虚無の人生
染井雪乃
虚無の人生
妹の長所を聞かれて、言葉に詰まる。短所を聞かれても、言葉が出てこない。
僕と妹の関係なんて、そんなものだった。
歳は近いけれど、異性だから好む遊びも合わない……とは方便で、僕は生存のために勉強ばかりしていた。
中学の修学旅行のパスポートのために役所に行ったら、でかでかと養子と書かれた紙が出てきた。実際には文字は小さかったけど、僕には大きく見えた。
血が繋がっていないことは、僕を愛さない理由として十分だと思った。だから僕を養っていることの十分なメリットを示し続けないと、いずれ捨てられる。そう考えて、僕は勉学に励んだ。
そして、気づいたら医師になっていた。もう養うメリットを示す必要はないから、多忙を言い訳に実家と疎遠になっている間に、妹が結婚し、結婚式にはさすがに僕も顔を出した。
それが、妹と顔を合わせた最後になった。
「こんな話、聞く意味ある? 僕は妹のこと、何も答えられないのに」
勤務する大学病院の近くの居酒屋。僕は妹の夫、つまりは義弟と会っていた。
「俺は、夏海のことを話したいんじゃなくて、あなたと話したいです」
真剣な目で、義弟は言う。
妹が結婚式のときに彼の顔立ちもたまらなく好きだと惚気けていた気がする。興味がなくても、些細なことを記憶できるのは、僕の長所であり、短所だ。
男の僕から見ても、たしかに顔立ちは整っているが、関わりたくはない。
自分は元気で明るい人間ですというオーラが漂っていて、心底苦手だ。
「それこそ、僕と何を話すんだ」
「あなたのことを聞きたい」
目が点になった。
唐突に自分のことを話せと言われても困るというのが、偽らざる本音だ。
生存のために必要なことはずっと継続しているが、好きでしていることは特にない。好きでもないことをある程度の完成度に仕上げられるのは、僕の長所だ。
そんなわけだから、自分のことを聞かれると、職業とか研究テーマとか、そういうことしか言えない。
「腫瘍の、特にp53に関する研究をしていて、とか、そういうことしか話せないんだけど……、それ聞いてもおもしろくないだろ?」
「おもしろくないですね。俺の専門、医学じゃないので」
手で勧められるままに枝豆を食べて、僕は困惑した。
「虚無……」
「は?」
「いや、お義兄さん、虚無だなって。何か、推しとかいないんですか? 夏海はずっと推してたアニメがあって、今度、映画化するんですよ」
虚無と言われたことも、謎の話が始まったことも、割とどうでもよかった。僕はこの場を適当にやり過ごしたかった。
「推しっていうのは、応援してるキャラとかアイドルとか、たまにリアルの人間だったりしますけど、基本的には遠い人やものを推す、応援する感じですね。その応援する活動を推し活って言うんですよ」
「……はあ」
だから? と思った。僕は架空であれ実在であれ、個人的に誰かや何かを応援したいとは思わない。誰がいてもいなくても、何があってもなくても、人間がいるなら医療は不可欠だ。そうである以上は、食いっぱぐれない。
推し活とやらに微塵も興味がわかない。
僕は表情を変えずに、一言告げた。
「明日も早いから、帰る。これお代」
そうして、義弟の謎の訪問を振り切ったはずだった。しかし、どこから漏れたのか、休日の朝、僕のマンションに義弟はやってきた。
「わざわざ来たんだ、暇だね」
不機嫌を隠しもせずに義弟を招き入れたのに、彼は臆さずに言う。
「ペアチケなんです、このアニメの劇場版」
死者の影を感じて、僕はげんなりする。遺族として、傷を舐めあう振りでもすべきなのか。
「お義兄さんが夏海に情がないのは、何となくわかってるし、聞いてたんです。でも、夏海は、お義兄さんのこと気にかけてました。楽しい人生を送って欲しいって、最後まで。だから、この映画だけでも、観てもらえませんか」
余命宣告よりも、短い命だった。僕が仕事している間に、妹は逝った。
楽しい人生を送って欲しい。
優しいようで、暴力的な願いだと思う。だってそれじゃあ、今の僕の人生に楽しみや価値がないみたいだ。
強烈なおもしろみも好きなものもないけど、本当にちょっとした楽しみくらいはあるのに、それすらもないかのように扱われた気分だ。
ぐちゃぐちゃ五月蝿いやつらだ。
僕は舌打ちして、「これで、最後だからな」と念押しした。
妹が好きだったというアニメの劇場版は、多くの人は感動するのだろうが、僕の涙腺には届かなかった。横で泣いている義弟を視界に入れ、僕は推し活とは何と非効率だろうとぼんやり考えた。
妹がそのアニメに熱狂している様子も容易に想像できた。昔からそうだったから。僕は無駄に記憶力がいい。
大長編を観て、義弟と別れた。これっきりにしてくれと言い含めるのも忘れなかった。
映画を観た後の高揚感なのか、僕は生存のためだけでなく、自分が好きだとかやりたいとか思うことを何か一つやってみてもいいかもしれないような気がした。
風に掻き消されるほどの小さな思いだけれど、その日は幸い風が吹かなかった。
(了)
虚無の人生 染井雪乃 @yukino_somei
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