きえかかり

埋もれていく言葉の数々

いずれ消えるかもしれない人の、その隣。

「あれ、君はもう消えたんじゃなかったの?」

 何の話だ。そもそも、話しかけてきているこいつは誰なんだ。もちろん、無視を決め込もうとしていた。それができなかったのは、逸らした先に目線を合わせてくるからだ。

「何だ? 喧嘩を売りに来たのなら余所でやれ」

「そういう訳にはいかないんです。だってあなたは消えたはず。誰からも忘れ去られて、跡形も無く消え去ったはずなんです」

「面白い喧嘩の売り方だな。ちょっとくらいなら、付き合ってやってもいい」

「それは良かった。じゃあ、これから僕とデートでもしませんか?」

「へぇ……どこに行くんだ」

「地獄です」

 覚えは無かった。



「ところで、地獄にはどうやって辿り着くんだ」

「よくぞ聞いてくれました! 実は地獄行きのチケットが……丁度二つも」

 手を振りかざしていた。何かを持っている素振りをして、何も掴んではいなかった。何もかも、馬鹿らしかった。

「……じゃあな。少しでもお前に付き合った俺が悪かった。今度はもっとマシな奴に付き合ってもらえよ」

「そんな。後生ですから」

 下半身も無いままに縋り付いてきた。足の無い奴に、後生も何も有るものか。死んだ者は潔く死を受け止めるべきだ。わざわざそんな説教をする気にもなれない。全く無意味だ。ここから早く抜け出して、どこか遠くに行かなければ……では、ここはどこだ?

「……ここがどこか知っているのなら、もう少し付き合ってもいい」

「もちろん! だって、死後の世界だからね」

「なるほど」

「信じられないのなら、それでいいですよ。信じられないのはこっちの方ですから。だってあなたはもう消えてしまっているはずなんです。だって、あなたは一度僕に会っているんだ」

「そうか」

「……あなたには、生き別れた双子がいる。そういう事ですか?」

「まさか、そんな訳ないだろう。もしかして、そいつも同じ事を言っていたのかな?」

「いや、例えですよ、例え」

「じゃあいないじゃないか、そんな奴」

 むくれている。分かりやすい奴だ。こうして話していると、確かに一度会った様な気がしてきた。そうでなければ、いよいよ話しかけてきた意味が掴めない。死後の世界という事については、かろうじて飲み込める状況だった。辺りには人っ子一人いない。街並みも無い。かといって、暗闇一色でもなかった。曖昧だ。これから着色されようとしている風景だった。そうでなければいよいよ狂っているのだ。そうであってほしかったのか。

「じゃあ、地獄というのはどんな所だ?」

「地獄というのは居場所です。あなたが想像する様な絵図とは違うものです。それは偏見です。あるいは地獄による詐称です。悪癖への偏りを防ぐ為に、より偏った概念が必要とされた故です。だから地獄というのは偏見です。そこには、そこに辿り着こうとした人と、そこにしかいられなかった人がいるのです。それを地獄というのなら、全ては地獄の渦中です。なら本当は、ここが地獄なのかもしれないですよね」

「それは欺瞞だな。お前は嘘つきか、そうでなければ世間知らずだ。世間というものは、そう簡単にはいかないものだ」

「だから、その世間が地獄の中にあるって、そう言っているんですよ!」

「だったら天国も地獄か? この世が地獄である様に? なら地獄の立場はどうなる? 地獄など、必要ではなくなるだろうな。それが平常になるだけだ。人を愚かだと言いたいのなら、お前もまた愚かだ。そんな分かり切った事を言うのは愚者だけだ」

 むくれている。こいつはこれより他に怒りを表現する方法を知らないのだろうか。しかし、怒らせようとして話しているわけでもない。そんな趣味はない。ただ、常日頃から腹立たしいだけだ。それは他者のせいではなかった。

「分かった分かった。俺が悪かった。お前の言いたい事を否定したかったわけじゃない」

「……じゃあなんなんです」

「俺はただ……お前の言いたい事に納得したかっただけだ。その為には、疑問は解消されなければならない。もっと言えば、元々俺は物事が馬鹿らしいだけだ。生きていようと死んでいようと関係ない。腹立たしい、憎たらしい、それはお前のせいではない。いつもそうなんだ。別にお前だから、当たり散らしているのではない」

「つまり、誰にでも当たり散らしているって事ですか?」

「……そういう事になる」

「なるほど、どうして地獄に行くのか、その理由が少しは分かりました。でも、本当にそれが理由なんですか? よく思い出してみてください」

 覚えが無いと当たり散らしてもよかった。それほどまでに覚えが無いものだから、どうにも薄情者らしい。他者に対してもそうだが、自分に対してここまで無関心でいるのはどうだろうか。しかし、もし既に死んでいるのだとすれば、ここまで意味の無い問答など他に無いのだろう。それでも考えているのだから、やはり愚か者だ。

「お前が知っているんじゃないのか。前に会ったんだろう」

「それでは、僕の言葉です。僕の意志の乗った曖昧な言葉です。どこまで伝えても、ひとりよがりの戯言です。自分で気づかなくちゃいけない。自分だから気づけなくちゃいけない。それはあなたの言葉だからです」

「……つまり、お前は何も知らないんだな?」

 また、むくれている。もしかすると彼の感情表現は、この限られた表情一つだけなのかもしれない。何だか切ない気持ちを一つ、確かに胸に携えた。曖昧だからこそ、大事に抱え込んでいた。この切なさは確かに切なさだろう。しかし、彼のむくれは、本当にむくれなのだろうか。彼はそこまで幼い存在なのだろうか。理知的な側面と、幼稚な振る舞いを一致させるのは困難であった。しかし、本当に困難であるのは死を実感する事だ。こうまで存在していれば、もう一度死んでしまえそうである。試してみようかと考えて、よしにした。


 死を疑っていても仕方のない事だが、彼がからかい半分なのは分かっている。なら、もう半分は常に真実だ。地獄には辿り着かないのだろうが、どこかに辿り着くという事は間違いない事だ。そうでなければ、やはりここが地獄なのだ。そうですらなければ、彼はここに長く滞在しすぎたのだ。そうと考えなければやっていられなかったのだろう。だとすると、ここにいる自分は何故だ?

「お前は、ここにどうやって来たのか知っているのか?」

「僕が何でも知っているとでも思っているの? それが分かっているのなら、こんな所にはいないよ。こんな……孵化しかけている卵の中身みたいな世界に、好き好んでいたいだなんて思った事なんか、一度だって無い。どこにもいられないから、ここにいるだけ。それってきっと、地獄だよ。そうだよね?」

「……それが地獄なら、ここは確かに地獄なのだろうな」

 それ以上、何も言えなかった。深刻な表情をしている間に、いつ嘘であると伝えてくれるだろうかと心待ちにしていた。そうでなければ、あまりにもかわいそうだ。自分の立場を棚に上げて、彼の立場を考えていた。ここにいたが、ここには誰もいなかったのではないか。彼も始めはここにはいなかったのではないか。自分は? 本当にここに訪れたのだろうか。何も言わなかった。風景の中に、見覚えのあるものを探していた。そんなものはなかったので、ここで産まれたのかもしれなかった。どうでもいい事だった。確たるものなど、一つもない。名前だってだ。そんな人間は、生きていようと死んでいようと、どうでもいい事だ。あるのはただ眼前の風景だけなのだ。だが、彼もいた。彼の為に、無責任にはなれないと思った。

「お前はこれからどうするつもりだ」

「そんなの、わかんないよ。でも……どこにも行けないし、ここにいるよ」

「そうか、そうだろうな」

 聞かずとも、分かる事だった。しかし、その為に聞いたのではなかった。何も言わず、側に佇んでいた。彼も何も言わなかったので、そうやって佇んでいた。彼はその時真横に立って、視界には入っていなかった。影もおそらく背中の方向に伸びていた筈だ。彼の肩に触れていた。そうしていなければ、彼はどこにもいないのだろうか。彼は、自分に因らず存在していた筈だ。しかしそれを認める何者かがいなければ、彼の存在もまた……どこにもない。実際に彼を存在させているのは空間だ。だが、それは彼にとって重要な事ではない。それは必要なものであるから、それではない、他に重要なものが有る筈なのだ。自分に、その役目はそぐわないと思った。黙っていた。そうやって黙っていたところで、物事は進展しないものだ。

「……少なくとも、消えるまではここにいるつもりだ。どうせお互い、ここから抜け出せない身なんだ。それなら身を寄せ合って生きる方がいい。前にいた奴もそうしていたんだろう。何となくだが、分かるよ。ここには二人だけだ。他にできる事もないしな」

 彼は肩に乗せられた手を掴んで、それ以上の意思表示を行わなかった。許されたと、思った。彼が許さなかったところで自分が消え去る筈もないのだが、素直に受け取られたとしてもどうにも不都合だ。ここにいたいとは思えなかった。ただ、ここにいなければならないだけだ。彼はいつからその状態を保っていたのだろうか。ここにはいつまでいられるのだろうか。彼はそこにいた。そこにいて、他のどこにもいなかった。そう確信していた。自分の事は、まだ何も分かってはいなかった。

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