那月が運び込まれたのは、地元の病院――和葉が骨折した際に入院したところだった。和葉は圭祐に事情を話し、二人で病院へ向かった。

 警察の話によると、通報したのは隣家の住人だという。

 朝方、庭先で作業していたところ、八坂家の庭から枝が折れるような音と、どさっという音が聞こえた。住人が見に行ってみると那月が倒れており、――彼女の首元に、ロープが巻きついていたという。

 幸いにも早い段階で枝が折れたことにより、命に別状はないとのことだった。しかし窒息のショックからか意識を失っており、病院に運び込まれた現在も目を覚ます気配がない。

 警察は和葉に対し、ここ最近の那月の様子について細かく訊ねてきた。が、和葉は「分かりません」と答える以外になかった。

 事件性はなさそうだと分かると、警察は一旦引き上げていった。和葉は圭祐と共に病室に残り、那月が目覚めるのを待った。

「もう、誰かゴールしたかな」

 重苦しい静寂の中、圭祐が時計を見上げながら言った。

「なあ、八坂?」

 彼なりに、気を紛らわせようとしたのかもしれない。

 和葉はなにも答えなかった。椅子の上で、畳んだ足を抱くようにして座っている。

 胸と膝の間にうずめた顔には、様々な思いがせめぎ合っていた。

 戸惑い、混乱、焦燥――。

 そのどれとも符合しない感情が、和葉の胸中に募っていく。何度も拳に力を込め、その数だけ床に打ちつけたくなった。いつの間にか、体は小刻みに震えていた。

「八坂……」

 無力な呼びかけを最後に、圭祐の声も止んでいた。

 二人は昼食も摂らないまま、音もなく過ぎていく時間の只中に身を置いた。

 ――それから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。

 和葉は微かな雨音に気づき、ゆっくりと上体を起こした。

 窓の外では、強い雨が降っていた。

 壁にかかっている時計を見上げると、もう夕方の四時を回っている。

 ――予報通りの、雨だ……。

 まるですべてが、誰かの計画通りだったかのように、雨が降っている。覆しようのない現実のように強く窓を叩いている。

 那月はまだ、目覚める気配がない。

 不健康に瘦せ細った首筋には、薄っすらだが確かな縊痕が残っている。和葉は歯ぎしりをして目を背けた。

 圭祐は、ベッドの前に置かれているソファに腰掛け、寝息を立てている。彼を起こさないよう慎重に歩き、和葉は病室から抜け出す。

 夏樹に、謝らなければならないと思った。理由はどうあれ、約束を破る結果となってしまったのだから。……和葉はスマホの機内モードを解除した。

 その瞬間、――大量のショートメッセージが画面に通知される。機内モードの間にかかってきていた着信通知で、午後一時半頃から二十件ほど溜まっていた。

 それらはすべて、夏樹の父親である久志からのものだった。

 悪い予感が駆け抜け、和葉はリダイヤルした。

『――八坂さんかい?』

 電話越しの久志は、やや逼迫した声を響かせた。

「あの、……なにかあったんですか」

 和葉は、恐る恐る訊ねた。

 久志は一拍置いて、

『落ち着いて聞いてほしい。――夏樹の容態が、急変した』

「……え?」

 呼吸が、止まる。

 言葉を返せない間に、久志の声が続く。

『君を見つけ出せなかったと言ったきり、その場に泣き崩れて。それから強い発作が起きてしまったんだ。今は意識を失い、危険な状態にある』

「そんな……」

 なんとか、声を絞り出す。「それじゃあ、手術は」

『今のままでは、難しいだろう。……いずれ、こういう日が来るかもしれないとは言われていた。こうなればもう、長くはないとも』

 それじゃあ、やっぱり夏樹は……。

 和葉の脳裏に、最悪の光景が甦る。

 夢のような感覚で目の当たりにした、――彼の死期を。

「八坂!」

 病室のドアが開き、圭祐が勢いよく呼びつけてくる。「那月さんが、目を……」

 和葉はハッと振り返った。久志に「かけ直します」と断って電話を切り、病室へと戻る。

 ――ベッドの上で横たわっている那月が、薄っすらと目を開いていた。

 那月は、傍らまで来た和葉を見上げるなり、

「和葉……」

 と、虚ろな声で呼びかける。

 自分がなにをしでかしたのか、まったく分かっていないような気配だった――和葉の中で、激しい怒りが湧き上がった。

「なんなのよ、あなたは」

 スマホを握っていた手に力が入り、ぎりぎりと不穏な音が立つ。「なんで、そんな風に……なんでもないみたいな、顔ができるのよ」

「私、生きてるのね」

 那月は、虫の羽音のような声で呟いただけだった。

 独り言のような物言いが、和葉をいっそう苛立たせた。

「あなた、自分がなにをしたか分かってるの? ……死のうとしたのよ、庭先で、首を吊って!」

「八坂、落ち着け――」

 圭祐が腕を掴んでくる。

 和葉は強く振り払い、「とぼけてないで答えてよ! あなたは、なにがしたかったのよ! またあたしの邪魔をしたかったの? 答えなさいよ! ねえ!」

 病室ということも忘れ、和葉は声を荒げた。

 対して、那月は怒り返すこともせず、空虚な眼差しを湛えた目を細め、

「もう、なにもないから」

 ほとんど吐息だけの声で、答える。「私には、なにも」

「……なによ、それ」

 ――和葉は拳を振りかざした。「そんなことで、こんな……ふざけないでよ!」

「八坂!」

 拳が那月の顔を捉える寸前、圭祐が和葉の体を押さえつける。

「落ち着け、八坂!」

 方角を変えられた拳が病室の壁を叩きつける。鈍い痛みが走ったが、怒りを忘れさせるほどではなかった。無理やりに圭祐の体を引き剥がし、那月に背を向けた。

「もういいわ……あなたなんか母親じゃない。一人で勝手にのたれ死んでいればいいのよ!」

 甲高い声で怒鳴りつけ、和葉は足早に病室を飛び出した。

 足がよろめき、窓際に倒れかかろうとしたが、なんとか持ちこたえて、壁伝いに廊下を歩いた。

 廊下はひとけがなく、総合病院の賑やかさとはかけ離れた、空虚な静けさで満ちていた。その静けさが、ふらつく彼女の足取りをより哀れなものにさせた。

「八坂! ちょっと、待てよ……!」

 後ろから、圭祐の声が追いかけてくる。

 和葉は、壁にもたれかかるようにして、足を止めた。

「どうしたんだよ、急に。八坂、顔色悪いし……」

「――深山君の」

 和葉は、沈んだ声で言った。「深山君の容態が、悪化したって」

「え……?」

「あの人のせいよ。あの人がまた、あたしを走れなくしたから……」

「そんなの、ただの偶然だろ! 那月さんだって、きっとなにか苦しんでたから」

「違うわ! あの人がおかしいだけなのよ……取り返しようもないほどおかしくなってしまった。それだけなのよ……」

 吐き捨てるように言って、和葉は窓の外に視線を投げた。

 強い雨が、寂れた中庭に降り注いでいる。

 庭の中心にぽっかりと空いた穴に、大きな水溜まりができているのが見えた。


 ――『この樹ね、もうすぐここから抜かれてしまうんだって、医者が言ってた』


 夏樹の声が、頭の中に木霊した。


 ――『そういうものなんだよ、きっと。生きていくということは、死んでいくということだから。それだけは、みんな変わらない』


「……なにも、変わらないのね」

 窓に拳を打ちつけ、和葉は呟く。「どんなに抗ったって、人の運命は変わりっこない。結局、そういうからくりだって言うの……?」

「八坂……」

 圭祐が、和葉の肩にそっと手を置いてきて、「戻ろう、病室に。今の那月さんには、お前が必要なはずだ」

「そんなの、知らないわ」

 みたび、圭祐の手を振り払う。「あの人のせいなのよ、なにもかも。あの人さえ、いなければ……」

 冷淡に言って、和葉はゆらゆらと歩き出す。

「八坂! おい……!」

 その悲痛な呼びかけを、和葉の耳が受け入れることはなかった。



 外は激しい雨だった。

 住宅街には雨音だけが響いていた。道行く人も、和葉以外にはいない。車すらほとんど通ることがない。

 雨水を吸ったスポーツウェアのせいで、足取りは酷く重かった。ふらついていて、今にも倒れてしまいそうだった。

 ――『もう、なにもないから』

 那月の声が、はっきりと甦る。

 その度に、振り払おうとかぶりを振るが、彼女の声は消えない。狂ったアラームのように鳴り続けている。

 ――『私には、なにも』

 和葉は、その場に膝をついた。

 暗い水溜まりに、自分の顔が反射している気がした。雨か涙か、もう分からないほどぐちゃぐちゃになった顔が。

 ――『頑張るから』

 次第に、夏樹の言葉までも混ざり始め、和葉は頭を抱えた。

 ――『八坂さんとの約束、守ってみせるから。

 だから、ほんの少しだけ、勇気を分けてほしい』

 やめて……。

 そう和葉は願ったが、歪に響く声は、消えることがない。

 ――『僕にも、走ってみたいって、そう思わせてほしいんだ』

 狂ってしまいそうだった。

 あるいはもう、自分も手遅れなのか……あの母親のように。

 和葉はその場にうずくまり、水溜まりに顔を沈めた。

 果てのない絶望感の中、彼女は無数に降り注ぐ声から逃れる傘を探し続けた。

 それは定められた運命に抗うことと同じくらい、無意味なことだった。それでも、今の彼女にはもはや、自分の力で立ち上がるほどの意思さえ生むことができないでいた。

 その時。


 ――リン。


 淀みのない鈴の音が、響き渡る。

 同時に、和葉の意識を支配していた声――また、周囲に降り注ぐ雨音さえ、聞こえなくなった。

 和葉は、ゆっくりと上体を起こし、顔を上げる。

 レースカーテンのような白雨の合間に、シキが立っていた。

 雨に濡れることのない彼女は、光のない黒い右目と、淡い銀無垢の色を宿した左目を開き、跪く和葉をジッと見つめ、――微笑んでいた。

「あなたは、知っていたんじゃないの……こうなることを」

「こうなる、とは?」朧々とした声が訊き返してくる。

「あなたには、未来が見えるんでしょ? なら、こうなるって分かっていたんじゃないの? すべて、分かっていて、あたしの前に現れたんじゃないの……」

「それは、買い被り過ぎだ。余が拝することができるのは人の死期と、記憶のみだ。あらゆる未来を読むことができるわけではない。

 それに、余は忠告したはずだ――人の定めとは、容易く変わるものではないと」

 透徹とした彼女の声が、和葉の中で重たく響く。

 和葉はなにも言い返すことができなかった。小さく俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。

「然れど、悲観するものでもあるまい」

 と、シキは言葉を継ぎ、「これでそなたは、あの男と母君、どちらかを犠牲にするのではなく、どちらも救う選択肢を得たのだから」

「え……?」

 和葉は顔を上げた。

 シキは喉を鳴らして笑いながら、一歩ずつこちらへと近づいてくる。

「そなたの母君は、自ら命を絶つ選択をした。が、あの者が今すぐ自死を遂げることは叶わぬ。その道理は、そなたにも見当がつくであろう?」

 ――『先ほど、そなたの部屋を訪れた者が母君であろう? 箱の中から覗いておったが、それなりに長命のようだった』

 死期渡しについて教えられた際、シキはそんなことも言っていた。

 加えて、人の定めが変わらないと言うのであれば――那月は、死にたくても死ねない運命にある。そう彼女は言っている。

 けれど、運命に抗って死ぬ術が、一つだけある。

 夏樹と運命を取り替えること――すなわち、死期渡しを執り行うこと。

「自らの手で喉元に刃を突き刺し、然れど抜くことができず、ただ苦痛に苛まれるだけの長い時を生きていかねばならぬ。それがそなたの母君に課せられた定めだ。

 ならばそなたの手で、刃を抜いてやればよい。死を与えてやればよい。それがそなたの母君を救い、引いてはあの男を救うことにもなる」

 音を奪われた雨の中、ゆっくりと歩み寄ってくるシキ。

 ほどなく和葉の目前で立ち止まり、いざなうように、右の手のひらを差し出してくる。

「今一度、問おう。あの男を見殺しにするか、――死期渡しを行い、そなたの母君を殺めるか。

 余は、そなたの選択に従う」

 いつかの、病室の時のように、優しい響きをした問いかけ。

 次第に周囲の風景が、淡い霧に包まれるように、白んでいく。

 残されたのは、跪く和葉と、手を差し伸べるシキの姿だけ。

 ――『僕とも、一つだけ約束してくれる?』

 再び、夏樹の言葉を思い出す。

 先ほどのような、歪な響きのない、彼本来の美しい声だった。

 ――『もし、十八歳になれたら、お互いに名前で呼び合うこと。そういう約束』

 はにかんだような微笑みと、あどけなさが残る優しい声。

 なにが正しいのか、正しくないことなのか、分からない。

 それでも、――シキと手を重ねながら、和葉はただ一心に願った。

 約束を果たしたいと。

 もう一度、彼の笑顔が見たい、声が聴きたいと。

 そう、願っていた。

「――契約、成立だ」

 幽かな声が木霊する。

 降りしきる雨が音を取り戻していく中、和葉は溺れた道の上で緩やかに昏倒した。


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