今年の一月中旬。和葉の左足もすっかり完治した頃だった。

 夏樹はそれまでの個人病院を離れ、都市部に在る総合病院へ転院していった。それからおよそ二週間後、手術が行われた。

 手術は何事もなく終わり、和葉も数日後には見舞いへ行ったが、夏樹との面会は叶わなかった。

 病室の前で出くわした彼の父、久志の話によれば、「担当医との話し合いで、術後しばらくは安静にさせて、様子を見ることになったんだ。せっかく会いに来てくれたのに申し訳ないけど、恐らく来月までは面会謝絶の札がかかっていると思うよ」

 和葉は少なからず落胆したが、こればかりはどうしようもない。

 久志は、前に見た時よりも覇気が削がれた顔つきになっていた。その変化が彼の心労を物語っており、和葉も無理を聞いてもらおうとは考えなかった。

 面会謝絶が解除されたのは高校の卒業式が終わったあと、三月に入ってからだった。

 その頃にはもう、学校推薦での進学が決まっていた。できるだけ実家から離れた大学に進みたいと考えていたが、夏樹のいる病院からも遠くなってしまうため近場で選んだ。結果的に家からでも通える距離の大学になったが、よりキャンパスに近いアパートで一人暮らしをすると決めていた。どうしても、あの母親から離れてしまいたかった。

「――和葉」

 自室で荷造りをしていた時、母の那月が部屋を訪ねてきたことがあった。

「なにしてるの? まるで引っ越すみたいに片づけて」

 怪訝そうな顔で訊ねてくる。心の底から疑問に思っているようだった。

 病院で怒鳴りつけて以降、那月とはそれまでよりも明確な距離が生まれていた。記憶の錯乱も未だ続いているらしく、今現在も彼女の瞳はどこか虚ろで、和葉ではないどこか遠く見つめているような危うい気配を漂わせている。

 和葉からすれば怖ろしい状態のようにも思えていたが、生活そのものは特段の不自由もなく過ごしているようだった。仕事にも行っていて、家事もこなしている。

 だからこそ和葉は、今まで以上に嫌悪感を募らせていた。

 この人はもう、今の自分を見ていない。今よりも従順だった、子供の頃の自分を幻視しているのだ……そう思わざるをえなかった。

「和葉? 聞いてるの?」

 和葉が黙り込んでいると、那月はより棘を立たせた声で問い詰めてくる。

「出ていくのよ。この家を」

 自然と、素っ気ない声が零れていた。「前にもちゃんと話したでしょ」

「出ていく? どうして」

「大学に通うからよ。一人暮らしをするの」

 なんとか、声を荒げないように努める。もう無用な口論はしたくなかった。

「もう帰ってこないの?」

 那月の返答も、思いのほか落ち着いたものだった。彼女も自分と同じ気持ちだったのだろうか、と和葉は思った。

「いや、帰ってはくるよ。そんな遠くでもないから」

 そう答えたものの、本当は帰ってくる気などなかった。容易く引き下がってもらうための口実だった。

 けれど那月は、特段問い質してくることもなく、

「あの男の子は、元気?」

「え?」

「ほら、病院で一緒だったでしょう? あの子のことよ」

 そこまで言われて、夏樹のことかと思い至る。

「別に、関係ないでしょ」突き放すような声になった。

「確か、私と同じ名前だったでしょう? 和葉、凄く楽しそうに話していたから……あの子とは仲がいいの?」

 ――ああ、まただ。

 この感覚。耳に入ってくる声のなにもかもが歪んでいるような違和感。

 和葉はもう我慢ならなかった。これ以上、この母親と夏樹の話をすることは、堪えがたい苦痛を伴う時間だった。和葉は舌打ちをして那月に背を向けた。

 ほどなく、背後で蚊の鳴くような声がしたが、和葉が振り返った時には、那月はいなくなっていた。遠ざかっていく階段の軋む音だけが微かに聞こえた。

「なんなのよ、一体……」

 やり場のない愚痴を零したのち、和葉は荷造りに戻った。

 その途中、押し入れの中を整理していた時――なにかしら、これ……。

 子供の頃に使っていたおもちゃ箱の奥で、見覚えのない細い木箱を見つける。

 木の質感や蓋に書かれれている墨字からして、恐らくかなり古いものだろう。まさか骨董品でも納められているのかと思って開いてみたが、箱の中は空っぽだった。一体なんの箱なのか気になったが、蓋の文字は草書体のような流麗な字体でしたためられている上、古びているせいで所々が掠れて解読不能だった。和葉は溜め息をつきながら蓋を閉め、木箱を乱雑にごみ袋の中へ投げ入れた。

 その時――、

「迂闊な者だな。余の箱をこのように扱うとは」

 予期せぬ声が耳朶を打つ。

 見ると、ごみ袋に入れたはずの木箱がゆっくりと浮遊し始め、袋の中から独りでに出てこようとしていた。不可思議な光景に和葉は声も上げられないほど仰天する。

 まもなく、木箱を持つ小さな手のひらが薄っすらと現れた。そこから次第に腕や体、脚部なども繋がるように浮かび上がっていき、人間の姿を形作っていく。

「これは余の箱だ。ぞんざいに扱うことは、余が許さぬ」

 和葉の眼前に現れたのは――少女。

 鮮やかな朱色の和服を纏い、鈴をあしらった赤い簪を長い黒髪に刺した少女が、目の前に立っていた。不自然な具合に左目を閉じており、か黒い右目だけが驚愕する和葉を映している。

 なにも言えずに見上げている和葉に対し、少女は「そうか」と独りごちるように呟き、

「余は久しいと感じたが、そなたと顔を合わせるのは、これが初めてになるのか」

 と、どこか感慨深そうな声を向けてきている。

 淡雪のように白くきめ細やかな肌、黒目勝ちな瞳などは、少女らしいあどけなさの象徴とも言える要素に感じられた。

 しかし、――その稚い容貌に浮かべられた微笑みは、およそ少女らしくない艶美な気配が漂っていて、和葉には奇妙なことこの上なかった。

「あなた、一体どこから……」

「うん? いずこからと訊かれれば、この箱の中からと申すほかあるまい。厳密には、余は霊体であるから、この箱に納まっていたわけでもないが」

「零体……? まさか、幽霊だとでも言いたいわけ?」

「そのような俗な言い回しは気に食わんが、すでに此岸から離れた存在であることは認めよう。この事実をそなたがどう捉えるかは、そなた次第だ」

「ふざけないで! そんな与太話、信じるわけが――」

 木箱を取り返そうと、和葉は少女の腕を掴もうとする――が、いざ触れようとした瞬間、少女の腕は霞の如く辺りに霧散した。結果、和葉の手は空を切っただけ。

 驚いて和葉が手を引くと、消えたはずの少女の腕は瞬く間に元の形を取り戻していた。

「無駄だ。此岸に生きるそなたが、余に触れることはできぬ」

 少女は冷静に言い放ち、微笑むように右目を細める。「余の名はシキという。この木箱に封じられし千年の儀を見届けてきた、舞子の御霊みたまである」



 この日、和葉は荷物の整理を終えたら夏樹の見舞いへ行くことに決めていた。彼が転院してからは初めての見舞いだった。

 できる限りの面倒事を済ませ、晴れやかな気持ちで会いに行きたいと思っていた和葉だったが、その目論見は完全に外れることとなった。

 なぜなら――、

「余が眠っている間に、また色々と変わってしまったものだな。此岸の有り様も」

 呑気なことをのたまいながら、和葉の傍を歩いている和服姿の少女――シキと名乗った亡霊が現れてしまったからだ。

「そなたがここに至るまでに用いた電車という乗りものも、以前見た時よりまた面妖な姿となっていた。いささか風情に欠けるが、あれはあれで目を見張るものがある」

 初めは自分の頭がおかしくなったのかと不安だったが、ひとまずその可能性は考えないようにした。いくらなんでもここまではっきりとした幻覚や幻聴はありえないはず……だが、であれば本当にこの少女が幽霊の類いであることを受け入れなければならなくなる。

 それもそれでオカルト染みていて怖ろしいが、今のところシキは和葉に対し、特に危害を与えるようなことはしていない。ただ和葉の隣をふわふわと歩いていて、独り言なのか世間話なのかよく分からないことを口にしているに過ぎない。

「ねえ、あなた」

 和葉はきつい声で呼びかけ、「どうしてついてくるの? 幽霊なら、早く成仏すればいいじゃない」

「うん? それは余に向けての言葉か?」

「当たり前でしょ。ほかに誰がいるのよ」

「先刻も申したが、余の名はシキという。これからはそのように呼ぶのだ。でなければ余も返答しづらい」

 変なところにこだわる霊ね……。

 和葉は小首を傾げたが、大したことでもないので今は従うことにした。「じゃあシキ、もう一度言うわ。どうしてあたしに憑きまとうのよ。目障りだから消えてほしいんだけど」

「それは聞けぬ相談だ」

「言われた通り名前で呼んだじゃない」

「だからと言って、余が消える由にはなるまい。そのような契りも交わしておらぬ」

「屁理屈言わないでよ!」

 和葉は腕を払い、シキの体を薙ぎ払おうとする。

 が、和葉の腕は瞬く間に生じた霧の中を通過しただけで、やはり手応えは得られなかった。気づけば霧散したシキの肉体は元通りになっていて、それまでと変わらぬ様子で和葉の隣を歩いている。

「余は眠りから醒めた以上、そう易く消えることはできぬ。余に課せられた使命を果たすまではな」

「使命?」

「左様。果たすためには、少なからずそなたの力を借りる必要がある。余が消えるためならば、そなたも協力するか?」

「協力って、具体的にはなにをするの」

「儀を執り行う場まで送り届けてくれればよい。この地からだとおよそ、五十里ほど離れた処にあったはずだが」

「五十里……?」

 スマホで調べてみると、約二百キロメートルだった。簡単に行ける距離ではない。

「馬鹿馬鹿しい。あたしはそんな暇じゃないし、大体、幽霊に貸せる力なんてないわ。ほかを当たって」

「それができれば苦労せぬのだが。……それより、そなたよ」

 シキが「くく」と、喉を鳴らすように笑う。「余は談笑を好むゆえ構わんが、いささか、衆目に鈍いのではないか?」

「え?」

 和葉は周囲を見回す。

 道行く人々が、二人に奇妙な視線を向けていた。

 いや、二人にではなく――和葉だけに。

 迂闊だった。家を出た時に気づいたことだが、どうやらこのシキという幽霊は、和葉以外の人間には見えていない。

 つまり今までの会話も……。

「ねえ、シキ」

 努めて小声で、和葉は言った。「もう、外では話しかけないで」

「それは、余の気分次第だ」

 隣でまたからかうような笑みを鳴らされ、和葉は舌打ちすることしかできなかった。



 最寄り駅から総合病院までは、徒歩で十分もかからないくらいだった。和葉は窓口で受付を済ませ、夏樹の病室まで歩いた。

「ふむ、確か病院と言ったか。余の記憶が正しければ、傷病人の治癒を行う場所だったはずだが」

 通路を行くさなか、シキがまた話しかけてくる。

 当然、和葉は無視を決め込む……が、彼女の言葉にはやや気にかかるところもあった。

 容姿や口調、雰囲気からしても、シキは現代の人間ではない、かなり昔に死んだ少女の霊なのだろう。部屋の中では『千年の儀』がどうとか言っていたから、つまり千年前くらいが、彼女が生きていた時代なのかもしれない。

 けれどシキは、現代の風景を目にしてもあまり驚いている様子がない。

 それどころか、以前見た時と比較して、その変化に感心しているようにも見える。現代に幽霊として現れて結構長いのだろうか。

 色々と疑問は募ったが、また衆目がある中で彼女に話しかけるわけにはいかない。和葉はできる限りまっすぐ前を見つめて廊下を進んだ。

 夏樹の病室は四階にあった。扉の傍にあるネームプレートは彼の名前しか掲示されていないためどうやら個室らしい。和葉は気がねなくノックできたが、いくら待っても中から返事がない。

 どこかへ出ているのかとも思ったが、ひとまず扉を開けて中の様子を確認してみたところ――夏樹の姿を見つけた。

 ベッドの上で身を起こし、窓の外を見つめている。自分が入ってきたことに気づいていないのだろうか、と和葉は思い、

「深山君?」と呼びかけてみる。

 夏樹はハッとして、すぐにこちらを振り向き、

「あ、八坂さん」

 と、大きく目を見開いて言った。「驚いた。八坂さんだったんだ」

「うん。ノックしたんだけど、気づかなかった?」

「ううん。どうせ、お父さんだろうなって思ったから」

 気恥ずかしそうな、あるいは申し訳なさそうな声。

 和葉は「そう」と答えて、ベッド脇にある椅子に腰を下ろす。

「――――」

 隣に立っているシキはそれまでの饒舌さを潜めさせ、黙ったまま夏樹をジッと見つめている。

 かと思いきや、そぞろに辺りを歩き始め、――ベッドや台など、お構いなしにすり抜けながら、もの珍しそうに病室の中を見物し始める。なにが目的なのか、和葉にはよく分からなかった。

「久しぶりだね、八坂さん。足、治ったんだ」

 そう話しかけられ、和葉は夏樹に視線を戻す。

「うん、さすがにね。去年の末頃にはもう、ギプスも取れてたよ」

「なんだか、見慣れないな。ギプスを着けてる八坂さんが普通だったから」

「あたしにとっては、凄い異常だったんだけど」

「それもそっか……」

 夏樹はこぢんまりと笑みを浮かべ、「ここに来るのは、初めてだよね」

「病室には、そうね。でも、この病院には一度だけ来たの。深山君の手術が終わってすぐくらいに」

「そうだったの?」

「ええ。だけどまだ面会謝絶だったから……それからは、あたしも色々忙しくて、中々来られなかったの」

「別に、八坂さんならよかったのに。受付の人に伝えてくれれば」

 と、そこまで言って、夏樹は表情を強張らせた。「もしかして、お父さんがなにか言ったの?」

「え? ううん……」

 和葉は誤魔化すように目を逸らす。「あたしが遠慮したのよ。あんまり無理させるわけにもいかないと思って」

「本当に?」

「うん……それより深山君、少し痩せたんじゃない? もし病院のご飯が口に合わなくても、しっかり食べないとよくならないわよ」

 和葉は自然と早口になっていた。我ながらこんな簡単に焦ってしまう自分に嫌悪感が募る。

 対して夏樹は、おかしそうに表情を緩め、

「相変わらず優しいね。八坂さんって」

 と、か細い声で言った。「大丈夫だよ。ここのご飯、美味しいから」

「そう。ならよかったわ」

 努めて安堵したように、和葉は言った。

 本当は、こんな話を聞きたいわけではなかった。体の具合はどうなのか、病気は治りそうなのか――そういうことが知りたかったが、中々切り出すことができなかった。

「ねえ、八坂さん」

 これまでより、幾分恥ずかしそうな声だった。「お願いがあるんだけど」

「なに?」

「その、寝かせてくれないかな? 背中、ちょっと支えてくれるだけでいいから」

「あ、うん」

 どもりつつ、和葉は立ち上がる。

 ためらいがちに夏樹の背に手を回すと、彼の体温が病衣越しに和葉の手のひらを覆った。華奢な体がもたれてくるのと同時に、石鹼の清潔な香りがほんのりと漂ってくる。

 夏樹の体はことのほか軽く、背中も骨張った硬いものだった。ベッドに手が着く瞬間、和葉は小さく息を吐いた。それほど力が必要だったわけでもないのに、わずかに額が汗ばんだ気がした。

「ありがとう、八坂さん」

 そう微笑むと、夏樹は膝までかけていた毛布を胸元まで持ってくる。

「別に、これくらい……深山君が疲れたなら、今日はもう帰るから」

「あ、ちょっと待って」

 夏樹はわずかに目を伏せ、「八坂さん、最近、走ってる?」

「え?」

「マラソンの話だよ。足、治ったんでしょ?」

「ううん、全然。部活も引退したし、走る理由も、もうなかったから」

「そっか。八坂さんは、部活だから、走ってただけだもんね」

「……ええ、そうね」

 和葉は曖昧に答え、再び椅子に腰を下ろした。「でも、どうかしてそんなこと訊くの?」

「ちょっと、僕なりに思うことがあって。こっちの病院に移って、手術をして、ここに一人でいることが多くなってから、色々なことを考えていたんだ。これからのこととか……八坂さんのこととか」

「あたしのこと?」

「うん。ほら、約束のこととか」

 微かに頬を赤らめた夏樹を見て、和葉もどこか照れくさくなる。

「思い出させないでよ。あれ、結構恥ずかしかったんだから」

「うん、知ってる。だから言ってみたんだ」

「意地悪なのね」

「中々会いに来てくれなかったことへの、仕返しかな」

 おどけるように言って、夏樹は小さく笑った。「八坂さん、言ってくれたよね。僕が倒れても、それでも、一緒に走ってくれるって」

「だから、意地悪ならやめてってば」

「ううん、やめない」

 夏樹の声が、確かな切実さを握り締める。「見てみたくなったんだ。八坂さんが、走ってるところ」

「え?」

「そこの台の、一番上の引き出しを開けてみて」

 矢継ぎ早に言われ、和葉は指示通りに引き出しを開ける。

 中にはいくつかの小物が入っていたが、それらを覆うように、市の広報誌が一部だけ置かれていた。

「その広報誌の、最後から二番目のページ」

 言われるがまま、和葉は指定されたページを開いてみる。

 そこには、七月にこの市内で行われるマラソン大会の概要が記されていた。

「その大会がさ、この病院の傍、すぐそこの道路を通るんだって……この病室からでも見えるって、看護師さんが言ってたから」

「そう、なんだ」

 和葉は、わずかに答えるのをためらった。「でも、どうして」

「どうしてって?」

「いえ……」

 訊き返され、和葉は押し黙った。

 断る理由などなかった。彼が見たいと言うのであれば、走ることも吝かではない。ただ部活で走るよりも意味のあることに思えた。

 それでも――素直に頷けない自分がいた。

「深山君が思ってるほど、あたしは走れないと思うよ。骨折してた上に、ブランクも結構あるから」

 悩んだ末に口から出たのは、そんなどうでもいい言い訳だった。

「順位とかは、期待してないよ。ただ、八坂さんが走ってる姿が見たいだけだから」

「だけど……」

 返答に窮する和葉。

 同時に、考えるべきではない想像が胸中に膨らんでいく。

 もしかして、彼は……。

「たぶん、八坂さんが想像してる通りだよ」

 これまでより幾分はっきりした声で、夏樹は言った。「言ったでしょ? 色々なことを考えたって」

「深山君……」

「僕の病気は、手術をしないと治らない。でも、仮に成功しても、治るとも限らない。

 だからずっと、受けたくなかったんだ。もし受けたら、そこからが本当に、カウントダウンが始まっちゃうような気がしたから」

「縁起でもないこと、言わないでよ。カウントダウンなんて、そんな」

 自然と、和葉は語気を強めた。「治すんでしょう、病気。そのために約束したんじゃない」

「だけどさ、やっぱり、もしものことを考えてしまうんだ。もしも治らなかったら、そうしたら……」

 次第に消え入る声を嫌うように、夏樹は無理やりに破顔して、「結局、僕もお父さんの子供なんだよね。もう最後かもしれないって、そう考えるようになっていくんだよ。そういう思考の構造っていうかさ」

 言いようもない寂しさが滲んだ、夏樹の微笑み。

 和葉はぎゅっと唇を噛んだ。「……少しだけ、考えさせてくれる?」

「もちろん。八坂さんの好きにしていいよ」

 申し訳なさそうな声が小さく響き、「これは、僕のわがままだから……」



 家に帰り着く頃には、すでに日が暮れようとしていた。

 那月は出かけているみたいだったが、リビングのテーブルにはコロッケサンドが用意されていた。その皿のすぐ傍には置き手紙も添えられている。


『仕事で遅くなります

 お腹が空いたら食べなさい

           那月』


 内容を読んで、和葉は手紙をぐしゃりと握り潰した。

 苛立ちを解消できないまま再び家を出る。重たい足取りでコンビニまで行ってメロンパンを買い、近くの公園に寄って一人で食べた。

 ベンチに座り込んだまま、病院でもらった広報誌を開く。マラソン大会の概要が書かれたページを読み直し、小さく溜め息をついた。

 ――『たぶん、八坂さんが想像してる通りだよ』

 夏樹の、囁くような声が脳裏をよぎる。

 ――『もう最後かもしれないって、そう考えるようになっていくんだよ』

 その言葉に張りついた彼の微笑みは、決して思い出したいものではなかった。

 それなのに、癒え切らない火傷のようにこびりついていて、頭から離れない。和葉は苦い面持ちのまま広報誌のページを閉じた。

「中々、興味深い遊覧であった」

 そんな和葉とは対照的に、傍に立つシキは愉快そうな微笑みを浮かべていた。

「時代の流れとは怖ろしいものだ。あるいは、そなたたちの探求心が、とでも申すべきか。幾年か眠りに就いていただけで、これほどまで様変わりするとは」

「……なに言ってのよ、あなた」

 呑気に独りごちているシキの言葉は、今の和葉にとっては苛立ちを助長させる種でしかなかった。「いつまであたしに憑きまとうの? いい加減消えなさいよ」

「うん? 余が消えることを望むのか?」

「――っ」

 ぐしゃりと、和葉は広報誌を握り潰して立ち上がる。「当たり前でしょう! 消えられるのなら早くいなくなってよ、意味分からないことばかり言って、目障りなのよ!」

「それは聞けぬ相談だ。余は千年の儀を見届けるべく封じれた舞子の御霊。その使命を果たすまでは、消えることは許されぬ」

「またその話……?」

 腰元で拳を震わせた和葉だったが、それがシキに通じないことは分かり切ったことだった。和葉は力なくベンチに座り込んだ。

「なら、さっさとその使命とやらを果たせる人のところに行けばいいじゃない。あたしは、あなたみたいな幻覚に構ってる暇は――」

「それは先刻の、病院にいた男のことがあるゆえか?」

 やけに察しのいい問いかけに、和葉は無言になることで肯定する。

 その様子を見て、シキが妖しげに微笑する。「然れば問題あるまい。もうじき、あの男は死に至る」

「は……?」

 弾かれたように顔が上がる。「今、なんて言ったの」

「死に至る、と申した。それがどうかしたか」

「どうして、あなたにそんなことが分かるのよ。幽霊だからって適当なこと言わないで」

「適当なことを申しておるのだ。それが余に込められた力ゆえな」

「力ですって?」

 和葉はまた苛立ちを募らせ、「ふざけないで。そんなでたらめな話、信じるわけが」

「然らば少々、覗かせてもらおう」

 そう告げて、シキは閉じていた左目をゆっくりと開く。

 露わになったのは、――妖しい光を放つ、銀色の瞳。

「あなた、その目――」

 和葉はぎょっとしたが、避ける間もなくシキに間合いを詰められ――、

 次の瞬間、眼前で彼女の顔が霧散した。

 刹那、視界が暗転する。

 なにも見えず、なにも話すことができない。呼吸すらままならない。暗い海の中で溺れているようだった。

 ほどなくすると息苦しさが消え、辺りがぽつぽつと光り始める。

 そこには、――記憶が浮かんでいた。

 和葉が経験してきたいくつかの時間が、小さな光の円となって辺りを浮遊している。

 それらの記憶は取り留めがなく、明滅を繰り返しては別の記憶に移り変わっていく。星の瞬きを早送りで眺めているような、幻想的な光景のようにも感じられた。

 ――なんなの、これ……?

 およそ現実的ではない景色に、和葉は疑問と当惑の感情を乱れさせる。

 浮かんでいる記憶の中には、夏樹と初めて会った日の光景も見受けられた。部活で走っていた時の景色や、ヒステリックな具合に和葉を叱りつける那月の姿も映っている。階段から落ちていく生々しい瞬間もあり、和葉は思わず目を背けた。

 そうして別の方を向くと、あまり覚えのない時間も浮かんでいることにも気づく。しかし見れば見るほどなにかが引っかかり、和葉はその記憶を掴もうと手を伸ばした。

 が、触れることはできなかった。

 記憶を映し出す光は、手が届く寸前で飛沫のように消えた。

 そうして次第にすべての光が消えていき、辺りが暗黒に包まれていく。体も再び自由を失い、呼吸がままならなくなる。

 奇妙な息苦しさに悶える中、和葉は意識の中だけで必死にもがき続け――、

「……ッ、はあッ、はあッ……!」

 気づけば、先ほどまでの視界を取り戻していた。和葉は乱れた息を整えながら自分の体を確認する。

 が、特別変わったところはなかった。

 公園を見回してみても、和葉以外に人影はない。時計台も確認したが、視界が暗転する前から時間はほとんど経っていなかった。

 ――今のは、なんだったの……?

「これもまた、余の力だ」

 リン、と背後から鈴の音がして、和葉はハッとを振り返る。

 先ほどまで目の前にいたはずのシキが、いつの間にか和葉の後ろに立っていた。

「あなた、あたしになにをしたの」

「大したことではない。少し、そなたの記憶を拝してみただけだ。そなた自身にはなんら影響はない」

 なんでもないように言って、シキはにやりと笑う。「然てもそなたよ、中々興味深い契りを交わしておるようだな。あの男が十八を迎えれば、か」

 和葉はハッと息を呑んだ。「なんであなたが、そのことを」

「だから申したであろう。そなたの記憶を拝したと。それが余の力であるとも」

 なんでもないことのように、シキは言った。「然れどそなたよ、先にも申したように、あの男はほどなく死を迎える。そなたが交わした契りも、無に帰す運命と申せよう」

 そんなわけない。――などと否定することはできなかった。

 夕闇に浮かぶシキの言葉には、先ほどまでは感じなかった妙な説得力が生まれている。それもまた、彼女の不思議な力によるものではないかと思った。

「あなたは、なんなの……一体、何者なの」

「なんのことはない。ただの舞子の御霊だ。――人間の死を司る、な」

 銀無垢の瞳でジッと見つめながら、シキは告げる。「今より千年ほど前、みやこのある貴族が往古の言い伝えをもとに始めた儀式がある。それは此岸の者たちにとって割けようのない死の定め、言わば死期を超越せんとする試みであった」

「超越って……不死身ということ?」

「いいや、不死とは月の満ち欠けのようなもの。儚い夢のような時分しか生きられぬ此岸の者らには、身に余る概念だ。所詮は定められたわずかな時を生きるほかない」

 然ればこそ、彼奴らは――とシキは続ける。「人と人との間で、互いの死期を渡し合う術を見出した。その術、儀式の名を、『死期渡し』という」

「死期渡し……」

 口元が操られたように、シキの言葉を繰り返したのち、「死期を渡し合うって、それでどうして、死を超越したことになるの?」

「事の始まりは、絶命の危機に瀕した貴族の跡目を救うためであった。そのために、まだ死期の遠い者を儀の代償とすることで、跡目の夭逝を避けるに至った。それは人の悲願とも言うべき死の超越、そう申して異存はあるまい」

「その跡継ぎを助けるために、ほかの誰かを犠牲にしたって言うの? ……そんなこと、人として許されるわけが」

「然れど、天は許容したのだ。ただ生を貪るだけの、意義を持たぬ者を犠牲にし、意義のある者を救う手立てを、人徳を賭した業を、――俗世の者たちに悟られぬよう、内々に言い伝えてきたのだ」

 和葉は絶句していた。

 同時に、滔々と語られる凄絶な秘史に、覚えのない胸騒ぎを感じ始めていた。

「この秘儀を、余は千年もの間、見届け続けてきた……そしてこの浮世、そなたの前に顕現した。この真意、今のそなたになら分かるであろう」

「なにが、言いたいの」

「そなたにも、おるのではないか? ――人徳を犯してでも死から逃れさせたい、意義ある者が」

 ――和葉は大きく目を見開いた。

 感じ始めていた胸騒ぎの源泉がなんなのか、自覚するに至った。

「死期渡しを、すれば……深山君も、死なせずに済むと言いたいの?」

「左様。余はそなたの記憶を、胸の底に渦巻く情念のすべてを把握している。無論、あの男へのひとかたならぬ情もな」

 先ほどの、記憶を盗み見るという妙な力によるものか、と和葉は思い当たる。

 しかし、ほかの誰かを犠牲にして、彼を救うなんて……。

「なにを迷うことがある? そなたにとって、この上なき誘いであろう。死期渡しを行えば余は消え、あの男も死を免れる――加えて、そなたの母君も、葬ることができる」

「え――?」

 和葉は耳を疑った。「なにを言っているの、あなた」

「今しがた申したであろう。余はそなたの情念すべてを把握した、と――それはあの男に対してのものだけではない、ということだ」

 想定外の言葉に、和葉は酷く困惑する。

 が、すぐに反論することはできなかった。

 一瞬、彼女の中でも、シキの思惑に沿った未来が描かれてしまっていた。

「……あの人を、犠牲にすればいいということ? 深山君を助けるために」

 そう問いかけると、シキはまた妖しく微笑み、

「死期渡しにも、執り行うにはいくらかの制約が存在する。まず一つが、余と契りを交わせる執行人を選定すること。これは死期を渡し合う者ら以外の人間であり、かつ当然、余を視認できる者でなければならぬ。この度はそなたがその役目を果たせばよい。

 そして二つ目の制約、これが重要である。死期を渡し合う両者は、同じ響きを有していなければならない」

「響き?」

「名の音、すなわち読みのことだ。そなたであれば、『かずは』ということになる」

 ハッと、和葉は目を見開く。

 そういうことか――ようやく、合点がいった。

 なぜ突然、シキが母親のことなど言い出したのか。

 ――夏樹と、那月。

 偶然にもあの二人は、同じ響きの名前を持っている。

「先ほど、そなたの部屋を訪れた者が母君であろう? 箱の中から覗いておったが、それなりに長命のようだった。少なくとも、あの男よりは」

 夕闇が辺りを包む中、銀無垢の視線が鈍く輝く。「うってつけであろう? あの男のために、犠牲として払うには」

 ゆっくりと、和葉はベンチに座り込んだ。

 シキから目を逸らすように俯き、考え込む。

 ――死期渡しを行えば、夏樹を救うことができるかもしれない。

 だが、そのためには別の『なつき』が犠牲になる。

 ありふれた名前ではあるが、赤の他人を犠牲にはできない。

 であれば、シキが言うように母親を――。

「……あたしへの代償は、なにもないの?」

 声を絞り出すように、和葉は訊いた。

「代償?」

「死期渡しを執り行う人に対する代償よ。そこまで人道に反したことをしておいて、なんのリスクもないなんてこと、ないんでしょう?」

「ない、と申せば、そなたは余と契りを交わす覚悟があるのか?」

 どこかはぐらかすように、シキは言う。

「ないというのは、誰かを犠牲にしたという現実に苦悩しながら生きていく……そういう目に見えないの苦しみを抱えることが代償とか、そういう類いの話?」

「否。ない、とは、そのままの意だ。死期渡しをすることでそなたが支払うべき代価など、なにもない」

 軽やかな笑みが鈴のように鳴って、「殺めたことに懊悩することも、ない。死期渡しを執り行った者は、死期渡しに関する一切を徐々に忘却していく。そなたが死期渡しによって殺めた者の記憶と共にな」

「記憶を、徐々に……?」

「あるいは、それが代償とも呼べるのかもしれぬ。が、これはむしろ申せば心遣いの類いだ。そなたの申すように、死期渡しを行った者は、誰を犠牲にするにせよ相応の苦悩に苛まれることになることが必然、それが人間の稟性というもの。

 然ればこそ、死期渡しには忘却の術式が組み込まれておる。それもまた、この儀が秘史となった要因かもしれぬな」

 じゃあ、本当になにも……。

 和葉の胸中に、大きな迷いが生じ始める。

 失うものはなにもない。あんな母親との記憶など、忌々しくは思っても惜しいとは思わない。

 死期渡しを行ったことへの罪悪感も忘れられるのであれば、なにも恐れることはない……夏樹を救うために、那月を犠牲にしてまってよいのではないか。

 ――いや、しかし。

 忘れてしまうのなら、それでいいのだろうか。……和葉はみたび考え込む。

 どうしようもない人間だとしても、那月は自分の母親なのだから。

 実の母親を犠牲にして、そのことを忘れてのうのうと生きていく、……そんな自分を想像して、和葉は強い嫌悪感を覚えた。人として、あまりに道徳を欠いた姿に思えた。

 それでも、――そんな未来を、はっきりと捨て切れない自分もいる。

 なぜならその未来には、――夏樹がいる。

 生きて、和葉の隣に立っている。

 彼はきっと、なにも知らないまま、すべてを忘れた和葉と共に約束を果たしてくれるだろう。

 犠牲を経た幸福か、理性に沿った不幸か。――大きな岐路の前に、和葉は呆然と立ち尽くしている気分だった。

「……いつなの、シキ」

 ほどなく、か細い声で訊ねる。「深山君の死期は、いつ来るの」

 和葉からの問いかけに、シキは満足げに喉を鳴らす。

「それはまだ、余も判然としておらぬ。先刻はただ、あの男から漂う死の気配を察し、申したに過ぎぬ」

 然れど、とシキは続け、

「正確な死期を読むことも無論、できる。そなたに見せることもな」

「見せる?」

「左様。その際は余を媒介とし、そなたとあの男の記憶を繋ぐ儀を行うことになる。まあそなたにとっては、いくばかりか酷なものに映るかもしれぬがな」

 癖のようにまた、喉を鳴らして笑うシキ。

 和葉は俯いたまま、すぐに頷くことはできなかった。

「少し、考えさせて……」

 と、答えただけだった。

 戸惑いと迷いが渦巻く中、夏樹のあどけない笑みが浮かんでは消えていった。


 ――それから、およそ一ヶ月後。

 和葉は遂にシキの力を使い、夏樹の死期を知るに至った。

 それから間もなく、彼女が話していたマラソン大会への参加も、決めたのだった。


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