彼岸の記憶

紀 聡似

彼岸の記憶


 グラスの氷がカランと溶け崩れた音で、俺はハッと我に返った。


 少し眠ってしまっていたのだろうか、目の奥の方がズキズキと痛んだ。


 確かまだ、これが一杯目のはずであったが、思いのほか酔いがまわり早かったのだろうか。


 グラスの中の琥珀色をしたウイスキーは、まだ半分以上も残っているというのに、何故か、これ以上に呑みたいという気持ちにはならなかった。


 真四角のコルク製のコースターに、グラスからの結露がじっとりと染み込んでいて、大半がその色を濃くしていた。


 という事は、俺はそれなりの時間、このBarの片隅で、うたた寝をしてしまっていたのだろう。





 L字で作られたカウンターの端っこ、俺はいつもここで取材の内容を煮詰めている。


 仕事柄、必須の道具である書面やパソコンなどは、ここへは持ち込まない。


 あくまで頭の中、記憶のみで取材内容の整理をしている。


 ウイスキーのロック、それと煙草をくゆらせて、荒々しく稼いだ取材の記憶を断片的に整理する。


 ん?そういえば煙草は・・・灰皿には少しだけ煙草の灰が散らばっているのに、肝心な吸い殻がないじゃないか。


 当然、俺の手にも残っていない。しまった、うたた寝した合間に落としたか。椅子の上から、自分の足元を右へ左へと見下ろしてみたが、店内が薄暗い作りをしているのと、それで足元が暗すぎているのも相まって、煙草を床に落とした痕跡は見当たらなかった。


 なんだ?マスターが気を遣って拾ってくれたのか?あ、そう言えば前にも似たような事があったか。





 この席は、誰も俺の背後には回り込めない安全な場所であると共に、ここからBarの店内を一望できるという二つの利点があった。


 見慣れている風景ではあるのだが、ここのBarでは客が増える度に、マスターの面白い趣向が光る。


 初老のマスターは(十年前に初めてここに来た時からマスターは初老だった)、その顔の皺に影を刻みながら、古いオイルランタンを客の前へ、一人に対してひとつ灯してくれる。


 薄暗い店内に客が一人増えれば、その都度ポツリとひとつ灯って、また一人客が帰れば消えて、それを繰り返す。


 カウンターに連なる酒瓶に、ランタンの灯火がユラリと反射する、そんな中で、俺はこれまで数十もの多数の記事を作り上げてきた。


 眠りに落ちる前よりも、ランタンの灯りは自分のを含めて三つに減っていた。





 さて、今回の取材もいよいよ大詰めだ。


 大臣の経験がある超大物政治家と、大手民間企業の収賄疑惑。


 この記事を完成させれば、年内の仕事も一区切りつく。あとは楽なものなのだが、ただひとつ、汚職のパズルを完成させるのに欠けている重要なピースがある。


 もとはと言えば、株の仕手筋で注目を集めていた、大手民間企業の脱税事件から始まっていた。


 すでに元証券会社社員が七名逮捕されているが、さらに国会議員や官僚など数名への工作疑惑が浮上したところまでで、未だに事件は立件はされていない。


 その中の一人である、超大物政治家が株の売買に関与しているのではないかとみて、この前に直接取材を試みたのだが、当然のように門前払いを食らった。


 しかし、株の売買に関する有力な証拠になる重要な欠けているピースだが、この問題も解決には向かっている。


 この超大物政治家の側近だったという「M」という人物から俺に連絡があったのだ。


 いわゆるタレコミってやつだ。もちろんこのタレコミは、多額の報酬との引き替え条件になるが。


 俺はこの男と近々コンタクトをすることになっていた。


 つまり、ある程度はこの取材に関しては、完成までのメドは立っているという訳だった。





 このバーにはアンティークの絵画が多数飾られている。


 俺の座る席から真正面に見える奥の壁面に大きな額縁がある。長手が横で約二メートル、短手が縦で約一メートルほどの、ゴツゴツとした枯木で作られたような額縁に入っているのは油絵の貴婦人だ。インディゴブルーのドレスを纏った貴婦人が、記事を練り上げている俺の相談相手になってくれる。


 何処かのお屋敷なのか、フランスの古城のような、味気のない石造りのだだっ広い部屋。その石壁には、紅蓮のタペストリーの上に、剣と斧が交差して掲げられており、その下には五本の真っ赤なバラの花束が、それらを見上げていた。


 そして王が鎮座しそうなくらい大きく豪華な椅子に、そのインディゴブルーのドレスの貴婦人は、堂々と足を組んで座っている。彼女は西洋人らしい緩いウエーブがかった長い金髪で、顔の中心には高い鼻筋が通り、その双には水平に切れるように長いまつ毛と、ドレスと同じ色をした瞳があった。その面持ちは、なにかを憂いでいるような、若干の切なさも携えていた。


 相談相手だからといっても、この貴婦人が何かを語りかけてくれる筈は当然無い。


 ランタンの灯が揺らぐと、油絵の具の凹凸が、立体的な光沢を浮き上がらせて、貴婦人の様々な表情を生み出すのだった。


 俺が取材に行き詰まった時や苛立っている時は、まるで慰めてくれるような柔和な眼差しを送ってくれる。しょうもない芸能人のスキャンダルをスッパ抜いて、ヘラヘラと酒を呑んでいる時には、一変して厳しい剣幕で俺をにらみつけてくる。道徳的と言えば道徳的な貴婦人なのであろう。





 俺の斜め前、Barのマスターが構える正面で呑んでいるふたり組。


 恐らく三十代半ばであろうサラリーマン男性の会話が、不意に俺の方に聞こえてきた。


 男A「なぁ、そう言えば定年で退職したSさん、亡くなったらしいな」


 男B「マジで?なんでまた急に・・・病気か?事故?」


 男A「心筋梗塞だとよ。せっかく定年退職して、これから有意義な老後を迎えられたっていうのに、気の毒だよなぁ」


 もみあげ付近の白髪が少し目立ちかけている男Aは、そう言ってから皿の上のナッツでお弾きを始めた。


 男B「いやぁ、あの人には入社したての頃、研修で随分とお世話になったからね。思い出としては忘れられないよね」


 男A「確かに。その後の業務では、たいして絡みはなかったけどよ、Sさんと言えば、あの研修を思い出すよな」


 男Aはナッツを二、三個をまとめて口に放り込んだあと、指に付いた塩粒をグラスの水滴で溶かしたあと、おしぼりで指先をぬぐった。


 男A「人ってさ、二回死ぬっていうよな。一回目はもちろん肉体が滅んだ時で、二回目は人の記憶から忘れ去られた時ってさ」


 男B「ああ、誰か・・・なんか有名人が言ってたよね」


 男A「いやしかし、有名人は良いよな。作品とかを色んな人に憶えてもらえるし、記録にも記憶にも残るだろ。んで思い出してもらえる。でもうちら一般人は・・・例えば、子や孫には憶えてもらったとしてもさ、ひ孫やそこから先の子孫からなんて、すっかり忘れられちゃうだろうからな」


 水割りを好む男Aの相方の、中年太りに足を突っ込みがちで、気の優しそうな雰囲気の男Bは、グラスをゆったりと回し、中の赤ワインを香りながら「そこまでいくと、個人個人としてではなくって先祖代々に含まれちゃってさ、結局その他大勢的な存在になっちゃうよね」と、小刻みに肩を揺らして、頬を膨らませて笑っていた。


 男A「って考えると寂しいよなぁ。まぁ大半の人間はそんなもんで、人類の歴史なんてそれの繰り返しだけどよ」


 そう言ってから、男Aは残りの酒をグイと飲み干して、氷だけが残ったグラスを振ってマスターに同じものの注文をした。


 するとワイングラスの男Bは、少ししんみりしながらこう言った。


 男B「永遠に分からないけどさ、死んだ人間ってさ、記憶って残されているのかな?」


 やや間があってから。


 男A「いやまぁ俗に言われているのは、生まれ変わったら、なんもかんも忘れちまってるって話だけど、仮に生まれ変わるにしてもよ、それまでの記憶ってのはどこかしら、少しは残っているんじゃないのか?だから恨みとか祟りとかっていう話が存在しているのかも知れないし。でもこれは、あくまで死後の世界があるって事が前提の話だけどな」


 水割りの男Aはそう言うと、新しいグラスの酒を口に含み、染み渡るアルコールの強さに顔をしかめながら「でも記憶が残っているってのは・・・どうなんだろうなぁ」と煙草に火を灯した。


 男B「僕は何にも無くなっちゃう方が良いなぁ。・・・眠っている延長、みたいな」


 男A「何にも考えなくて良いからな。その方が楽は楽だけど、それも怖い気がしないか?俺らには今があるんだからよ」


 男B「肉体が滅んでも記憶は残る。で、他人からも、本人でさえ、自分の記憶が消えた時に、本当の死が訪れる」


 ワイングラスの男Bは、こう台詞っぽいことを言うと、今度は若手アイドルグループの話題にガラリと切り替えた。





 勢いよくBarのドアが開き、ドアに付いている鐘の乾いた音が、カランコロンと店内にこだました。


 それと同時に、俺の前にあるランタンと、サラリーマンふたり組の前にあるランタンの炎が、刹那強弱をした。


 その時、油絵の貴婦人の顔が一瞬だけ、俺は初めて見たのだが、怪訝そうな表情になったのを見逃さなかった。


 が、それよりも俺は、店に入って来た男に意識を奪われていた。男は見覚えのあるサファリハットを被っていた。張っているエラに蓄えられた無精髭にも、着ていた黒革のジャケットにも同じ様に、米粒のような細かな輝きの雨水に濡られていた。


 ふたり組の男は、一時こそ帽子の男に気を取られ会話を中断したが、その後すぐに、好みのアイドルの自慢話に戻っていった。


 小太りのワイングラスの男Bから、ふたつ席の間隔を置いて、男は雨に濡れていることを気にも止めない素振りでドカリと座り、マスターにウイスキーのストレートを注文した。


 マスターはいつもの通り、オイルランタンを帽子の男の前に差し出したが、男はランタンの灯りを遮るように帽子のツバを下げ、ギュギュっと軋む黒革のジャケットの音と共に、カウンターに両肘をついた。


 ややあって、マスターはウイスキーのストレートを男のランタンの横に添えた。


 すると間髪を入れず男は、毛の生えた逞しくゴツい手でグラスを掴み、それを一気に飲み干すと、スクッと立ち上がり、ジャケットのポケットから生身の現金を取り出して、クシャクシャになった千円札二枚をカウンターに置き「ごちそうさん」と低く唸ると、釣銭を用意しようとするマスターに背を向けて、再度、乾いた鐘の音を店内に響かせて出ていった。





 マスターは、こんなことも慣れているかのように、灯したばかりのランタンを早々に引き上げてそっと消灯した。と、マスターは何かを思い出したかのように、俺の手元のランタンに横目をやった。


 途端に俺は、何かの違和感に気付き始めた。


 店内に居るにも関わらず、俺のスーツは、帽子の男と同じようにズップリと濡れていた。だが不思議と冷たさは感じなかったが、どうして俺のスーツは濡れているのだろうか。


 マスターは相変わらず、俺の手元のランタンを横目で黙って見つめている。





「マスター、さっきからどうしたんですか?」と、ワイングラスの男Bはこうマスターに問い掛けたが、マスターはため息交じりに俺の方に歩み寄って来た。


「こちらのお客さん、一体どこへ行かれたんだか。今までこんなことは無かったのですがね」


「え?まさか呑み逃げ?」と、気持ちよさそうに酔いがまわった水割りの男Aが、赤ら顔で人を小バカにするように言い放った。


「いえいえ、こちらのお客さんはそんな方ではございませんよ。何か急用でも入ったようで、直ぐ戻るからと、もう二時間ほど前に出て行ったきりで」


 そう言うとマスターは、俺の目の前のグラスを取り上げてしまった。


「ちょっと待て・・・」と俺は言いかけたが、まるで音も出せず、風船が空気を吐き出しているように、俺は一切の声も出せなくなっていた。


 それと同時に、俺は濡れたスーツの下で、身体にピッタリと張り付いているワイシャツが、鮮血で真っ赤に染まっていることに今さらながら気が付いた。


 何故か俺は、奥の壁面にある油彩の貴婦人の顔を、まるで助けを求めるように、すがるように見入った。


 ランタンの灯りに揺らいでいる貴婦人の表情は、明らかに俺を哀れんでいるような、細い眉毛をひそめながら、切なげな顔をして俺の方を見ていた。


 それは、そこはかとなく聖母のような、一種の温かみを感じさせるものでもあった。





 そうだった。


 俺は取材で欠けているピースを埋めるために「M」に電話で呼び出されBarを出たのだった。


 落ち合った公園で待っていたのは、あの帽子の黒革のジャケットの男である。


 しかし、この男が「M」なのかは定かではない。男は何も言うこともなく、外灯を背に、夜の暗闇に溶け込んでいた。


 男の胸元あたりがキラリと光ったと同時に、俺の左胸に、言い難い強い衝撃が走った。


 くわえていた煙草はとっくに口元を離れ、俺は大きく後ろに弾き飛ばされた。


 仰向けに倒れた俺は、喉から口へ、なにか熱い鉄錆のようなものが込み上げてくると同時に、身体が動かず、まったく呼吸ができなくなっていることに、ゾッと戦慄をした。


 外灯の白い光の周りに、もうひとつ虹色の光の輪ができている。


 煮えたぎる溶岩を冷ますかのように、俺の顔には、大粒の雨が降りそそいでいた。





 目の前のランタンが、ユラユラと強く炎を灯した。


 そうだったんだ、俺の身体はもうここに、このBarには居なかったのだ。


 マスターは俺の目の前のランタンを取り上げて、渋々とした表情で消灯すると、一層辺りが暗がりに包まれていったが、あのサラリーマンふたり組は眩しすぎるランタンの灯りの前で、相変わらず楽しげに談笑を続けている。男Aの手元からは、煙草の青白い煙が一筋立ちのぼっていた。





 古木の額縁で囲われているドレスの貴婦人は、相変わらず堂々と足を組み、いつもと変わらない表情で、何事もなかったように座っている。


 俺は深い闇に吸い込まれていくように、自らの瞑目を実感し始めたのであった。





 終わり

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