彼女は丘へ続く道の右側七十二本目の木を背に日が昇る方向へ大きく十九歩進んだところに生えた木を愛でている。

ナナシマイ

「はぁ素敵。セラぽんは今日も素敵!」

「はいはいそうだね、早く行かないと日が昇るよ。あと火がもったいない」

 松明はそれなりに重いはずなのに、ネネは細い肘と薄い肩で器用にバランスを取って左腕だけで抱え直した。自由になった右手はごつごつした――彼女曰く「推し」の表面へ。まん丸の茶色い瞳をとろとろに溶かし、うっとりした表情で右手をすりすり動かすものだから、友達じゃなかったらあたし、距離をとってたと思う。それくらい怪しい。

 村から丘へ続く一本道。その右側を七十二数えた木を背に、日が昇る方向へ大きく十九歩進んだところに生えてるセラの木。

 ネネの推しだ。

 セラの木は細長くてやわらかい葉っぱと春に咲かせる穏やかな甘い香りの花が特徴で、だけど、そこらじゅうにセラの木が生えてるこの丘のなかで、セラぽん、なんてあだ名がついた一本のそれ自体はあたしからしてみれば特別なところなんてこれっぽっちもない。だというのに、彼女は朝の祈りの当番がやってくると決まってセラぽんのところへ寄り道をしてあれやこれやと世話を焼く。

 少しでもセラぽんが素敵に見えるよう根もとの雑草を抜いてみたり、村の祭で披露するためのセラぽんの歌を詠んでみたり。

 意味がわからないし、いつ村の人たちに文句を言われるかわからないしでヒヤヒヤするけど、あたしとネネは祈りので、これは一生変わることがないのだ。ネネが怒ったり悲しんだりして、みんなにバレることがいちばん恐ろしいから注意もできない。

 だからネネは、今日も楽しそうにセラぽんへの愛を惜しみなく張本木へ注いでいる。

 こういうの、都会では「推し活」っていうらしい。


 前に一度、なんでセラぽんが特別に好きなのかを聞いたことがある。ネネは一瞬だけ口を半開きにして、それから綺麗に笑った。

「ククはさぁ、たとえば、エラカ餅と、丘の土と、母さんが編んだ上着、食べるならどれを食べる?」

「食べ……っ? や、それはエラカ餅……」

「でしょ? 食べられないとあたしたちは生きられないし、食べられることを知ってるならそれを食べるでしょう? セラぽんって、あたしにとってそういうものなの」

 もちろんセラぽんを食べはしないけどね、と彼女は言ったけど、あたしはその手前から理解できてなかった。なんというか、理解するのを諦めた。


「待って待って。あぁほら、三枚も葉っぱが落ちてる。やだっ、あそこにも!」

 松明を左腕に抱えたまま、彼女はくるくると木々の間をすり抜ける。おかげで松明を持っていないあたしの周りはすごく暗いし、寒いし、ちょっと怖い。そんな心境を知ってか知らでか、ネネは「きゃはは!」と高い笑い声を上げボウと松明を振り回した。背中で結わいた彼女の黒髪が炎を反射してちらちら光る。

 ああもったいない。松明だって、脂をちゃんと染み込ませたお高いやつなのに。あたしやネネの家の収入じゃあとうてい使えないような、乙名たちの所有物なのに。

 だけどネネは、どうしてほかの木から落ちたものでないと言い切れるのか知らないけど、こうしてセラぽんから落ちた葉っぱや枝を集めているのだ。松明を無駄に燃やしながら。

 村のみんなはのネネなら時間がかかって当然だと思ってるみたいだけど、違う。セラぽんの落とし物を集めるための布袋は彼女自身が織った上等な布を使ってることも、風や時間のよいときに当番が回ってくるよう仕事を調整してることも、あたしは知ってる。

 セラぽんのことになると彼女はいつだって本気だし、いつだって楽しそうだ。あたしにはそんなふうに思えるものがないから、羨ましくもある。

 どうせしばらくは満足しない。あたしは適当に彼女の好きそうな話題を振ってやることにした。

「セラの木はそろそろ花の時期なんじゃないの」

「そうなの! ククもよくわかってるじゃない」

 ふふんと笑うネネ。まったく、それは彼女がうるさいくらいに毎年はしゃぐからだ。セラの花は確かにいい匂いがするけど、あたしはどっちかっていうと村はずれにひっそり咲くリリェの花のほうが好き。白くて、可憐で、この貧しい村をちょっとだけよく見せてくれるから。もっと村にも増えればいいのにと思う。

 ……そんなこと、ネネは知らないだろうけど。

「今年の祭はねぇ、概念お茶処をしてみようかなって思ってるんだ」

「……なに、それ。がい……お茶処?」

「概念お茶処。まるでセラぽんのような奥ゆかしさのある香りのお茶と、凛々しい造形ながらやわらかさを醸し出すお菓子! うんうん、絶対これは繁盛するよ。どうにかお金を工面しないと……」

 満面の笑みを見せる彼女に、あたしは「そっか」とだけ返す。素っ気ないかもしれないけど、これくらいでいい。

 それからセラぽんを堪能したネネの尻を叩いて、ちゃっちゃと朝の祈りを済ませる。

 丘の上の、赤茶の土がこんもりと盛られた場所。そこに埋められた深緑色の岩と日の光がぶつかって、薄靄の日なんかは辺りが鈍く輝く。あたしはそれを見ながら祈るのを楽しみにしていた。このときばかりはネネも静かにしていて、彼女の綺麗な顔立ちがいっそう際立つのもよかった。


       *


 ある日、いつものようにネネと朝の祈りを済ませて乙名へ報告をした帰り、ネネは話があるといって丘へ続く道を引き返した。

 セラぽんのところへ行こうとしているのだ。一度だって木を数えるようなそぶりを見せたことはないけど、迷いのない歩調は逆にわかりやすい。

 彼女が間違えるはずもないのに、あたしは心のなかで数える。…………六十三、六十四……六十八……七十一、七十二。ここだ。もう日は昇ってしまったけど、方向は変わらない。ネネの足で大きく十九歩。

 セラぽんの目の前に立つ。

「あたしね、お嫁にいくことになったの」

 先を歩いていたネネは、振り向かずにそう言った。唐突すぎてなんの反応もできないあたしに、茶色い瞳がゆっくりとこちらを向く。

「沙汰人のとこだよ。ノチゾイだって、母さんも褒めてくれた」

 一対の丸いそれはぼんやりとしていて、だけど自分の行く末を理解してないようには見えなかった。

 あたしはネネの袖口を掴みそうになるのをぐっとこらえる。

「なんっで、いきなり」

「ちょうどよかったらしいよ。跡継ぎのいないまま奥さんを亡くしちゃったから、若くて健康な女の子を探してたんだって」

「それでどうしてネネが選ばれるのさ? あんたは確かに見目はいいけど、それ以外はさっぱりだって言われてるのに」

「だからだよ」

 被せるように断言するネネ。

 ああ。それだけでわかってしまった。

 彼女の表情はいまだ笑顔のままだけど、自分が村でどういうふうに言われてるか、知らないわけないんだ。

 沙汰人の後妻をこの村が出せば、きっと少なくない援助が与えられる。貧しいあたしたちにとっては願ってもないことだ。乙名たちも、ネネの家族でさえも、そのためなら簡単にちゃらんぽらんを差し出してしまえる。だけど、その相手が沙汰人って……!

「……あんたはそれでいいの?」

「んん?」

「お嫁にいくってことは、この村を出ていくってことだよ? それわかってる?」

「うん、それ以外になにかあるかな」

 夜明け前から一緒に行動していたネネが今言ったということは、遅くとも昨晩にはこの話を聞いてて、そのぶんあたしよりも長く考える時間があったということ。少なくとも、この村を出て嫁にいくことを彼女は納得してる。だけどあたしにはまだ、納得なんてできるはずなかった。もう決まってることを覆す力なんてないのに。

「セラぽんのところにも、行けなくなるんだよ?」

 やりきれなくなったあたしの口をついて出たのはそんな言葉だ。気の利いたことも本音も、なにも言えないあたしの弱虫め。

「クク?」

「セラぽんが生えてるのは丘のなか。あそこは祈りの当番しか入れない。村を出た人に当番はこない! だから――」

「わかってる、わかってるよクク。だからね、お願いがあるんだ」

 あたしが掴めなかった袖口で彼女は簡単にあたしを包み込む。外を歩き回ってばかりのネネからは、お日さまと乾いた草の香りがした。

「あたしの代わりに、セラぽんを守って欲しい」

 手ぶらなのをいいことに、背中に回された腕の力は容赦がない。あたしはただ頷くことしかできずネネの薄い身体にしがみつく。

「セラぽんは、火にも水にも弱いからそれが心配だな。でも、ククがお世話してくれるならあたしも安心できる」

「あたし、推し活とかわかんないんだけど」

「大丈夫。セラぽんが枯れないようにしてくれるだけでいいよ。それで、たまにセラぽんの様子を便りに出してほしいな。ここに来られなくなっても、セラぽんに会えなくなっても、ちゃんと生きてるんだってわかればあたし、それだけで嬉しい」

 ネネのセラぽんびいきはやっぱりよくわからないけど、あたしはなんとなく腑に落ちた気がした。

 彼女から便りが届いて、それで元気にしてることがわかるなら。たとえ会えなくなったとしてもきっと安心できる。


       *


 春になると、この村はいっきにようすが変わる。

 丘から漂ってくるお日さまのようにあたたかくて優しい香りと、そこらじゅうで笑み綻ぶ白い花。よその村から届いた白い花の種は強くて、あっという間に広がった。今ではこの村の名物だ。

 あたしはまだ祈りの当番に入れられたまま。新たに組んだ子の隙をみては、セラの木のお世話をしている。もちろん、セラぽんだけは念入りに。

 丘へ続く道の右側七十二本目の木を背に日が昇る方向へ大きく十九歩進んだところ。


 今日も、彼女のことを思い出す。

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彼女は丘へ続く道の右側七十二本目の木を背に日が昇る方向へ大きく十九歩進んだところに生えた木を愛でている。 ナナシマイ @nanashimai

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