7
マラソン大会までの日々、和葉は以前にも増して練習に精を出した。
相変わらず梅雨は明け切らず、不安定な天候が続いていた。しかし夜は比較的、降っていないことが多かった。平日はアパートの周辺を走り込んだり、休日は三駅離れた街にある陸上競技場まで行ってタイムを測ったりした。
「高校の時と比べると、左腕の振り方が足りてない気がする」
カメラの画面を確認しながら、圭祐がアドバイスをする。「その辺、もうちょっと意識してみたら?」
圭祐はできる限りの時間、和葉の練習に付き添ってくれた。
タイムの計測、一眼レフカメラの機能をフル活用したフォームチェックなど、思いのほか親身になって手伝ってくれている。
「別にスマホのカメラでもいいのよ? わざわざそんな、高いカメラを持ち出さなくても」
「や、そんなの写真部のプライドが許さねえし。画質いい方が、八坂もあとから確認しやすいだろ?」
「まあ、あなたがいいなら、別にいいけど……」
病院での出来事について、圭祐の方から話題にしてくることはなかった。
これまでとは違う妙な距離感はあるものの、今は和葉が走りに集中できるよう、気を遣ってくれているようにも思えた。
「にしてもさ、ここまでガチで頑張る必要あるのか?」
「大会に出る以上、一番になりたいと思うのは当然のことでしょう?」
「本当にそれだけかよ」
「なにが言いたいの?」
「や、別に」
不服そうに言うと、圭祐は和葉の足を軽く蹴ってくる。
「ちょっと、なにするのよ」
という和葉の不満には応じず、
「ま、いいけどな。こういうの、なんか懐かしいし」
圭祐はどこか、寂しげに呟いていた。
それでも、カメラの撮影履歴を確認している彼の横顔は、どことなく楽しそうにも見える。
和葉は一抹の申し訳なさを覚えたが、それを口にすればまた蹴られるような気がして、口を噤んだ。
シキには、死期渡しを行わないことを告げた。
和葉の話を聞き終えると、和服姿の亡霊はいつもの優雅な笑みを仕舞い、
「あれほど疎ましく思う母君のことを、そなたは庇うと申すのか……最愛の者を見殺しにしてまでも」
「別に、そういうわけじゃないわ」
和葉はまっすぐにシキを見つめた。「あの人を庇うわけでもないし、深山君を見殺しにするわけでもない」
「では、どういう了見なのだ」
「ただ信じたいだけよ。運命は変えられるって。奇跡は、起こせるものなんだって」
力強く、和葉は答えた。
夏樹の手術は、七月二十五日に行われることが決まっている。それは誕生日の前日であり、マラソン大会の翌日でもある日だ。
その手術が成功すれば、運命は変わるかもしれない。――和葉はそう考えていた。
シキは頷くことも、かぶりを振ることもせず、
「人の定めとは、そう容易く変わるものではない」
「なら、変わることもあるということでしょう?」
「絶無とは申さぬ。現に死期渡しを行い、運命を変えた者も数多おる。そういう意味では肯定する」
皮肉っぽく、シキは言った。「そなたがそのように申すのなら、再び、あの男の死期を読み直すこともするが」
「ううん。もう、あなたには頼らないわ」
「ならば、余が消えることもないぞ。そなたはそれでよいのか」
「その時はその時よ。あなたを成仏させるほかの方法を探すか、それが見つからなければ……一生あたしだけの話し相手にでもなってもらうかよ」
和葉の言葉に、シキは呆気に取られたような顔になる。
が、ほどなく相好を崩し、
「くく。それも、悪くはない」
と、囁くように言った。
その際の笑みは、シキがこれまで見せたことのないものだった。
寂しさか、あるいは切なさか――そんなものを滲ませているような気がした。
――七月二十四日。
大会当日の朝、雨は降っていなかった。
「午前中はなんとか持つみたいだな」
スマホの天気予報を見ながら、圭祐が言う。「午後からは雨らしいけど」
「それなら問題なさそうね」
和葉は地べたに座り、シューズの紐を結び直している。「お昼までには終わる予定だし、もし降っても、小雨くらいなら最後までやれるでしょう」
二人は、スタート地点である陸上競技場に集合し、今はサブトラックの木陰に移動していた。
時刻は朝の九時で、スタートは十時からとなっている。トラックでは何人かのランナーたちがウォームアップを始めていた。
「曇ってるから気温はそうでもないけど、湿気があって嫌な感じだな」
「この時季は仕方ないわ。三キロごとに給水地点があるから、条件としては悪くないはずよ」
和葉はポジティブに答えた。
今回のレース距離は十キロメートル。和葉にとっては高校時代の練習で走ったことはあるものの、大会では一度も経験していない長距離となる。
「さっき、パンフレット見たんだけど」
圭祐が、スマホをポケットに仕舞いながら、「出場者は九十人弱。市内巡りって名目のマラソンだから、大半は思い出出場で飛ばしてこないと思う」
「そうね。でも、去年の一位は三十七分台で、しかも上位十人は四十分以内にゴールしてる。気温や不快指数を考慮すれば、上位陣はかなりハイレベルな争いよ」
「三十七分台って……」
圭祐がぎょっとした表情になる。「下手すりゃインカレに出れるレベルだろ、それ……ていうか、八坂の一万メートルのベストも、確か三十七分くらいだったよな?」
「よく覚えてるのね」
和葉は感心したように言った。「まあ一万メートルはトラックで、十キロはロードって違いがあるから、単純な比較はできないけど。ロードの方が、普通はいい記録になるわ」
でも、と和葉は続け、
「今のあたしが、三十七分台で十キロをゴールできると思う?」
「や、無理。間違いなく」
圭祐は断言し、「圧倒的に練習が足りてない。スピード感覚は衰えてなかったけど、肝心のペースメイクがな……」
「そう、たぶん体力が持たない。現時点のベストを出すなら、初めから一位を諦めるつもりで走っていくのが理想的よ」
「だな。俺もそれしかないと思う。最初から諦めるって、悔しいけどさ」
「――だけどね」
和葉は頷かなかった。「今日は最初から、全力でいこうと思う」
「や、なに言ってんだ八坂? 自分で持たないって言ったばっかじゃん」
「一位でゴールはたぶん無理よ。でも、あたしの目的はゴールじゃない……深山君が見ている前で、一番に駆け抜けてくることだから」
レースの距離は十キロメートル。
しかし夏樹のいる病院は、およそ七キロメートル地点にある。
――すなわち、病院の前を通る間さえ、一位になっていればいい。
それで、夏樹との約束を果たしたことになる。
「なんだよそれ。そこまで死ぬ気で走って、病院通り過ぎたらもういいってわけか?」
溜め息をつきながら、圭祐は毒づいた。
「なんとでも言って」
和葉は小さく苦笑を零す。「で、どう思う? 七キロまでなら」
圭祐は悩むように腕を組み、「五キロくらいまでなら、いけると思うけど」
「その先は?」
「知らねえよ、そんなの」
吐き捨てるように言って、圭祐は背を向けた。「ま、奇跡とか起きれば、いけるんじゃねえの?」
「奇跡ね……その程度の奇跡なら、自分の力だけで起こさないと」
呟くように言って、和葉は座ったまま準備運動を始める。「――あなたは、なんのために走ってたのか、考えたことある?」
「なんだよ、突然」
「別に。モチベーションを上げる一環だと思って付き合ってよ」
「や、そんなこと言われてもなぁ……」
圭祐は再び和葉に向き直り、「なんのために走ってたかって、部活の時にってことか?」
「そう。難しいなら、走り始めた理由でも構わないわ」
「俺は中学からだけど、友達に誘われてって理由だな。前から足速かったし、ほかにやりたいこともなかったから。なんとなく始めたっていうか」
「そう」
「や、でも……」
と、圭祐はわずかに俯き、「中三の時、――親父が死んでからは、少し意識が変わったかも」
「どんな風に?」
「なんていうか、それまでは、走ってることなんて日常に過ぎなかったけど、親父が死んでからは、なんかすげえ特別なことみたいに思うようになったんだ……いつだって人は、明日どうなるか分からない中で生きてて、だから何事もなく走ることができている今って、めちゃくちゃ奇跡なのかもって。生きてるから走れるっていうか、思い切り走ってることが、生きてる証みたいな」
「走ることが、生きてる証……」
「ああ……まあ、俺は馬鹿だったし、陸上の特待でも取らないと行きたい高校行けないかもって感じだったから、……お袋にも、あんまし負担かけられないと思ったから、それで頑張らなきゃって思ったのも事実だけどな」
照れくさそうに話す圭祐を見て、和葉はほんの少し、当時のことを思い出した。
確かに圭祐は、中三になってぐんとタイムを伸ばしていた。その結果、チームでも一、二を争うランナーになり、私立の強豪校から声がかかるまでになっていた。
――圭祐はあの頃から、走る理由を見出していたのだ。
「そう……あなたは、お母さんのために走っていたのね」
「そんな風にまとめるなよ。なんか恥ずいだろ」
少しだけはにかみながら、圭祐は言った。「ぶっちゃけたこと言うと俺、どうしてもあの高校に行きたかったんだ」
「私立の特待取って、お母さんを楽させたっかんでしょう?」
「や、それもあったけど。……ここまで言って気づかないって、もしかしてわざとやってるのか?」
「わざと?」
和葉には、なんのことか見当がつかない。
圭祐は呆れ果てたように溜め息をつき、
「や、だから、どうしてもあの高校じゃないとダメだったんだよ……八坂が、先にあそこの特待、もらってるって聞いたから」
そこまで言われて、和葉はハッとなった。それから思わず視線を逸らす。
――つまり、彼が走ってた理由は……。
「おい、今更黙んなよ」
バツが悪そうな声が飛んでくる。「ていうか、俺だけこんな話するの、おかしくないか?」
「おかしい?」
「八坂も教えろよ、走ってた理由。それで対等に恥ずくなれるだろ?」
「なによ、対等に恥ずくなるって」
和葉は苦笑いを零し、「でも、あたしは無理よ。あなたみたいに立派な理由なんかなかったから」
「や、そうやって逃げるの、なしだから」
「なかったものは仕方ないでしょ。中学でも高校でも、ただ部活だから、そうしなきゃいけないから走ってただけなのよ。今までは間違いなくそうだった。……だけどね」
和葉は、近くに置いていたスポーツドリンクを一口飲み、「今日だけは、違う。あたしには、走る理由がある。たったそれだけのことが、どうしてか堪らなく嬉しい気がするの――これもあなたの言う、生きてる証ってことなのかも」
「八坂……」
力なく呟いたのち、圭祐がこぢんまりと苦笑する。「ったく、妬いちまうな、くそ」
「ごめんなさい。――でも、モチベーション上げももうお終いだから」
そう答え、和葉は立ち上がる。「時間よ。そろそろアップに行きましょう」
ぐっと伸びをしながら、トラックまで歩き始める和葉。
が、すぐに立ち止まり、ジャージの右ポケットに手を突っ込んだ。
「どうした?」
隣に追いついてきた圭祐が訊く。
「いえ、スマホを入れっ放しだったから」
「もう走るわけだし、バッグの中に仕舞っとけよ」
「ええ……」
そうして踵を返そうとした時、――スマホが振動した。
画面には、知らない番号が表示されていた。不思議に思いつつ、和葉は電話に出る。
『――八坂和葉さんのお電話でしょうか?』
聞き覚えのない女性の声だった。和葉は思わず「そうですけど」と答えた。
『突然のお電話、恐れ入ります。こちら、××警察署の者ですが』
女性は、酷く落ち着いた声で、用件を話した。『今朝未明、八坂那月さんが自宅の庭で自殺未遂を起こした件について、お話をうかがいたく思います。
つきましては至急、指定した病院まで来ていただくことは可能でしょうか――』
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