――なにゆえ、あのような者を産んだのだ、そなたは。


 闇の中、声が響く。

 確かな怒りを孕んだ男の声だが、和葉には聞き覚えがない。

 そもそも、辺りには誰もいない。自分の姿すら確認できない。

 色彩を持たない暗い世界に、意識だけが浮遊しているような、そんな感覚だった。


 ――申し訳ありません、申し訳ありません……。


 幽かな女性の声が答える。

 涙混じりの、切実な響きをしていた。やはり誰の声なのかは分からない。

 誰だろう……なんの話をしているのだろう。


 ――片目が開かぬとは。なんと歪な。

 ――不吉な存在だ。なにゆえあのような者が姫に……。

 ――あれは悪鬼の子か、はたまた悪鬼そのものか。

 ――いずれにしても厄災をもたらす者であろう。あのような者が彌榮いやさかの子であるなど、考えられぬ。

 ――このまま見過ごしておけば、大変な事態になりかねぬぞ。


 様々な声が入り乱れ始め、和葉は困惑する。

 姿なき彼らがなにを話しているのか、まるで見当がつかない。

 だが、それらの声を聞いて和葉は――どうしてか、悲しみを覚えた。

 それは自分が抱いたものではなく、まるで別の誰かの悲しみが乗り移ったかのような、今まで感じたことのない感情の生まれ方だった。


 ――ですが、あの子はまだ……。


 再び、泣きそうな女性の声が木霊する。

 その一瞬、辺りがチカチカと明滅し、――見覚えのない和室が目に映った。

 いや、単なる和室にしては絢爛過ぎる。どこかの御宮の内装だろうか。

 和葉は目を凝らしたが、視界は急に、不安定になった。

 刹那に見えた景色は、自分のものではない別の誰かの涙によって、遮られたように見えた――。



 目を覚ますと、和葉は実家のベッドの上にいた。

「ようやっと、起きたか」

 と、シキが顔を覗き込んでくる。

「……あたし、なんで実家にいるの」

「覚えておらぬのか? そなたが自力で帰ってきたのだ。湯浴みをし、飯も食わずにここまで上がって着替え、力尽きたように眠りに就いた。余もずっと傍におったが、そなたがまったく反応せんものだから、退屈で仕方なかったぞ」

 そうシキは言うが、和葉はまったく思い出せない。

 が、彼女の言葉がでたらめとも思えなかった。

 あの病院からアパートまで帰るのは少し遠い。であれば、ひとまずこの家に泊まるという選択は充分考えられることだった。

 なにより今は、母の那月もいないのだから。気がねする必要もない。

「もう、終わったの?」

 訊ねながら、和葉は上体を起こす。「その……死期渡しの、儀式っていうの」

「まだなにもしておらぬ。そなたと余はまだ契りを交わしただけだ。前にも申したであろう? 儀を執り行う場所は別にあると」

 確かに、五十里がどうとか言っていた。

 そこまで行って儀式をしなければ、死期渡しは成立しないのだろう。和葉は深い溜め息をついた。

「そなた、まだ寝ぼけておるようだな。顔がまだ、夢でも見ているようだぞ」

「夢……」

 ――そういえば、おかしな夢を見た。

 が、上手く思い出せない。なにか、悲しい夢だった気がするけど……。

 不穏な気持ちを抱えたままベッドを下り、和葉は数ヶ月ぶりの自室を見渡した。

 三月に家を出て以来、この部屋には戻ってきていない。

 荷物の整理を行った以外はあの頃と変わらないままに見える。床の上にはほとんど埃も見当たらない。

「それで、あなたをどこに連れていけばいいの?」

「余の檜扇ひおうぎが祀られている処だ」

「檜扇……?」

「そなたの分かる言葉で申すなら、扇子といったところか。舞をより華やかにするためのな」

「それがないと、儀式はできないの?」

「左様。その扇がある処へ余を連れていけばよい。舞殿も在るゆえ、なにかと都合がよい」

「舞殿?」

「儀を執り行うため、余が舞いを披露する処と思えばよい。とは申しても、見物人はそなただけだろうがな」

「そこが、ここから五十里離れた場所にあるのね……電車だけじゃ無理そうかな」

 和葉は独りごちるように言って、「でも、その扇子ってあなたが使うためのものなんでしょう? どうしてあなたが持っていないの」

「檜扇は元々、余の存在と共にあの木箱に封印されていたものだ。のちに扇だけが舞殿に安置され、木箱から離れてしまった。今では儀の時分のみ、扇のもとへ参ることが慣例となっておる。扇さえあれば場は問わぬから、あくまで慣例に過ぎぬがな」

「なら、どのみち行くしかないわけね」

 一応納得した和葉は、壁にかかっている時計を見上げる。

 時刻は八時。窓の外は相変わらずの雨模様で日差しはないが、恐らく朝の八時だろう。

 和葉は部屋を出て、一階へと下りた。

 そのまま玄関に向かおうとしたが、リビングに入るためのドアがわずかに開いていることに気づき、足を止める。

 そういえば、那月は遺書かなにかを残して死のうとしたのだろうか。

 なんとなく気になり、リビングへと足を踏み入れる。

 中は雨戸とカーテンが締め切られ、暗くてほとんどなにも見えなかった。和葉は壁のスイッチを手探りで操作する。

 パチパチと、鈍い照明が点くと、――信じがたい光景が現れた。

「なに、これ……」

 テーブルの上に、二つ折りにされた小さな紙切れが、無数に散らばっている。

 途方もない量だった。テーブルの中央から山を成すように積まれ、床に零れて散乱しているものまである。

 和葉は困惑しつつ、床に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げる。


『晩ご飯、置いておきます

 今日も、先に食べておいて

           那月』


 ――唖然とした。

 まさかと思い、テーブルの上に紙切れを払いのけていく。

 すると中央に、ラップで包まれたコロッケサンドが露わとなった。

 つまり、この紙切れすべてが……。

「つくづく、哀れなものだな。そなたの母君は」

 嘲笑うような声が、薄暗い室内に木霊する。「そなたが出奔したことを受け入れられず、このような手紙を残し続けたのだろう。いつかそなたが、帰ってくるものと思い込んでな。

 そのように都合よく、記憶を誤魔化し続けてきた結果がこれとは、真に哀れというほかあるまい」

 シキの言う通りだと思った。

 和葉はこの異常な光景を激しく嫌悪した。怖ろしいとさえ思った。

 あの人はもう、どうしようもなくおかしくなっていたのだ。

 和葉がどうしていなくなったのか、受け入れることもせず、ただ孤独の苦しみを積もらせ――決壊した末路が、まさしくこの有り様なのだろう。

 和葉はぎゅっと唇を噛み締め、彼女が残した膨大な遺書もどきから目を逸らそうとした。

 が、テーブルの上に、紙切れではない群青色のなにかが混じっていることに気づく。

 手に取ってみるとそれは、いつか見た健康祈願の御守りだった。どうしてこんなところに……。

「では、早速参るぞ」

 と、シキが呼びかけてくる。「余の案内を頼む」

「頼むって、結局その、扇子が祀られてる場所ってどこなの」

「この地より南西に約五十里離れた、やしろのことだ」

 妖しく目を細め、シキは告げる。「社の名は、白の扇と書いて、『白扇神社』という」

「え……?」

 和葉は耳を疑った。

 だが、聞き間違いではなかった。

 その神社の名は確かに、彼女が持つ御守りに刻まれた神社と同じ名前だった。



 圭祐から電話がかかってきたのは、ちょうど駅の改札を抜けた頃だった。

『今、どこにいるんだ』

 どこか物憂げな声で、急いたように訪ねてくる。『大学には、来てないよな』

「どうかしたの」

 和葉はあえて、冷静に訊き返した。呆れたような溜め息が返ってくる。

『どうかしたのじゃねえよ。心配だったから電話したんだ……昨日、あれからどうしてたんだ? アパートにも戻ってなかっただろ?』

「実家に泊まったの。そっちの方が近かったから」

『や、それは泊まったんじゃなくて帰ったんだろ』

 妙な揚げ足取りだった。和葉は「それもそうね」と苦笑した。

『笑い事じゃねえよ。こっちがどんだけ心配したか分かってるのか?』

「ごめんなさい。もう、大丈夫だから」

『大丈夫なら、なんで大学サボってんだよ。今日の西洋哲学、試験前最後だったのに。そんなんじゃ単位落としちまうぞ』

「そう、最後だったの……まずいことしたかもね」

 和葉はなんでもなさそうに言い、「最後の講義、どんな内容だったの」

『いつも通り前回の続きと、試験範囲とか持ち込みの確認とかして、あとなんか、小説の話をしてたな』

「小説? 西洋の?」

『や、日本。森鴎外だった。タイトルは……ちょっと待って、ノート見返す』

 ごそごそと、電話から雑音がしたのち、『あった。そうそう、「高瀬舟」ってやつ』

「『高瀬舟』……」

 和葉が知らないタイトルだった。

 そもそも小説などあまり読まないから、森鴎外と言われても『舞姫』くらいしか浮かばない。

「西洋哲学なのに日本の小説の話をするなんて、変わった先生ね」

『なんか、今回までの講義と関係あるから、ついでに紹介しますって感じだった。ネットのなんとか文庫で、タダで読めるとか言ってたけど』

「青空文庫じゃない? 著作権が切れた文学作品が掲載されてるサイト」

『ああ、それそれ。さすが八坂。変なとこで物知りだな』

「高校の時、現国で紹介されてたじゃない。あなたも同じ授業受けたはずよ」

『現国? ぜってー寝てたわ、俺』

 自虐するように笑う圭祐。

 今度は和葉が呆れる番だったが、同時に、安堵もしていた。思いのほか、彼と普段通りに話せている。顔を合わせない電話なのが却ってよかったのかもしれない。

『八坂?』

 と、圭祐が呼びかけてくる。『どうしたんだ、急に黙って』

「ううん、……ありがとうね」

『は? なんだよ突然』

「ちゃんと伝えたこと、なかったと思って。色々とお世話になりっ放しだったのに、あたし、凄い恩知らずだなって」

『……や、今更だろ、そんなの』

 少し、圭祐の声が優しくなる。『八坂は、昔っからそうだったぞ』

「なら、もっと早く怒ってくれてもよかったのに」

『いいんだよ、別に。俺が好きで焼いてた世話なんだしさ。それに、俺にとっては、大きな恩を少しずつ返してるような感じだったから』

「そう……」

 和葉は申し訳なさそうにならないよう努め、「なら、もう充分よ。そもそもあたしは、恩を売ったつもりなんてない。あなたがそこまで気にすること、ないんだから」

『や、それを決めるのは八坂じゃない。俺自身だから』

 毅然と、圭祐は言い返してくる。『人の恩なんてそういうもんだろ? 知らないうちに渡し合ってんだよ。だから充分とか、そういう風に考えることじゃない』

「……そうかもしれないわね」

 和葉は静かに同調した。「あなたの言うことの方が、正しいわ。たぶんあたしは、間違ってるんだと思う」

 それでも、と続けようとして、和葉は言葉を飲み込んだ。

『……八坂、今、どこにいるんだ?』

 話すわけには、いかなかった。

 話せばまた、彼は自分を拒絶するだろう。互いにとって意味をなさない時間を生むだけだ。

 ――ごめんなさい……。

 和葉はなにも答えず、電話を切ろうとする。

 が、それよりわずかに早く、

『やっぱり、いい』

 圭祐は翻然と言って、『俺さ本当は、動揺してたんだ。八坂が力を使えば、深山が助かるかもしれないって聞いた時』

「それは……動揺して、当然よ。あたしがおかしなことを言ったから。だからあなたが、あたしを正そうとしてくれた」

『違う。俺はそんな風に考えてなかった。そんなんじゃなかったんだ』

 打ち明けるような声が、受話口からぽつぽつと零れてくる。『俺、……最初に深山が亡くなるって聞いた時、可哀想だとか思わなかった。むしろ、ホッとしていたんだ。あいつがいなくなってくれたら、そうしたら俺が……』

「……うん」

『結局さ、俺も、あの船長と一緒なんだよ……利己的で、自己中で。八坂の世話を焼いてきたのだってそうだ。全部、自分のためで……だから全然、正しくなんかない』

 吐息混じりの声に、わずかなノイズが加わる。

 そんな歪な響きさえ、和葉は聞き逃してはいけない気がした。それほど、彼の声は真に迫るものだった。

『なあ、八坂。人の正しさって、なんなんだろうな』

「……あたしにも分からない。そんなもの、どこにもないのかもしれない」

 だけど、と和葉は続け、

「あなたがどんな気持ちだったとしても、あたしが感謝していることは、やっぱり変わらない。あなたがあたしに恩を感じてくれていることと同じよ。今はそれが……それだけが、確かなことだと思う」

『……そうだな、きっと』

 ええ、と頷いて、和葉は電話を切った。

 駅構内を見渡すと、たくさんの人が目の前を行き交っている。物憂げな眼差しの和葉に気づくこともなく。

「話は、済んだのか」

 隣で退屈そうにしていたシキが訊ねてくる。「では参るぞ。あまり悠長にしていると日が暮れる」

「ええ……」

 小さな声で答え、和葉は右肩にかけていたショルダーバッグを左肩にかけ直す。壁に立てかけていたビニール傘を手にし、在来線の改札へと歩き始めた。

 ――実家から『白扇神社』までの距離は、スマホで調べてみるとおよそ二百キロメートル。まさしく五十里離れた場所にあるようだった。

 まず新幹線に乗り、在来線に乗り換え、最寄り駅で下りたあとには路線バスにも乗る必要がある。

 そのバスさえも、神社がある山の麓までしか行かないため、最終的には歩きで山を登らなくてはならない。こちらの地域は、現在こそ雨は降っていないが、夜には天気が崩れる予報だった。シキの言う通り、あまり悠長に構えている余裕はない。

 帰宅ラッシュで混み合うはずの時間帯だったが、電車の中は思ったほど混雑しておらず、席に座ることもできた。中高生が夏休みの期間に入っているからかもしれない。

 電車に揺られているさなか、シキは珍しく黙って窓の外を眺めていた。人前では話してくるなと言ったのは和葉の方だが、そんな忠告を今更守っているとも思えない。

 不思議に感じたが、理由を訊ねるわけにもいかなかった。和葉はスマホで『青空文庫』のサイトに行き、圭祐が話していた『高瀬舟』のページを開いてみた。

 数回スクロールしただけで文末に到達するような、とても短い小説だった。和葉は文頭に戻り、詰め込まれたように並ぶ文字をゆっくりと読み始めた。

『高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である』という冒頭から始まった物語は、中盤からほとんどが会話で構成されていた。たった二人の登場人物、喜助きすけ庄兵衛しょうべえの会話である。

 喜助は弟殺しの罪で島流しとなり、罪人を運ぶための舟に乗せられる。その舟の名前が高瀬舟である。

 庄兵衛は舟に同乗した護送役だが、流刑になったにもかかわらず晴れやかな顔をしている喜助を不審に思い、わけを訊ねるという話だった。

 喜助は、確かに弟を殺めていた。しかしそれは、病の苦しみに堪え切れなくなった弟が自死を望んだからで、喜助はそれを手助けした形だったのだ。

 結果、喜助は島流しとなったが、後悔はしていないようだった。けれど、その話を聞いた庄兵衛は迷いを抱き、自問を始める――苦から救うために殺めることは果たして、本当に罪であるのかを。

 小説は、その苦悩に解が出されないまま終わりを迎えた。和葉はスマホをしまい、予定の駅に着くと足早に電車を下りた。

「随分、熱心に読んでいたな」

 床を滑るように、シキが隣に並んでくる。

「なにか、思うところでもあったか?」

「あなたの方こそ……」

 声を潜めて、和葉は答える。「窓の外ばかり眺めて、そんなに珍しかったの?」

「いいや。……在りし日のことを、思い出していただけだ」

「在りし日?」

「そなたには途方もない過日だ。詮索しても仕方あるまい」

「そう。これからのバスも長いけど、話しかけてこないでね」

「それは、余の気分次第だ」

 駅を出て、タイミングよくやってきたバスに乗る。乗客はほとんどおらず、席は選び放題だった。和葉は一番後ろの席に腰掛け、窓際まで移動する。シキも、そのうちバスの中を歩き回るのだろうが、ひとまずは和葉の傍を浮遊していた。

 バスが、ゆっくりと停留所を離れ始める。

 しばらくすると橋の上を通り、大きな川が見えた。和葉は欄干付近の看板を注視したが、これは高瀬川ではなかった。無論、水面に舟も見当たらなかった。


『苦から救ってやろうと思って命を絶った。

 それが罪であろうか。

 殺したのは罪に相違ない』


 ふと、『高瀬舟』の一節が脳裏を過る。


『しかしそれが苦から救うためであったと思うと、

 そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである』


 庄兵衛の自問が、一本のナイフのように、確かな鋭さを持って和葉の胸中に突き立てられる。

 喜助の罪は、本当に罪だったのか。許されぬ殺人だったのか。

 いや、この世界に、許される殺人などあるのだろうか――。

 窓外の空では、次第に黒い雲が立ち込め始めている。

 思ったよりも早く降り始めるかもしれない。一抹の不安を抱きながら、和葉はわずかな間だけ休むつもりで目を瞑った。


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