10
――母子諸共、死に至るだと? それは真の話なのか。
――宮司が、そのように申しております。このままのご容態が続けば、恐らく母子共にと……。
深い眠りの中、和葉はまた、どこからともなく響く声を聞いた。
やはり、誰の声かは分からない――けれど今回感じ取ったのは、声だけではなかった。わずかだが視界が開け、聞こえてくる声に伴った景色を見ることができていた。
それは、前回の夢でも垣間見た、絢爛な和室の光景だった。
視界は、鮮明とは言いがたい。まるで右目だけを開いて見ているような違和感がある。和葉自身の意思では、自由に辺りを見渡すこともできない。
感覚的に、和葉は思った――これは、別の誰かが見ている光景ではないかと。
――なにか、二人を救う手立てはないのか? 妾の子と申せど、ようやっと成した世継ぎなのだ。みすみす死なせるなど考えられぬ!
――
――人の死を? それは真か。
――はい。ただし宮司が申しますに、その儀を成立させるには、犠牲を立てる必要があると……。
昂ぶった声と、宥めるような声。どちらも渋みのある男性のものだ。
後者の声が、落ち着き払った調子で儀式について説明している。古風な言い回しが多いために理解しがたい部分もあったが、内容からして、その儀式が死期渡しであることは推察できた。
しかし二人の話から察するに、救おうとしているのは世継ぎとなりうる子、――すなわち胎児である。
死期渡しは、名前に同じ響きを持つ者同士でなければ成立しない。お腹の中にいる子は当然、名前など持っていない。すでに名付けているのであれば話は別だが……。
いや、――違う。名付けてしまえばいいのだ。
まだ名前を持たない、まっさらな胎児だからこそ、どんな名前でも死期渡しは成立しうる。
犠牲となる方の名前に、合わせてしまえばいいのだから。
――して、犠牲はいかがいたしましょう。世継ぎのためと言えど、他者に死を背負わせることは人道に反するものです。ここはやはり、死を以て償うべき罪人を立てるのが道理ではないかと。
――罪人だと? 戯れ言を申すでない。余の跡目を継ぎし者の名に、罪人の名を与えるなど言語道断である!
――では彌榮様、如何ような者を……。
――うってつけの者が、おるではないか。余が名付け、余の血を継いでおきながら、生まれながらにして忌むべき存在となった者が。
――よもや、
その名前が出た瞬間、――溺れたように視界が潤む。
泣いているんだ、と和葉は察した。
この光景を実際に見ている者、この声を実際に聞いている誰かが、――静かに涙を流している。
――嫌だ……。
涙混じりの、か細い声が聞こえた。
これまで聞こえていた男性たちの声とは、明らかに異なる響きだった。まるで、和葉自身が発したような感覚があったのだ。
だが、その声は和葉のそれではなく――あどけない少女の声。
――なにゆえ、余が犠牲にならなければならぬ。余がなにをしたというのだ。たかが十年足らずの生に、なんの価値があったというのだ……!
――お止めなさい、
涙で乱反射する視界の中に、和服姿の大人びた女性が現れる。
悲痛な少女の声に対し、女性の声は冷徹な気配を孕んでいた。
――母上、……なにとぞお慈悲を。余はまだ、死にとうないのです。生きていたいのです。父上にも、そうお伝えください。
――我が子よ、よくお聞きなさい。この決断もまた、一つの慈悲なのです。そなたは忌まわしき隻眼の子、そのような姿では疎まれることはあれど、手を差し伸べる者は現れぬでしょう。そなたに彌榮の血を繋ぐことは叶いません。
――それでも、余は構いません。たとえ誰彼から見捨てられようと、……余はただ、母上と離れとうないのです。それだけなのです……。
少女の声は、今にもくずおれそうなほど、弱々しいものだった。同化している和葉には、少女の悲哀が手に取るように分かった。
同時に、この光景がなにを示すものなのか、和葉は少しずつ理解し始めていた。
この少女のことを、――和葉は知っている。
――……織、受け入れるのです。これもすべて、彌榮の血と繁栄を
――血と繁栄を繋ぐため、……それが、それだけが、余の務め……。
――左様。浮世の儚い時分しか生きられぬ我々が不死を得るための、血という名の永久。そなたは月の満ち欠けのように、
――然れど、母上、余はなにかの一部ではなく、余でありたいのです。かように希うことは、果たして誤りなのでしょうか……。
――聞きなさい、我が子よ。河川の水は止まることなく流れ続け、いつしか大海へと帰入するもの。大海の中ではそれぞれの水がどこの河川より来たりしものかなど、弁別の仕様がないのです。それが一切の生類に課せられた定め。そなたは新たな命に織の名を託し、永久の身のうちに入りて生き続けるのです。
――嫌です! 織は、父上と母上から頂いた名です。余の名前なのです。誰かに明け渡すなど、しとうございません。
――織はそなたものではなく、彌榮のものです。渡せと命じられれば、渡さねばならぬのです。受け入れなさい、我が子よ……。
少女の体が、女性のもとに抱き寄せられる。
あまりに空虚な温もりが、同化した和葉の感覚にも伝わってくる。
ほどなく、少女の頬にぽつぽつと、雨粒のような雫が落ちる。――少女はゆっくりと、顔を上げた。
そこには、――静かに瞳を濡らした、母の微笑みがあった。
少女は再び俯き、母の柔らかな胸元に顔をうずめる。
そのまま、眠るように
和葉が目を覚ました時、バスは坂道を上っているさなかだった。勾配が急で、辺りの風景からすぐに山道であると分かった。車内にはほかに乗客の姿がない。
「起きたか。そろそろであるぞ」
と、シキが告げる。
電光掲示板を見た和葉は、慌てて降車ボタンを押した。運転手からのアナウンスがあったのち、まもなくバスが停留所に停まる。
和葉が降りると、バスはけたたましい音を立ててドアを閉め、停留所を離れていく。道のすぐ先にあるカーブを右折し、山道を下っていった。
「どうかしたのか」
シキが顔を覗き込んでくる。
和葉は思わず目を逸らし、「別に、なんでもないわ」
「ならば急いだ方がよい。――雨も降ってきたようだ」
彼女の言う通り、暗く立ち込めた空から、ぽつぽつと雨粒が落ちてきていた。和葉は傘を広げ、山道を登り始めた。
停留所から白扇神社までは、六百メートルほど歩かなければならない。
長距離走をやってきた和葉からすれば大した距離ではないが、勾配が急なせいか、歩きでもかなり足にきそうだった。
「晴れやかとはほど遠い面持ちだな」
傘を撫でる雨音の中、シキの声がはっきりと響く。「やはり、後悔があるのか?」
「ううん……ただ」
低い声で、和葉は答える。「夢を見たの。死期渡しの犠牲になる、女の子の夢」
シキは、めずらしくなにも言わなかった。
和葉は続ける。「織廼内姫、――あなたのことでしょう、シキ」
和服姿の亡霊はすうっと、アスファルトの上を滑るように進んでいる。その現実離れした歩様は、乱れることがなかった。
「……余と契りを交わした者は、余の夢を見るようになるのだ」
初めて聞く、笑みの抜けた声だった。「否、夢ではなく、――在りし日の出来事か」
「じゃあ、本当にあなたは……」
死期渡しの、最初の犠牲者。
和葉がそう続ける前に、シキは小さく頷いていた。
「今よりおよそ千年前、――余は、政において絶大な権力を誇っていた彌榮家の子女、織廼内姫として生を得た。然れど生まれつき、左目が開くことのない隻眼の童であった。屋敷の者らからは厄災の種になりかねぬと疎んじられ、他家の者にも到底見せられぬ存在ゆえ、外界へ出ることも許されなかった。まさしく内々にしか生きられぬ姫であり、跡目を継ぐなど以てのほかであった。だが待てど暮らせど、余のほかに子はできず、彌榮は窮地に立たされておった。
そのような折、――余が九つの時だ。父上の妾が子を孕み、それは待望の世継ぎとなりうる存在であった。然れど臨月の頃となって、妾は奇病に苛まれた。それによって子諸共に絶命の危機に瀕し、彌榮は再び追い詰められ、……あとは、そなたが拝した夢の通りだ。もはや多くは語るまい」
「それであなたは、生まれてくる子に、自分の死期を渡したというの? ……父親から命じられて」
「少し、違う。余が渡したのは死期ではなく、――『織』という、名前のことだ。言わば儀の始まり、……否、本来一度きりしか行われなかったはずの儀は、余の名前を冠した『織渡し』として執り行われた。今に伝わる死期渡しの名は、余の名前からもじっただけのものに過ぎぬ」
「じゃあ、死期を渡し合うというのは……」
「言葉の綾、というものだ。本来はただ、余の名前と命を差し出すだけの儀に過ぎなかった。それが
「あなたが、望んだ?」
「儀によって捧げられたのち、余の魂は彌榮のもとをさまよい、気づけば儀の際に用いられた檜扇の箱を依り代としておった。そなたが分かるように話すなら、霊体として憑りついたとでも申すべきか。まさしく余は、母上の言葉通り、
以来、余は彌榮の血を継ぐ者が木箱を開いた際、浮世に顕現できるようになった。余は死期と記憶を操る力を用いて、ただ浮世での恨みに身を任せ、彌榮の子孫たちを
「つまりあたしにも、流れているのね……その彌榮の血が」
「彌榮は様々に名を変え、現代まで生き続けておる。……皮肉なものだ。余が恨んだはずの儀を余が伝承させ、そうして彌榮の血も永遠のものになろうとしておる」
真に、皮肉なものだ、――そうシキは繰り返した。「果たして余は、彌榮の血を繋ぐため、ただそれだけのために生まれてきたのか。いいや、余だけがそうだったのか、あるいは、人間とは本来、それだけのために此岸を生きるのか。であればそれは、あまりに虚しきことよ……」
しばらくして、長い石段に差しかかる。上った先には鳥居が見えており、ようやく神社の入り口に至ったことを知った。
雨に濡れた石段を、ゆっくりと上っていく。浮遊しているシキも、和葉の歩調に合わせていた。
上り切り、鳥居をくぐった先には、――小さな社のようなものが建っていた。
境内の中心に建つそれは、よく見ると賽銭箱や本坪鈴もなく、中の空洞さも分かるような、開かれた造りとなっている。
「これが余の舞う処、舞殿だ。檜扇は、中の欄間に祀られておる」
シキはすっと飛び上がり、天井から近い壁に飾られている白い扇子を手にし、舞殿の中心へと降り立つ。
和服姿で、両手に扇子を持つ彼女の出で立ちは、厳かな舞殿の様相にあまりに似合い過ぎていた。
「和葉よ」
めずらしく、シキから名前を呼ばれる。「そなたは、ここで去れ」
「え……?」
「余は儀を成立させるため、長く舞う必要がある。そのすべてを、そなたが見届けることはない。それに……」
わずかに、彼女は言葉を溜め、「儀が終われば余も消える。ここに一人残るのも、虚しかろう。それよりも早く、あの男のもとへ行く方が、そなたにとってもよい」
和葉は驚いていた。
まるで、こちらを気遣っているような、シキの言葉に。
「……分かったわ。箱は、ここに残して行くから」
和葉はショルダーバッグから木箱を取り出し、舞殿の入り口に置いた。
「最後に一つだけ、訊いてもいい?」
「なんだ」
「シキは、恨んでいるの? ……自分を庇ってくれなかった、母親のことを」
シキは、わずかに顎を引き、「なにゆえ、そのようなことを知りたがる」
「それは……」
和葉は理由を答えかけたが、その途中で考えを改め、「なんとなく、そう訊いてみただけよ」
「左様か」
シキは、憂いを帯びた右目を伏せ、「恨みなど一切ない、そう申すことは虚言となろう。然れどあの時、母上にさえどうすることもできなかった……父上に刃向かうなどできなかったのだ。それだけは、余も理解しておる」
「どうして、そんな風に言えるの。自分を見殺しにした母親のことを……」
「余は、余が死したのちの母上を目の当たりにした。――母上は懊悩の末、酷く苦心しておられた。それで死期が早まるわけではないが、然らばこそ、その苦しみは寿命尽きるまで続くものだったのだ。
ゆえに余が、余の記憶を消すように仕向けた。余は恐らく母上を恨んでおる、恨んではおるが、……愛していたこともまた、揺るぎなきことなのだ」
愛していた、か……。
和葉はぎゅっと唇を噛み、「あなたは、またいつか目覚めるのか? 彌榮への恨みを果たすために」
「そなたからの問いは、一つだけだったはずだ。もう、余はなにも答えぬ」
――リンと、鈴の音が響いて。
シキの、銀無垢の左目が開かれる。
その刹那、彼女の輪郭に沿って蒼白の光が放ち始め――白い檜扇にまで伝播する。
ほどなく、シキはゆったりと舞い始める。
扇が強く振られる度、リンと、鈴の音が舞殿の中に響き渡る。
その音はあまりに心地よく、いつまでも聴いていたいほどだった。
けれど、――留まっているわけにはいかない。
もう、死期渡しは始まってしまったのだから。
彼のもとへ、帰らなければならない。
「さようなら、シキ……」
呟くように言って、和葉は踵を返す。
石段へと戻るさなかにも、亡霊の鈴の音は凛と響き、雨中の社に木霊していた。
停留所の小屋まで戻った時には、雨は本降りとなっていた。重たい雨粒が容赦なくアスファルトを叩き、薄い水面を張って山道を流れている。
和葉は小屋の中のベンチに腰掛け、バスを待った。時刻表によれば、二十分ほどあとに最終バスが来るようだった。それならばもう少し上にいてもよかったが、この雨の中を今更、戻る気にはなれなかった。
――『シキは、恨んでいるの? ……自分を庇ってくれなかった、母親のことを』
――『なにゆえ、そのようなことを訊く』
――『それは……』
あの時、和葉は言おうとした言葉を飲み込み、誤魔化した。
本当は、訊くまでもなく、シキは自分の母親を恨んでいるのだろうと思っていた。
彼女は、和葉に死期渡しを唆す際、決まって母親の話を絡めてきていた。和葉が母親に抱いている蟠りを利用し、儀式を執り行うよう誘導しているようにも感じられた。
それはシキ自身が、自らの母親を恨んでいたからではないか、……そう和葉は考えた。
だが、シキは恨んでいるとも言いながら、愛しているとも言った。
その辺りが、和葉の中で妙な具合に引っかかっている。
彼女が死期渡しを伝え続けてきたのは、言わば彌榮への復讐なのだろう。
自らが背負った苦しみを、彌榮の子孫にも味合わせてやろうという、――どうしようもなく子供染みた、ともすれば八つ当たりとでも言えそうな動機である。
それほどの悲しみと怒り、憎しみを以て彼女は、千年という時間を生きて私怨を晴らし続けてきた。
千年、か。――二十年足らずしか生きたことのない和葉にとっては、途方もない時間である。
それほどの年月を経ても、なおも消えないシキの恨みとは、どれだけの大きさなのか、――和葉には、到底想像もつかないと思っていた。
だからこそ、分からなかった。
なぜシキは、それほどの憎悪を抱えながら、愛しているなどと言えたのか。
わずかにもそう思うことができるのであれば、千年もの歳月を繰り返して復讐をするような、悪霊もどきになど初めからならなかったのではないか。
……いや、これはすべて、和葉の推測に過ぎない。
それに、本当は分かっている。和葉がなぜ、シキの言葉に引っかかったのか。
それは、自分と同じように母を恨む彼女が、しかし自分とは違う感情について、受け入れていたからだ。
そこが自分との大きな違いであると、和葉は理解していたから……。
「ん……?」
一台の車が、停留所の前をゆっくりと通り過ぎる。
バスではなく普通車だった。こんな時間に、神社に参拝でも行くつもりだろうか、いやそもそも、車ではどのみち、途中までしか登れないが……。
そう思っていると、車は停留所の少し先で停車した。中から一人の男性が傘を差しながら降りてきて、こちらへと歩いてくる。
「……本当にいるとは、思わなかったよ」
小屋まで来た男性は、三十台後半くらいの齢で、こざっぱりとしたスーツ姿だった。真っ黒なビジネスバッグを手にしていて、いかにもまともな社会人然とした風貌だが、和葉にとっては得体が知れず、普通ならば怖ろしさを感じて逃げ出していたかもしれない。
しかし、男性の表情は、少々気になった。まるで幽霊にでも遭遇したかのような面持ちで、和葉を見ているのである。
「あの……なにか、あたしに用ですか?」
気づけば、和葉はそう訊ねてしまっていた。
「あ、ああ。そうか、……君は、私のことが分からないのか」
男性は少し、落胆したような声で言って、「それも、仕方のないことだ。私が君と会うのは、君がまだ、那月のお腹の中にいた頃以来だからね」
「え――?」
男性の言葉を聞いて、和葉はこの、まるで見覚えない男性について、一つの心当たりがあることに気づいた。
しかし、それを即座に認めることはできなかった。
あまりにも、突拍子がないことに思えてならなかったから……。
「私は、――私の名前は、
八坂那月の元夫で、……君の、父親なんだ」
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