人生のたった3日間だけを過ごした女子と食べたえびアボカドサンド
水と砂糖
第1話 ライブハウスで出会った「彼女」
ライブスペースの爆音が、フロアにも漏れてきていた。
バーカウンターでテキーラをショットで頼む。カヌレのように小さなカップに入った琥珀色のその液体を、一気に胃の中に流しこむ。
胃の中がじわっと熱くなり、血液の流れが加速するのを感じる。
酩酊感が一気に頭を駆け巡り、気分が高まってきた。
ライブスペースの重い扉を開けると、中はサウナのような熱気と人。人。人。
前座のバンドで、場はすっかり温まっている。
汗臭くて、息苦しくて、圧迫感があって、だがそれが心地よい。
酩酊感で身体の感覚が希薄になり、徐々に身体と空間の境界線が曖昧になるのを感じる。
ドラムがハイハットで4カウントを刻むと、身体の芯まで響くような重いバスドラムと疾走感あるギターのリフがその空間を走り出した。
高速の2ビート。
KUZIRAの「In The Deep」だ。
フロントから徐々にモッシュが始まり、拳をあげ、飛び跳ね始める。
ハイトーンのボーカルがステージからフロアの奥まで突き抜け、時間と空間を支配する。
脳内の思考から語彙力がどんどん抜け落ちていき、真っ白になったところで俺はそのモッシュの海に飛び込んでいった。
1時間弱のライブ。
終わると俺は汗だくになっていた。
オーバーサイズのだるだるロングTシャツが、今やぴったりと肌に張り付いている。
始まる前に飲んだテキーラはすっかり汗と一緒に抜けきっていた。乾きを潤すためにバーカウンターでコークハイを頼み、それを一気に喉の奥に流し込む。
強炭酸が爽やかに喉を弾き、水分を欲していた身体の隅々まで染み入るようだった。
日常生活の中では、ここまで感情が昂ることはめったにない。
この激しさが、この熱量の高さがメロディックパンクバンドのライブの醍醐味だ。
________
外に出ると春先の風が心地よかった。
俺は適当に近くのラーメン屋を検索すると、間髪入れずに足を伸ばす。入った店は博多系の細麺の店だった。ライブ後のラーメンに特にこだわりはなかった。空腹を極めているので、何を食べても美味いに決まっているからだ。
空腹を満たしライブハウスの前に戻ってくる。
と、女子が一人、自販機の前にうずくまってるのが見えた。
歳は二十代半ばくらいか。
裾がふとももまで掛かるオーバーサイズのロンTに、ケミカルウォッシュのデニムのバギーパンツ。チェッカーフラッグ柄のVANSのシューズ。
ロンTはさっき出ていたバンドの物販だ。見ると、周りに人もおらず、顔は青ざめてる。
自販機の横にまだ乾いてない吐瀉物が残っており、なんとなく事情を察した。
俺は自販機でペットボトルの天然水を買うと、その子の傍らに置いた。
「よかったら、飲んで」
俺がそう言うと、その子は生気のない目をこっちに向けた。
「一人?連れはいないの?」
彼女はこくっと頷いてまたうなだれた。
「酒クズしすぎた…しんどい、吐く」
俺は天然水のキャップを外すと、その子に向ける。
ようやくその子は、ケージのうさぎのように、んくんくと水を吸った。
「ううう、だめだアカン、頭ぐわんぐわんする」
「大丈夫?帰れそう?」
「ううっ」
くぐもったような呟きに、気づいた時には手遅れだった。
彼女が飲んだ分だけの水が、逆流して、噴水のように口から噴き出してきた。胃の中の内容物の混じった状態で。
元々ライブの汗で酸っぱい匂いを放っていた俺の服の上に、さらに吐瀉物までがトッピングされた。
「うえぇ……すまん……。すまんの3乗……。」
……………なんだろうか。
ある一線を超えてしまうと、慌てふためくというよりも逆に諦観の域に達してしまうものだな。
幸い、家が遠いわけでもない。
そこまで人に出会うこともなく帰ることはできるだろう。
さて、今の状況をどうしたものか。
俺は一旦彼女を自分のマンションに連れて行くことにした。
さいわい2LKの間取りの家なので、寝かせる場所には事欠かない。寝ゲロが少し心配ではあったが。
俺はシャツの吐瀉物を風呂場で丁寧に洗い流すと、そのまま洗濯機に放り込んだ。
可能ならこのまま洗濯機を回したいところだが、時間帯的にお隣さんから苦情が来かねない。
酔いざましの水を大量にコンビニで買ってきたが、ゲロまみれの男と青い顔の女の組み合わせは、店員の視線が実に痛かった。
コンビニの駐車場で突然歌いだしたり、かと思えば再度トイレとお友達になりだしたりと、かなり酒グセが悪い。
ベッドのある部屋に、ビニール袋を添えて寝かしつけてきたが、朝になったらゲロの海に溺れている事も覚悟しなくてはならないか。えらいものを拾ってしまった。
俺は自室に引きこもると、ヘッドフォンを装着し、今日のライブの音源を再生して余韻にひたる。今どき有線のヘッドフォンなんて、と思われるかもしれないが、この音の立体感、音の解像度の高さは無線には替えがたいものがある。
何より、この「あえて有線を使う」というアナログさがよい。
俺は音の世界に身を委ねると、彼女の事を頭の片隅に追いやり、潜るように眠りに落ちてゆく。
目覚め自体は爽快だった。
ライブで身体が疲れきっていたのか、質のいい睡眠を得られた。
重い体を起こして洗面台に向かうと、顔を洗い、歯を磨く。金曜の夜にライブに行くと、翌日も翌々日も休みで実に充実感がある。
そんな浮足立った感覚で歯を磨いていると、不意に、背後に気配を感じた。
振り返った瞬間、俺は悲鳴をあげそうになった。
「リング」の貞子よろしく、長いぼさぼさ髪で目の前が覆われた女がそこに立っていた。
いやそれ以前に。一人暮らしの家に突然人の気配が現れたら、それだけで発狂ものだ。
腰を抜かしながら、寝ぼけた脳裏に徐々に昨夜の記憶が蘇ってきた。
そうだ。彼女を家に連れてきたのは俺だった。
「キモチワルイ…」
第一声、彼女はそう言った。臨終前の老婆のような声だった。
「昨日だいぶ酔ってたみたいだしな。水、いる?」
彼女はコクっと頷いた。俺は彼女に水を渡すと、ケトルで湯を沸かし始めた。
たしかコンビニのカップの赤ダシがあったはずだ。赤ダシは二日酔いの特効薬だと勝手に思っている。気持ち悪くて食べられなかったら、俺が食えばいいだけだ。
リビングでテレビをつける。
俺は彼女に赤ダシを出し、自分の前にはトーストとコーヒーを用意する。
彼女は最初うなだれていたが、やがて目の前の赤ダシに手を伸ばして、ゆっくり口元に持っていった。
「は~~……染みる……」
一口すすると、彼女は息を吐いた。
「昨日相当酔ってたよな。何杯飲んだ?」
「4杯目までは覚えてるけど、あとはパキって忘れた……やらかした……」
「ライブで飲みたくなるのは分かるけど、セーブはしろよな」
「 いや、でもバンドメンバーに乾杯テキーラ振る舞われたら、いくでしょ」
「おぅ、たしかにそれはいくかもなぁ。」
「でしょ? 最高だったなぁ」
「今さらだけど、名前なに?」
と、彼女は聞いた。
「上の方?下の方?」
「 じゃあ、下。」
「 トシタカ」
「 じゃあ、トシって呼ぶわ」
「君は?」
「あたしはナツ」
「ナツ?『Summer』の夏?」
「『神奈川』の『奈』に『津波』の『津』、
"神奈川県で津波警報発令中"、奈津です」
「いや、アイドルの自己PRかよ」
アイドルみたいに裏ピースしながら謎の紹介文を披露するナツに、俺はすかさずツッコんだ。
ナツは23歳の派遣社員だった。
東海のメロディックパンクバンドやエモ系のバンドのライブによく行っているらしい。
俺も月に2、3回はライブに参戦しているので、話を聞くと、かぶっていたライブも何度かあったようだ。
ライブに行くのはコアな趣味なので、なかなか話の通じる同志に出会う機会がない。
普段口下手な俺が、酒が入るわけでもなくつい饒舌になってしまった。
話し込み、気づいたら、昼過ぎになっていた。
「飯、行く?」
先ほど食べたトーストが胃の中で綺麗に消化された辺りで俺はそう切り出した。
「うん、だいぶお腹空いてきた。その前にシャワー浴びたい。」
たしかに、ナツはライブの後吐いたきり着の身着のままだった。幸い未開封のシャツとディッキーズのパンツはあったので、シャワーを浴びてそのままそれに着替えて出掛ける事にした。
飯行くことにしたはいいが、店選びに困った。俺は体調全快だが、ナツは胃の調子がよろしくない。
ダベるならファミレス系かと思ったが、メニュー的に胃に優しくない気がする。色々迷った挙げ句、回転寿司のスシローに行くことにした。
回転寿司ならそこまで重くないし、食べる量も自分で調節できる。あとは単純に、俺はスシローが好きなのだ。
しかし、店に行く決断が少し遅かった。着いた時には結構な入店待ちで、結局入るまでに40分くらいかかってしまった。
通されたのはテーブル席。
俺たちは向かい合わせに座り、寿司の流れてくるレーンを眺める。
ピークタイムということもあり、握ったばかりのネタがずらりと並んでいる。
俺は迷わずその中からえびアボカドを選んで取った。茹でエビの上に乗ったアボカドの上に、さらにオニオンスライス、マヨビーム。この情報量の多さ、回転寿司のクオリティじゃない。
トッピング過剰なこのネタはどう気をつけてもオニオンとアボカドを崩さずに醤油につける事ができないので、醤油の方を寿司に向かわせる。
それをひと息で口の中に放り込んだ。
美味い。食感が多様で楽しい。
ナツは迷った末に紋甲イカの握りを取る。ピカピカとした、いいネタだ。続いて、イカ塩レモン、水タコ、ヒラメ、と白いネタが続く。
どうやらナツは淡白な味のものが好みのようだ。
「なんか同じのばっかり食べてない?」
ナツがそう言ったのは、俺がえびアボカドの4皿目をレーンから取った時だった。
「えびアボジャンキー?」
「かもしれん。好きなものだけ腹いっぱい食べるの幸せじゃない?」
「そう言われるたら分からんでもないけど、うーんでもやっぱり色んなもの食べたいな。えびアボカドない場合は何食べるの?」
「サーモン系かな。炙りサーモンとか大トロサーモンとか。」
「なんとなく好みは把握したわ」
こども舌と言いたいのか。
まぁそれは自分でもなんとなく分かっていた。一人暮らしになってから、その傾向が加速したような気がする。
食事を管理する人がいないので、好きなものばかり食べてしまう。
結局俺はえびアボカドを7皿食べ、あさりのみそ汁で締めた。なんだかんだ、ナツもだいぶ食欲が戻ってきていたようだった。
スシローを後にすると、俺は「そろそろ解散にするか?」とナツに尋ねた。
すると、ナツは唐突に歩む足を止めた。
空気が急に重くなったのを感じた。
「帰りたくない……」
「え?」
俺は思わず聞き返す。
「昨日帰ったら、彼氏が他の女と寝てた」
「ーーーーーー」
「……帰りたくない」
昨夜、ナツが泥酔していた理由が何となく分かったような気がした。
聞くと、ナツには一年ほど同棲している彼氏がいるらしい。大学のサークルで知りあい、卒業と同時に同棲を始めたらしいが、学生から社会人になり、徐々に生活リズムが合わなくなってきた。
ある日。彼女は会社に出勤した後、体調不良を感じて早退した。急遽帰宅したところ、彼氏が他の女と寝ているところに出くわし修羅場になった。そして、激昂したナツは着の身着のまま家を飛び出してきたという事だった。
「 あと一日だけ家に置いてくれない?」 ナツは言った。
「 一日心の整理して、明日あいつとやりあってくる。荷物も置いてあるから、一回はバトらないといけないしさ」
「まぁ、明日も休みだからいいけど。実家には帰らないのか?」
「 実家こっちじゃないんだよね。ご飯くらい作るから、お願い」
と、手を合わせて頼まれた。
面倒だなとは思ったが、乗りかかった船だ。
ナツとは共通の趣味もあるし、話題には事欠かない。
一日くらいならいいだろう。
俺たちはそのままイオンモールへ行った。
替えの下着や、歯ブラシやコップなどのアメニティの買い出しのためだ。
滅多に家に人を入れることがないので、俺の家には日用品の予備がないのだ。
まずは100均で消耗品を。次に替えの下着を買いに行ったが、さすがに同伴は遠慮して、俺は単独でCDショップを観に行った。
インディーズのCDはあまり置いてなかったが、地元のバンドをいくつかプッシュしたコーナーがあったので、つまみ食い的に視聴してみる。スピーカーの質がいいこともあるだろうが、視聴機で聴く音楽は何故こんなにもよく聴こえるのだろうか。
試食コーナーで食べる惣菜がやたら美味しく感じる事と無関係ではないような気がする。
やがて買い物が終わったナツと合流した。
そのまま帰るのもなんなので、ゲームセンターにふらりと立ち寄ってクレーンゲームに手を出した。100円200円で様子見するつもりだったが、回数を重ねるとつい熱くなり、気づいたら最終的に2000円以上溶かしていた。しかし、その甲斐あって俺の推しのキュルガのぬいぐるみをゲットする事が出来た。
ナツはネコノヒーのぬいぐるみをゲットしようと躍起になっていたが、兎にも角にも距離感のセンスが絶望的になかった。
途中でやめとけばいいのだが、そこまでの課金を無駄にしたくないという想いで、積みに積んだ挙げ句、なんとかお目当てのネコノヒーを手に入れる事が出来た。
一体5000円の、高いぬいぐるみだ。
それでもナツは嬉しそうだった。
夜は簡単に鍋にした。
ダシを張った鍋に、具材を切って投入するだけ。実に簡単だ。
昼は寿司だったので、魚介は避けてモツ鍋を選択した。
ピリ辛の味付けのモツ鍋は、実に美味かった。水のようにビールが進んだ。
家で誰かと食事をするなんて何年ぶりだろうか。実家を出て数年。彼女がいた事もあったが、あまり自分の家で一緒に食事をとるという事はなかった気がする。
孤独のグルメを決め込むのもいいが、人との食事もなかなかいいものだ。鍋をつつきながらバラエティー番組を見て、飽きたらライブのDVD。
食べるの料理の味や、笑いや、テレビの感想など、それらを共有するのがひどく懐かしい感覚だった。
不思議だ。パーソナルスペースの広い俺が、ナツには気を張らずに済む。
彼女が人の懐に入り込むのが上手いのか、波長が合うのか。
「明日の昼は暇?」
ナツはビールで顔を赤くしながら、言った。
「タワーレコードでDizzyってバンドのインストアライブがあるんだよね。空いてたら行こうよ。終わったら、一回家に戻ろうと思ってる。」
家に戻る、という事がどういう意味か。
想像した俺は顔を曇らせた。
「白黒つけてくるよ。後はまぁ、会社休んで実家に帰るなり、他の部屋探すなり出来るしさ。トシにもまた連絡するよ。」
テレビのモニターの中で、アーティストがアップテンポの音楽を奏でていた。
その音がどんどん大きくなっていく。
「今日はありがとね。付き合いたての頃に戻ったみたいだった。」
泣くような、はにかむような、奇妙な笑顔。
「おいーーーー」
酩酊した頭で、何事か言いかけた俺の口を、ナツの唇がふさいだ。
まどろみの中で、ナツが先に目を覚ましていたのには気づいていた。部屋のテーブルの上で、メイクをしていた。
すっぴんを見せなくない、という事なのか。
そのまま、ふっとまた眠りの世界に落ちていきかけたが、ほどなくしてキッチンから漂うコーヒーの匂い。
気づいたら朝になっていた。
朝から、ナツがキッチンで何かを調理していた。そういえば昨日、イオンで買い出しをする時に鍋の具材以外にも色々詰め込んだ気がする。
俺はむくりと起き上がってキッチンに向かうと、ナツに出くわした。
「おはよ。よく寝れた?」
「朝早いな、何作ってんだ?」
「コーヒーとサンドイッチ。トシの好きそうなやつ」
「ほ?」
俺はその言葉に、まな板の上に目を滑らせた。耳を落とした食パンの隙間から覗くのは、黄緑色のスライスした何か。
あれは、アボカドか。
「えびアボカドサンドイッチ。えびアボカド寿司好きならパンでもいけるかなって」
「食べたことないけど、多分好きそうな感じではあるな。というか、普通に美味いだろ」
と言いつつ、俺はふと記憶をたぐったが、昨日果たしてえびなんかカゴに入れただろうか?
テーブルの上に皿を並べる。
インスタントのコーヒーと、サンドイッチ、ヨーグルト。一人暮らしの朝食には二皿並べば充分だ。
「いただきます」
俺は手を合わせると、早速ナツの作ってくれたえびアボカドサンドを口に運んだ。
サクッ
想像の中になかった食感を口の中に感じた。
サクッ?とは?
思わずサンドイッチの断面をしげしげと眺める。アボカドとマヨネーズのとろみと、オニオンスライス、しっとり食パン。
……の、間に挟まってるフライ状の何か。
ああ。これは記憶にあるやつだ。
「ナツ……お前、これ……」
「 かっぱえびせんとアボカドのえびアボサンド。そーいえばえび買うの忘れてたなーって思ったから、かっぱえびせんを代わりに乗せたの。実質えびフライみたいなもんだから美味しいでしょ?」
いや。いやいやいやいや。
えびフライの代用のつもりなら、まったくえびフライ感は感じなかったが。
しかし。
俺はもう一度、そのえびせんアボカドサンドイッチにかぶりついた。
ウェットな食感の具材の中で、一つだけ浮いたジャンクなえびせんの食感。えびアボカドとはまったく違うが、これはこれで美味かった。それよりも、何かほっこりしたような気がした。
「うまいな」
俺は素直にそう漏らした。
「でしょお? 思いつき料理の天才だから」
インストアライブの前に、俺は今日聴くDizzyというバンドの音源を聴く。女性のツインボーカル。疾走感のあるギターロック。
メロディックな英詞のボーカルもさる事ながら、ドラムが超絶に上手い。
インストアなので、アコースティックギターにカホンのセットだろうが、生で聴くのが非常に楽しみになった。
支度をして、家を出る。
日曜だというのに、天気がいまいち芳しくない。インストアライブは、イオンに入っているタワーレコードの中で行われるので、結局今日もイオンに行くことになった。
タワーレコードの前にはすでに人だかりが出来ていた。事前に整理券が配布される形式らしい。インストアライブなのに、普通のライブと同じようにバンドTシャツやパーカーを着た輩が多かった。
店のスピーカーから今日出るバンドの音楽がリピートで流れてきて、入場前なのに否が応でも気分が高まる。
その時だった。
先ほどまでのテンションと打って変わって、凍りつくような声でナツは呟いた。
「チアキ……?」
彼女の目線の先には、背の高い短髪の男が一人。
それが誰なのか、俺は瞬時に理解した。
思っていたより、普通の外見だった。
聞いた話から、もっと輩のような風体を想像していた。向こうが、こちらに気づく。
「ナツ」
剣呑な色を含んだ声で、男はナツの名前を呼んだ。男はこちらに駆け寄ると、ナツの腕を掴んだ。
「お前どこ行ってたんだよ、飛び出してったまま帰ってこなくて心配してたんだぞ」
「チアキには関係ないでしょ!自分が何したのか忘れたの?!」
ナツは腕を振りほどこうとするが、チアキと呼ばれた男は掴んだまま話そうとしない。
「あいつとはもう切れたよ。俺が悪かったって。もう一度やり直そう。」
「出来るわけないでしょ。頭イッてんの?!痛いってば!離して!」
そこまでだった。
俺は男の手を掴んで、強引に引き剥がした。
チアキは、剣呑な目をナツからこちらに移す。
「お前、何?」
「ナツが嫌がってんだろ。離せよ」
俺はようやく、その言葉だけ口から絞り出した。ライブと違う意味で心臓が萎縮していた。
「ナツ」とナツの名前を呼んだ事で、チアキは俺が通りがかりではないと気づいたようだった。
「ナツ、お前もしかしてこの男のとこ行ってたのか?」
チアキの声が激情に震えている。
「ーーーアンタがした事と、何か違う?」
チアキの拳が飛んできた。
ナツに向けられたそれを、俺は咄嗟に顔で受けた。感情の高ぶりを、一瞬で現実に引き戻す痛み。周りで悲鳴があがった。
「お前ーーーーー」
続けて殴りかかってくるチアキを、俺は身体ごと抑えかかった。
インストアライブのために、会場を警備していた警備員がすぐに飛んできて、チアキを後ろから羽交い締めにする。
「離せよ!離せってんだろ!」
チアキは体格はでかかったが、警備員はそれ以上の体格だ。引き剥がすのは不可能に近かった。
チアキはそのまま事務所に連れていかれ、俺とナツもそのまま事情聴取を受ける事になった。
とんだ事態だ。
おそらくチアキがここにいたのは偶然ではない。元々ナツと行く予定で、ここに来ればナツが現れると踏んで張っていたのだろう。
顔を殴られたのなんか小学生以来だ。
鏡で見ると大きな青タンになっていた。
この顔で会社に行ったら何て言われるだろうか。
チアキよりも先に俺たちは解放してもらえたので、気まずい空気ながら軽くインストアライブを見て行く事にした。
予想通りアコースティック形式のライブ。
カホンとアコースティックギターの温かみのあるサウンド。スローテンポのゆるい歌声が、今の俺たちには心地よかった。
「ごめんね、こんな事になって」
ライブの終わりがけ、ナツは言った。
「あんなやつだけど、前はいいとこもあったんだよ。」
「ーーーーーー」
「 心の整理してからバトるつもりだったけど、急に始まっちゃうから言いたいこと全然言えなかった。」
「ーーーーーー」
「でもやっぱり無理だね。戻れないね。やっと分かったよ」
「ーーーー昨日のことは」
ナツの言葉を遮って、俺は口を開いた。
「あいつへの、当てつけだったのか?」
ナツの顔が、くしゃっと崩れた。
「ごめんね」
その声が、震えた。
「ごめんね。でも、楽しかったのは本当だよ」
ーーーー違う。
欲しい言葉は、それじゃない。
「帰るなよ。」
俺は続けた。
「このまま、うちに居ろよ。このまま、住んでったらいい。」
ナツは顔を崩したまま、瞳を潤ませ始める。
逡巡。永遠とも思えるような、しかしわずか数秒の逡巡のあとに彼女は。
「ごめんね。」
と、そう言った。
「ごめんね、ごめんね。」
と涙と一緒に搾られたその言葉に、俺の舌の上に朝食べたえびせんのしょっぱい味を思い出した。
ナツはその日の夕方に、実家に戻った。
LINEはその後、数回やりとりしたが、だんだんと返ってくる頻度が減り、ある時を境に返ってこなくなった。
あの男の元に帰ったのか、それともそのまま実家に帰ったのか、その後の消息はよく分からない。
なにかのライブで再び会う事もあるかと思ったが、それきりナツに会う事はなかった。
俺はその後も、かわらず音楽と趣味に埋もれた生活を続けている。
ただ、俺は今でもふとあの時食べたえびせんとアボカドのサンドイッチを食べたくなる時がある。
そして、どことなくジャンクなその味を噛みしめるたびに思い出すのだ。
あの時の、白昼夢のようだった3日間のことを。
人生のたった3日間だけを過ごした女子と食べたえびアボカドサンド 水と砂糖 @makine9rou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます