6
土曜日。
圭祐との約束を果たすため、和葉はまた総合病院へ向かっていた。
シキは、今日はついてこなかった。
和葉がいない時、彼女がどこでどのように過ごしているのかは分からない。現代の街並みを知るために物見遊山でもしているのだろうか。
駅の外は小雨がぱらついていた。空を見ると一面鉛色で、すぐには止みそうにない。
和葉は病院までの道のり、バス停二つ分くらいの距離を、息が切れない程度のスピードで走った。
病院の敷地内にあるバス停まで駆け込むと、ちょうど到着したバスから圭祐が降りてきていた。
「ちょ、八坂。走ってきたのか?」
案の定、目を丸くする圭祐。
和葉は服についた雫を払いながら、
「駅からね。傘、持ってきてなかったから」
「持ってきとけよ。まだ梅雨明けしてないんだから」
「最近は、降り止んでることもあったし」
「や、そんなんに騙されてたらダメだって。ちゃんと予報確認しないと」
圭祐はポケットからハンカチを取り出すと、和葉の右頬に当ててくる。どうやら雨の雫が残っていたらしい。
「あ、ありがとう……」
「や、別に。服で拭いたらまた濡れるだろ?」
なんでもないように笑う圭祐。
和葉は「そうね」とぶっきらぼうに返し、病院の入り口へ向かった。
圭祐もすぐに、隣まで並んでくる。
「で、どこ行くんだ? 誰かのお見舞い?」
「まあ、そんなとこ」
「その人がいないと、話せないことなのか?」
矢継ぎ早な問いかけに、和葉はなにも答えなかった。
ひとまず受付を済ませ、圭祐と共にエレベーターに乗った。
「なあ、そろそろ教えろよ。誰と会うんだよ」
エレベーターの中でも、圭祐は子供のように訊ね続けてくる。
和葉は観念したように息をつき、「あたしの、入院仲間だった人」
「なんだそれ」
「会ってくれれば分かるわ」
「……ああ、もしかして骨折してた時に知り合ったとか? でも、あの時はここの病院じゃなかったよな」
圭祐の声は、どこか不安そうだった。
エレベーターを出て廊下を進み、夏樹の病室へと向かう。
扉の前まで来ると、圭祐がネームプレートを見て、「深山、……夏樹?」
「まさか、知ってるの?」
「や、違うくて。確か八坂のお母さんも、『なつき』って言うんじゃなかったかなと思って」
「……ええ。字は違うけどね」
和葉はいつものようにドアをノックした。中から「はい」と声がしたのを確認してから、ドアをスライドさせて室内へと入る。
夏樹はリクライニングベッドの角度を変え、背をもたれさせて座っていた。
「あ、八坂さん。……と?」
案の定、和葉の後ろにいる圭祐を見て首を傾げている。「どちら様?」
「あ、不破圭祐です。えっと、八坂の――」
「大学の友達なの」
圭祐が言い切る前に、和葉が補足する。「深山君、あんまり友達がいないって言ってたから。紹介したいと思って」
「そうなんだ。あんまりって言うか、全然いないんだけどね」
自虐っぽく言って、微笑む夏樹。
圭祐の方は、困惑気味ではあったが、和葉が椅子に座ると、彼もつられたように隣の椅子に腰を下ろしていた。
「あ、僕は深山です。深山夏樹」
思い出したように、夏樹が自己紹介をする。「八坂さんとは、ええと、なんて言ったらいいのかな」
「入院仲間だって言ってあるわ」
夏樹に答えると、和葉は圭祐の方を見て、「あたしが骨折してた時、深山君も同じ病院にいたの。彼の方は今年になって、こっちの病院に移ったんだけど」
「そう、なのか」
わずかに戸惑ったような声で圭祐は言って、「その、深山君は、どうして八坂と知り合ったんだ?」
「どうして?」夏樹が小首を傾げる。
「や、転院してからも八坂が見舞いに来てるってことは、結構仲いいのかなって。不思議に思って」
「そっか」
と、夏樹は微笑みながら目を伏せ、「八坂さんは、僕の特等席に座ってた人なんだ」
「特等席?」
「うん。前の病院の、中庭。真ん中にある大きな樹が見上げられる、三人掛けのベンチ」
懐かしむように言って、夏樹が和葉を見る。「ねえ、八坂さん」
「なに?」
「話しても、いいんだよね」
「……ええ。約束のこと以外はね」
気恥ずかしそうに許す和葉。
夏樹も少しはにかみ、圭祐に和葉との出会いについて話し始めた。
落ち着いた口調で話す夏樹は、どこか幸せそうな表情をしている。歳の近い男子と話せるのが嬉しいのだろうか。和葉はそんなことを考えた。
聞き手の圭祐も、病室に入った時よりは表情が和らいでいるようだった。
けれど時折、戸惑ったように夏樹から視線を逸らしたりもしていた。和葉の方を見ようとすることもあったが、目を合わせるまではせず、誤魔化すように小さく相槌を打ったりしている。
――やはり、ここへ連れてくるべきではなかったのだろう。
夏樹と会えば、圭祐は少なからず傷ついてしまう。そんな予感がしていた。
しかし会わせずにいることも、遠からず彼を傷つける気がしていた。
そんな風に思うこともまた、逃げていることになるのだろうか。
明確に答えを出すこと、――選択するという行為から。
「今度は、こっちから訊いてもいい?」
一通り語り終えたあと、夏樹が訊ねる。「不破君と八坂さんは、大学でどんな風に知り合ったの?」
「や、俺と八坂は、中学の時からの友達っていうか、部活が同じで」
「やっぱり、そうだったんだ」
「やっぱり?」
「なんとなく、二人は長い時間一緒だったんだろうなって。そう感じたから」
なにか納得したように言うと、夏樹は和葉に目を向け、「そういえば大会、もうすぐだよね」
「ええ、そうね」
和葉が頷くと、隣で圭祐が「大会?」と疑問を零す。
「八坂さん、この近くであるマラソン大会に出るんだよ。僕が、出てほしいって頼んで」
と、夏樹が説明する。「八坂さんが走ってるとこが見たくて。その大会、走ってる人が病室からでも見えるらしいから」
「そうなのか……」
小さな声で言って、圭祐は顔を俯かせる。
「不破君? どうかしたの」
と、夏樹が心配すると、圭祐はハッと顔を上げ、
「や、なんでもない、なんでもない」
なにかを誤魔化すような圭祐の姿に、和葉はちくりとした胸の痛みを感じていた。
雨脚が、少しだけ強まっていた。
和葉はどう帰ろうか迷っていた。圭祐はまたバスに乗るらしく、バス停のベンチに座って到着を待っている。
和葉もひとまずバス停にいたが、圭祐との間に会話はなかった。いつもなら、和葉が黙っていても向こうから話しかけてくるはずなのに。
「次のバスまで、あと十五分くらいね」
沈黙に堪えかね、和葉はぶっきらぼうに言った。「ちょっと、タイミングが悪かったわね」
「そうだな」
圭祐はすぐに答えてくれた。
けれど必要最低限の返事しかなく、会話は続きそうになかった。鳴り止みそうにない雨音が互いの空虚な間を満たしていく。
――このまま、降り止んでくれないのだろうか。
そう、和葉が空を仰いだ時だった。
「不思議な奴だったな」
と、圭祐が口を開いた。「肌とか、めちゃくちゃ白いし」
「ええ……」
和葉はわずかにどもりつつ、「あんまり、日焼けすることもないでしょうしね」
「八坂は、あいつのために、また走り始めたのか」
「そういうことになるのかな……」
なぜだか、曖昧に頷いてしまう。
圭祐はほとんど声を出さずに苦笑し、
「八坂がなんで、俺をあいつに会わせたのか、分かった気がするよ。それと、なにを気にしてたのかも」
そう呟くように言って、天を仰いだ。「なんか、滑稽に思えてくるよ。八坂は、俺がなんべん誘ったって、全然走ってくれなかったのに」
「いつの話よ」
「八坂のギプスが取れた頃、散々誘っただろ? リハビリがてら一緒に走ろうとか、大学に入る前だって、陸上やらないのか訊いたし」
「そういえば、そうだったかも」
「や、だから、かもじゃなくてさぁ……」
突然、圭祐が声を詰まらせる。「言ってたよ、俺。ちゃんと」
「そうね……ごめんなさい」
和葉は申し訳なさそうに答え、「でも、あの時は部活を引退したばかりで、走る気になんてなれなかったから。タイミングが、悪かったのよ」
「嘘だろ、そんなの」
存外、圭祐は鋭さのある声音で言う。「あいつの――深山の頼みだから走ることにした。そうなんだろ?」
「それは……」
「深山のこと、……好きなんだな」
問いかけるように、圭祐は言った。
和葉はしばらく言葉を探すふりをしたのち、「約束したの。彼と」
「約束?」
「深山君が十八歳になったら、一緒に走ること、――そして、お互いに名前で呼び合うこと」
「……なんだよ、それ」
ぎゅっと、圭祐が唇を噛んだのが分かった。「どっちも、全然大したことじゃないじゃん。しかも十八になったらって、そんな待ってるだけでいいようなことが条件なんて――」
「それが、そうでもないの。現実はそう綺麗にできあがっていないのよ」
「はあ?」
圭祐が、怪訝な目を向けてくる。
悲しみと戸惑いが入り混じった、どこまでも素直な瞳だった。
「深山君の誕生日は、七月二十六日。あと一ヶ月で、彼は十八歳になる」
和葉は、わずかに唇を震わせ、「……そして、死ぬの」
「死ぬ……?」
圭祐の戸惑いが強くなる。「なに言ってんだよ、八坂。そんなの、なんで八坂が言い切れるんだ」
「なんでかって言われたら、あたしにもよく分からないけど……でも、そうなるって分かってしまったの。死期っていう、その人の命が尽きてしまう日が分かる不思議な力……それで、深山君の死期を見てしまったの」
そこまで言って、和葉はバツが悪そうに俯いた。「……ううん、信じるわけないわよね、こんな話。どう考えても現実的じゃない」
「……や、信じてもやってもいいぞ、俺」
「え?」
予想外の返答だった。ハッと圭祐を見る。
彼は気鬱げな微苦笑を浮かべながら、「八坂は、そういう系の冗談言わないだろ?」
「それは、そうだけど」
「で? あいつはもう、絶対に助からないのか? 本当に、あと一ヶ月で……」
「このまま、なにもしなければね。あの病室で息を引き取るわ」
でも、と和葉は続け、「一つだけ、助ける方法がある」
「方法?」
「今、あたしが知っている力はもう一つあるの。ある条件を満たしている二人の死期を渡し合う力……それを使えば、深山君とほかの誰かの死期を取り替えることができる。そうすれば、深山君は助かる」
「取り替えるって。あいつのために、別の誰かを犠牲にするってことか?」
信じられないと言った表情を向けられ、和葉は口を噤む。犠牲という彼の言葉を、否定することができない。
「その、条件ってなんなんだ?」
問いを重ねる圭祐。
和葉は微かに俯き、「……名前の読みが、同じ二人よ」
すぐに圭祐が、ぞっとしたような顔になった。
「八坂、まさかお前……」
「あなたは、言ってくれたわよね。悩みがあるなら教えろって」
目を合わせないようにしながら、和葉は言った。「だから教えてあげたのよ。あなたが知りたがった、あたしの悩み……」
「正気じゃないよな? そんなのって」
「許されないことなのは、分かっているわ。でも、ほかにどうしようもないのよ。このままなにもしなければ、あたしは深山君を、……大切な人を、見殺しにすることになる」
「だからって、自分の母親をだなんて」
「じゃあもう、どうすればいいの? なにを犠牲にして、深山君を助ければいいのよ」
自然と、語気に力が入る。「見も知らない人? 死刑になってもおかしくないような犯罪者? それならあたしは許されるの? ねえ教えてよ、あたしは、これ以上どうしたら――」
「八坂!」
強い呼びかけ共に、両肩を掴まれる。
和葉はハッとなり、力なくベンチに腰を落とした。
「八坂。……もう、いいから」
そう掠れ声で言うと、彼はぽんと和葉の頭に手を載せてくる。
少しだけ、ぎこちない手つきに感じられた。
「信じるって言ったことは取り下げない。だから、八坂にそういう力があるって前提で言うぞ」
圭祐はその場にしゃがみ、和葉と目線を合わせ、「どうしようもないことなんて、そんなの、当たり前じゃないか。だって、人の死って、そういうもののはずだろ? ほかの誰かと取り替えるなんて、していいわけがない」
「ええ……」
「それに、もし本当にあいつが死んだとしても、元からそういう運命だっただけだろ? そんなの、ほんとにどうしようもねえんだから。八坂が見殺しにしたなんて思うことじゃない……事故みたいな、ものなんだから」
事故、という言葉で、圭祐の声が震えたのが分かった。「だけどその力を使えば、八坂ははっきりと人殺しになるぞ。たとえそれで深山が助かるんだとしても。それでも八坂は、なんとも思わずに過ごしていけると思うのか?」
「記憶は、消えるのよ。その力を使ったことも、犠牲にした相手のことも。だから――」
その言葉で、圭祐はいっそう険しい顔になる。
答えてしまった和葉でさえ、どうして自分がこんなことを言っているのか、信じられない気持ちだった。
「それなら、なおのことダメだろ。そんな酷いことして、都合よく忘れて生きていくなんて……」
ほどなく、バスが停留所にやってくる。
圭祐は乗り込もうと腰を上げたが、和葉は立ち上がることができないでいた。
「八坂は、乗らないのか?」
「あたしは……」
目を合わせないまま、和葉は答える。「駅まで、歩くから。雨が止むのを待つわ」
「そうか」
寂しそうに言って、圭祐は乗車口のステップを上がっていく。「今日はたぶん、止まないぞ、……雨」
けたたましい音を立ててドアが閉まり、バスは停留所から離れていった。よりいっそう、雨の音が耳朶に響き始める。
圭祐の言う通り、今日はもう止むことがないかもしれない。
それでも、同じバスに乗るわけにはいかなかった。圭祐からのこれ以上の追及は、和葉の中で渦巻く堂々巡りの苦悩を助長させるだけでしかないと思った。
しばらく和葉は、なにをするでもなくバス停のベンチに座り込んでいることしかできなかった。
「……八坂さん、八坂さん?」
という呼びかけで、和葉はハッとなった。
顔を上げると、目の前には見覚えのある男性の姿があった。
「こんなところで眠っていたら、風邪を引くよ」
優しげな声で言うその人は、夏樹の父親――久志だった。「なにかあったのかい?」
「いえ……」
和葉はとっさに頭を下げ、「ご無沙汰しています」
「バスを待っていたの?」
「その、ちょっと、雨宿りと言いますか」
「この雨は、当分止まないだろうね」
空に目を向けながら、久志は言った。「もし時間があるなら、少し話がしたいんだ」
意外な申し出だったが、和葉に断る理由はなかった。
「構わないですよ。どうせまだ、帰る気になれなかったですし」
「そうかい? なら、中で話そうか」
二人は院内にある喫茶室へ移動した。
和葉が先にテーブルへ着いていると、遅れて久志がやってきて、
「はい、これ」
と、和葉の前に缶のココアを置いた。
「すみません。わざわざ」
「気にしないでくれ。私から誘ったんだから」
久志は向かいの席に着いた。「それに、これはお礼のつもりでもあるんだ」
「お礼?」
「ああ。いつも、夏樹の見舞いに来てもらってるから」
「そんな……」
和葉は一瞬、声を詰まらせる。「感謝されるようなことじゃ、ないです。あたしはなにも」
「少し前に、あの子から頼み事をされたんだ。双眼鏡が欲しいって」
久志は手にしていた缶コーヒーを開けながら、「君が、マラソン大会で走っているところを見たいからだと話していたよ」
「そう、ですか」
「あの子が私に頼み事なんて、久しぶりのことでね。それに、君と出会ってからの夏樹は、少しずつだけど、私や家内とも話をしてくれるようになったんだ。感謝しているよ、本当に」
しみじみと言って、久志は缶コーヒーに口をつける。
――感謝なんて、とんでもない。
自分は、彼を見殺しにしようとしているのに……。
和葉は複雑な気持ちで久志を見つめ、
「どうして、普通に接してあげなかったんですか?」
気づけば、そんなことを訊ねてしまっていた。「彼は、……深山君は、ずっと悩んでいたんですよ。久志さんたちの優しさに」
「優しさに……?」
「深山君は、自分が病気になって、周りが変に優しくしてくることが嫌だったんです。普通にしてほしかったんです。最後なんかじゃない、まだ未来はあるんだって、そう思わせてほしかったんです」
次々と、久志に対する不満が溢れてくる。吐き出すともう、止めようがなかった。
「久志さんはあたしに言いましたよね? 最後に、君みたいな友達ができてよかったって。
そういう言葉が、深山君を苦しめていたんですよ? 孤独にさせていたんですよ? どうしてもっと、希望のある言葉をかけてあげないんですか? そうしたら、あたしなんかに感謝しなくたって、今頃――」
そこまで言って、和葉はハッとなる。
自分は今、なにを考えたのか。
もしも久志が、夏樹が理想とする接し方をしていたなら。
彼が、あんな風に悩むこともなかった。
病室を抜け出して、あんな寂れた庭園で、独りでいることもなかったのではないか。
そうすれば自分は、――夏樹に出会うこともなかった。
こんな風に、苦渋の選択に苛まれることも、なかったのではないか。
ようは、ただの当てつけ。
八つ当たりの類いでしかない。
和葉はぎゅっと唇を噛み、申し訳なさそうに目を伏せ、「……すみません。あたし、こんなことを言うつもりじゃ」
「いいんだ。誰にだって、自分を制御できなくなる時はある」
久志の声は、それまでと変わらない落ち着いたものだった。「それに、君の言うことは、すべて正しい。今の私の接し方が、あの子にとって希望のあるものでないことは、確かだからね」
それでも、と久志は続け、
「私は、今の在り方を変えようとは思わない。今日、この日が、夏樹と過ごせる最後の一日になるかもしれない……いつもそう思いながら、あの子と顔を合わせるようにしている」
「どうして、そんな」
驚く和葉に対し、久志は小さな笑みを零し、
「私が子供の頃、父方の祖母が入院したことがあった」
と、記憶を辿るように語り始めた。
「何事にも負けず嫌いな祖母で、運動神経のいい人だった。当時すでに六十を過ぎていたのに、小学生の私にかけっこを挑んできたりしてはよく負かされていた。とにかく、元気が取り柄みたいな人だった……。
そんな祖母が、病気で入院したと聞いた。私は見舞いに行ったが、私が来るとあの人はいつも不機嫌だった。きっと、病院のベッドで寝ている自分の姿なんか、見せたくなかったんだろう。
私が病室を訪れると、あの人はしょっちゅう声を荒げていた。『そんな面、二度と見せに来るんじゃねえ』とか、『こんな病気、すぐに治るんだから』とかね。私も、あの人が入院したと聞いた時は心配だったが、いつもと変わらない姿を見て、安心した。
以来私は、祖母を病人だと思わないようにしたんだ。見舞いにも気が向いた時しか行かなかったし、たとえ行っても、入院する前と変わらないような、他愛ない話ばかりしていた。退院したらまた勝負しようと約束もした。成長期だった私はどんどん足が速くなっていたから、次に競走した時には絶対に勝てる自信があった。あの時は、祖母の病気が本当に治るものだと思っていたんだ」
ぴたりと、久志の声が止む。
和葉はなにも言わず、彼がまた話し出すのを待った。
しばらくすると久志は缶コーヒーを手に取り、残っていた分を一気に飲み干した。ジョッキに注がれたビールでも流し込むような勢いだった。
空になった缶を置くと、久志は椅子に深く腰掛け、
「約束してから四日後、祖母は息を引き取った」
と、わずかに掠れた声で続けた。
「通夜と葬式は、あっという間に過ぎていった。まるで、初めから取り決められていた行事のように、呆気なかった。
みんな知っていたんだ。あの時すでに、祖母が長くないかもしれないことを。私だけが知らされず、祖母の負けず嫌いを鵜呑みにして接していた。明日は必ず来るものだと、そう思っていたんだ」
――『明日って、残酷だよね』
和葉の脳裏に、いつかの夏樹の言葉がリフレインする。
「人は、ずっと一緒にはいられない。それが分かると、せめて今だけは、ずっと一緒にいたいと願うようになる」
空の缶を手慰みながら、久志は言った。「そう思うこと自体がもう、どうしようもなく悲観的なのだと理解していてもね。私は弱い人間なのかもしれない」
「久志さん、あの……」
「――八坂さん」
久志がはっきりと、視線を合わせてくる。「夏樹はまた、手術を受けることになると思う」
「え……」
「春に受けた時のものと同様、いやそれ以上に、危険な手術になる。けれどここを乗り越えられれば、助かる可能性はぐんと高くなる。初めは中々、決心できないでいたが、それでもあの子は受け入れていたよ。
それはきっと、君が希望を与えていたおかげだ。君があの子に、まだ生きたいと強く思わせたんだ」
目尻の下がった、優しげな微笑みと共に久志は言った。「今日が最後かもしれないと、私は常に思っている。だけどそれと同じくらい、君たちの純粋さが起こす奇跡も、信じたいと思っているんだ」
和葉はゆっくりと俯いた。テーブルの下で、ぎゅっと両の拳を固めた。
――奇跡なんて、起きるはずがない。
夏樹は七月二十六日、十八歳の誕生日を迎えてすぐ、――死ぬ。
その運命を覆す方法は、たった一つしか残されていないはずだった。
だけど、あるいは……。
夏樹の決心で、なにかが変わり始めているのなら。
シキが見せた運命も、覆されることがあるのだろうか。
「八坂さん?」
久志が不安そうに呼びかけてくる。「大丈夫かい?」
和葉は「はい」と、呟くように返答し、俯いたまま窓の外に視線を逃がした。
久志もふうっと、短く息をつき、
「今年の梅雨は、まだ明けそうにないね」
と、窓の外を見ながら言った。「この分だと、七月の間も明け切らないかもしれない」
「さあ、どうでしょう……」
希望の持てない言葉に、和葉は同調することを避けた。
ただジッと、窓によって声を削がれた雨模様を見つめていた。
その後、久志とは携帯番号を教え合って別れた。手術の日取りや、今後もしものことがあった場合、すぐに伝えてもらえるためだ。
「夏樹は携帯を持っていないからね。一度、スマホを買ってあげようかとも言ってみたのだけど」
と、久志は困ったように苦笑していた。
和葉にとっては、理解に苦しむほどのこともでなかった。
きっと夏樹は、久志がなぜスマホを買い与えようとしてきたのか、その理由が気に食わなかったのだろう。『同世代のほかの子たちはみんな持っているから欲しいだろう』とか、そんな風に言われたに違いない。
仮にそうでなくとも、夏樹がそういう解釈をして拒絶した可能性もありうる。その頃の彼は、酷くナーバスになっていただろうから……。
久志と別れたあと、和葉はもう一度、夏樹の病室へ赴いた。
雨はまだ降り止む気配がなかったし、休日のため時間には余裕があった。叶うならば面会時間が終わるぎりぎりまで、彼の傍にいてあげたい気分だった。
夏樹は穏やかな寝息を立てていた。彼を起こさないよう、和葉は慎重な足取りで椅子まで移動した。
腰掛けると、ベッド脇の棚の上に、真新しい双眼鏡が置かれていることに気づいた。久志が買ってきたものだろう。
「深山君……」
呟くように呼びかけ、和葉はゆっくりとうなだれた。
このまま時が流れれば、シキが見せた光景通りの七月二十六日を迎える。それは覆しようのない運命だと思っていた。
けれど、夏樹は少しずつ変わり始めている。強くなろうとしている。
あれだけ嫌がっていた手術を乗り越え、今度は二度目の手術まで受け入れている。
なにか確証があるわけではない――が、和葉は薄っすらと感じ始めていた。
運命とは、変えられるものではないかと。
シキが見せた光景では、夏樹はこの病室で息を引き取っていた。もし手術失敗によって亡くなるのであれば、病室で看取るという場面にはならないのではないか。
仮に手術が成功すれば――久志の言葉を信じるなら――術後に夏樹が死ぬ可能性は低くなる。もちろんゼロではないだろうが、成功することで死期が変わる可能性もあるのではないか。
和葉は希望を抱くためのあらゆる思考を巡らせたが、そのどれにも確信は持てなかった。自分たちにとって都合のよい未来になるよう祈っているようにしか思えなかった。
いや、自分たちではなく、――自分自身だろうか。
このまま本当に運命が変わって、夏樹が死なないのであれば。
自分は結局、逃げ出してしまいたいだけではないか……。
圭祐と同じバスに乗らなかったのと同じように、問題を先送りにしようとしているだけではないか。
――そう、和葉が悲観的になった時。
「んんぅ……」
夏樹が、こちら側に寝返りを打った。
少しだけ背中を丸め、顔の前に両腕を出していた。そのせいでわずかに、掛け布団が彼の体から剥がれる。
……まるで子供みたいだ、と和葉は思った。
無垢な寝顔は微笑ましくもあったが、素直に笑うことは今の和葉にはできなかった。和葉は乱れた掛け布団をそっと直してやった。
すると、夏樹はゆっくりと目蓋を開き、
「……八坂さん?」
起き抜け特有の、掠れ声で言った。「帰って、なかったんだ」
「ごめんなさい、起こした?」
「ん、大丈夫。ちょっと、横になろうと思っただけだから」
夏樹が上体を起こそうとする。
が、お世辞にも滑らかな動きとは言えなかった。
「そのままでいいわ。無理しないで」
「……そうだね、ごめん」
どうしてか謝って、夏樹は再びベッドに横たわった。「あの人は?」
「え?」
「八坂さんと一緒にいた人。確か、不破君」
「ああ、先に帰ったわ」
「一緒じゃなくてよかったの?」
「彼はバスで来たの。あたしは電車だから、雨が止むまで待ってようと思って」
「そうなんだ。止みそう?」
「今のところは、まだ」
「そっか」
と返して、夏樹ははにかむように笑った。「なら八坂さん、ずっと止まなかったら、ずっとここにいてくれるんだね」
「……そうね、それも悪くないわ」
和葉は苦笑を零し、「面会時間が決まってるから、そういうわけにもいかないんだけど」
「もちろん分かってるよ。でも、もしそうだったら、また色々お話できるなって思ったから」
「ええ……そうね」
優しく肯定しながらも、和葉の中には否定的な気持ちが渦巻いた。
どんなに長い雨もいずれ止む。そうでなくとも、和葉は病室を出ていく必要がある。
時間は止めどなく流れていく。窓の表面を伝う雨粒のように、それは和葉の手で堰き止められるものではない。
雨に煙る世界を、ただ力なく見つめていることしかできない……。
「八坂さん? どうかしたの」
夏樹の呼びかけに、和葉はハッと顔を上げ、「ううん、なんでもないわ」
「本当に?」
夏樹は、訝しい眼差しのままだった。
「じゃあどうして、八坂さんは泣いているの?」
その言葉に、和葉は困惑した。
が、すぐに自分の頬に、温かいなにかが流れていることに気づいた。
それは紛れもなく、――涙だった。
「違うの、これは……」
和葉は頬を拭った。
涙は、すぐには止まってくれなかった。和葉はうなだれ、夏樹と顔を合わせないようにした。
弁解の言葉はなに一つ浮かばず、ただ涙を堪えることに必死になった。
――そんな時。
「はは、変なの」
頭の上に、和葉は心地よい感触を覚えた。
見ると、ベッドから手を伸ばした夏樹が、和葉の頭をぽんぽんと撫でているのだった。
「八坂さんの髪、柔らかいんだね」
そんな感想を言って、夏樹はゆっくりと手を引く。「僕はね、八坂さんのこと、実はずっと前から知ってたんだ」
「ずっと、前?」
「うん。ほんと言うと、今まで確信が持てなかったんだけど。今日連れてきてくれた不破君を見て、やっぱりって思った。八坂さんは、あの時の女の子だって」
懐かしむような声で言って、夏樹は続ける。
「僕は、今の病気だって分かる前にも、前いた個人病院に何度も入院してたんだ。その度に寂しくなって、中庭で独りになって、あの樹を見上げていた。そうする以外に、寂しさを紛らわせる手段がなかったから……。
だけどある日、……その日は、午前中に大雨が降って、夕方になっても、ベンチが乾いてなくて、特等席に座れなかった。やるせなくなって、意味もなく病院の廊下を歩き回ってた。ぐるぐると、なんべんも。
そしたら、どこからか泣き声が聞こえて、吸い寄せられるように歩いていった。
そこには、制服を着たカップルがいて、男の子の方が泣いてたんだ。そして隣にいた女の子が、優しく慰めようとしてた。
きっと、悲しいことがあったんだって思った。あんまり見ていたらいけないって、そう思った。
だけど僕は、角に隠れて、ずっと二人のことを見てた。
羨ましかったんだ。人目も憚らずに泣いて、誰かに縋れることが……それはたぶん、僕がずっと、知らないうちに我慢していたことだったから」
夏樹の語る思い出に、和葉は遠い日の記憶を重ねた。
――泣きじゃくる圭祐と、彼の傍にいた自分の姿だ。
「あの中庭で初めて八坂さんを見かけた時、不思議な気持ちになった。話がしてみたいって……あの時の女の子かもしれないって思い始めたのは、話をするようになってからだけどね」
おどけるように言って、夏樹ははにかんだ。
和葉の口元も自然とほころび、涙も、いつの間にか止まっていた。
「八坂さん。僕は、また手術を受けるんだ」夏樹は打ち明けるように言った。
「ええ、久志さんから聞いたわ」
「そっか。相変わらず話したがりだね、あの人……」
「前の手術より、危険を伴うって」
「……うん」
頷いて、夏樹はゆっくりと目を瞑る。「怖いよ、凄く。麻酔を打たれて、眠ったら、もうそのまま起きられないかもしれない」
だけど、と夏樹は目を開き、
「頑張るから。八坂さんとの約束、守ってみせるから。
だから、ほんの少しだけ、勇気を分けてほしい。八坂さんが走ってるとこを見て……僕にも、走ってみたいって、そう思わせてほしいんだ」
そっと、左の手のひらを差し出してくる夏樹。
和葉はぎゅっと、彼の手を握った。「分かったわ。――一番に、駆け抜けてくるから」
「一番じゃなくたって、いいよ。ちゃんと見つけられるから」
「それでも、一番の方が見つけやすいでしょう?」
「うん、そうだね」
夏樹は嬉しそうに頷いた。「……本当は、次に八坂さんと会ったら、お願いをしようと思っていたんだ。僕のこと、名前で呼んでって」
「え……?」
和葉は、少しだけ面食らった。「でも、それは」
「うん、本当は、十八歳になってからの約束。だけど……」
そこまで言って、夏樹は誤魔化すように笑った。「僕は、どうかしてたのかも。こんなお願い、しようとしてたなんて」
夏樹の不安が、今の和葉には手に取るように分かった。
それでも、約束を先取るようなことはしたくなかった。夏樹も同じ気持ちだったから、踏み留まったのだろう。
「大丈夫よ。――あたしも、ちゃんと待ってるから。深山君と一緒に走れる日を」
和葉はもう一度、夏樹の手を握り直す。
彼もまた、ぼんやりと力を込めていた。「うん。ありがとう、八坂さん」
――この日は結局、面会時間のぎりぎりまで夏樹の病室にいて、夏樹の手を握っていた。
看護師から追い立てられるように病院の外へ出ると、雨はすっかり上がっていた。湿った夜気が冷房冷えした肌にじとりとまとわりついていく。時刻は夜の八時を回っていたが、不思議と空腹感はなかった。
薄暗い夜道を歩きながら、和葉は様々なことを考えた。
夏樹のこと、圭祐のこと。
それから、シキのことも。
運命がどう転ぶか、今の和葉には分からない。
それでも彼女は、一つの決心を固め、――圭祐に電話をかける。
『……八坂か?』
思いのほか、彼はすぐに出てくれた。
けれど普段とは違う、戸惑いを着せた声に感じられた。
「今日は、ごめんなさい。やっぱり、謝らなきゃと思って」
おずおずと、和葉は切り出した。
受話口から吐息だけの相槌が聞こえたのち、『今、どこなんだ?』
「病院の前の道」
『まさか、帰り始めたばっかか?』
「雨、中々上がんなかったから」
『や、なにしてんだよ。こんな遅くまで……』
呆れたような声だった。
和葉にとっては、その方が心地よく感じられた。「あなたに、お願いがあるの」
『お願い?』
「マラソンの練習、付き合ってほしいの」
『…………』
鼻息か溜め息か、そんなものが聞こえてくる。
しばらく、間が空いたのち、
『りょ』と、端的な答えだけが返ってきた。
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