8
那月が運び込まれたのは、地元の病院――和葉が骨折した際に入院したところだった。和葉は圭祐に事情を話し、二人で病院へ向かった。
警察の話によると、通報したのは隣家の住人だという。
朝方、庭先で作業していたところ、八坂家の庭から枝が折れるような音と、どさっという音が聞こえた。住人が見に行ってみると那月が倒れており、――彼女の首元に、ロープが巻きついていたという。
幸いにも早い段階で枝が折れたことにより、命に別状はないとのことだった。しかし窒息のショックからか意識を失っており、病院に運び込まれた現在も目を覚ます気配がない。
警察は和葉に対し、ここ最近の那月の様子について細かく訊ねてきた。が、和葉は「分かりません」と答える以外になかった。
事件性はなさそうだと分かると、警察は一旦引き上げていった。和葉は圭祐と共に病室に残り、那月が目覚めるのを待った。
「もう、誰かゴールしたかな」
重苦しい静寂の中、圭祐が時計を見上げながら言った。
「なあ、八坂?」
彼なりに、気を紛らわせようとしたのかもしれない。
和葉はなにも答えなかった。椅子の上で、畳んだ足を抱くようにして座っている。
胸と膝の間にうずめた顔には、様々な思いがせめぎ合っていた。
戸惑い、混乱、焦燥――。
そのどれとも符合しない感情が、和葉の胸中に募っていく。何度も拳に力を込め、その数だけ床に打ちつけたくなった。いつの間にか、体は小刻みに震えていた。
「八坂……」
無力な呼びかけを最後に、圭祐の声も止んでいた。
二人は昼食も摂らないまま、音もなく過ぎていく時間の只中に身を置いた。
――それから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
和葉は微かな雨音に気づき、ゆっくりと上体を起こした。
窓の外では、強い雨が降っていた。
壁にかかっている時計を見上げると、もう夕方の四時を回っている。
――予報通りの、雨だ……。
まるですべてが、誰かの計画通りだったかのように、雨が降っている。覆しようのない現実のように強く窓を叩いている。
那月はまだ、目覚める気配がない。
不健康に瘦せ細った首筋には、薄っすらだが確かな縊痕が残っている。和葉は歯ぎしりをして目を背けた。
圭祐は、ベッドの前に置かれているソファに腰掛け、寝息を立てている。彼を起こさないよう慎重に歩き、和葉は病室から抜け出す。
夏樹に、謝らなければならないと思った。理由はどうあれ、約束を破る結果となってしまったのだから。……和葉はスマホの機内モードを解除した。
その瞬間、――大量のショートメッセージが画面に通知される。機内モードの間にかかってきていた着信通知で、午後一時半頃から二十件ほど溜まっていた。
それらはすべて、夏樹の父親である久志からのものだった。
悪い予感が駆け抜け、和葉はリダイヤルした。
『――八坂さんかい?』
電話越しの久志は、やや逼迫した声を響かせた。
「あの、……なにかあったんですか」
和葉は、恐る恐る訊ねた。
久志は一拍置いて、
『落ち着いて聞いてほしい。――夏樹の容態が、急変した』
「……え?」
呼吸が、止まる。
言葉を返せない間に、久志の声が続く。
『君を見つけ出せなかったと言ったきり、その場に泣き崩れて。それから強い発作が起きてしまったんだ。今は意識を失い、危険な状態にある』
「そんな……」
なんとか、声を絞り出す。「それじゃあ、手術は」
『今のままでは、難しいだろう。……いずれ、こういう日が来るかもしれないとは言われていた。こうなればもう、長くはないとも』
それじゃあ、やっぱり夏樹は……。
和葉の脳裏に、最悪の光景が甦る。
夢のような感覚で目の当たりにした、――彼の死期を。
「八坂!」
病室のドアが開き、圭祐が勢いよく呼びつけてくる。「那月さんが、目を……」
和葉はハッと振り返った。久志に「かけ直します」と断って電話を切り、病室へと戻る。
――ベッドの上で横たわっている那月が、薄っすらと目を開いていた。
那月は、傍らまで来た和葉を見上げるなり、
「和葉……」
と、虚ろな声で呼びかける。
自分がなにをしでかしたのか、まったく分かっていないような気配だった――和葉の中で、激しい怒りが湧き上がった。
「なんなのよ、あなたは」
スマホを握っていた手に力が入り、ぎりぎりと不穏な音が立つ。「なんで、そんな風に……なんでもないみたいな、顔ができるのよ」
「私、生きてるのね」
那月は、虫の羽音のような声で呟いただけだった。
独り言のような物言いが、和葉をいっそう苛立たせた。
「あなた、自分がなにをしたか分かってるの? ……死のうとしたのよ、庭先で、首を吊って!」
「八坂、落ち着け――」
圭祐が腕を掴んでくる。
和葉は強く振り払い、「とぼけてないで答えてよ! あなたは、なにがしたかったのよ! またあたしの邪魔をしたかったの? 答えなさいよ! ねえ!」
病室ということも忘れ、和葉は声を荒げた。
対して、那月は怒り返すこともせず、空虚な眼差しを湛えた目を細め、
「もう、なにもないから」
ほとんど吐息だけの声で、答える。「私には、なにも」
「……なによ、それ」
――和葉は拳を振りかざした。「そんなことで、こんな……ふざけないでよ!」
「八坂!」
拳が那月の顔を捉える寸前、圭祐が和葉の体を押さえつける。
「落ち着け、八坂!」
方角を変えられた拳が病室の壁を叩きつける。鈍い痛みが走ったが、怒りを忘れさせるほどではなかった。無理やりに圭祐の体を引き剥がし、那月に背を向けた。
「もういいわ……あなたなんか母親じゃない。一人で勝手にのたれ死んでいればいいのよ!」
甲高い声で怒鳴りつけ、和葉は足早に病室を飛び出した。
足がよろめき、窓際に倒れかかろうとしたが、なんとか持ちこたえて、壁伝いに廊下を歩いた。
廊下はひとけがなく、総合病院の賑やかさとはかけ離れた、空虚な静けさで満ちていた。その静けさが、ふらつく彼女の足取りをより哀れなものにさせた。
「八坂! ちょっと、待てよ……!」
後ろから、圭祐の声が追いかけてくる。
和葉は、壁にもたれかかるようにして、足を止めた。
「どうしたんだよ、急に。八坂、顔色悪いし……」
「――深山君の」
和葉は、沈んだ声で言った。「深山君の容態が、悪化したって」
「え……?」
「あの人のせいよ。あの人がまた、あたしを走れなくしたから……」
「そんなの、ただの偶然だろ! 那月さんだって、きっとなにか苦しんでたから」
「違うわ! あの人がおかしいだけなのよ……取り返しようもないほどおかしくなってしまった。それだけなのよ……」
吐き捨てるように言って、和葉は窓の外に視線を投げた。
強い雨が、寂れた中庭に降り注いでいる。
庭の中心にぽっかりと空いた穴に、大きな水溜まりができているのが見えた。
――『この樹ね、もうすぐここから抜かれてしまうんだって、医者が言ってた』
夏樹の声が、頭の中に木霊した。
――『そういうものなんだよ、きっと。生きていくということは、死んでいくということだから。それだけは、みんな変わらない』
「……なにも、変わらないのね」
窓に拳を打ちつけ、和葉は呟く。「どんなに抗ったって、人の運命は変わりっこない。結局、そういうからくりだって言うの……?」
「八坂……」
圭祐が、和葉の肩にそっと手を置いてきて、「戻ろう、病室に。今の那月さんには、お前が必要なはずだ」
「そんなの、知らないわ」
みたび、圭祐の手を振り払う。「あの人のせいなのよ、なにもかも。あの人さえ、いなければ……」
冷淡に言って、和葉はゆらゆらと歩き出す。
「八坂! おい……!」
その悲痛な呼びかけを、和葉の耳が受け入れることはなかった。
外は激しい雨だった。
住宅街には雨音だけが響いていた。道行く人も、和葉以外にはいない。車すらほとんど通ることがない。
雨水を吸ったスポーツウェアのせいで、足取りは酷く重かった。ふらついていて、今にも倒れてしまいそうだった。
――『もう、なにもないから』
那月の声が、はっきりと甦る。
その度に、振り払おうとかぶりを振るが、彼女の声は消えない。狂ったアラームのように鳴り続けている。
――『私には、なにも』
和葉は、その場に膝をついた。
暗い水溜まりに、自分の顔が反射している気がした。雨か涙か、もう分からないほどぐちゃぐちゃになった顔が。
――『頑張るから』
次第に、夏樹の言葉までも混ざり始め、和葉は頭を抱えた。
――『八坂さんとの約束、守ってみせるから。
だから、ほんの少しだけ、勇気を分けてほしい』
やめて……。
そう和葉は願ったが、歪に響く声は、消えることがない。
――『僕にも、走ってみたいって、そう思わせてほしいんだ』
狂ってしまいそうだった。
あるいはもう、自分も手遅れなのか……あの母親のように。
和葉はその場にうずくまり、水溜まりに顔を沈めた。
果てのない絶望感の中、彼女は無数に降り注ぐ声から逃れる傘を探し続けた。
それは定められた運命に抗うことと同じくらい、無意味なことだった。それでも、今の彼女にはもはや、自分の力で立ち上がるほどの意思さえ生むことができないでいた。
その時。
――リン。
淀みのない鈴の音が、響き渡る。
同時に、和葉の意識を支配していた声――また、周囲に降り注ぐ雨音さえ、聞こえなくなった。
和葉は、ゆっくりと上体を起こし、顔を上げる。
レースカーテンのような白雨の合間に、シキが立っていた。
雨に濡れることのない彼女は、光のない黒い右目と、淡い銀無垢の色を宿した左目を開き、跪く和葉をジッと見つめ、――微笑んでいた。
「あなたは、知っていたんじゃないの……こうなることを」
「こうなる、とは?」朧々とした声が訊き返してくる。
「あなたには、未来が見えるんでしょ? なら、こうなるって分かっていたんじゃないの? すべて、分かっていて、あたしの前に現れたんじゃないの……」
「それは、買い被り過ぎだ。余が拝することができるのは人の死期と、記憶のみだ。あらゆる未来を読むことができるわけではない。
それに、余は忠告したはずだ――人の定めとは、容易く変わるものではないと」
透徹とした彼女の声が、和葉の中で重たく響く。
和葉はなにも言い返すことができなかった。小さく俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
「然れど、悲観するものでもあるまい」
と、シキは言葉を継ぎ、「これでそなたは、あの男と母君、どちらかを犠牲にするのではなく、どちらも救う選択肢を得たのだから」
「え……?」
和葉は顔を上げた。
シキは喉を鳴らして笑いながら、一歩ずつこちらへと近づいてくる。
「そなたの母君は、自ら命を絶つ選択をした。が、あの者が今すぐ自死を遂げることは叶わぬ。その道理は、そなたにも見当がつくであろう?」
――『先ほど、そなたの部屋を訪れた者が母君であろう? 箱の中から覗いておったが、それなりに長命のようだった』
死期渡しについて教えられた際、シキはそんなことも言っていた。
加えて、人の定めが変わらないと言うのであれば――那月は、死にたくても死ねない運命にある。そう彼女は言っている。
けれど、運命に抗って死ぬ術が、一つだけある。
夏樹と運命を取り替えること――すなわち、死期渡しを執り行うこと。
「自らの手で喉元に刃を突き刺し、然れど抜くことができず、ただ苦痛に苛まれるだけの長い時を生きていかねばならぬ。それがそなたの母君に課せられた定めだ。
ならばそなたの手で、刃を抜いてやればよい。死を与えてやればよい。それがそなたの母君を救い、引いてはあの男を救うことにもなる」
音を奪われた雨の中、ゆっくりと歩み寄ってくるシキ。
ほどなく和葉の目前で立ち止まり、
「今一度、問おう。あの男を見殺しにするか、――死期渡しを行い、そなたの母君を殺めるか。
余は、そなたの選択に従う」
いつかの、病室の時のように、優しい響きをした問いかけ。
次第に周囲の風景が、淡い霧に包まれるように、白んでいく。
残されたのは、跪く和葉と、手を差し伸べるシキの姿だけ。
――『僕とも、一つだけ約束してくれる?』
再び、夏樹の言葉を思い出す。
先ほどのような、歪な響きのない、彼本来の美しい声だった。
――『もし、十八歳になれたら、お互いに名前で呼び合うこと。そういう約束』
はにかんだような微笑みと、あどけなさが残る優しい声。
なにが正しいのか、正しくないことなのか、分からない。
それでも、――シキと手を重ねながら、和葉はただ一心に願った。
約束を果たしたいと。
もう一度、彼の笑顔が見たい、声が聴きたいと。
そう、願っていた。
「――契約、成立だ」
幽かな声が木霊する。
降りしきる雨が音を取り戻していく中、和葉は溺れた道の上で緩やかに昏倒した。
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