『一葉』という第一子を授かった。初めて自分の子を抱いた時の感動は、今でも忘れがたいよ。あの頃の私たちは、確かに幸せの只中にいた。……けれど、その幸せはあまりに儚く、短いものだった。

 最初に異変に気づいたのは、『一葉』が生まれて四ヶ月が経った頃だ。あの子は中々、泣き止まない子で、昼夜が逆転するのもほかの子たちより遅かった。七ヶ月を過ぎた頃には正常化したが、今度は寝返りを打ってくれない。なにもかもが、ほかの子たちの平均よりも明らかに遅かった。私たちは一抹の不安を抱えながらも、個性の範疇だと自分たちに言い聞かせ、あの子を育てた。

 いや、そんな風に言うのは、卑怯かもしれない。当時私は仕事が忙しく、子育てのことはほとんど那月に任せきりだった。私は彼女を支えているつもりでいたが、この時すでに、那月は軽いノイローゼになっていたようで、精神が不安定になっていた。子宝に恵まれて幸せになるべきはずが、却って不幸になっていく気がして、皮肉にも私たちの不安までもが育まれていた。

 そうして、正確に『一葉』が障害を抱えた子供だと分かったのは、最初の誕生日を迎えたすぐあとだった。苦しそうに呻きながら泣き叫ぶあの子を見て、尋常ではないと感じ病院へ連れて行った。MRIで検査してもらった結果、『一葉』はほかの子たちと同じようには成長できない、脳の欠陥を抱えていることが分かった。……那月は涙を溢れさせ、私は呆然としていた。私たちの家庭に最初の亀裂が走ったのは、この時かもしれない」

 義一は溜め息を零し、小さく俯いていた。それ以上はもう、語りたくないといった風に。

 けれど、――彼は再び顔を上げ、それまで以上の覚悟を湛えた声で語り始める。

「それでも私は、『一葉』を受け入れると決めた。たとえ障害を抱えていようとも、我が子であることには変わりない、私たちの手で、責任を持って育て上げなければならないと思った。那月も、そんな風に考えてくれていると、思っていたんだ……。

 やがて、私たちは第二子を授かった。正直、思いがけない妊娠で、『一葉』一人でも大変なのに二人目を産むのは、と私は思ったが、那月がどうしても産むと言って聞かなかった。それに、すでに授かった命、私自身も心のどこかで、普通の子が欲しいと望んでいたのかもしれない。私たちは二人目の子に希望を馳せた、……それが君のことだ、『和葉』」

 名前を呼ばれ、和葉は息を呑む。

 自身の生い立ちを知るのは、彼女にとっては当然初めてのことだった。

「那月のお腹にある新たな命は、私たちの希望をより大きなものにした。少なくとも私はそう思っていたが、……私が感じていた安らぎに反し、那月は常にナーバスだった。私の何気ない言動に対して、異常なほどヒステリックになったり、時折、長い独り言を呟くようになった。聞いていると、そこにはいないはずの誰かと会話でもしているような雰囲気で、そこはかとない不気味さがあった。

 いわゆるマタニティブルーだろうかと、私は考えていた。しかしまもなく、彼女は想像もしていなかったことを口にした。――およそ一ヶ月後、お腹の中で、君が死んでしまうと予言したんだ」

 ……予言。

 本来であれば、それは戯れ言と変わらない、真に受けるはずがないもの。

 が、――和葉には思い当たる節があった。

「私には、なぜ那月がそんなことを言い始めたのか理解できなかった。積もりに積もった不安と心労で、彼女の精神が限界を迎えているのかと思った。私は、そんなことあるはずがないよと、優しく諭そうとした。

 だが、私の言葉を嫌悪するように、那月は声を荒げて言った。――すべて、本当なのだと。それから彼女は、シキという名の亡霊と、死期渡しという儀式について話し始めた。それを行い、『一葉』の命を代償にすれば、君の死を免れることができると。

 到底、信じられる話ではなかった。那月の目は、本来の彼女のものとは思えないほど逼迫していて、見るに堪えなかった。私は、頭ごなしに否定するのもよくないと感じ、死期渡しなるものがあると仮定した上で、――自分たちにとって都合のいい命を選ぶような、そんな人道に反した儀式に頼るわけにはいかないと、そう諭した。時が経てば、彼女も正気に戻ってくれる、……そう信じて、私は本気で取り合うことはしなかった。那月は、激しい怒りと悲しみを孕ませた眼差しをして、――この子は、『和葉』は自分が守ると、そう呟いていた……。

 一ヶ月後、やはり、君が死ぬことなどなかった。私は、那月の言葉が妄言だったのだと安堵していた。……だが、それからまもなく、君の姉である『一葉』が命を落とした。なんの前兆もない、あまりに突然過ぎる死だった」

 義一の声が、はっきりと震えていた。

 悲しみと恐怖と、――ある種の後悔が入り混じった、痛切な響きをしていた。

「私は、どんな風に悲しめばいいのかさえ分からずにいた。虚脱感に支配され、周囲から悔やむ声をかけられても、ただ事務的に応答することしかできなかった。幼過ぎる『一葉』の遺影を前にしても、なんと言って弔えばいいのか、分からなかった……。

 途方に暮れる私とは対照的に、那月は感情を露わにしていた。遺影を前にして、人目も憚らず涙を流していた。周りからすれば当然の悲しみ方と捉えられていたようだが、私には尋常でないように思えてならなかった。……なぜなら那月は、なにかに憑りつかれたように何度も、『ごめんなさい』と繰り返していたからだ。

『一葉』の死は突然で、私たちにはどうしようもないことだった。それなのになぜ、彼女は自分を責めるように、謝罪の言葉を繰り返しているのか。……その時、私の中で一つの仮説が生まれた。それはあまりに非現実的で馬鹿げたものだったが、しかし、確かめざるをえなかった。――那月が話していた、死期渡しという儀式についてだ。それが行われたことによる死なのかどうかを。

 私は那月を問い詰めた。一体なにがあったのか、どうして『一葉』が死んでしまったのか、君は知っているのかと、――那月は告白した。なにもかも自分のせいだと。自分が、あの子を殺してしまったのだと……。彼女のしたことは、平等であるはずの生命に優劣をつけることだ。決して、許されることではないと思った。私は冷静でいられなくなり、彼女を強く非難した。

 やがて那月は精神機能に異常をきたし、深刻な鬱状態となった。主たる原因は間違いなく子供の死だが、私からの詰問にも大きな問題があったことを医師から指摘された。それを知った那月の両親は憤り、私を激しく罵った。特に那月の父は、白扇神社の神主をしていたこともあり、極めて厳格で人徳を重んじる人でもあった。私は誤解を解こうと苦心したが、死期渡しのことはどうしても打ち明けられず、彼らからの痛罵を甘んじて受けるほかなかった。

 私たちは互いを遠ざけるようになった。私はどうしても、那月を許すことができなかったし、また彼女も、自分自身を許せなかったのだと思う。那月は君を身ごもったまま私と縁を切り、遂にはこの街からも去ってしまった。まるで、自ら進んで孤独を選んでいるかのようだった。このままでは、彼女は破滅してしまうのではないかと思った。背負い切れなくなった罪の意識に押し潰され、自らを殺めてしまうのではないかと……。

 だが、――那月は、破滅などしなかった。街を離れ、孤独になりながらも、懸命に今日までを生き抜いてきた。それは、なぜだか分かるかい?」

 その問いかけに、和葉はなにも答えなかった。なにも答えることができなかった。

「本当は、君も分かっているんじゃないのか。那月が、なにを考えて生きてきたのかを」

 義一は再び和葉の方を向き、濡れた声で言った。「彼女はただ、君のために生きてきたんだ」

「あたしの、ため……?」

「そうだ。残された君を守るため、君を幸せにするために、生きようとしたんだ」

「そんなの……」

 自然と、和葉は拳を固めていた。「どうして、あなたがそんなこと言えるんですか? あなたは、今日までのあたしとあの人を、見たこともないくせに。一度だって会いに来なかったくせに」

「ああ、……君の言う通りだ。私は、那月と君がどんな親子だったのか、そのすべてを知っているわけではないし、知る機会は永遠に与えられないかもしれない」

 それでも、と義一は手にしていた封筒に目を落とし、

「今の私は、那月がどんな気持ちで君を育ててきたのか、よく分かる。なぜ今になって、私に手紙を寄越したのかも、……彼女はとても、真面目な女性だった。君の姉、『一葉』がまだ生きていた時、仕事で遅かった私をただの一度も責めることなく、泣き言一つ漏らすことなく『一葉』の面倒を見ていた。だからこそ精神を摩耗させ、現実から逃れようと魔が差してしまったのだと、……そんな簡単なことにも、当時の私は気づけなかった。ただ頭ごなしに彼女の所業を非難し、突き放してしまった。私の方が、よほどダメな人間だ。現実から逃げていたのは、――本当は、私の方だったんだ。

 那月は、ずっと向かい合っていた。目の前にある現実、君というかけがえのない存在を守るため、幸せにするために生きてきた。時には、寄る辺のない生活に疲れ、君に強く当たったこともあったかもしれない。君が頑張ってきた時間を、水の泡とさせてしまったこともあったかもしれない。すべての時間において、彼女がよい母親であったと言いがたいのは事実だろう。その点において、君が彼女を許す必要はない。

 それでも、君には分かってほしい。那月は懸命だったのだと。自らの手で殺めてしまった『一葉』の分まで、君に幸せになってほしいと願っていたことを。それが那月にとっての贖罪であり、そして、今回の彼女の決断は、――君たち姉妹に対する、最後の償いだったのだと……」

 息を吐き切るように、義一が声を絶つ。

 ――自分を、守るため。幸せにするため。

 ただそれだけのために、生きてきた那月。

 和葉は戸惑いを感じていた。こんな話を聞かされた程度で、母親への蟠りが消えるなどありえない。許すという感情が生じたわけではない。

 しかし、――彼女の脳裏に、不思議な光が漂い始めていた。

 それは初めてシキと出会った頃、シキに記憶を覗かれた際に見た、――記憶の光。

 あの時、和葉は自分に覚えのない記憶に吸い寄せられ、掴もうと手を伸ばした。

 光には、触れることはできなかった。なにも思い出せないまま和葉は意識を取り戻した。

 だが本当は、光だったから掴めなかったのではない。

 あの時、和葉は光に反射する映像を見ていた。

 自分の中にはっきりと残った、――幼い日の記憶について、思い当たっていた。

 その映像が、自分にとってどんな時間だったのかを。


 ――『大丈夫だからね、和葉』


 ああ、そうだ……。

 あの時見たものは、自分に微笑みかける、那月の姿だった。

 和葉は無意識に、自分に優しかった頃の彼女を、なかったことにしていた。自ら記憶に鍵をかけ、心の奥に仕舞い込んでいた。

 壊れてしまった母親への失望を、少しでも小さなものにするために、……初めから、母はああいう人だったのだと、自分を納得させるために。

「……嘘よ」

 戸惑いから逃れるように、和葉はかぶりを振って、「死期渡しをしたことへの罪悪感なんて、あの人にあるはずがない。死期渡しは、そういう記憶が消えるようにできているんです」

「記憶が、消える?」

 困惑する義一。

 和葉はぎゅっと唇を噛み締めたのち、

「死期渡しを執り行った者は、犠牲にした者に関する記憶と、死期渡しについての記憶を失っていく……そういう制約があります。だからもし本当に、あの人が死期渡しを行ったのなら、罪の意識なんて感じているわけがない。そんなわけ、あるはずがないんです……」

「ああ、――そういうことだったのか」

 なぜか、義一は納得したように呟き、途端に悲痛な面持ちとなる。

 それから、封筒の中に手を入れ、

「犠牲にした者の記憶か。……ようやく、合点がいったよ。どうして彼女が、こんなものを送ってきたのか」

 そうして取り出したのは、――一冊のノートだった。

「手紙と一緒に、封筒に入っていたものだ。どうしても、君に見てもらいたい」

 震えた手で、義一がノートを手渡してくる。和葉は受け取らざるをえなかった。

 A4サイズのノートは、使い古されている点以外、目立った特徴はなかった。表紙にもなんの記載もない。

 和葉は訝しい眼差しで見つめたのち、ゆっくりとノートを開く。

 そして、――驚愕する。

「最初にこれを読んだ時、私はおぞましさすら感じたが、……これもまた、彼女が孤独に闘ってきた証だったんだ。今になって、気づくことができたよ……」

 やるせない想いを嘆くように、義一は言った。

「――――」

 和葉は、正常に応答することができなかった。

 手が震え、握力を失い、

 バサリと、地面にノートを落とす。

 そうして、噴き出した感情に弾かれるように、――バス停小屋から飛び出した。



『八坂一葉』

 ――ノートに書かれていた内容は、それだけだった。

 犠牲にした子供の名前、……『和葉』の代わりに死んだ、姉の名前。

 その四文字が、那月特有の角張った字で書かれていた。

 いや、――四文字だけではない。

 彼女は、いくつも書き連ねていたのだ。

 その四文字を、何度も、何度も……。


――……八坂一葉八坂一葉

八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉

八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉

八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉

八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉八坂一葉

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 A4のノートが、その四文字でびっしりと埋め尽くされていた。

 それはまさしく、那月が孤独に闘ってきた証だった。

 死期渡しによる忘却に抗うための、――母親としての闘い。その記録。

 彼女は逃げなかったのだ。

 記憶も、罪悪感も、苦痛も、……なにもかもを捨てないまま、生きてきた。

 あるいは、捨てたくなかったのかもしれない。なかったことにしたくなかったのかもしれない。

 どれだけの過ち、直視しがたい現実だったとしても、……それらを簡単に手放してしまうこともまた、過ちを重ねることだと気づいていたから。

 なんて、不器用な人なのか――あの人は。

「ぐぅ……ッ」

 激しい雨の中、――和葉は山道を駆け上がっていた。

 顔に、体に、足もとに、重い雨粒が容赦なく打ちつけられる。

 濡れたアスファルトは滑りやすく、踏みしめる力を誤ればすぐにでも転んでしまいそうだった。

 それでも、彼女は止まることなく走った。

 勾配のきつい上り坂を、跳ねる息を雨に煙らせながら、――走った。

 それは紛れもなく、母のために。

 そして、自分自身のために、和葉は驟雨の道を走っているのだった。

 ――お願い、間に合って!

 一心不乱に坂道を上り切り、石段を駆け上がっていく。

 鳥居にたどり着いた瞬間、――リンと、鈴の音が彼女を迎えた。

「シキ……!」

 雨音に負けぬよう、和葉は叫んだ。

 舞殿の中で、死期渡しの儀式を行い続けている亡霊に向けて。

 だが、――鈴の音は、止むことはなかった。

 リン、リンと、シキは舞い続けている。

 必死の形相で現れた和葉に気づきながらも、――止まることなく、ただ優雅に、檜扇を振り続けている。

 まるで、彼女が戻ってくることを、予期していたような微笑みを浮かべて……。

「やめて、シキ!」

 舞殿まで走り、和葉は儀式を止めさせようと飛びつく。

 が、――彼女の体はシキをすり抜け、床に打ちつけられただけだった。

「無駄だ。此岸に生きるそなたが、余に触れることはできぬ」

 いつかの日を真似るように、シキは言った。

 リンと、また、鈴の音が反響する。

「……あなたは、全部知っていたの?」

 銀無垢の眼差しに、和葉は問いかける。

「初めから、あの人が、深山君の身代わりになろうとしたことを、……あたしのために、死期渡しの犠牲になろうとしていたことを」

「だとしたら、どうだと言うのだ」

 舞を止め、シキはこちらを向いた。

 彼女の体は、未だ淡い光に包まれている。

「そなたにとって、母親とは忌むだけの存在だったのだろう? なにゆえ今になって、そのようなことを問う」

 問いただされ、和葉は押し黙る。

 ――『そうか。そなたと顔を合わせるのは、これが初めてになるのか』

 それは、シキが初めて、和葉の前に現れた時の言葉。

 あの時、どうして彼女はあんな言い方をしたのか。初対面であるはずの和葉を前にして、感慨深げな笑みを見せたのか。

 簡単な話だ。――シキは、和葉のことを知っていたのだ。

 那月が執り行った死期渡しによって延命させた命。

 まだ胎児で、死ぬ運命にあった和葉を、……救っていたのだ。

「先刻、そなたは問うたな。余は、またいずれ目覚めるのかと」

 シキは檜扇を畳み、床の上に置いた。「余はもう、目覚めることはない。今宵が死期渡しの、最後の儀だ」

「最後、の……?」

「左様。余は今宵、檜扇の木箱を壊す。千年の儀も、終焉となる」

 どこか満足げに言って、シキは微笑んだ。「余は、母上を恨んでおった。だが同時に、愛してもおった。余は、その相反する感情の葛藤に幕を引くべく、御霊みたまとして生き永らえてきたのだ。彌榮への復讐などではなく、……ただ、見てみたかったのだ。死期渡しを越える者の姿を。

 そして、――そなたの母君は、越えてみせた。死期渡しの、忘却の術式に打ち克ち、罪を背負い続けてきたのだ。余はそこに、真なる母の姿、愛の形を見出したのだ……そなたも、そうは思わぬか」

「ええ、……あなたの言う通りよ、シキ」

 ふらふらとしながらも、和葉はその場に立ち上がる。

「ここに来るまで、ずっと考えてた。あたしがやろうとしていることは、絶対に許されないことだって。人として、間違ったことなんだって。

 それでも、どうしてもう一度、深山君に会いたくて。深山君との約束を叶えたくて……全部、自分で選んだことのはずだった。自分の望みのために、あの人を犠牲にする、罪を犯すんだって。自分で決めたことなら、納得できるはずだった。あの人への復讐なんだとも思っていたから、迷うことなくあなたに縋ることができた」

 ぽたぽたと、和葉の体から水滴が滴り落ちる。

 床板を濡らす弱々しい音は、雨音に包まれた舞殿には響くことがない。

 ――和葉は振り絞るように、声を上げ続けた。

「でも、全部違った。あたしはなに一つ、自分で決めていない。――全部、あの人が決断したことだった。あたしが望んだことなんかじゃない、あの人が望んだことだった。……そんなことも知らないで、犠牲だとか罪だとか考えていた。正当化しようと躍起になっていた。どうやったら自分を納得させられるのか、そんなことばかり考えて……。

 犠牲になることを、あの人自身が選んだと言うのなら、納得のしようがないじゃない。あたしが、深山君を助けたいために、あの人に甘えただけになってしまう……」

「子が親に甘えるのは、当然のことであろう」

 冷静な声で、シキは言う。「母君からの無償の愛、それのどこに惑うことがある」

「――ッ」和葉はキッと眼差しを強くする。

 けれど、ぎゅっと唇を噛み締め、冷静さを取り戻す。

「あたしは、あの人が大嫌いだった。疎ましいとさえ思ってた。最低の母親だって。どうしようもないほど孤独で、弱い人なんだって……。

 けど、そんな風に思っていたあたしの方が、最低よ。どうしようもないほど、弱い人間だったの。ずっと、あの人の優しさに甘えてきた。甘え続けてきた。あの人との日々を、大切だったはずの時間を忘れて、縋ってばかりいた。……今、この一瞬も」

「それで、よいではないか」

 シキは、ゆっくりと目を伏せた。

「子供とは、そういうものだ。母親とは、そういうものなのだ。そなたは幸いを得ればよい。そのために苦しむことが、母親の役目なのだから」

「そうかもしれない……でも、それなら恩返しをするのだって、子供の役目のはずでしょう?

 あたしはまだ、なにも返せていない。なにも伝えることができてない。それじゃダメなのよ! 今ならまだ間に合う、そうでしょう? ちょっと長い反抗期だったって、笑い飛ばせるはずでしょう? 親子って、そういうもののはずでしょう!」

 一歩ずつ、和葉はシキに近づいていく。

 たとえ、触れられなくても――もう、手遅れだとしても。

「あの人があたしのために、あたしの幸せのために死のうとしているんだとしても、……あたしはまだ、伝えなきゃならないことがあるの。あの人に、返さなきゃならない恩があるの、……だから……」

 雨で濡れ切っていた彼女の頬に、一筋の雫が伝う。

 それは、雨粒よりもずっと熱い、和葉自身の涙だった。堰を切ったように、涙が溢れ出していた。

 視界が溺れ、……和葉は縋るように、シキの手を求めた。


 ――『和葉、どうしたの』


 シキの纏う光に触れた瞬間――。

 不意に、那月の声がした。

 和葉の脳裏に、心地よく響き、

 幼い日の、忘れていたはずの光景が鮮やかに甦る。


 ――『どうして、泣いているの。お母さん、行っちゃうから、寂しいの?』


 那月の手が、和葉の涙を優しく拭う。

 がさがさの荒れた指先が、少しだけくすぐったいことを思い出した。


 ――『大丈夫よ、和葉。私、ちゃんと帰ってくるから。遅くなるかもしれないけど、ご飯だって、ちゃんと作ってあげるから』


 まだ泣き止む気配のない、在りし日の和葉。

 そんな彼女の頭を、那月が優しく撫でる。


 ――『お腹が空いたら、コロッケサンド、食べてていいからね。和葉、お母さんの作るコロッケサンド、大好きでしょう?』


 和葉が、ふっと顔を上げる。


 ――『じゃあ私、お仕事頑張ってくるから。和葉さえいてくれれば、私、いくらでも頑張れるんだから。お母さんは、そういう風にできてるんだから』


 そこには、……優しく微笑みかける、那月の姿があった。


 ――『大丈夫だからね、和葉』


「案ずるな、和葉」

 気づけば、――和葉は、シキの温もりに包まれていた。

 触れられるはずのない彼女に抱き留められ、濡れた髪を優しく撫でられていた。

「シキ、どうして……」

「もう、余は行かねばならぬ。言わばこれは、此岸を離れるきわの、ささやかな奇跡、そして、――死期渡しを終えた余に対する、手向けの儀だ」

 シキの声は、子を想う母親のように、どこまでも穏やかだった。

「そなたは、そなたのために生きればよい。それが母君の、……那月の、ただ一つの望みだったのだから」

 ――徐々に、シキの体を包む光が、強さを増していく。

 まるで、彼女そのものが、光の中に飲み込まれていくように。

「……ダメ、やめて、シキ。……これからなの。親孝行とか、恩返しとか、そういうなにもかもが、これからだったの! だから、お願い……」

「そなたは、幸せになればよい。それが真に、那月のためとなる」

「違う、違うの、……ちゃんと、会って言わなきゃいけないの。『ありがとう』って、たった一言でも、いいの。

 だからお願い、シキ。まだ、どこにも行かせないで。あたしの中からあの人を、――お母さんを、消さないで! シキ……!」

 痛切な声と共に、和葉はしがみつく。

 温もりの在り処を確かめるように、……あるいは駄々をこねる、幼な子のように。

「そなたは、良き母親を持ったのだ」

 揺らめく燈火のように、シキは淡い笑みを浮かべる。

「幸多き時を。遠き時代の、――遙かなる我が子よ」


 和葉の両腕が、――大きく空を切った。


「あ……っ」

 床に手が着き、小さな痛みが走る。

 目の前にはもう、光はなかった。

 リン、という鈴の響きもなく、――舞殿の外で降りしきる雨の音が、微かに聞こえるだけだった。

「あ……ああっ……」

 和葉は何度も、震える両手を見つめ直す。

 その手にはやはり、なにも残っていなかった。

 シキの温もりも、光も、なにもかもが跡形もなく失われていて、――檜扇を納めるための木箱の破片だけが、朽ちた枯れ葉のように散らばっていた。






 佐々木義一様


 突然の手紙、失礼します。

 随分とご無沙汰していて、一体なにから書き始めればいいのか、とても悩みました。

 気の利いた時候の挨拶なんて思い浮かびませんので、早速でごめんなさい、本題に入ります。ごめんなさい……。

 この手紙を義一さんが読んでいる頃はまだ、私は生きていると思います。でも、もしかしたら、もうこの世にいないかもしれません。最近は雨が続いているので、配達日数とか、長くかかるかも……どちらにしても、長くはない命なんです。それだけは確かです。

 でも、驚かないでください。私は死んでしまいますが、病気のせいではないです。もちろん、自殺でもありません。

 私はあの子のために、和葉の幸せのために、命を捧げることを誓ったのです……こんな風に書けばきっと、あなたならなんのことか、分かってくれると思います。

 実はね、あの子、大切な人ができたみたいなんです。夏樹君っていう、可愛らしい男の子でした。私が会ったのは一度きりだけど、とても優しそうな男の子で、……夏樹君と話してる和葉、凄く楽しそうだった。きっと、好きなんだろうなって、すぐに分かった。

 でも、夏樹君、長い間入院しているみたいで、それでどこか、寂しそうな目をしていた。和葉と笑い合ってる時も、どうしても拭い切れない不安があるような、そんな目で、……だから私、シキにお願いしたの。もしも、和葉があなたを頼る時がきたら、その時は助けになってあげてって。

 やっぱり、私の勘は正しかったみたいで、夏樹君はあとわずかの命だった。あんなに若い子が、あと数ヶ月で亡くなってしまう。……私は迷わなかった。和葉に死期渡しをさせるよう、シキにお願いしたわ。きっとあの子も、すぐに私を犠牲にする。そんな風に思ったから。

 だけどね、和葉は死期渡しをしようとしなかった。たくさん悩んで、迷ったみたいだけど、結局、私を犠牲にしなかったの。それは、もちろん、嬉しかったけど、……どうしても私は、和葉に幸せになってほしかった。たとえ和葉の中で、私がいなかったことになってしまっても……。

 もう、なにもないから。今の私が、あの子のためにしてあげられることは、……命をあげることしか、なかったから。

 罪滅ぼしになるとは、思っていません。私がしたことは、決して許されることではないでしょう。

 和葉にも、たくさん、迷惑をかけてきました。時には、カッとなって手を上げてしまったり、和葉がたくさん頑張ってきた時間を、水の泡にさせてしまったりしたこともありました。

 こんなことになってしまうなら、産むべきではなかったと、自分自身を強く非難したこともありました。それが余計に、あの子を深く傷つける結果にもなったこともありました……なにかもが、私という人間の過ちです。

 だけど、もう、いいでしょうか。

 人としては、過ちを犯してしまったけれど、……母親としては、精一杯頑張ってきたと、胸を張ってもいいでしょうか。

 きっと、もうすぐ、あの子が私の実家へ行きます。あの神社に、シキを連れていくと思います。

 義一さん、ぜひ、会ってあげてください。和葉は、とても大きくなったんです。

 私は、疲れたので、少しだけ眠ります。

 苦しいけど、でも大丈夫です。私は自分の死期を知っていますから。今日はまだ、どんなことをしたって死んだりしませんから。

 この命を、あの子のために捧げるまでは……。

 

 手紙、思いのほか、長くなってしまいました。ごめんなさい。

 願わくは、この手紙が、あの子の目に触れないことを祈ります。

 あなたは優しいから、渡してしまうかもしれないけど、……ううん、きっと渡してしまうわね。

 和葉、もしあなたがこの手紙を読んでいるのなら、どうか悲しくしないでください。

 私のことは、ためらわずに忘れてください。

 それもまた、あなたにとっての幸せになるのなら、私にとっても同じことです。

 どうか、幸せになってください。

 それだけが、私の望みです。


 返事は、いりません。

 体に気をつけてお過ごしください。

 さようなら。

 

 那月



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