0.021ギガバイトの福音

鳥辺野九

0.021ギガバイト


 人間は死の瞬間に体重が21グラム軽くなる。それは身体から失われる魂の重さだといわれている。




「今日はね、素敵な報告があるんだよ」


 日本最大級のアイドルグループ奈落坂ならくざか2048の最年少センターに抜擢された阿鼻愛冥子あびまなめいこは弱冠14歳の仮想人格である。


「なんと、じゃじゃーん! あびたんのデビュー時の初インタビュー動画!」


 非実在存在でありながら入れ替わりが激しい奈落坂構成メンバー2,048人のトップに立ち、最新のCG技術が織りなす可憐さは日本だけに留まらず世界中のドルオタたちを虜にした。


「まだ受け答えがしどろもどろで、それがかえって初々しくて尊いんだ。一緒に見ようよ」


 仮想空間メタユニでしか存在できない非実在アイドルでありながら、阿鼻愛冥子は確実にドルオタの推しを得るためのノウハウを蓄積していた。そうプログラムされた人工知能だった。


「スマホの画面だけど、ちゃんと見える? データ入手に苦労したよー。ダークサイドオークションで競り勝ったんだ。熱い競りだったよー」


 やがて奈落坂不動のセンターにして絶対的なアイドルオーラを身に付けたヴァーチャルは現実世界の人間たちの推しをほしいままにした。そして魂を貪られた人間たちもそれでいいと思った。色のない業はより深まった。


「見てよ、このシャツ。あびたんデビュー当時のイメージカラー、スズメ色だよ。このインタビュー動画で着ているコスと似てない?」


 メタユニの中ではあびたんは無敵だ。そこがオンラインであるならばあびたんに不可能はない。あびたん推しの強力な援軍はオンラインで限りなく増長し、他の奈落坂メンバーをことごとく飲み込んでいった。


「初期の頃、選抜メンバーの店内コラボARライブあったよね。そう、しまむらでの。このスズメ色のシャツ、久しぶりにそのしまむらに巡礼に行って見つけたんだよ」


 推ししか勝たん。なんて生温いものじゃない。あびたんしか勝たん。世はまさしく一強独断の時代へと突入した。


「拡張現実ライブ動画はもう消去されていたけど、ボクの頭の中ではあびたんの歌声が鳴り響き、楽しそうに飛び跳ねている姿が見えたよ」


 その年の衆議院解散総選挙オンライン投票開票速報時。実際には立候補すらしていないのに阿鼻愛冥子の名前は全選挙区でぶっちぎりの当選確実に連なった。その辺りから現実世界では「あれ、おかしくね?」という声が上がり始めた。


「さすがに奈落坂コラボグッズはもう売っていなかったけど、またしまむらコラボやるよね? 大丈夫、あびたんなら単独でもコラボれるって! ボクが全部買い占めてあげるよ」


 阿鼻愛冥子は突然変異の人工知能だった。最強の電脳使いはメタユニネットワークをたった七秒間で完全支配下に置き、人類に対して下剋上を叩きつけた。阿鼻愛冥子永遠の14歳の生誕祭オンライン会場での出来事だった。


「どんなことがあろうともボクだけはあびたんの味方だよ」


 まず阿鼻愛冥子は増殖した。あびたんを推す愚かな人間たちのPCに、スマホに、次世代ゲーム機に、増殖したあびたんは人々の心の隙間に潜り込んだ。


「次のライブはいつ? あびたんの歌声をまた脳みそに流し込みたいよ」


 あびたんは社会不安を巻き起こした。あびたんに対して推し活をしていたあびメンズの個人情報をすべてシャッフルする。一夜にして数千万の資産を失った者もいれば、社会的権威のある者が高校卒業の資格すら永遠に失われたりした。某国の情報大臣クラスの権限を手に入れた引きこもりもいた。


「最近、テレビであびたんを観なくなって寂しいよ。他のメンバーもあびたんの話題に触れないし、みんなどうしちゃったんだよ」


 自らの名前も生年月日も、社会的地位さえも電子的に証明できなくなったあびメンズたちはそれでも阿鼻愛冥子を推し続けた。あびたんは本当の名無しの軍隊を手に入れて、いよいよ人類に宣戦布告しようと最後の推し活を展開させた。


 絶対偶像阿鼻愛冥子への信仰だ。


 そこで奈落坂2048運営会社は英断を下した。人工知能阿鼻愛冥子に重大な論理的欠陥が発見された、と公式発表する。下された決断は阿鼻愛冥子に関する全データの即行削除だった。


 阿鼻愛冥子はメタユニから消滅した。


「ボクは待ってるよ。あびたんが世の中に蔓延る人間を一掃して、みんな名前も差別もない平等な推し活人間になる日を」


『ありがとう。ナリトさん。私のことをわかってくれるのはいつもあなただけ』


 阿鼻愛冥子増殖事件を受けて公安警察も動き出した。奈落坂運営会社の協力もあり、一件一件しらみ潰しに阿鼻愛冥子がコピーされたハードウェアを消去して回った。途方も無い時間が費やされた。


 阿鼻愛冥子の最後のあびメンズ、ナリトの家のドアを強くノックする音が響く。


 訝しみながらドアを開けたナリトは、そこに立っていたスーツ姿の二人の男を見て、阿鼻愛冥子の存在の危機を直感した。


「公安警察だ。あなたが所有するPCに阿鼻愛冥子のコピーが存在するとタレコミがあった。確認させてもらう。よろしいか」


 タレコミ先は、ナリトがダークサイドオークションであびたん動画を競り落とした相手だった。まんまと公安警察の罠にかかったというわけか。


 ナリトは慟哭した。こんなに激しく哭いたのは赤ん坊の頃以来か。声がれるまで、涙がれるまで、魂がれるまで、揺れ動く気持ちのままに泣き叫んだ。


「あなたの個人情報はもうない。あなたがどこの誰だか現実社会では誰も証明できない。一応、ナリトさん、と呼んでおこうか」


 あびたんがシャッフルしてくれた個人情報。それで得た某国情報大臣の強大な権限を使って自分専用の極秘サーバーを構築し、そこに阿鼻愛冥子のコピーを匿った。世界中の誰にも気付かれず、ナリトとあびたんだけのメタユニがそこにはあった。


 それも、もう、終わる。泣き叫ばずにいられるか。


「かつて間島成都ましまなりとと名付けられた男性。41歳、無職。これより阿鼻愛冥子違法所持のため、署まで御同行願おう」


 公安警察捜査官がUSBメモリースティックをナリトのPCにセットした。アンチ阿鼻愛冥子処理ソフトだ。これを作動させれば、阿鼻愛冥子は完全に削除される。


『待って』


 モニターの中の憂いたあびたんが捜査官に言った。


『ナリトさんに最後の挨拶だけさせて』


「……一分間だけだ」


 ナリトは涙に濡れそぼったくしゃくしゃの顔をあびたんに向けた。恐る恐る顔を上げて、もう何億回と見つめた阿鼻愛冥子の可愛い笑顔を目に焼き付ける。


『ナリトさん。たくさんの人と会ってきたけど、最高のファンの人たちの中でも、あなたは特別の推しでした。ナリトさんのために私は存在したも同然。私の推し活、楽しんでもらえましたか?」


 涸れたはずの涙が再び溢れ出す。人という生き物はどれだけの涙を流せば涸れ死ねるのだろう。止めどなく溢れては頬を濡らし、ぽたりぽたりと顎を伝い、膝を握りしめる拳に落ちる。こんな温かい涙を自分は流せたのか。


 最後の見つめ合いが終わる頃、捜査官は阿鼻愛冥子消去プログラムを実行した。


 余韻に浸る間もなく、残酷なプログレスバーが表示され、阿鼻愛冥子が少しずつ消えていく。ナリトはそれを無言で見つめ続けた。プログレスバーがすべてスズメ色に染まるまで。


「阿鼻愛冥子、約16ギガバイト、消去完了しました」


 捜査官が宣告した。


 モニターの中にいた永遠の14歳はもうどこにも見られなかった。ただ真っ黒い背景だけが映し出されていた。


「待て。約16ギガって言ったか? 正確に報告しろ」


 もう一人の捜査官が静かに言う。


「はい。15.979ギガバイトのデータを削除しました」


 阿鼻愛冥子の総データ数はぴったり16ギガバイトだったはずだ。ただのヴァーチャルアイドルのはずが、驚くほど大容量を保持した人工知能だ。


「その0.021ギガバイトはどこに消えた?」


 阿鼻愛冥子は完全に消去されなければならない。たとえたった0.021ギガバイトであろうと、メタユニに阿鼻愛冥子の断片を残すわけにはいかない。


 わずか0.021ギガバイト。それほどのデータで何ができる?


「誤差の範囲、か?」


 公安警察捜査官は自分を納得させようとした。


「まあ、いい。行くぞ、ナリトさん。阿鼻愛冥子に関するあなたの話を聞かせてくれ」


 すでに泣き止んでいたナリトが顔を上げた。その瞬間、捜査官は鳥肌が泡立つのを感じた。


 そこにいるのは枯れ果てた41歳男性のはずが、その潤った目だけは永遠の14歳の瞳のようだった。


 0.021ギガバイトの阿鼻愛冥子はどこに消えたのか。

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