パックの寿司、あるいは
あじさい
* * *
先週の水曜日にはもう、今週の土曜日の夜はスーパーでパックの
だが、いざ土曜日の仕事を終えて職場を後にしてみると、わざわざ寿司なんて買わなくても良いような気分だった。
こういうことはちょくちょく起こる。
仕事に集中しすぎて神経が高ぶって食欲が抑えられているのか、それとも、疲れすぎて寿司に対する興味が下火になってしまったのか。
大変な仕事に取り組んでへばりそうな心を、将来のご褒美を
わざわざ高い金を払ってパックの寿司を買わなくても、冷凍庫に入れてあるタッパーの白米を食べる方が、経済的かつ理性的な選択に思えてくる。
こんなことを思うのは、自分では仕事に真剣なつもりでも実は本気で取り組めていないからだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。
自分で言うのも何だが、俺は基本的にマジメに生きているはずだ。
前々から決めていたんだ、今日は
明日も出勤しなければならないし、来週も普通に仕事があるからこの先1週間は休日がないが、それでも構わない。
明日の仕事中に「昨日、パックの寿司を食べておけばよかった」と後悔するくらいなら、もうここでパックの寿司を食べてしまおう。
そんなことを考えながらTugetterを眺めている内に、電車が自宅の
本当はもっと有意義な時間の使い方をするつもりだった。
いや、有意義かは分からないが、スマホにはカクヨムと青空文庫の他にニュース系のアプリも入れてある。
それらを開く前にTugetterを見たばっかりに、時間が溶けてしまった。
俺のTLには、オリジナルなのかパクリなのか、商業化されているのかいないのかよく分からないマンガやイラストと、昔の友人たちによる文脈不明の独り言しか流れてこないから、世間的には時間の浪費になると思う。
とはいえ、Tugetterで時間を無駄にしたと後悔するほど、俺は通勤電車に揺られている間の時間にも自分自身にも期待していない。
「あ、もう駅に着いた。暇な時間を持て余さなくて済んだなぁ」
それだけだ。
駅前のエーオンのスーパーは、自宅の近所のスーパーよりも陳列している商品の量が多く、この時刻でもパックの寿司が売れ残っている可能性もそれだけ高い、気がする。
だが、歩いて数分と言ってもその数分が面倒だ。
無駄足になる可能性もゼロではないし、バスが20~40分に1本しか来ないから、長く待たされることは必至だ。
バスは乗れる内に乗っておきたい。
俺は自宅近所のスーパーにパックの寿司が残っている可能性に
自宅の近くまで行くバスがスーパーのすぐ目の前で停まるから、歩く量が少なくて済む。
もしスーパーに残っていなければ、もうそれでいい。
元々、どうしても寿司が食べたいわけではなくて、寿司を食べておこうかというくらいの気持ちでしかないのだ。
だが、バスに揺られた後、スーパーに入って空っぽのパック寿司コーナーを目の当たりにした俺は、自分でも不思議なくらいガッカリした。
いや、ガッカリしたというより、喪失感を覚えた。
もし売れ残っていれば、パックの寿司には半額シールが貼られていたはずだ。
普段は598円のパック寿司を、300円弱で購入できるはずだった。
もちろん半額シールが貼られたからこそ売り切れてしまったのであって、俺がもっと仕事を頑張ってもっと早くここに来ていればよかっただけなのだが、そういうことではないのだ。
いや、そういうことには違いない、間違いなくそういうことではあるのだが、そんな正論など聞きたくない。
別に食べなくてもよかったはずなのに、いざ食べられないと分かってしまうと、パックの寿司が、いや、このタイミングでパックの寿司を食べるという行為が、妙に価値のあるものに思えてきた。
1日仕事をこなした疲労感のせいで、こだわりや情熱と言えるほどの温度にはならないが、口はすっかりパックの寿司を迎え入れるつもりになってしまっている。
よりにもよって、白米の少なさを容器の形状で誤魔化した海鮮丼も、手頃な値段の刺身も残っていない。
どういうことだ。
妙に高い値段が付けられている
たしかに鯛の刺身は
旨いのだが、これっぽっちの切り身に658円は出せない。
この大きさでパック寿司の通常価格より高いなんて、おかしいだろ。
俺はアリバイ作りのように野菜ジュースとスポーツドリンクを買い物かごに入れ、それに加えて缶チューハイを何本か買って、スーパーを出た。
料理なんてまともにできないし、できるようになりたいとも思わないし、スーパーで買えるものをわざわざ手作りしたいとか誰かに手作りしてもらいたいとも思わない。
食事や味の違いにこだわりがないから、ビタミンもミネラルもその他の栄養素も、健康を損ねない程度に
そんな食生活だからこそ、自分へのご褒美のつもりで心に決めていたものが手に入らなかったことが余計につらい。
スーパーから5分ほど歩いて、ひとり暮らししているアパートに到着。
奥に誰もいない扉を開ける瞬間は、日によっては息が詰まるような寂しさに襲われるが、仕事終わりはホッとすることの方が多い。
いつも通り、リサイクルショップで買った小さなTVを、とりあえず
部屋が無音なのは落ち着かない。
最近やたら再放送が多くて録画機器を空回りさせてばかりいるNHKは、俺にとっては全く興味が湧かない番組しか流していなかった。
チャンネルを変えていくと、俺には揚げ足取りばかりに見えるが世間的にはツッコミが鋭いことになっているのであろうお笑い芸人と、差別的な言動が何度も問題視されたのになぜか失脚しなかった大物政治家の息子が、大声でおしゃべりしていた。
顔の見えない観客が笑っているから、超面白い場面なのだろう。
テロップを見てもトークテーマが分かるだけで、トークの流れや、何がそんなに面白いのかまでは分からないが、俺も釣られてちょっと笑う。
まだ夕食を何にするか決まっていないから、寿司の代わりになるものは用意していない。
冷凍庫を確認すると、ちゃんと白米が残っていた。
だが、パックの寿司を食べようと思っていた夜が、こいつとインスタント味噌汁だけで終わってしまうのは味気ない。
決断を先延ばしにするつもりで、とりあえず一息ついて、シャワーでも浴びながら考えるか、と思ってみる。
部屋の
TVを点けたまま、スマホを充電ケーブルにつなげ、ローテーブルの前に
元々、平日のこの時間帯のTVには期待していなかった。
動画配信サービス、Tugetter、基本無料のソシャゲの方が、娯楽としても暇つぶしとしても優秀だ。
指先に
一度見た動画もそうでない動画もあるが、今の気分で特別強く興味がそそられるものもなく、ホーム画面の下の方まで何となく眺めていく。
深夜アニメの一部を切り取った、違法なのか合法なのかよく分からない1分余りの動画を再生するかどうか迷いながら、スマホを手に取る。
スマホゲームのログインボーナス、今日の分は受け取ったんだっけ?
TVがCMに入った。
再びチャンネルを変える。
さっきはCMを流していたチャンネルで、今はYo-Tubeで拾ってきたような動画を紹介する番組が流れていた。
犬猫はかわいいが、そこに人間が大はしゃぎでアテレコしているのを見る気分じゃない。
TVを切る。
Yo-Tubeで、スマホゲームの重課金者が先日プレイアブル化した新キャラの性能を解説する動画を選んで、クリックする。
だが、うっかり音声のミュートをし忘れたせいで、車も持っていないのに自動車保険のCMが耳に入ってしまい、とっさに画面をクリックして一時停止する。
CMの最初に最大音量で自社や商品の名前を唱える広告戦略は、俺には不快でしかない。
この動画、途中で何度かCMが入るタイプだろうか。
Yo-Tubeはやめて、ドゥアニメストアで、すでに何度も見た日常系アニメを流す。
見飽きてしまったから今さら笑えるわけでもないのだが、ゆるくて楽しげな雰囲気は心地よいし、先の展開を知り尽くしているから安心して流し見できる。
そうこうしている内にチューハイの缶がひとつ空いてしまうと、妙に虚しさを覚えて、俺は再びパックの寿司に思いを
やっぱり、俺は今夜、何としても寿司を食べなければならなかったんだ。
そんな思いがすきま風のようにこみ上げてきた。
とはいえ、今から駅前に舞い戻って閉店寸前のエーオンに突撃するのは気が進まない。
バスの往復だけでパックの寿司の値段くらいにはなるし、行き帰りのバスを待つだけでも時間がかかってしまう。
高校時代から使っているママチャリもあるにはあるが、駅前までの道には坂もあるし、自転車でも20分以上かかるから、1日の仕事を終えた身にはつらい。
いや、待て。
このアパートと駅の中間地点くらいの位置に、コンビニがある。
パックの寿司はないだろうが、代わりになりそうなものが売っているかもしれない。
具体的なメニューは思いつかないが、とにかく、見かけた瞬間に「これだ」と思える食べ物が欲しい。
スーパーにはなかったが、あのコンビニにならあるかもしれない。
思いつきでしかなかったし、大手のコンビニではあってもその店舗に入ったことはないから、どんな商品が並べられているのか細かいことは分からない。
普段の俺なら、ちょっと思ったとしても実際に出かけることなどなかっただろう。
だが、このときの俺はすでに腰を上げていた。
再びスーツを着るのはさすがに気が進まないから、適当に私服を引っ掴み、体を通していく。
鏡で身だしなみを確認するのも面倒で、アパートを飛び出した。
ついさっきまでは、体の疲れか精神の疲れか、
だが、服を着て、部屋を出て、自転車を
もちろん、疲れがきれいに消えたわけではないし、客観的に見れば、単に男が夜にコンビニに出かけるだけだ。
それでも、普段であれば部屋に引きこもっているはずの時間帯に、わざわざ1回の食事のためだけに、服の下にうっすらと汗をかきながら自転車を漕いでいるのは、最近の俺にしてはひどくぜいたくな時間の使い方に思えた。
信号で足止めを喰らって、スマホを家に置いてきたことに気付いたときでさえ、悪い気はしなかった。
バスに揺られながら窓の外にあるなぁと何となく思っていたコンビニは、ちゃんと実在しており、まだ
それにしても、コンビニとはどうしてこうも明るいのだろう。
人工的で強烈な光が目に痛い。
店内も例によって、全国のどのコンビニとも変わらなかった。
腹に
過度に期待するのは良くないと思う一方で、俺はひそかに期待していた。
だからこそ、こうしてここまで自転車を漕いできたわけだ。
だが、実際に商品棚の前に立ってみると、体の内側で何かが急速にしぼんでいくのを感じずにはいられなかった。
牛丼もカツ丼も醤油ラーメンもチャンポンも、美味しそうではある。
だが、どれをとっても、1週間以上前からパックの寿司を迎え入れようとしていた俺の期待感に馴染みそうには思えなかった。
丼とラーメンの棚を上から下まで何往復も眺めながら、何か良い妥協点はないものか、と俺は悩んだ。
今の気分にドンピシャリなものは、最初から期待していない。
アパートを出たときから、何かで妥協するつもりだった。
コンビニに行けば、実際の商品を見れば、何か見つかるに違いないと思っていた。
だが、探していたものが見つかったという、腑に落ちた感じがしない。
ここまで来たら、何でもいいから、数あるメニューの中からひとつを選び取る理由が欲しい。
スタミナがつくとか、食べ応えがあるとか、あるいは逆にヘルシーだとか、胃腸に優しそうだとか、理由は何でも良い。
何でも良いから、唯一無二の理由が欲しい。
そんなことを考えている内に、誰かが俺の後ろを通り過ぎた。
何の気なしに振り返る。
ただのお客さんだ。
俺は視線を商品棚に戻す。
ただそれだけのことだったが、この棚の前でうんうん唸っていることが、急に面倒になってきた。
明日だって仕事があるのに、俺は一体何をぐだぐだと迷っているのだろう。
自宅の冷凍庫ではタッパーに入った白米が出番を待っている。
いっそのこと卵かけご飯にでもして――。
卵かけご飯!
寿司とは全く違うものなのに、その
白米と生卵が
肉やラーメンほどこってりしていないし、醤油をかけても旨い。
卵なんだから栄養もあるはずだ。
今の状況であれ以上に魅力的な食べ物があるだろうか、いや、ない。
まるで最初からそれを求めていたかのように、俺の口はすっかり卵かけご飯の口になった。
俺はついに答えにたどり着いた。
幸い、左右に目を走らせるとすぐに、パックの卵が見つかった。
普段料理をしないからパックの卵もめったに買わないが、
いや、それが何だ。
スーパーは閉まっている時間だし、ここまで来て買わない手はない。
コンビニでは他に、ペットボトルのお茶と、開封してそのままでも食べられるベーコンを買った。
酒を飲んだ後に自転車を漕いだせいか、喉の
トートバッグを自転車かごに入れると中で卵が割れて大惨事になるかもしれないので、肩から
再び自転車にまたがり、えっちらおっちらと漕いでいく。
改めて考えてみると、パックの寿司を断念せざるを得なくて散々迷った挙句、卵かけご飯にたどり着くなんて、変な話だ。
別に豪華でも何でもないし、白米と卵さえ買えば基本的にいつでも食べられるのに。
それに、スーパーで思いついておけばこうして夜中に自転車を漕ぐ必要はなかった。
それでも、自分で自分を冷笑する気は起きない。
それがいちばん不思議だ。
自宅アパートにたどり着いて、トートバッグの中を確認。
卵は無事だ。
戦利品を冷蔵庫に突っ込み、
タッパーの冷凍ご飯を電子レンジで温めている間に、おしぼり、どんぶり、箸、醤油、卵、その殻を置く小皿、ベーコン、野菜ジュースなどを用意していく。
座椅子を置いた床に腰を下ろす生活スタイルだから、食事中に立ち上がる事態は避けたい。
白米を温め終わってから、インスタントで味噌汁を作るという選択肢を思い出したが、もうそれはいいことにした。
もし酒を飲み過ぎて酔いが残ったら、そのときまた考えよう。
必要なものが
準備は整った。
いよいよだ。
タッパーの白米をどんぶりに移し、その上で卵を割る。茶碗ではなくどんぶりにしたおかげで、卵がこぼれずに済んだ。
黄身を
そして、かき込む。
何のことはない卵かけご飯。
何なら、電子レンジで温めたはずの白米が所々まだ冷えて、パサついている。
だが、それでもやっぱり卵かけご飯は旨い。
間違いない。
ご飯に醤油を垂らせば風味が変わって飽きない。
付け合わせのベーコンは、焼いた方が良かったかもしれないが、そのままでもそれなりに美味しかった。
結局、太るかもしれないと思いつつ、俺は卵かけご飯を3杯食べた。
その後は缶チューハイを胃腸と脳に流し込み、いいかげん遅くならない内に、歯磨きをして、スマホの目覚ましがセットされていることを確認して、
翌朝、元気
とりあえずスマホの通知を確認し、スポーツドリンクを飲む。
TVを点けて、部屋を音で満たす。
台所には、俺自身がそうしたのだが、洗わずに水に漬けただけのどんぶりと箸が放置されていた。
いくら酒を飲んでたからって、寿司の代わりに卵かけご飯を自分へのご褒美にして喜んでたなんて、昨晩の俺はやっぱり疲れてたんだなぁ……。
自分自身を無意識に鼻で笑った後、ここが職場ではなく自宅であることは百も承知の上で、「帰りてぇ」と
パックの寿司、あるいは あじさい @shepherdtaro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます