わたしにできること
藤光
わたしにできること
わたしにできることってなんだろう。
ずっとそんなふうに考えてきた。もうあれから何年も経つのに、自分のことがとても幼く思えてしまう。わたしにはなにができて、なんのために描けばいいんだろう。このままでいいのかな――
「
どん。
目の前に単行本を山のように積み上げられてわれに返った。担当編集の
大人気漫画『ハートブレイカー』
初単行本発売記念 握手会
貴澄もあ先生
ここは◯◯市内の大規模書店のバックヤード。わたしの初単行本を記念した握手会を告知する立て看板が運び出されていく。
「これは?」
「いやですよ先生、言ったじゃないですか。今日の握手会に来てくださったファンの方向けのサイン入り単行本です。200冊。書いてくださいね」
「ええっ!」
聞いてないよう。副島さん、いいひとなんだけどいつもいきなりなんだよな。あと一時間しかないじゃないか。手が
「だいじょうぶですよ。『ハートブレイカー』は読者アンケート上位の常連なんですから、こんなのすぐになくなっちゃいます。先生はもっと自分に自信をもたなくっちゃ。元アイドルだなんて信じられないです。ファンのみなさんを信じましょう!」
と副島さんは言ってくれるけれど、ほんとうに大丈夫なのだろうか。生まれてはじめて出版してもらえる単行本だし、不安だ。……こうして不安な気持ちでいるから、変なもの思いに
そうだった。わたし自身忘れがちになっているけれど、以前のわたしは副島さんが言ったようにアイドルグループに在籍していた。当時のメンバーはみんな卒業してしまっていないけれど、グループ自体はメンバーを入れ替えて活動を続けていて、いまもよくテレビで見ることできる。そうかあれからもう五年も経ってしまうんだ。
子どもの頃からマンガが大好きだったわたしは、漫画家になるのが夢だったのだけれど、なにを間違ったのかアイドルの道へ。さいしょは事務所の社長に勧められるまま、学生時代の思い出づくり――と、はじめたのだが、わたしの予想以上にグループの人気が上がってしまい、辞めるにやめられない状況になってしまった。
グループの人気を決定的にした初めての武道館コンサートの日が、無理に無理を重ねたわたしの心と身体が限界を迎えた日となった。「やめます」。コンサートの後、公演の成功に冷や水を浴びせるように宣言して、わたしはグループを卒業した。メンバーからの信頼もファンからの応援も裏切ったわたしは、スポットライトの当たる舞台から逃げだしたのだ。
アイドルをやめた後、わたしは子どもの頃からの夢を叶えて漫画家になった。ある大手出版社がわたしのマンガを雑誌に掲載しようと申し出てくれたからだ。「夢にまでみた、漫画家になれる!」衝動的にアイドルをやめ、落ち込んでいたわたしは有頂天になったけれど、出版社のもくろみはわたしの感激とはまったく別のところにあった。
人気アイドルグループの元メンバーが描くマンガは話題になる。話題の作品が掲載される雑誌は売れるに違いない――わたしの描く作品が評価された訳ではかった。出版社は人気アイドルが描いたマンガが欲しいだけだったのだ。
案の定というべきか、わたしの描いたラブコメはまったく評価されなかった。元アイドルが描いたというだけで読んでもらえるほど読者は甘くない。アンケートでは最下位だったし、雑誌の売り上げが伸びたという効果もなかったそうだ。出版社もあてが外れて鼻白んだだろう。わたしの作品がその雑誌に掲載されることは二度となかった。
わたしが傷つかなかったといえば嘘になるけれど、それはそうだよね。漫画家になろうって人はたくさんいて、そのためにずっとがんばってるんだから。元アイドルだったというだけで、大して努力していないわたしがやっていけるわけはなかった。アイドルという仕事を嫌っていながら、わたしは元アイドルという属性を利用して漫画家になろうした。じぶんでじぶんの卑怯さ加減が嫌になった。
でも、わたしにはマンガしかなかった。アイドルはやめてしまったし、学歴はない、資格もない。あるのはマンガが好きだという気持ちだけ。原稿を描いて、マンガの公募賞に応募して、落とされて、また、描いて……。
描き続けて、描き続けて、やっと中堅出版社の新人賞で佳作をもらえてデビュー。その頃にはラブコメを描くのをやめていた。『ハートブレイカー』はヒトとAIとの間に生まれる恋愛に似た感情のすれ違いを描いたSFドラマだ。正直いって大手出版社からは、相手されないだろうと開き直って描いた作品だった。
『ハートブレイカー』は予想外の支持を受けて連載が決まり、半年後には単行本化も実現した。もうわたしがアイドルだったことなど、世間の人はみんな忘れてしまっていて話題にもならなかったけれど、そんなことどうでもよかった。やっと元アイドルを卒業して、漫画家になれたような気がしてうれしかった。
『ハートブレイカー』を読んでくれた人全員と握手して「ありがとうございます。漫画家になれたのはあなたのおかげです」とこの気持ちを伝えたいくらい――とカフェで打ち合わせしたとき担当編集の副島さんに話したのが先月のこと。
「先生。握手会決まりました。来週、◯◯書店です」
ええっ。驚いたときにはもう遅かった。副島さんは驚くほど行動力のある編集さんだったのだ。
「アイドルだったんだから平気ですよね」
先着200名の握手会を大規模書店で行う話を決めてしまったのだ。そりゃむかしは握手会をしてたけど、何年も前のことだよ。しかも200人なんてそんなにたくさん読者の人が集まってくれるのだろうか。握手会がはじまるまで、わたしは不安でいっぱいだった。
副島さんはすごい編集者だ。蓋を開けてみると握手会は盛況で200冊のサイン本もすべて売り切れてしまった。本を買ってくれた読者の人たちとひとりひとり握手をして、感謝の言葉を伝えられたのはわたしにとってもとてもよい経験になった。
――いつも読んでいただいてありがとうございます。
握手会、さいごの読者の人は白杖を手に持った若い女性だった。母親と思われる女性に手を引かれた彼女の姿に、アイドル時代、五年前の握手会まで時間が遡ったような錯覚を覚えた。
「もあちゃん。単行本発売おめでとう」
声もあの頃と同じ。彼女はわたしがアイドルだった頃、わたしを「推し」として支えてくれたファンの女の子だった。名前はたしか――
「ヨーコちゃん?」
「はい。ヨーコです。もあちゃんに覚えててもらえたなんて感激です! グループを卒業した後も、ずっと応援していました。『ハートブレイカー』の連載がはじまって、わたしうれしくって」
「ありがとう……でも、ヨーコちゃん……」
あの頃のヨーコちゃんは中学生になったばかり。グループメンバーの中では地味で歌もダンスを下手くそだったわたしを「推し」てくれていた。わたしの歌が好きだ応援したいといって、握手会ではいつもわたしの列の先頭に並んでくれていた。でも、彼女はだんだんと視力が失われてゆく病気にかかっていて、当時でも、もうほとんどステージで踊るわたしを見ることができなくなっていたはず。
「うん、もう見えなくなっちゃって。だから、今日もみなさんの迷惑にならないよう一番最後にしてもらったの」
その方がゆっくりもあちゃんと話せるしといって、ヨーコちゃんはわたしがアイドルをやめた後、目が見えなくなってしまったこと、そのため高校での勉強が難しくなったこと、でも、じぶんのように目にハンデをもった人の役に立ちたいと勉強して大学に入ったことなどを話してくれた。
「でも、大学での勉強はもっと難しくて……あきらめかけた時に、もあちゃんの『ハートブレイカー』の連載がはじまったってお母さんに教えてもらったの。『もあちゃんが頑張ってるんだから、わたしも』って思ったら元気がでてきて……今日はそのお礼もかねて握手会に参加したの。もあちゃん。単行本発売おめでとう。もあちゃんが頑張っていることで、わたしも頑張れます。これからも素敵なマンガを描いてね。応援してます」
全身が震えた。わたしはヨーコちゃんの話を聞いている間じゅう、彼女の手を握ってただうなずくことしかできなかった。わたしの返事を漏らさず聞こうと耳を傾けている彼女の視線が、あてもなく宙をさまよう様子に胸が締め付けられる! ヨーコちゃんは目が見えない。マンガを読むことができないのに、わたしの単行本出版を喜んでくれている。読めないのに――!
――こんな
握った手に自然と力がこもった。
「来てくれて、とてもうれしい」
ヨーコちゃんの言うことが少しだけわかったような気がした。目が見えないというハンデを追った彼女が、大学で勉強をがんばっている姿を思い浮かべると、わたしも苦しいマンガ連載を続けていくことをがんばれそうな気がする! 「推し」って、きっとそういう存在なんだと思った。だとしたらわたしもヨーコちゃんを「推し」ていきたい。ヨーコちゃんをわたしの推しメンにしたい!
そう気づいてしまったわたしは、わたしを推してくれるファンの人たちをもう裏切れないと思った。わたしは漫画家としての新たな決意表明のつもりで200冊目のサイン本にメッセージをしたためた。
――大学での勉強、がんばってね。
――わたしもヨーコちゃんのこと応援したい。一緒にがんばろう!
いまはまだ、これがわたしにできることの精一杯。
ありがとう、ヨーコちゃん。がんばろうね。
わたしにできること 藤光 @gigan_280614
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