蜂に推される

ゴオルド

アシナガバチのこと

 私は3月に仕事をやめ、秋頃に再就職するまでの実に半年間ほど、実家に戻ってブラブラしていた。日のあるうちは庭で家庭菜園を楽しみ、夜が来たらネットでハローワークの求人を眺めて、「なんもいい仕事がないねえ」などと呟いて寝るという、大変だらけた日々であった。


 庭の花壇には、トマトとキュウリ、あと里芋を植え、毎日欠かさず手入れした。水を与え、草をむしり、脇芽を摘み、病害虫のチェックをした。

 特に何もやることがなくても庭に出て、キュウリの葉っぱのトゲを触って、ちくちくを楽しんだりしていた。なんせ無職である。時間だけはたっぷりあった。

 化粧なんかせず日焼け止めだけを塗って、ジャージ姿で一日中過ごしており、非常に快適な暮らしぶりであった。

 本来人間とはこういう暮らしをするのが向いた生き物なのではあるまいか。ただ、人とはまるで交流せず、うちに引きこもるようにして庭に引きこもっていた点は不健康と言わざるを得ない。収入がない点も大いに問題ではあるが。



 ある頃から、庭にハチがやってくるようになった。黄色と黒のストライプ、つるっとしたお尻と長い足のアシナガバチである。最初はスズメバチだと勘違いして慌てて屋内に逃げ込んだが、ネットで調べてアシナガバチだとわかると安心した。アシナガバチは、よほどのことがない限り、人を襲わないのだという。


 夏になると、トマトは青い実をつけ、キュウリは葉をうちわのように茂らせ、里芋の葉は傘になりそうなほど大きく成長した。そして、アシナガバチは春よりもひんぱんに我が庭へやってくるようになっていた。どうも芋虫などを補食しているらしい。おかげで野菜が虫に食べられる心配をせずに済んだ。



 夏の暑さが本格的になってきた頃、奇妙なことが起きた。

 アシナガバチが、庭の隅にある陶器の水瓶にとまって、水を飲むようになったのだ。私は水瓶には常に水をたっぷりと入れておいて、野菜への水やりの時、そこからヒシャクで水やりするのだが、それをアシナガバチが飲んでいるのだった。


 最初、アシナガバチは私が庭に出てくるのを見ると、水飲みを中止して逃げていた。だが、しばらくすると慣れてきたのか、私がいても気にせず水を飲み続けるようになった。

 水をたっぷり飲んだアシナガバチは、よっこらしょという声が聞こえそうなほど重そうな様子で羽を動かし、ゆっくりと飛び立つのだった。空を飛んでいく後ろ姿を眺めると、風にあおられてフラフラしている。あんなに体が重くなるまで水を飲むとは、少し欲張りすぎだ。一体どれだけ喉が渇いていたのだろうか。そう思ってネットで調べてみたら、アシナガバチが水を飲むのは喉が渇いていたからではなくて、卵や子供にかけてやるためらしかった。気化熱で夏の暑さから子供たちを守ろうというのだ。

 そうと知ると、俄然アシナガバチがいじらしく思えてきた。うまく飛べなくなるほど大量に水を飲んでいくのは、少しでも多くの水を子供にかけてやりたいと思ってのこと。なんという献身だろう。


 私は庭いじりをしているときにアシナガバチが来ると、ヒシャクを水に入れて差し出してやるようになった。アシナガバチは警戒することなくヒシャクから水を飲んでくれた。


 それがハチの間の口コミで広まったのだろうか、アシナガバチがいっぱい庭に来るようになった。しかし、みな同時には水を飲みにこない。どういうわけか順番に1匹ずつ水を飲んでいくのであった。私はヒシャクを差し出した姿勢のまま、1匹が飲み終わるのを見守り、その子が飛び立つとまた別の子が入れ替わりで飲みに来て、そしてその子が終わればまた次の子、というぐあいで、それが日が暮れるまで延々と続くのであった。

 私はなんだか握手会のアイドルのような気持ちになった。アシナガバチは礼儀正しく順番を守るファンといったところか。しかも何回も並び直しがオーケーな握手会である。きりがない。私は途中で飽きてしまい、水瓶にヒシャクを突っ込んでおくことにした。そこからご自由にお飲みください。アシナガバチは特に気を悪くするでもなく、ヒシャクにとまって水瓶の水を飲んでいた。

 空を見上げると、順番待ちをしている子たちが一定間隔で離れてホバリングしてこっちを見ている。みんなで同時に水を飲めばいいのに、どうして順番を待つのか不思議だ。これはネットで調べてみても理由がわからなかった。もしかして彼女たちは別々の巣から来ているのだろうか。それで互いに遠慮があるとか?



 猛暑をとおりこして炎暑となったある日、私が庭で収穫作業をしていると、一人の若い男が生け垣越しに声をかけてきた。

「暑いですね」

「はあ、そうですね……」

 誰だこの人はと思いながら、反射的に返事をしてしまった。男はこの暑さだというのに派手なスーツを着て、髪をきっちりセットし、そしてなぜかクーラーボックスを手に提げていた。釣り帰りのホストだろうか。

「こんな暑い日は冷たいスイーツでもいかがですか」

 どうやら訪問販売のようだ。クーラーボックスにアイスでも入れて売り歩いているのだろう。

「いえ、結構です」

 男は断られても引く気はないようだった。

「まあ、そう言わずに聞いてくださいよ、奧さん! 今日お持ちしたスイーツは、

「冷やし饅頭」っていう新商品で、すごく美味しいんです。今夜にでも旦那さんに食べさせてやったら間違いなく喜ぶと思いますよ。ね、買いましょう」

「いいです、要らないです」

 冷やし饅頭が何なのか知らないけど、香水のにおいをプンプンさせた人から食べ物を買う気にはならない。だが、男は奧さん、奧さんとしつこい。あまりにしつこいので、饅頭も要らないし、私は奧さんでもないと、つい言ってしまった。

 すると、男は、

「じゃあ、うちの冷やし饅頭で婚活しませんか」と言い出した。

 は? 何言ってんの? 暑さでおかしくなったの?

「美味しい饅頭を買ったからっていって、男を家に呼ぶんですよ。そうしたら結婚できますよ。頑張りましょうよ!」

 もう何なの、この饅頭売り。失礼だというのもあるが、それ以上に仕事振りが雑すぎて呆れてしまう。そもそも食品の訪問販売なのに香水くさいのがふまじめ過ぎるし、セールストークも何も考えないで適当に言っているだけだとしか思えない。どうも変な感じだ。本当に饅頭売りなのだろうか。饅頭を売るといって家に押し入るタイプの強盗なのではないかとさえ思えてきた。


 怪しい……私がそう疑い始めたとき、ブーンという低い音がした。お馴染みのホバリング音だ。音のした方向――上空を見上げると、アシナガバチが空に留まってこちらを見ていた。饅頭売りという先客がいるから、警戒して下りてこられないのだろう。ぱっと見た感じ5匹はいた。

「もう帰ってください。ハチも待ってるし」

 私がそう言って上空を指さすと、饅頭売りは空を見上げて、そして、一歩後ずさった。

「ハ、ハチ!?」

 すると、1匹がすーっと急降下してきて、男の顔の前にぴたりと停止した。これは私もたまにやられるやつだ。どういう意味があるのかわからないが、ハチたちは時々こうして人間の顔を観察する。

 男は、目の前のハチを手で振り払った。きっと何も考えていない、とっさの行動なのだろうが、ハチからしたらたまったものじゃない。手を避けるために3メートルほど横っ飛びで回避したが、すぐに体勢を立て直すと、男に向かってびゅんと向かった。いつものふんわりした飛び方ではなく、矢のように真っすぐで攻撃的な飛び方だった。それが合図だったのだろうか、上空で待機していたハチたちも一斉に男に向かっていった。

「う、うわあ!」

 男はクーラーボックスをぶんぶん振り回しながら走って逃げていった。


 ハチは手で振り払われると、喧嘩を売られたと思ってしまうらしい。そして売られた喧嘩は買ってしまうのがハチの性分というやつである。

 皆さんもお気をつけください……。


 ハチたちはすぐに庭に戻ってきた。きっと威嚇しただけで刺してはいないのではないかと思う。なぜそう思うのかというと、饅頭売りの悲鳴が聞こえなかったからだ。ああいう男がハチに刺されたとき、黙って痛みに耐えるとは思えない。きっと大騒ぎするだろう。でも、静かだった。


 一仕事おえたハチたちは、私が差し出したヒシャクにむらがり、みんなで同時に水を飲み始めた。これまでは、あんなに頑なにソーシャルディスタンスを保っていたのに。一緒に敵を撃退して、仲間意識が芽生えたのだろうか? 実は私のほうが仲間意識がちょっと芽生えていた。ファンに守られたアイドルのような気分であった。




 やがて秋が来て、私はようやく再就職先が決まった。

 庭の野菜はとっくに収穫を終えて、撤去していた。花壇は空っぽになった。

 秋が深まり、何日か置きにぐっと冷える日が来ると、決まってその翌日にはアシナガバチの死体が庭に落ちていた。おそらく寿命なのだろう。アシナガバチの働き蜂はそのほとんどが春に生まれ、秋には死んでしまうのだそうだ(例外もあるとのこと)。


 アシナガバチの巣がどこにあったのか私は知らない。近所なのか遠方なのかさえ不明だ。

 夏にうちに来ていたアシナガバチと、庭で死んでいるアシナガバチが同じハチかどうかもわからない。

 だが、最後の死に場所として我が庭が選ばれたのだと、そうとしか私には思えなかった。ハチが死に場所を選ぶなんて聞いたことはないけれど。


 私はハチの死体を庭に埋めた。基本的にソーシャルディスタンスを気にする子たちだったから、1匹ずつ離して埋葬した。


 その短い人生において、一夏の間、うちの庭を推してくれていて、そして饅頭売りを撃退してくれてありがとう。



 <おわり>

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