そろそろ梅雨も明けるのだろうか……。

 バイト帰りの道を行きながら、和葉は雨のない夜空を見上げた。散らばった薄い雲の間隙から、半分の月が淡い輝きを湛えた顔を覗かせている。

 アパートに帰り着いたのは午後十時頃になった。部屋の中は真っ暗だが微かに話し声が漏れてきている。和葉は溜め息を零し、ドアを開けて中へ入る。

「ようやく、帰ったか」

 テレビの前でくつろいでいたシキが、気怠げな声を向けてくる。「相変わらずそなたは遅いな。バイトというのはこれほどの夜分にまで及ぶ仕事なのか?」

「……勝手に、テレビなんか見ないでよ」

 部屋の電気を点け、和葉は不機嫌な顔で言った。「前にも言ったでしょう? あたしがいない時に勝手なことしないでって」

「このテレビというのは、中々面妖なものだと思ってな。余が初めて見た時分よりも更に薄くなっておるし、俗世の進歩にはまことに目を見張るものがある」

「知らないわよ、そんなこと。ほら、そこをどいて」

 シキをテレビの前から立ち退かせようとする和葉。

 が、両手は彼女の体を通過するばかりで、やはり触れることは叶わない。

 シキは小馬鹿にするように笑い、「今更なにをしておる。余に触れられぬことは重々承知しておろう」

「……分かってるわよ」

 舌打ち混じりに言って、和葉はテレビの電源を切った。初めからコンセントを抜いておけばよかったと後悔した。

「というかあなた、触ったり触られたりできないくせに、どうやってテレビのスイッチを押したのよ」

「それもまた、今更な話だ」

 少女とは思えない艶やかな着物姿が、浮遊するようにゆらゆらと立ち上がる。「余は確かに、此岸のものには触れられぬ。しかし此岸と彼岸を繋ぐあの木箱にだけは触れることができる……そう申せば、そなたにも見当がつくであろう」

「木箱って、ああ……」

 いつの間にか引っ越しの荷物に紛れ込んでいた、細長い古びた木箱。

 実家であれを開いてしまったがために和葉は、――この少女と出遭ってしまったのだ。

「つまり、あなたが唯一触ることができるあの木箱を使って、テレビの電源を点けたわけね」

「簡単に申せばそうなるな」

「つまり、あの箱を壊してしまえばいいわけね」

 和葉はすぐさまウォークインクローゼットへと歩み寄る。確かここに仕舞っていたはずだ。

「無駄だ。あれは余にしか壊せぬ」

 シキが音もなく、和葉の隣にぴたりと並んでくる。「それに、いずこへ隠そうとも、余は見出すことができる」

「あっそ」

 どこまでも鬱陶しい子だわ……。

 和葉はクローゼットを開き、中からスポーツウェアなどを取り出して着替え始めた。

「よもや、またあの男の処へ行くのか? 来る日来る日も殊勝なことだ」

「病院がこんな時間に開いてるわけないでしょ。勝手に決めつけないで」

「では、いずこへ行くと?」

「あなたには、関係ない」

「幾度も忠告しておるが、そう悠長にしていてよいのか? よもや失念したとは申すまい」

 和葉は押し黙り、着替えの手を止めた。

「容易いことではないか。なにを迷う必要がある」

 なおもシキは、妖しい微笑みを湛えて囁く。「殺めてしまえばよいではないか――あの、壊れてしまった母君を」

「……っ」

 和葉は勢いよくクローゼットの戸を閉めた。耳朶を這った甘い誘惑を掻き消すために。

 それからキッとシキを睨みつけたが、その憤りはあまりに虚しかった。和葉はなにも言い返さずに踵を返し、部屋の電気を消して玄関へ向かった。

 ドアを開けて外へ出ると、「うわっ」とおののく圭祐の姿があった。

「どうしたんだよ八坂、そんな慌てて」

「あなたこそ、こんな時間になにしに来たの?」

「や、ちょっと話があってさ。まさか出かけるところだったのか?」

 そう訊きながら、圭祐は和葉の身なりに気づき、「もしかして、ランニング?」

「ええ、まあ……」

 和葉は曖昧に頷いて、「話、外でもいい? 今は部屋にいたくないの」

「いたくない? 夜風に吹かれたい的な?」

「面倒だから、それでいいわ」

「なんだよそれ、変なの」

 呆れたように笑いつつ、圭祐も拒みはしなかった。



「で、どういう風の吹き回しだ?」

 二人で夜道を歩いていたさなか、圭祐が訊ねてくる。「急にまた、ランニングなんて」

「急にじゃないわ。二ヶ月くらい前からよ」

「そうなのか? 初耳なんだけど」

「別に、わざわざ言うことでもないでしょう?」

「水くせぇじゃん。俺、同じ陸上部だったのに」

「今は写真部でしょ」

「や、今は今だし、昔は昔だし、略して今は昔だし」

「竹取物語みたいになってるわよ」

「いとをかしってか? あれ、なんて意味だったっけ」

 圭祐はなにか誤魔化すように笑って、「で、結局どういうことなわけ」

「どういうことって?」

「だから、なんでもう陸上部でもない和葉が、また急にランニングを始めたのかってこと」

「だから、急にじゃないわ」

「や、それはさして重要じゃねえから。ていうか、はぐらかそうとしてる?」

「別に、そういうわけじゃ……」

 そこまで言って、和葉は言葉に詰まる。

 なぜ再び走り始めたのか――理由は至ってシンプルだったが、それを他人に打ち明けるのは気が進まなかった。

「まあいいよ。そこの公園に寄ろうぜ。俺の用事を済ませるから」

 二人は最寄りの公園に立ち寄り、照明が近いベンチに腰を下ろした。

「はい、これ」

 ほどなく、圭祐が鞄から取り出したクリアファイルを手我してくる。「一応、今までの分もコピーしてあるから」

「……?」

 なんのことか分からないまま、和葉は受け取ったファイルを確認してみる。

 中には、西洋哲学の講義内容についてまとめたノートのコピーが入っていた。

「八坂、今日サボってただろ? 今日の講義の分も入ってるから、試験までにまとめとかないと苦労するだろうと思ってな」

「それはありがたいけど、大学で会った時でもよかったじゃない。わざわざアパートまで来なくても」

「だから今日、大学で会った時に渡そうと思ってたんだよ。でも八坂、来てなかったし。なんかむかついたから、アポなしで突撃してやろうと思って」

「全然意味が分からないわ」

「や、俺も分かんねえけどな。ただそういう気分だっただけで」

 圭祐はおどけたように笑って、「俺はバイト先で渡してもいいかなと思ったんだけど、八坂はそういうの、たぶん嫌だろ?」

 それは彼の言う通りだった。バイトの同僚などに見られたらからかわれる材料になるだけだ。

「それにさ、それ渡す以外にも、話したいことがあったっていうか……」

 わずかに、圭祐の声が控えめになる。「八坂に、謝りたいこともあったしな」

「謝りたいこと?」

「こないだ、八坂に訊いただろ? 病院に行かなかったかって」

「ええ……」和葉は頷きながら目を逸らす。

「あの時のこと、謝りたいと思ったんだ」

「どうして、あなたが謝るのよ」

「だって八坂、あれから俺のこと避けてるだろ?」

「別に」

「や、バレバレだから。俺と被ってる講義だけ全休してたっぽいし」

「別に、だけってことは……」

「写真部の友達が、ほかの講義では見かけたって言っていましたが?」

 あえて慇懃な物腰で訊ねてくる圭祐。

 和葉は諦めたような溜め息をつき、「ほんと、写真部の人脈って広いのね」

「俺、馬鹿だからよく分かんねえんだけど、なんか八坂の気に障ること言ったんだろ? だったら、ちゃんと謝るから。だから、なにも言わずに避けたりするのは、やめてほしい」

「別に、あなたが気にするようなことじゃないわ。あたしがただ、一方的に気にしてるだけで」

「八坂って、『別に』が口癖なとこあるよな」

 不意を突かれ、和葉は思わず顔を上げる。

 思っていた以上に真剣な眼差しを、圭祐の両目は湛えていた。「八坂はそう言うだけで解決させたつもりかもしれないけど、言われた方は全然納得いってねえからな。ちゃんと言われなきゃ、分かんねえだよ。八坂がなに気にしてるのか、なにをそんな悩んでるのか」

 無自覚なのか、ぐいいと体を近づけてくる圭祐。

 和葉は「分かったから」と、彼の体を押し戻し、

「でも、本当に、あなたが気にすることじゃないのよ。ちょっと、込み入った話というか」

「ちょっとなら大丈夫だ。話せよ」

「じゃあ、ちょっとじゃなく込み入った話というか」

「ちょっとじゃなくても大丈夫だ。話せよ」

「……頑固ね、あなたって」

 はあっ、と和葉は大きく息をつき、「なんでそんなにこだわるの? たとえすべてを聞いても、納得してもらえないと思うんだけど」

「や、それを決めるのは俺であって八坂じゃないだろ。それに俺からすれば、これはチャンスなんだよ」

「チャンス?」

「そう。八坂がなに悩んでるのかを聞いて、俺が元気づけてやるチャンスだ」

「なにそれ。子供じゃあるまいし」

「おいおい、そっちが先にしたことだろ」

「なんのこと?」

「ほら、中三の時……ちょうど、今ぐらいの時季だっただろ」

 和葉は黙り込み、懸命に記憶を辿る。

 それでも思い出せずにいると、見かねた圭祐が短く息をつき、「俺の親父が、亡くなった時だよ」

 言われて、和葉はようやく合点がいった。

 二人が中学三年生の時――圭祐の父親は交通事故で亡くなった。

 あの日は朝から滝のような雨が降っていたが、夕方には止んでいた。グラウンドが使用不能だったため陸上部の練習はなくなり、和葉は圭祐に誘われて寄り道に付き合わされていた。

 その時、圭祐のスマホに病院から連絡が来た――彼の父親が事故に遭い、重態のまま搬送されたのだと。

「あの時八坂は、俺と一緒に病院まで来てくれてさ。結局、親父が亡くなって、俺が廊下でうな垂れてた時、ずっと隣にいてくれただろ?」

「そういえば、そうだったかも」

「かもじゃなくて、そうだったんだよ」

 相変わらずだ、と言わんばかりに圭祐は苦笑する。

 これまでより少し、寂しげな笑みに見えた。

「俺、泣いたらみっともないと思って、ずっと我慢してたんだぜ? なのに、八坂があんまり優しかったから俺……結局、大泣きしちまってさ。情けねえなって、そう思いながら八坂の隣で泣いてたんだ」

「別に、情けないなんて思わないわ。だって、あなたのお父さんは、いいお父さんだったじゃない……悲しく思うのが当然よ」

 そう口走って、和葉は余計なことを考えた――いい父親でなければ、悲しく思わなかっただろうか。

 たとえば自分は、あのおかしくなってしまった母親が死んでしまえば……泣いてしまうのだろうか。あるいは、心のどこかで安堵してしまうのではないか。

「でもさ、ほんと、八坂には感謝してるんだ。今こうして笑って話せるのも、色々乗り越えられた証拠なのかなって。八坂のおかげなんだよ」

「あたしは、なにもしてない。あなたが強かったのよ」

「八坂が傍にいてくれたから、強くなれたんだ」

 まっすぐな眼差しが、微かに揺れて、「だから俺、八坂のこと……」

 続くはずの言葉は震えた吐息と化し、そのまま沈黙に変わる。

 思い詰めた圭祐の表情に、和葉は少なからず動揺していた。続きをせがむべきか迷った。

 しかしそれを聞けば、もう後戻りできない気がした。

「……今度の土曜日、時間ある?」

 いつの間にか、和葉はそう訊ねていた。

 思わぬ問いかけだったのか、圭祐は呆けたように戸惑い、「たぶん、暇だけど」

「じゃあ、一緒に病院へ行きましょう。そこで、全部話すから」

「全部?」

「あの病院に、なにをしに行ってるのか……どうしてあたしが、また走り始めたのか」

「その二つが、関係あるって言うのか?」

 和葉は小さく頷いた。

 圭祐はしばらく考え込んでいたが、やがて「オッケー」と承諾して腰を上げ、

「じゃあ土曜日に、病院集合でいいんだな」

「うん。詳しい時間は、またラインするから」

「はいはい。……あ、そうだ。帰る前にさ」

 突然、鞄の中を漁り始める圭祐。

 取り出していたのは、ごつごつとした一眼レフカメラだった。

「一枚撮ってもいいか? 走る格好の八坂なんて久しぶりだしさ」

「やめてよ。恥ずかしい……」

 拒否したものの、圭祐はすでにレンズを装着して撮影を始めている。意外にも堂に入ったカメラマン姿だった。

 和葉は溜め息をつくと共に苦笑する。対して、圭祐はカメラを構えたままけらけらと笑っている。彼らしい快活な笑みだったが、長年の付き合いである和葉にはなにかを誤魔化しているような、そんな心積もりが透けて見える笑みにも思えた。

 いや、誤魔化しなら自分も同じか――あの病院に彼を連れていって、どうしようと言うのか。

 和葉は密かに、自らの言動を悔いていた。

 こんなのは、ただの逃げでしかない。

 それでも、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。

 春先に出遭った亡霊のことも。突きつけられた苦渋の選択も。

 たとえ信じてもらえなくとも、――なにもかもを、打ち明けてしまいたかった。


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