青のタブロー

オカザキコージ

青のタブロー

昔日のセカンド


 もうだいぶ離れていて追いつけそうになかった。僕は、先を行く彼を追いかけていた。いまの位置に満足しているわけではなかったし、できれば景色を変えたかった。でも、今回も追い越せないだろうし、接戦に持ち込めそうになかった。だから、いつものようにしっかり役割を果たそうと、みんなの期待に応えようと思った。追い越すこと、覆すことがいいとは限らないし、身の丈に合った、という言葉もあるぐらいだから。とにかくこのままのペースで行くつもりだった、いまのポジションを守ればいい、そんな気構えで僕は走っていた。

 角を曲がると、聞き覚えのない声がした。ぽつりぽつりと何人か、沿道で手をたたいて声援してくれていた。でも、名前を呼ばれたのは初めてだった。それも、さん付けで「がんばって」、しかも女子の声。誰がこの僕を…。確かめたかったけど、ペースが崩れるのが怖くてできない、というより、どんな子か、確かめる勇気がなかった。声がしたのはどの辺りか、姿を見せず物陰から声をかけてくれたのか。“さん”だから、普通に考えれば下級生か、面識のない同級生なのかもしれないが、沿道で励ましてくれるような女の子が、僕にいるはずはなかった。

 先頭を走る彼は遠くに見えた。中盤に差しかかっていたが、距離を縮められなかった。きっとこのまま、ゴールするのだろう。周りから祝福されている彼を横目に僕は地面にへたり込む、いつものことだ。追ってくる選手はどうでもよかった。3位になろうが、ごぼう抜きで9位に落ちようが、たいしたことでなかった。でも、そうならないだろう。だから、いや、だけど永遠のセカンド。それの方がしっくり来るし、きっと生まれながらにして、そこがお似合いなのだろう。

 足が重たくなってきた。この辺りになると決まってそうなった。僕はいつものように右手で太ももをポンポンと叩いた。そうしたからといって何も変わらないのは分かっていたが、おまじないのようなものだった。先頭の彼との差がちょっと開いたような気がした。少しペースを上げようか、これまでの距離を保ちたい一心だった。足に力を入れた。思ったより足が前へ出た、追いつく必要はなかったけど、とりあえず前へ。

 こんどは痛くなってきた、ももの辺りでなく、めずらしくひざだった。しだいに感覚がなくなっていく、脚の先まで。僕は初めて振り返った。でも、杞憂だった、3位の子は見当たらない、まだ角を曲がっていないのだろう。すぐに前へ向き直った、むしろいつの間にか、先行者との距離が詰まっていた。このまま行けば? いや、そんなこと…。ただ彼を追って、そのあとにゴールすればいい、セカンドなんだから、いつも、あくまで。実際難しいことではなく、このまま走っていれば、きっとそうなるだろう、彼を追い越さないかぎり。でも、こともあろうか、先頭を走る彼の背中がはっきり見えてきた。

 彼を追い越せばすべてが変わりかねない。僕は、いまのポジションを失いたくなかった。一番にテープを切るわけにはいかなかった、すぐにペースを落とさないと…。ゴールで待ってくれているかもしれない、例の声をかけてくれた彼女には申し訳なかったけど、ここで僕が彼を追い越すわけにはいかなかった。たんに予定調和を崩したくなかっただけでなく、とにかく僕にあのポジションは似合わない、彼に取って代わってあの位置につくなんて…。一番高いところに、晴々しい気分で? もしそんなことになったら僕のこれからが、明日が、未来が狂ってしまう、そっちの方が深刻だった。

 もうすぐ学校に着く、みんなが待ってる、運動場のまわりに。先頭の彼はゴールを前に勢いを取り戻したようだった。ふたたび離れていく、その背中にホッとしながら僕は、やっと感覚の戻った脚に力を入れた。彼は右へ折れた、目の前には校門が見えているだろう。校庭を囲うフェンス越しにどよめきと歓声が聞こえて来た。400㍍トラックに沿って颯爽と、最後の力を振り絞って…。僕はやっと、最後の角を曲がるところだった。毎年、この辺りでペースを落とす。いつもの位置を確保した、という安心感からしぜんとそうなった。あとは、続いて校門を抜けて、運動場へ向かって、セカンドとして、歓声に応えて。

 「がんばって!」。トラックへ差しかかろうとしている時だった。また、あの声が聞こえてきた。二度聞こえたのだから幻聴でも空耳でもないようだ。前と同じように「さん」付けで、かわいい女の子の声…。声援する生徒たちの中にいるはずだったが、ただその前を走り過ぎるしかなかった。声がした辺りへ顔を向けるなんてこと、できるはずがなかった。トラックを一周と四分の一まわればゴールだった。先頭を走る彼との差は30㍍以上あった。耳がツーンとし、息が荒くなるのを感じた。彼はゴール寸前だった。でも僕は力を抜かなかった。全速力でトラックを駆け抜けた。僕は一人の女の子の顔を思い起こしていた。


 小学生のころから春は憂鬱だった。花の香りが身体を硬直させ、気持ちを落ち込ませた。何となく前傾姿勢を強いられるような感じが嫌だったし、何かにつけ急かせる感じが不快だった。それに合わせてリズムを崩してしまい、後悔することが多かった。いまから考えればたんに自律神経の失調か何かだったのだろうが、小さな身に広がる心のダメージは小さいものではなかった。秋の運動会や冬に開かれるマラソン大会と違い、春の行事はどれもしっくり来なかったし、気が進まなかった。

 新学期に入るとすぐに学級委員の選挙があった。頭の出来はそれほどでもなかったのに、運動が出来た僕は候補に名前が挙がりやすかった。授業と授業のあいだの、短い休み時間を利用したドッジボール、人気力士のしこなを付け合った砂場での相撲、先生には内緒だった体育館でのターザン遊び…。僕は退屈な授業の鬱憤を晴らすように率先して教室から飛び出し、一生懸命に遊んだ。それがいけなかったのか、変に目立ってしまって、ドッチボールでは下級生を中心にファンができるほどだった学級委員なんて、ふつうは勉強ができる、真面目な子がやるべきなのに、どうしてこの僕が? 運動や遊びしかできないのに。本当に迷惑だったし、憂鬱だった。

 すべては遊び半分なのだろう。仲間うちの、悪ふざけが過ぎる不届き者が、笑いをこらえながら滅多に見せない真面目な顔つきで手を上げて僕の名前を挙げた。遊びの延長、冗談のつもりなのだろうけど、僕にとっては胃にも心臓にもこたえる無神経な悪ふざけ、それこそいじめに過ぎなかった。よっぽど駆け寄って殴ってやろうかとも思ったが、嫌そうな素振りを見せると向こうの思うツボだと思い、細かいことを気にしない奴に思わせたかった。あとはただ、みんなが僕に票を入れないよう祈るだけだった。

 黒板に「正」の文字が刻まれていく。新たに担当になった先生自ら開票し、板書する。僕は途中から、顔を上げられなかった、名前が呼ばれるたびにドキドキした。本当に勘弁してほしかった、遊びじゃないのだから。僕を候補に挙げた奴らは接戦に大喜びだった、50㍍走でも学級対抗リレーでもないのに。僕の名前が挙がるたびに喜ぶ奴らの後ろ姿が目に入り、本気で殺してやりたい気分だった。

 クラスで一番成績のいい女の子に数票及ばず、けっきょく二位に。委員長にならずに済んで取りあえずホッとしたが、自動的に副委員長ということなので、もちろん気分は晴れなかった。このあと一年間、賢い女の子の横に、はにかみ並ぶ自分の姿を想像して気分が悪くなった。僕は小さいころから憂鬱の種を数える癖があった。昆虫にはない高等な習性に違いなかったが、自慢できるものではなかった。その種が一つ増えたわけだから、明日から一層暗い気分になるのは避けられなかった。いっそうのこと、不登校にでもなってやろうか、真剣に頭をよぎった。

 ホームルームの時間が来るたびに吐き気をもよおした。勉強の出来る学級委員長の女の子が運営をリードし、僕は横に立って板書するだけだったけど、漢字が思い出せずに戸惑うことがあったし、そもそも字が汚くて惨めだった。2学期、3学期とこの調子でホームルームが続くのかと思うだけで神経が病んでいきそうだった。この憂鬱な時間は、みんなの視線を否が応でも浴びるという意味で僕の一番苦手な学芸会に匹敵した。同じように人気投票で主役級に選ばれて散々恥をかいた思い出がよみがえる。ほんと、いい加減にしてほしかった、とにかく注目を浴びたくなかった、僕はセカンドなんだから、だから“副”委員長? きつい冗談でしかなかった。

 さらに困ったことに、多くの視線にさらされているという意識が過剰に働き、顔が引きつるだけでなく、素振りまでぎこちなくなった。ただこちらが意識しているだけで前にいる女の子たちは何も思っていないのだろうけど。でも、気になる女の子と目が合ったりすると、右往左往して視線をそらすか、板書する必要もないのに黒板に向かってみたりと、僕のうちでは散々だった。意識している自分を意識することで成長し、大人になっていくのだろうけど、そうしたプロセスを呪わずにいられなかった。

 意識の先には、めがねをかけたひとりの女の子がいた。学級委員長と一、二を争う頭のいい子で、黒板の端に照れた表情で突っ立っている僕と目が合うと、彼女も伏し目勝ちになり委員長の方へ向き直るのだった。子供ながらに、というか、感性の豊かな子供ゆえに、相手を強く意識して、無意識だけど、身体ごと持っていかれる感じだった。板書して振り返ったとき、ふと顔を上げたとき、ぼんやり全体を眺めているときも、窓際にいる彼女に焦点が当たってどぎまぎした。そのころはまだ、どんな女の子が好みなのか、はっきりしていなかったけど、理由なんて横に置いて、ただ魅かれていたのだろう。それだけに、雑念がないだけに内心の思いがストレートに反映されていたのか。様々な思いに邪魔される前の、まわりに翻ろうされる前の、ピュアな思いが、いまとなってはかけがえのない何かが、そこにあったような気がするけど…。

 僕の小学生時代にも当然、いじめはあった。意地悪するとか、仲間はずれ、これ見よがしに無視とか、そう、男の子ならプロレスごっこも…。当時はそうしたものの延長線上にいじめがあった、少なくとも僕にはそう見えた。今のように自殺に追い込むほど陰湿で執拗ないじめは聞かれなかった。ひとりの子が長くターゲットにされる場合もあったが、いじめっ子が明くる日からいじめられる側になる、そんなこともめずらしくはなかった。幸運にも、ほかの子に比べて身体が大きくて運動もできた僕はいじめの対象になりにくかった。幸か不幸か、いじめる方のグループにいた。

 新学期から2カ月ほど経過し、みんなのキャラクターが大まかに出揃い、大小いくつかのグループが穏やかに形成されたころ、いじめが兆してくる、しだいに顕在化してくる。はじめは遊びの延長で、からかわれやすい子がターゲットになったり、それぞれグループの絆を確かめるために、残酷にも生け贄を探したり。こうして、たいていの子に備わる差別本能が刺激され、本格的ないじめへ進んでいく。よく言われるように、同調力に欠ける、みんなに合わす能力が低い子が対象になりやすく、最初はちょっかい程度のいじめから、非妥協的な子で変わり者と分かれば、それはエスカレートしていく、多くは見るに耐えないものになっていった。


 クラス替えでどんな子と一緒になるのか、春休み明けに緊張して教室へ入ると、ある男の子に目が止まった。幼稚園のころ仲の良かった子で、これまで同じ組になったことがなかった。卒園してから言葉を交わす機会もなく、何度か見かけた程度だった。ただ、僕は言葉をかけるのに躊躇した。照れていたこともあったけど、そうさせた理由は別にあった。けんか別れしたわけではなく、彼とはいい思い出しかなかった。でも、彼に気づいたとき、表情が暗くなっている自分がいた。

 僕は入園式から半月ほど、母親同伴でないと通園できなかった。幼稚園という初めての社会を意識し過ぎたのか、人見知りが激しかっただけなのか。ほかの子が楽しそうにしているのが不思議で羨ましかった。同じ「うさぎ組」で母親に連れられて来る、もう一人の男の子がいた。それが彼だった。二人のママは参観日よろしく、入園式から当分のあいだ、教室の後ろに並んで引っ込み思案のわが子を心配そうに見守った。

 僕と、その男の子はいつの間にか、ママがいなくても幼稚園へ通えるようになった。慣れてしまうと、おっかなびっくりだった感じもどこ吹く風、僕はその反動からか、小さなガキ大将のように振る舞うようになった。男の子はそういう僕を遠巻きに、やさしい笑みで包み込むように見守ってくれた。キリスト教系の幼稚園だったので園児たちは毎朝、校庭の隅に佇むマリア様に手を合わせてから教室へ入る。昼は昼でママの手作り弁当を前に「てんにましますわれらのちちよ、ねがわくば…」と小さな手を合わせ、主へ祈りをささげる。僕と男の子は、神に見守られながら穏やかな二年間を過ごした。

 僕も大きい方だったが男の子はさらにひょろ高く、やさしい幼顔と不釣合いな感じがした。顔を合わせるといつも笑顔を見せてくれるので自然と僕も表情がほころぶ。ただ、話した記憶がないのが不思議だった。夕暮れの七夕会で浴衣を着せられ、それぞれママに手を引かれて並んで影絵芝居を見た楽しい光景はさっと出てくるのに、彼と話した記憶も実感もなかった。微笑んでいる印象だけで、話している素振りはもちろん、どんな声をしているのか、思い出せなかった。僕にとって彼は、絵本の中にいるような、穏やかな存在だった。

 こうして久しぶりに同じ組になって、その理由がやっと分かった。彼は今で言う発達障害、昔で言う知恵遅れの子だった。どの程度、発達が阻害され遅れていたのか、正確には分からないが、特別学級でなく普通学級に通っていたのだから軽度ということだろう。小学生も3、4年生になると、少し大人びた感じの子も出て来るが、彼も背が高い分、もう男の子とは呼べない雰囲気を漂わせていた。そうした感じと、知恵遅れ独特の言葉づかいとのギャップがいじめの対象にならないか、心配だった。

 ホームルームの時間で前に立つと、一番後ろにいる彼の姿が自然と目に入ってくる。視線が合うと、幼稚園の時と同じように無邪気な笑顔を返してくれる。照れ屋の僕は思わず目をそらしてしまうが、ほんとうはすごくうれしくて緊張感がほぐれた。嫌な時間も少し嫌でなくなる瞬間だった。彼のお陰もあり、夏休み前にはホームルームの時間も苦手な授業程度になり、胃が痛くなることもなくなっていた。向かって黒板の右端、副委員長のポジションも少しだけしっくりしだしていた。

 べつに品行方正に装うつもりはなかったが、副委員長というレッテルがこれまでと違う振る舞いを強いた。学級委員長の女の子はもとから、誰もが認める出来のいい子、いっぽう僕はほとんどが平均点以下の出来の悪い子、運動以外は。仲のいい、これも出来の悪い友だちから、最近ノリが悪くなったと思われるのは本意でなかったし、これまで同様悪ふざけしたり、ときにはケンカしたりと、たとえ女の子から冷たい視線を浴びようと、楽しくやりたかった。

 ふつうに、クラスの中で何組かのグループが形成されていくが、どのグループ内でも強弱の差はあれ、同調圧力に晒される、程度はべつにしてときに理不尽を強いられる。僕が所属していたのは、粗こつでやんちゃなグループだった。だから当然、副委員長の立場とたがえてしまう、うまくそぐわない。たとえ、ふざけてじゃれ合っていても、これまでのように弾けられないし、どこか表情が硬くなってしまって楽しめない。副委員長なんかやるもんじゃないと何度も思った。こんど生まれ変わるときは…とたいそうに考えてしまうほど、精神的にやられていた。

 心配していた通り、心の中で大事にしていた例の幼友だちに、ちょっかいをかける男子が出てきた。たどたどしい話し方に運動も苦手、先生から指されてもモジモジして答えられない。いじめの対象になる要素を複数かかえていた。教室の後ろで何人かの悪ガキに囲まれて困った表情の彼が目に入った。僕はすぐに駆けつけて彼の周りにいる奴らを蹴散らしてやりたかった。でもそう思うだけで、どうしても一歩、踏み出せなかった。そのころはまだ、自己嫌悪という言葉を知らなかったが、何とも言えない嫌な悲しい、申し訳ない気分になった。気がつくと爪を噛んでいた。もう治ったと思っていた癖が出ていた。僕は、彼から目を背けた。

 そのときはまだ、からかわれたり、少し頭を小突かれる程度だったが、彼の怯える姿が目の裏に焼き付き、家に帰ってもなかなか消えなかった。からかっている方はたいして罪の意識もなく、それこそ遊びの延長でやっているのだろうが、やられる方の心の傷は相当深く、多くは取り返しのつかないトラウマとなり、一生涯苦しめられることだってあり得た。それは傍観者であっても、たとえ間接的だとしても、何らかのかたちで心に傷をつけ、取り返しのつかないものになることだってあった。僕は彼の笑顔が好きだった、幼稚園のころからずっと。怯える顔は似合わなかったし、見たくもなかった。

 次の日から、彼の近くに居るよう心がけた。気軽に声をかけて楽しそうにやっているふうに見せるのが一番良かったが、逆に彼の負担になるのは避けたかったし、こちらもまだそのころは彼と仲が良いところを見られるのに抵抗感があった。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、それが正直なところだった。ただ、そうして彼のそばに居るだけで、幼稚園のころが思い出され自然と気分が和らいだ。彼も安心しているような感じで、僕と目が合うたびにあのやさしい笑顔を返してくれた。


 どういうわけか、僕はひとりの女の子に目を付けられていた。知らないうちに何か悪いことでもしたのか、気づかずに彼女の気を引くような行動をとっていたのか。もしかして、悪意に近い感情を持っていたのかもしれない、それとも好意が反転してそうした素振りになっていたのか。愛憎相半ば? いずれにしても、当時小学生の僕にはこの状況が理解できなかった、女の子の複雑怪奇な気持ちを。ホームルームの時間、板書係でぼんやり前に立っていると、彼女と目が合ってどぎまぎした。こちらはたまらず目をそらすが、彼女の方は睨みつけるように僕の方を見ている。僕の思い過ごしなのか、自意識過剰なのか、恨まれているのか、心当たりはなかったけど。

 クラスには、格好良くて性格もいい、勉強も運動もそこそこできる爽やかな感じの男子が二、三人いた。もちろん、僕はそこに入っていなかったが、たいして羨ましいとも、あいつらのようになりたいとも思わなかった。妬んでいたわけではなくて、女子にちやほやもてはやされている感じが何かみっともなく見えて、逆に格好悪い感じがして。小学生ながらも体育会系だった僕は、女子と仲よく話している姿を見られるのをよしとしなかった、自意識過剰なのだろうけど抵抗感があった。恥ずかしがり屋で素っ気ない感じの男子が好きな女子もなかにはいただろうが、そうお目にかかることはなかった。

 二学期に入り、僕はその睨みつける女の子と同じ班になった。彼女はお世辞にも器量がいい方ではなかったし、目立って愛想のいい感じでもなかった。席が近くになり、これから関わることが増えそうで気が重かった。秋の運動会が近づいていた。どの種目に誰がエントリーするか、そろそろ決めなければならない。花形はやはり最後の種目、クラス対抗リレーだった。体育の授業や遊びを通じて足の速い子はだいたい、みんなに知られていたし、事情通なら走る順番まで当てることが出来ただろう。

 いつになくホームルームが盛り上がり、冷やかしの声がかかる。男女それぞれ四人ずつ選び、大げさに言えば彼ら彼女らにクラスの命運を託す。一年前の運動会で選ばれたからといって今回も選ばれる保証はなかった。クラス替えで徒競走のパワーバランスが変わっていたし、僕より足の速い子が四人いれば用なしだった。算数が苦手な僕でも分かる、かんたんな計算だった。自分に自信がないというより、おのれの能力を控えめにみる慎重派だった僕は、選ばれるかどうか確信が持てずにいた。

 学級委員長の選挙と違い、こと運動に関わることなのでストレスを感じなかったが、今度は逆に落選したときのことが頭をかすめた。その一方で、注目を集めるアンカーは嫌だったし、緊張度の高い第一走者も避けたい、残る第二、第三走者なら…。まだ選ばれてもいないのに、そんなことに頭にめぐらせていた。もとより要らぬ心配だった。幸運にも選ばれたあと、練習していてすぐに分かった。僕よりずっと速いエースがいた、責任のかかるアンカーにならなくて済みそうだった、でも、あとの二人を見ると…。第一走者? いや、ここはやっぱりセカンドで。

 理科や算数など通常の授業が運動会の練習へ振り替えられるのはうれしかったが、夏の暑さが残る9月半ば、僕はあることにぶち当たった。大人から見ればたいしたことではなかったろうが、クラスという小さな社会の中では見逃せない、ある意味深刻な出来事だった。僕は昨日に続き、リレーの練習のため始業より一時間も早く登校した。朝方の涼しい風に気分よく準備運動をしていると、最速の我らがエース、勉強もできるスマートな彼が近寄ってきた。僕は笑顔で迎えたが、彼は深刻な表情を崩さなかった。

 「アンカー、変わってくれないか」。身長はそれほどでもなかったが細身の体に何よりもカモシカのような、すらっと伸びた脚。誰が見ても速いだろうなと思う、その長さと無駄のない筋肉は素晴らしかった。僕は、彼の突然の申し出に戸惑い、返す言葉が見つからなかった。「自信がないんだ」。彼は打ちひしがれたように下を向いた。他のメンバーにも同じように弱音を吐いているのか、一時的に自信をなくしただけなのか。気の効いた励ましの言葉が出て来なかった。僕は彼の肩にそっと手をやった。彼はそれきり、黙り込んでしまった。「でも、僕は…」。セカンドにアンカーは務まらない、それ以外の答えはなかった。

 心穏やかでいられない情況は続くもので、ホールルームではある懸案が持ち上がっていた。クラスの中でほぼ出来上がったグループ間のことだった。小学生に限らず集団生活には付き物とは言え、人間関係の構築とそれに起因する軋轢は教室で様々な問題を引き起こす。「今日のテーマは…」。いつもは事務的に切り出す、さすがの学級委員長の才女もひと呼吸置いて硬い表情で話し出した。「いじめについてです」。彼女が要領よく今回起こった事案のアウトラインを説明したあと、担任の先生へ引き継いだ。

 ずっと下を向いて聞いていた。僕の横へ退いた彼女がしっかり前を向いているのとは対照的だった。下を向くだけでは十分でなく両手で耳を塞ぎたかった。動揺して意識が方々へ散ってくれたお陰で、話は断片的にしか耳に入って来なかったが、心配していた通り、幼馴染の彼のことだった。僕の知らないところで? いや何となく聞いていた、彼が帰り道とか教室以外のところで、カバンを池へ投げられたり、脚を引っかけられたりしていたのを。積極的に動かなかった、面倒なことに首を突っ込もうとしなかった僕が責められているように感じた。僕は先生の説明のあいだ、ずっと顔を上げられなかった。ただ、どうも彼が一方的な被害者ではなく、学校に乗り込んで来たのはいじめた側の親だった。

 担任の先生は、今回の件についてどう思うか、生徒たちに意見を求めた。誰も手を挙げないので代表して学級委員長が指された。「いじめた方が悪いに決まっていますが、ケガを負わせた方も同じように悪いと思います」と表情を変えず模範解答、冷静な裁判官のようだった。このあと、何人かが手を挙げて発言したが、最初に議論のレールを引いた聡明な彼女の意見に沿った意見が多かった。

 ホームルームの時間が終わろうとしていた。発言の機会が回って来なかったことにホッと胸をなで下ろして顔を上げると、後ろの席で頭一つ出ている彼と目が合った。さすがにいつもの笑顔はなかった。というより、その目が寂しさをたたえているように見えた。もう、彼の方を見ることができなかった。僕はいじめた当事者のようにみんなの前に立たされ、罰せられている気分だった。

 女子の学級委員長に代わり、男子をまとめるべく副委員長の役目を果たせなかったばかりか、それ以前にずっと心に引っかかっていた思いを裏切ってしまった罪の意識…。僕は幼稚園のころ、純真でやさしい彼のことをかけがえのない友だちと思っていたし、言葉がたどたどしく、うまくコミュニケーションが取れない彼をどんなことがあっても守ってあげようと思った。僕はいつの間にか、一番大切なことを忘れてしまっていた。

 僕は、彼と距離を置くようになった。いじめっ子たちも彼の凶暴な一面を垣間見て、手を出さなくなった。もういじめられる心配がないのはよかったが、今度はよくある流れで無視された。誰にも話しかけられず、休み時間に一人ぽつんと無表情に座っている姿が痛々しく、見るに耐えなかった。僕もクラスの他の男子同様、彼を無視した。授業中、意識散漫な僕はすぐ後ろにいる彼を思った。でも、頭に浮ぶのは僕の好きな、あの笑顔の彼ではなく、寂しそうにこちらをにらみつけている彼だった。その視線が背中に突き刺さった。

 “こんなことになってはじめて気づくなんて…”。取り返しのつかないことをしてしまった。これまで大切にしてきた、かけがえのないものを失くしてしまった、彼の笑顔を。どれだけ癒しになり、慰めになってきたか。心細いとき、辛いとき、心が折れそうなとき、立ち上がれそうにないとき…。でも僕は、そんな彼を遠ざけている、避けている、偏見を持っている他の子と同じように。彼が少し他の子と違うから? 変わっているから? そんな残酷なことを…。幼稚園のころからずっと、彼は僕の心の中にいてくれた、あの笑顔は変わらなかった、これまで同じクラスにならなくても。やっといっしょになれたのに、きっとお互い大切にしてきた思いを、僕が粉々にしてしまった。この気持ちをどこまで引きずって行くのか、この心の傷をこれからもずっと、そう罪を背負って。


 秋の運動会に続いて学芸会も何とか無事に終えて、ほっとしていたころだった。当時まだ二十歳台半ばの担任の女教師に学級委員長とともに呼び出された。六時限目の授業、ホールルーム、そして掃除も終わり、みんなが帰った後だった。そこで怒られた記憶しかない教職員室の中で僕は、彼女より少し下がって先生の前に立っていた。学級運営に関する相談事だったのか、ホームルームのハンドリングの悪さを指摘されたのか、詳しい内容は忘れてしまったが、教職員室を出たあと二人とも肩を落とし廊下を歩いていた記憶が残っている。上履きをはき替えて、そのまま一人で帰るわけにも行かず、校舎の出入り口付近で彼女を待った。

 「えっ」と少し驚いたような表情で、彼女は背の高い靴箱の間から出てきた。これまで見せたことのない女の子らしい仕草で僕のそばまで走り寄ってきた。夕日も沈んだ誰もいない運動場を横切り、僕と彼女は校門へ向かった。こうやって並んで歩くのは初めてだった。学級委員長のあとに続いて後ろを歩くのがセカンド、副委員長の役目だと思っていた。少し話しづらいのか、彼女は下を向いたまま声のトーンを落として話し出した。

 「頼まれたんだけど…」。彼女は話しづらそうに切り出した。要するに、めずらしくも僕のことを気に入ってくれた女の子がいて、僕にどんな子が好きなのか、聞いて来てほしい、ということだった。それも委員長の仕事なのかと思ったが、どう応えたらいいのか困っていると、彼女から「答えたくなければいいよ」と言ってくれた。続けて「副委員長だから答えないといけないわけでもないし…」。頭のいい彼女なら、この半年余りの学級運営で僕の性格も、けっこう正確に把握していただろうし、照れ屋で運動以外は何かにつけて逡巡するところも分かっていて、手を差し延べてくれたのだろう。

 僕は答える代わりに別のことを考えていた。学活(学級活動)に関係のない、まったく個人的なことでも副委員長を持ち出す、学級委員長としての彼女の、真面目なのか不器用な感じに好感を持った。彼女の言葉に甘えて、質問に対する答えではなく一番興味のある言葉が口を衝いた。「それは、誰に頼まれたの?」。もちろん、答えてくれなかったが、彼女が一瞬身体を硬くしたのは分かったし、表情を確かめはしなかったけど、どんな感じだったか、何となく伝わるものがあった。このあと、僕と彼女は別れ際まで並んで歩いた。何を話したか覚えていないが、学級委員長でない彼女を感じたのはあのときが初めてだった。

 中学校のように期末試験はなかったが、12月に入ると国語や算数など主要科目で復習を兼ねたテストがあった。賢い子は三段階評価の「よくできる」がいくつとれるか、競い合っているようだったが、僕は体育以外、真ん中の「できる」なら御の字、「がんばりましょう」の数をどれだけ減らせるか、そんな低次元に甘んじていた。ちょうど終業式の日だった。席替えで隣り同士になっていた、例の何だか分からないけど「睨んでくる女の子」が話しかけてきた。さっき担任の先生から手渡された通信簿を見て気をよくしていたのだろうか、いつもの無愛想な感じとは打って変わってめずらしく優しい笑顔だった。

 明日の夕方に近くの公園に来て欲しいという。どういうつもりなのか、意味が分からなかったが、明日から冬休みという弾んだ気持ちもあり、深く考えずにうなずいてしまった。でも、すぐに後悔した。せっかくの冬休みの初日、よく考えればクリスマスの日。小学生のころから出不精で休みの日にわざわざ友だちに会うような性格でもないのに…。親に通信簿を見せるより憂鬱な気分になった。

 その年は25日が日曜日だったため、終業式は24日の土曜日(僕が小学生のころは土曜日の午前中にも授業があった)だった。当時、クリスマスはワンホールのケーキを家族で切り分けて食べる、年に一度か二度(誕生日に用意される年もあった)の大きなイベントで、正月を前にして子どもだけでなく親も機嫌のいい日という印象だった。年によってはケーキを模った、丸い発砲スチロールの容器に入ったアイスクリームのときもあった。期待して食べたら、ボリュームに欠けて味ももう一つ、残念な記憶が残っている。やっぱりケーキはいちごショートに限ると思った。

 翌日、僕は母親に編んでもらったマフラーにセーター、半ズボンという出で立ちで公園へ向かった。まだ、彼女は来ていなかった。久しぶりにブランコに乗って待った。一人ぼんやりこいでいると、どういうわけか、夏休みに家族で田舎へ帰ったときの光景が頭に浮かんできた。父方の実家で、山あいの古民家に祖父と祖母が暮らしていた。畑でトマトやキュウリを収穫したり、夜半に祖父先導で山へ入りクヌギの木を見つけてカブトムシやクワガタを捕ったりと、存分に夏を楽しんだ。

 小学生時代の夏の思い出として申し分のない、いつまでも心に残る経験だった。ただ、その年は祖母の体調がすぐれず、恒例の温泉施設行きが取りやめとなった。でもその分、自然に親しむ機会が増えて、かえってうれしかった印象があった。確か帰る前日だったと思う、僕は農道から畝(うね)をつたって沢へ出た。西日に向かって訳もなく歩いた。夕焼けに誘われて、ということだったのか、夏の終わりに少し感傷的になっていたのかもしれない。

 15分ほど行くと、映画に出てきそうな村の分校らしき木造平屋建ての建物が見えてきた。雑草の生い茂る校庭には誰もいなかった。僕は土に半分埋まったタイヤの上に座り、ぼんやりと横長の校舎を眺めていた。秋の気配を感じさせる冷気(いま考えると“霊気”だったのかもしれない)にゾクッとし、身体を硬直させた。同時に、どういうわけかふわっと浮き上がる感じがして慌てて姿勢を低くした。怖くなって目をつむった。それから、どのぐらい経ったのか、どこにいるのかさえ、すでに実感が持てなかった。目を開けてしまうと、校舎の裏辺りから出て来た得体の知れないモノたちに取り囲まれているのではないか、不気味な笑みをたたえてこちらを見ているのではないか。そんな気がしてますます顔を上げられず、目を開けられなかった。

 辺りは暗くなりかけていた。あとの記憶は途切れ途切れで、来た道をただ息を切らして駆けている感覚だけが残っている。途中、山の中に棲む妖怪が木の陰から顔をのぞかせていてもおかしくなかったし、沢から怪魚が飛び跳ねて水しぶきを上げていたかもしれない。僕はよそ見をせず一目散(いちもくさん)に小道を駆け下りた。終始背中に冷たいものが流れていた。神経が高ぶり、身体が小刻みに震えていた。足を止めて辺りを見渡していたらどんなことになっていたか、想像するのも怖かった。気がついたら膝から下が濡れていた。

 ハッと驚いて振り向くと例の彼女がいた。僕は公園のブランコに座ったままだった。驚かそうと後ろからブランコに近づいて来たのだろう。驚き引きつった僕の顔を見て、笑顔から一転真顔になり、さらに申し訳なさそうな気まずい表情に変わった。このあと、ベンチへ移り1時間ほど話した。細かい内容は忘れてしまったが、気を取り直して友達のこと、クラスのこと、家族のことも話したような気がする。

 別れ際に、小さなショルダーバッグから花柄の小袋を取り出し、押し付けるように手渡してきた。クリスマスプレゼントのようだった。そういうつもりでなかった僕はもちろんプレゼントを用意していなかった。愛想のない御礼の言葉を返すのが精一杯で、今度はこちらが申し訳ない気持ちになった。僕は、恥ずかしそうに足早に帰っていく彼女を見送った。このあと、彼女に対する見方が変わったのは確かだったが、でもそれだけだった、好意以上のものはなかった。


 マラソン大会は三学期のメーンイベントだった。学年ごとに全員が参加し、男女別に長短それぞれのコースで競い合った。運動場を一周回ったあと公道へ出るため、前日のホームルームで注意事項の説明があった。担任の女教師が話し終えたあと、学級委員長の彼女が引き継いだ。「今夜は早めに休み、体調を整えて明日に臨みましょう」。そう言ったあと、僕の方をチラッと見て微笑んだ。僕はドキリとした。ホームルームの時間中にこんなことは初めてだった。

 そのときはあの微笑みがどういう意味なのか、よく分からなかった。ただ、一緒に並んで帰ったあの日から、彼女の態度が微妙に変わったような気がしていた。学級委員長の彼女はいつもクールで頼もしかった。もっと言えば、彼女に対し畏敬の念すら持っていた。勉強ができるだけでなく、クラス全体のことを考えて発言する姿勢が何よりも格好よかった。僕は黒板に向かいながら彼女の横顔を見ていた。


 僕はいまも、沿道からかけられた、あの声を鮮明に覚えている。マラソン大会で一度きりの、忘れられない体験。声のトーンから、そのときの情況、思ったこと、感じたこと、もちろん励まされた記憶まで、鮮やかに思い出す。その子が誰だったのか、けっきょく分からずじまいだった。それが、めがねの子でも、にらみつける女子でも、学級委員長の彼女でも、果てはまったく知らない下級生の女の子でも、もうどうでもよかった、そんなことより、いやそれだからこそ…。あの冬の、透きとおった、身に締まる、きりっとした感覚。セカンドだから感じられた思い出の数々がよみがえる、青いタブローのように。



対角線のピュア


 みんなの前で褒められるとは思ってなかったし、勉強もそこそこの僕にそうしたことが起きるなんて想像もしていなかった。部活をやめて、だいぶ経っていたし、好きだった野球以外で気持ちが高ぶることはないだろうと思っていた。授業で先生に名指しされるのは恥ずかしくて嫌だったし、「よく書けています」と褒められても何のことやら、お尻の辺りがむずむずして座り心地の悪さを感じるだけだった。

 国語の授業で読書感想文の提出を求められた。十数冊の課題図書を示されて、その中から好きな本を選んで原稿用紙3枚ほどにまとめる、代わり映えのしない夏休みの宿題だった。数学ほど苦手ではなかったが、これまで時間をかけて一冊の本をじっくり読んだことがなかったし、著者のあとがきや識者の解説を端折って効率的よく感想文に仕上げるのが慣わしだった。実際、リストアップされた書名と著者の一覧を眺めてみても、ピンと来るものは一つもなかったし、誰でも知っている明治時代の文豪の作品ぐらいしか見覚えがなかった。

 みんなが選びそうな文芸作品を避けてリストの中で1点だけだった時事関連の本を選んだ。タイトルから内容を想像する知識さえなかったが、どうやら新書版のようだし、それほど時間をかけなくても読めるだろうと安易な気持ちだった。ただ、表題にあった「革新」や副題の「自己実現」とかいう言葉にどこか引っかかるもの、引かれるものがあった。これまで真剣に社会について考えたことはなかったし、自分の周りのこと、学校や家族についてさえ、まともに向き合って来なかった。

 感想文の出来がどうだったか、本人であっても遠い昔のことなので覚えていないし、思い出したくもないが、きっと文章的にも内容も授業の冒頭で褒められるほどのものではなかったと思う。組合活動をしていた国語教師が密かにしのばせていた左翼系の参考図書を、僕がただひとり選んだから、というのが事の真相だったに違いない。まさか授業中に生徒をオルグ(勧誘)するつもりはなかったろうが、将来に向けて期待を込めて、名前を挙げて褒めたのだろうか。あまり言いたくない理由で部活をやめて「帰宅組」になっていた僕は、授業で名前を呼ばれることすら内心の平静をかき乱される負荷と感じていたし、できることなら誰にも気づかれずに登校し、ひっそりと下校する、そんな平穏なサイクルを求めていた。

 いまでは不登校に認定されるほどの欠席数だったと思う。特に高校二年のときがひどかった。物理は赤点ぎりぎりだったし、数学は「Ⅲ」でもないのに再試験の有り様で、あともう少し踏み外していれば留年していたかもしれない。そう広くない学区の「中の下」が通う公立高校で、僕はいつドロップアウトしてもおかしくない状況だった。自転車で川沿いの国道をガードレールに沿って走っているとき、何かの拍子に後ろからクルマが突っ込んでくれないか。いっそうの事、自転車ごと川に突き落としてくれないか。何度かそう思った。だからと言って、自分から自転車ごとクルマへ突っ込むほどの勇気はなかった。

 休み時間は図書室で過ごすことが多かった。ひとりで居ても不自然でない場所、という以外に理由はなかった。通い出したころはただ、窓際に座ってぼんやりしていた。手持ち無沙汰から適当に一冊、本棚から抜き取って机の上に置き、窓の外を眺めていた。その日は、結構な勢いで雨が降っていたと思う。昼食後の長い休み時間、ちょうど対角線の先にいる一人の女子に目がいった。どのクラスの子か、それより何年生かも分からなかった。僕が彼女の方を見ていると、気配を感じたのか、彼女も顔を上げて一瞬目が合った。僕がすぐに視線を外したので、彼女は気のせいかというふうに本へ目を戻した。

 休みがちで教室にいるのが面白くなかった僕は、図書室へ足しげく通うようになった。当初は、そこにどんな生徒がいようと何をしていようがどうでもよかった、関係なかった。ただ、あれから何度か居合わせた、対角線上の彼女を意識してか、ぼんやりついでに周りを見回すようになっていた。ひとりを好む、友達付き合いの苦手な生徒が集まって来ているのだろうから、一人だけ顔を上げてキョロキョロするのはその場に相応しくなかったし、孤独を癒す場としてルールに違反していた。でも、本を読むのが目的でない僕は窓の外を眺めるのに飽きると、どうしても室内へ目をやってしまうのだった。

 意識してか無意識にか、気がつくと彼女を見ていた。凝視しないよう気をつけていたが、しだいに彼女への思いが強くなっていくのを感じていた。気づかれずに彼女を見ること、それがこの場での目的になりつつあった。互いにいつも同じ席に座り、彼女はとうぜん本を読み、僕はとうぜん片肘ついてぼんやりとしていた。そのころはまだ、胸の辺りに熱いものを感じるほどではなかったが、妙に不安定な感覚が心地よくも少し神経に障り、僕を戸惑わせた。彼女を見るのに高度な技術がいるわけではなかったが、彼女へ視線を送る術を習熟させること、それが勉強やクラブ活動と同じぐらい、いやそれ以上に僕を成長させていたのかもしれない、大人へ向かって。

 帰宅組の僕は6時限目の授業が終わると、別に急ぐあても必要もないのに教科書を手早くカバンに詰めて足早に駐輪場へ向かう。自転車を2、3㍍ほど押してペダルに足をかけサドルに跨り、校門までの結構な勾配を勢いよく下っていく。その日は、気のせいか幻聴なのか、誰かに呼び止められたような気がした。これまでそんなことはなかったし、ましてや女の子の声。空耳に違いないだろうと、そのままの勢いで下っていった。いつものように校門を出てすぐ左へ折れた。同時に顔を左に向けると坂の上に彼女の姿があった。思わず「あっ」と声が出てしまっていた。でも戻る勇気がなく、もやもやした気持ちでそのまま自転車を走らせた。

 次の日、僕は図書室へ行こうかどうか迷った。どんな顔で彼女と会えばいいのか、正確に表現すると、どんな顔をしていつもの席に座ればいいのか。昼食もそこそこに早めに図書室へ行って入口付近で声をかけるべきだろうか。「昨日は坂の上で何をしていたの?」とでも聞けばいいのか。そんなとぼけた声かけがあるだろうか。それが僕と彼女の最初の会話? それだけは避けたかった。男子であっても友だち関係を簡単に築けない僕がましてや女子に対して? うまく対処できるはずがなかった。

 僕は、なんとか図書室へ行き、いつもの席に座ることはできた。彼女は変わらず対角線上の、いつもの席にいた。ただ、これまで以上に意識していたのか、顔を上げることも、チラッと見ることすらできなかった。けっきょく、昼休みの終わりを告げるチャイムとともに席をあとにする彼女の後ろ姿を見送るのが精一杯だった。そんなことがあっても、勝手に思い描く彼女のイメージが僕を学校へ向かわせ、欠席数を減らしていった。これまでと変わりなく、授業に身が入らず教室でただ座っているだけの状況に変わりはなかったが…。

 二学期の中間試験も終わり、文化祭の準備が本格化し出したころだった。一日、二日彼女を見ない日があっても仕方ないで済んだが、こうも長く彼女に会えないなんて、それこそ学校へ行く意味がなくなるだけでなくて…。昼下がりの図書室で一人、僕はぼんやりと窓の外を眺める以外、何もすることがなかった。彼女は月曜日から金曜日まで、図書室に姿を現わさなかった。体調を崩して欠席しているのか、学校に来ているが何かの理由で図書室に来られないのか、それとも、もう来るつもりはないのか。確かめようにも彼女を探す手立てが思い浮かばず、ただ悶々とした一週間が過ぎていった。

 僕は、彼女の名前も、学年も、クラスも何も知らなかった。意識し出してから、どのぐらい経ったろうか。友だちのいない僕は誰にも聞けず、かといって教室を見てまわって彼女がいるかどうか確かめるなんて、僕にできるはずがなかった。解決策を見い出せないまま、勝手に埒が明かないと思い込んでいた。一日のうち、ほんのわずかな時間でも彼女の存在を少し感じられれば、それで十分だった。廊下で出会うごとに笑顔を交わしたり、楽しく会話したり、自転車を押して一緒に帰ったり…。そうしたことは想像の域を出ず、実現するとは思っていなかった。

 よく考えると僕は先月、一日も休まず登校していた。母親が違う意味で「どうしたの」と心配顔で声をかけて来るほど異例だった。どういう心境の変化か、学校で何かいいことでもあったのか、友だちと楽しくやれるようになったのか…。いつ不登校になってもおかしくない我が子の変化に戸惑っていたことだろう。まさか気になる女の子ができたなんて、そばで息子の行状を見て来た母親には想像すらできなかったろう。

 何とも言えない、これまで感じたことのない、胸のどこかが窮屈な一週間が過ぎていった。明くる月曜日、何もなかったように彼女がいつものように静かに本を読んでくれているよう、僕は強く願って図書室へ向かった。彼女がいないのを確かめると、僕は気落ちする暇(いとま)もなく廊下を駆け出していた。自分でも信じられない行動だった。クラスからクラスへ、彼女を探した。一年生の教室にいなければ二年生のフロアへ、階段を駆け上がった。

 教室の中へ入り込んで知らない生徒に彼女のことを聞いてまわる、そんな芸当はできなかったが、一組一組、彼女がいないか僕なりに丁寧に見て回った。けっきょく、一年生のフロアにも二年生の教室にも彼女の姿はなかった。少し息が上がっていた。廊下の突き当たりに差し掛かり、もう後はなかった。そのときだった。肩を落として振り返ると、目の前に息を弾ませた彼女がいた。

 「図書室の前で声をかけようとしたら、すぐに駆け出したので…」。彼女はそう言って照れたような表情を浮かべた。僕は頭の中が真っ白になり、どう言葉を返していいのか分からなかった。ただ、これがどういう状況なのか、だいたいのところはわかっているつもりだった。僕は絞り出すように言葉をつなごうと必死だった。彼女は下を向いていた。「…探していたんだ」。そういうのが精一杯だった。

 「君を…」と前に付けるなんて、とてもできなかった。これまで経験したことのない感情にとらわれていた。時間が止まっているように感じたし、空間には彼女しか存在しなかった。それは流動する景色の中で唯一確かなものだった。僕は見つめていた。彼女ははにかんだ笑顔を返してくれた。

 彼女が2年生で僕より一つ下だということ、アルファベットで表示されるクラスが同じで真下の教室に彼女がいたこと、仲の良かった子とけんかして図書室へ通うようになったこと、いつも小説を読み主人公に肩入れしがちなこと、少し落ち込んでいるときに窓際の男子が目に入ってきたこと、しだいにその彼が気になり出していったこと、文化祭の準備と練習でこの一週間図書室へ行けなかったこと、そして寂しかったこと…。そうしたことが分かったのはだいぶあとになってからだった。

 僕と彼女はこのあとも、何ごともなかったように図書室へ通い、変わらず対角線上に座った、そこが定位置だから、一番落ち着くから、だから、いや、でもその距離が…。ただ、ときに目が合うと互いに笑みを返すようになった。それは僕にとって大きな進歩だった。彼女のように自然な微笑でなく、僕の方はきっと、ぎこちなかったろうし、おまけに顔を赤くして…。自意識を刺激し、恥ずかしいやら胸の辺りが熱くなるやらで、複雑すぎる心の動きについて行けず、あたふたするばかりだった。

 それだけにとどまらず、あろうことか、ときに彼女といっしょに帰ることもあった。時間を決めて連れ立って、というわけではなかったが、自転車置き場で偶然出くわしたときなど、並んで自転車を押してゆっくり校門まで坂を下った。ほんの短い時間だったが余韻がいつまでも続いた。自転車をあいだに挟んで横になって歩く間合いが、彼女の顔を見られなかった僕にはちょうどよかった。彼女の方はいつもよりテンションを上げて僕の横顔に話しかけてくれた。


 僕は学校へ向かっていた、いつものように自転車をこいで。両手が冷たく赤くなるのを感じていた、ドロップハンドルを握って。ペダルを強く踏んだ、身体を前へ屈めて。追い越されていく、大型トラックに容赦なく。ぎりぎりまでもっていかれる、風圧でガードレールに自転車ごと。でも僕は、ここで死ぬわけにはいかなかった、べつに長生きしたいわけでもなかったけど。知らぬうちに防御姿勢をとっていた、右半身が敏感に反応して。川沿いの道を抜けた、もうかつての僕ではなかった―。

 氷の張った水溜りで速度を落とす以外、全速力で突っ走った。校門から自転車置き場まで、勾配のきつい坂も身体を起こしてこいで上がった。校舎の入り口の、背の高いスチール製靴箱のあいだを抜け、最短距離で教室へ向かう。やっと席に着けた、この下に彼女がいる。しだいに息が整い、穏やかな気持ちになっていく。この感覚を得るために学校へ通っていた。昼休みに図書室で彼女と会える、そのことだけを考えていた。理由もなく湧いてくる不安や雑念が消えて、周りのモノどもコトどもがしっくり心身にまとわりついてくる、そんな感じだった。

 彼女のお陰でインターバルを置かず学校へ通えるようになっていた。だからと言って成績が上がるわけではなかったが、クラスメートの何人かが声をかけてくれるようになった。独りで居る方が楽だと思っていたが、クラスメートと話すのも案外、楽しいものだと分かった。ただ、年明けには大学受験を控えており、教室には張り詰めた空気が漂っていた。こうして僕のように情緒的なことばかりに気を取られている生徒は見当たらず、どの顔も引き締まっていた。取り残されている感はあったが、遅れてきた高校生というフレーズがあるのかどうか、みんなから一周も二周も遅れていたけど、僕はなんとかここまで来ていた。

 みんな自分のことで精一杯、周りのことが目に入らない状況は僕にとって不快でも不安でもなく、かえって心地よかった。見られているという過剰な自意識から解放されて身体に変な力が入らず楽だった。図書室に足繁く通っているのだから当然そこで受験勉強に励むべきだろうが、僕は相変わらず窓の外を眺め、そして、対角線上にいる彼女を見つめていた。

 彼女との関係はなかなか深まらなかった。いや、これ以上何を求めようというのか。高校生らしく公園のベンチで日が暮れるまでおしゃべりしたり、日曜日に待ち合わせて映画を観たり、駅前の喫茶店で楽しく時間をつぶしたり。人並みには想像するけど、そんなこと実現するなんて…。普通の高校生カップルのように意識し合える場面をつくるべきなのだろうか。そう問いかけて、そのあとが続かない、そこで思考が停止する、さらに踏み込むとろくなことがない、きっと。そんな意味のない自制が、強迫観念が働いていたのか、ただの臆病なだけなのか、この対角線上の関係に執着していた? そう、ただ壊したくなかった。

 彼女と話すようになって僕は変わった、そう現象面でも。授業が終わっても急いで帰ろうとしなかったし、教科書をカバンに詰めながら二言三言、隣の子と話すようになったし、競うように自転車置き場へ向かおうとしなかったし…。見ようによっては人が変わったよう思われていたかもしれない。立ち止まることがなかった校舎のエントランスで、目の前に広がる山並みを眺めることもあった。これまで気づかなかったモノどもコトどもがどんどん内側へ入って来て、小さな細胞まで更新していく、覚醒を促していく、そんな感じって?

 三学期がはじまり、教室はまさに臨戦態勢に突入していた。どんよりとした曇り空の下、僕は授業を終えていつものように自転車置き場へ向かった。帰宅組に加えて、一週間後の統一試験を控えた受験生たちが、われ先にと勢いよく自転車で校門へ向け急坂を下っていく。その波に乗れず、後塵を拝する僕の耳もとで声がした。「がんばってくださいね」。坂の上から彼らを見送っていると、彼女が後ろから声をかけてきた。受験生組が出払い、自転車置き場は落ち着きを取り戻していた。僕はあいまいに「ああ」と返事したあと、言葉に詰まった。どうも彼女は、僕も彼らと同じ受験組の一員と勘違いしたらしい。一応、大学受験はするが、彼らとレベルが異なる、心構えが違う、一つも受からないだろうし、浪人になるだろうし。僕は自転車を押す手を止めた。彼女も僕の動きに合わせて立ち止まった。

 “彼らとは違う、僕は…”。弁解しようとか、いい訳するために立ち止まったのではなかった。少し先へ行っていた彼女が振り返った。僕は自転車のハンドルを握り直し、小走りに彼女との距離を詰めた。並んで自転車を押して、ゆっくり坂を下った。校門に近づいていた。僕は左、彼女は右へ、反対方向へ別れなければならない、これまではそうしていた。僕はもう一度、自転車を止めた。彼女が一瞬不安げな表情を見せた。僕は、いつもの「じゃあ」をのみ込み、その代わりに「ありがとう」と口にしていた。彼女はやさしい笑顔で応じてくれた。

 “がんばって”も“ありがとう”も、僕の高校生活の中にはなかった、実際使った記憶がなかったし、縁遠いフレーズだった。無気力でふやけた高校生の僕に、いまさらながら、遅ればせながら、思い起こさせてくれた彼女、言葉だけでなく、僕の心に…。僕と彼女は自転車を走らせた、並んでこの一本道を、このまま、ずっと? そんなわけにはいかないこと、わかっているけど。髪をなびかせて真っ直ぐ前を向く彼女とともに、僕は…。


 僕は、受験生にとって大事な夏休みに一週間ほどの旅に出た。大学受験はさて置いて、家に引きこもりがちな息子がこれをきっかけに変わってくれないか、母親のそうした願いもあり、一人旅が実現した。ただ、僕は機会あれば、そして心の整理がつけば、あることを敢行するつもりでいた。そうとは知らず、気持ちよく送り出してくれた母親には申し訳なかったが、僕なりに区切りをつける必要があった。

 いざ実行に移すとなると、そう簡単でないのは分かっていた。若くして人生に疲れていたわけではなかったけど、だからと言ってこれから未来が開けていくとも思えなかった。この企てが成就すれば、周りからはたんに「受験生が悲観して…」と紋切り調で語られるのだろうと思いながら、僕はボストンバッグに麻縄と小型ナイフをしのばせて最寄り駅へ向かった。

 何本か電車を乗り継ぎ、海岸線を走るディーゼル列車の振動に身を委ねた。漠然とした不安感や理由のない焦燥感が消えていた。車窓に広がる夏の海は、陽の光の反射で目を細めなければ見渡せなかった。過ぎた明るさが次第に現実感を失わせ、どこか別の世界へ連れて行ってくれるのではないか、そんな期待感を抱かせた。ひょんなことから異次元へ迷い込み、そのまま居座らせてくれないか。自我が芽生えてだいぶ経つというのに、しっかり自分と向き合えず、常に何かから逃れようとあがいていた。

 母親が予約しておいてくれた民宿のある、小さな駅へ近づいていた。海岸線から離れて山あいを抜けると、小さな集落が見えてきた。二両編成の列車はトンネルを前に停車した。ディーゼル車独特の機械が擦れ合う鈍い音が止み、無人駅となって久しい駅舎が静謐に包まれた。すれ違う列車を待つあいだ、僕は目をつぶった。ふたたびディーゼル機関の振動に身体を揺さぶられ、しぜん顔を上げた。車内に乗客はいなくなっていた。

 様子を確かめようと身体を通路側へ倒したがうまく見通せなかった。諦めて車窓の方へ身を戻すと、間を置かず列車はトンネルへ入っていった。暗闇に景色が遮断され、車内灯が僕をぼんやりと包んだ。車窓には、霊気にでも犯されたような青白い無機質な顔が映っていた。籠もった轟音が幾分クリアになり、同時に車内が明るくなった。ディーゼル列車はトンネルを抜けた。

 駅には、民宿のおばさんが迎えに来てくれていた。高校生の一人旅ということで心配して来てくれたのか、わが子を見るような優しい眼差しでボストンバッグを引き取り、親しげに話しかけてきた。明るい高校生を演じるには器量も度量も足りなかったが、いつもはお座なりにしている挨拶など礼儀作法だけはしっかりしようと心がけた。

 僕は二階の八畳間に通され、おばさんの説明を受けた。民宿の設備や部屋の備品の使い方、夕食や風呂の時間、さらに近くの観光名所まで時間をかけて丁寧に教えてくれた。座椅子を外して正座で説明を受ける僕を、どこか心配げな表情で見ているおばさんに、申し訳ない気持ちになった。僕がこれから、ここでしようとしていること…。しだいに表情が硬くなっていくのを感じていた。おばさんが出ていくと、畳の上に寝転がり天井を見つめた。死のことばかり考えていた、いつ、どこで、決行しようか、と。

 僕は、心配そうなおばさんを横目に目的を果たすため場所探しに出かけた。夏の空はまだ高かった。森の中がいいのか、さらに奥へ行けば流れの速い川に行き当たるのか。国道だという片側一車線の大して広くない道を外れて、軽自動車が一台ほど通れる側道へ入った。両側に田んぼが広がり、緑の稲穂が秋の収穫を前に、風にそよぎ光っていた。

 畦道へ足を踏み入れて立ち止まった。灌漑用水なのか、小川なのか、夏の光にきらめく水の流れに目を細めた。魚の姿態が苦手な僕は屈んで川面を眺めようとは思わなかった。ただ、透明な水の流れに手を浸したい衝動に駆られた。目の前で白いしぶきがかたちを作っていた。清らかで透明な流動体から雑然とした白い構成体へ。僕は里山から深く山へ入っていった。

 きっと数時間後には夕焼けが映えるだろう西の空へ向かって歩を進めた。山道の登り口に小さな祠(ほこら)があった。手前に二体のお地蔵さんが草むらから顔をのぞかせていた。僕は立ち止まり屈んで手を合わせた。お参りしたあと、小さな賽銭箱があるのに気づき、音を立てないよう静かに小銭を入れた。今度は手を合わせたまま、深く頭を垂れた。

 いい場所が見つかりますように? それとも楽に逝けますように? 背筋に冷たいものを感じたが、同時に苦笑してもいた。この先に沢があるような気がした。湿った冷たい霊気が僕を誘っていた。次に来た身震いは本格的なものだった。僕はそれ以上進んではいけないと思った。今日じゃなくてもいい、明日もあるし、明後日もある、別に急ぐ必要はない、死ぬのに…。そう言い聞かせた。

 民宿の玄関先におばさんが立っていた。僕を見つけるなり駆け出してきた。途中、意識して勢いを緩めて近づいてきた。気のせいか、青白い顔に見えた。「夕飯できているよ」。それ以外、何も言わなかった。その代わり、僕の左の手をつかみ、おばさんは安心したような表情を見せた。きっと母親から「神経質で情緒不安定なところがあるので、くれぐれもよろしくお願いします」とでも言われていたのだろう。おばさんの手はかさついていた、でも温かかった。夏も終わりに近づいていた。

 夕食は一階の小さなダイニングに用意されていた。テーブルにつくと、おばさんが料理をお盆にのせてキッチンから出て来た。すでにテーブルの上には煮物やお浸し、佃煮、漬物など副菜が並んでいた。「田舎料理だけど…」と言って主菜の焼き魚とご飯、汁物を一つずつ丁寧に並べていく。「小骨に気をつけてね」。おばさんはそう言ってキッチンへ戻っていった。僕は魚の身を取るのが苦手だった。でも、根気よく時間をかけて味わって食べた。

 一人で食べているあいだも、おばさんの存在を感じていた。姿は見えなかったが、きっと壁一つ隔てたキッチンに居てくれたのだろう。帰りが遅かった母親のお陰でひとりご飯には慣れていたし、それで食欲が落ちることもなかった。それでもこうして間接的ながらも、人を感じて食べるのもいいものだな、と思った。「ごちそうさまでした」。ダイニングで一人、僕は手を合わせてつぶやいた。おばさんに届くように、もう少し大きな声で言うべきだったと反省した。

 部屋に戻って風呂に入る準備をしていると、おばさんがやって来た。「ふとんを敷いておくからね。よく浸かってくるんだよ」。おばさんは慣れた手つきでシーツを引っ張りながら諭すような口調だった。僕はおばさんの分厚い背中に向けて「はい」と返事して部屋を出た。一階へ降りてダイニングの横を通り過ぎようとしたとき、今度はおじさんに呼び止められた。

 料理を担当している、おばさんの旦那さんで、さっき夕食を摂ったテーブルに新聞を広げて煙草をふかしていた。「しっかり浸かってな」。僕は立ち止まり背筋を伸ばして「はい」と答えた。おじさんは顔を上げなかったが少しうなずくような素振りを見せた。僕は風呂の洗い場で、勢いよく泡を立てて髪の毛を洗った。おばさんとおじさんのことを考えていた。

 翌朝、僕はふとんの中で今日一日、何をしようか考えていた。綿密にスケジュールを組む方ではなかったが、今回は大まかに決めてきたつもりだった。例の目的を果たす前に、せっかくだから楽しもうと意気込んでいたが、家にいる時のように何をするにも億劫になっていた。朝食を終えて窓際でぼんやりしていると、引き戸の向こうからおばさんの声がした。僕が振り返るのと同時におばさんが中へ入ってきた。

 「もうすぐ昼だけど、どこへも行かんの?」。時間の感覚がいつもと違っていた。朝食からまだ一時間も経っていないと思っていたが、実際は三倍速で進んでいた。僕が言い淀んでいると「おばさんと一緒に来る?」。きょとんとした表情を返すと、おばさんは「部屋でのんびりもいいけど。いい天気だし」。様子をうかがうように右腕の肘辺りをさすりながら言ってきた。僕はすでに一緒に行くつもりだったが、どう答えていいか迷っていると、おばさんは「さあ、いっしょに行こ」。笑顔で僕の腕をつかんで、なかなかの力で引っ張り上げた。

 「気をつけてな」。キッチンの前を通りかかると、おじさんの低い声がした。僕は意識して大きめの声で「はい」と返し、おばさんが運転席で待つ小型ワゴンへ乗り込んだ。どこへ行くとも告げられず、僕は少し身を硬くして助手席に座っていた。「明日はどうするの?」。おばさんは一瞬こちらに顔を向け、話しかけてきた。“今日の予定もはっきりしないのに…”。僕は内心そうつぶやきながら運転席のおばさんの方を見た。

 黙っていると、前を向いたまま「明日の朝、おじさんに付き合ってあげてくれない?」と聞いてきた。これまた、どう答えていいのか逡巡していると、今度は僕の表情を確かめようとのぞき込んできた。「危ないよ、前を見ないと」。僕は丁寧な言葉遣いも忘れておばさんに向かって言っていた。「あっ、ごめん、ごめん」とおばさんは苦笑いを浮かべて正面へ向き直った。僕は「いいですよ」と答えた。

 おばさんは信用金庫で用事を済ませた後、クルマで一時間ほどの、隣町にある観光施設へ連れて行ってくれた。そこに着くまでおばさんは「お客さんに用事を付き合わせて…」と二度ほど申し訳なさそうな顔をしたが、楽しそうだった。最近、何とか遺産に認定されたということで多くの観光客が来ていた。僕は人の多いところは苦手だったが、おばさんが先へ先へと引っ張ってくれたので、人込みをそれほど意識せずに名所を巡れた。

 神仏習合のありがたい施設ということだったが、手を合わせるだけでいいのか、何回か手を叩いて頭を下げないといけないのか。どうお参りすればいいのか迷っていると、おばさんが僕の顔をのぞき込んで、真似るようゆっくりした動作で促してくれた。お参りする箇所がいくつかあり、順序だって手を合わせていくと展望台の方へ進んでいく。最後に6、70段もありそうな石の階段が目の前に延びていた。おばさんも僕も息を切らして表面がでこぼこで不安定な石段を上がっていった。最後の方は手をつないでいた。

 売店で買ったアイスクリームを両手に持ち、おばさんがベンチへ戻ってきた。隣に腰を下ろし右手を差し出し、僕に渡してくれた。アイスクリームを受け取り、ここでも頭を下げて丁寧にお礼を言った。おばさんはアイスクリームを持ったまま前を向いていた。横顔が寂しそうだった。気のせいか、目の端が少し光って見えた。目に映っているものとは違うものを見ているように思えた。「さあ、帰ろうか」。おばさんはそう言って立ち上がった。向けられた微笑に、僕はそれ以上の笑顔で返した。おばさんは何を失ったのだろう、誰を見ていたのか。何となくわかるような気がした。

 帰りのクルマの中で、おばさんはひと言もしゃべらなかった。僕は正面を向いていた。どういうわけか、しぜんと母親のこと、別居している父親のこと、そして僕自身のことを考えた。目の前に、確かなもの、しっかり掴めそうなものはなかった。でも、取りあえず手を伸ばそうと、身体を前へ傾けようと、半歩でも踏み出そうと、躊躇しながらでも、そう、取りあえず、けっきょく手が届かなくても…。西日がフロントガラスを通して僕とおばさんを照らしていた。軽ワゴンが民宿の前に止まると、おじさんが出てきた。怖い顔に変わりなかったが、その気持ちは伝わって来た。僕は、このままでいいような、自己肯定にはほど遠かったけど、自身に少しばかり、猶予を与えようと思った。「ただいま」。僕は久々にそう言った。おじさんが笑顔で応じてくれた。横でおばさんが笑っていた。


 いまさらジタバタしてもどうしようもなかったが、試験日が近づくにつれて少しは無駄な抵抗でもして母親を安心させようと思った。たしかに机の前に座っている時間は増えたが、集中力が持続せず時間だけが過ぎていった。最後までルーティンを変えようとしなかったのが悪かったのかもしれない。僕は試験日の前日まで登校し、いつものように図書室で時間を費やした。

 他の受験生のように、少なくとも前日は休んで体調を整えるよう母親に言われたが、僕は曖昧にうなずくだけでやり過ごした。授業に出る必要がなかったからか、思いのほか朝早く目が覚めた。朝食もそこそこに自転車にまたがり家を出た。車輪の空気圧が少し心配だったが、その分、脚に力を入れて川沿いの国道を走り抜けた。自転車を手で押して上る下級生を横目に、僕は校門から続く急勾配の坂をそのまま上り切った。

 冬の図書室は教室に比べて暖房が効いていて心地よかった。僕は読みかけの小説を本棚から取って窓際の指定席に座った。彼女は昼休みしか、そこに来ない。でも、僕は一服の絵画を頭に描いていた。イマジネーションが切り取る、完成形に近い、尊く麗しき構図。デッサンに集中する美大生のように、まだ来ぬ彼女を見つめていた。しだいに四方から枠が浮かび上がり、彼女を中心にタブローが出来上がっていく、青を基調にした美しい描線。僕はそこに、清らかで完結した、かけがえのないものを感じていた。

 気がつくと、彼女が対角線上に収まっていた。僕は引き続き、その作業を続けた。しっかりとした顎のラインに絵筆を入れ、長いまつ毛、きれいな鼻筋を丁寧に描いていく。ページをめくる手つきに動きを与え、固くつぐんだ口元に濃い目の絵の具を重ねていく。うつむく表情に翳りが差さないのが不思議だった。僕にとって彼女はそういう存在だった。昼休みの終わりを告げるチャイムも耳に入らず、彼女を描きつづけた。立ち上がり微笑む彼女にやっとわれに返り、頭の中の絵筆を置いた。

 卒業式までの数週間、欠席者の目立つ教室は春の訪れをよそに、何とも複雑な空気に包まれていた。僕は、悲喜こもごもの「悲」の方に入っていたが、クラスを二分する雰囲気を楽しんでいるようなところがあった。四月から晴れて大学生になる同級生をたいして羨ましいとは思わなかったし、かといって浪人して予備校へ通う者への共感も同情もなかった。

 学生でも社会人でもない身分の不安定さを、自虐的かもしれないが結構楽しめるのではないか。もしかしたらこの一年で思いもかけない事が起きて僕の意識を大きく変えてくれるかもしれない、大学受験をよそに。そんなことを思うだけで以前よりうまくやって行けるような気がした。勉強もそこそこに日々シンプルに自分自身を見つめる作業を続けていけば、何とかなるような気がした。へんに楽観的な自分が不思議だった。

 卒業式の前日、これも学校へ行く必要はなかったが、僕は定刻に登校した。一日じゅう図書室で過ごそうと思っていた。高校生活を振り返り感傷に耽るつもりはなかったが、最後に湧き上がってくる感情や感覚を確かめ、身体のどこかに留めておきたかった。一時限目のチャイムが鳴った。僕は一冊の分厚い本を書架から取って席に座った。

 難しい専門用語に阻まれてけっきょく読み通せなかった哲学書だった。ある私小説の中で主人公が、影響を受けた難解な本として取り上げていた。理解できないセンテンスが大半で何度も手放しかけたが、気持ちがざらついて落ち着かないときにどういうわけか決まって手に取っていた。昼休みの3、40分をかけて一ページ進むかどうかだったが、意味も分からず文字を追っているだけで不思議と不安感が収まった。

 少しばかりイディオムが分かる程度で、センテンスのつながり、節や章ごとの内容、ましてや行間から漂う意味を理解できる水準から程遠かった。ただ、テクストの奥底に流れているもの、言葉を形づくる前のアプリオリな何ものか、意味が現れ出るまでのポテンシャリティが感じられるというか、その流動が、カタチにならないものが、なぜか僕を前向きにさせた。高校最後の日にこの感覚を確かめたかった。

 昼食を終えた生徒が図書室に一人、二人と入って来た。僕はそのたびごとに顔を上げて、彼女かどうか確かめた。ここで一緒に過ごすのも今日が最後になる。対角線上にいる彼女の姿を目に焼き付けようと思った。彼女は入って来るなり、虚をつかれたように一瞬立ち止まった。明日卒業する三年生が来ているのに驚いたふうだった。僕はぎこちない笑顔をつくり迎えたが、彼女は下を向いたままいつもの席に腰を下ろした。対角線上の彼女はなかなか顔を上げてくれなかった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。立ち上がり去っていく彼女を見送れなかった。下を向いたままやり過ごしていると、いつのまにか傍らに彼女がいた。見上げる僕に笑顔を見せ、両手に持った二つ折りのノート片を差し出した。僕はしばらく彼女を見つめていた。なかなか受け取らない僕に照れた表情を見せた。それがしだいに、困惑顔に変わっていく。焦らしていたわけでも、もちろん意地悪でもなかった、ただ気が動転していた。

 彼女は図書室でのルーティンを崩して急きょ、僕へ贈るメッセージを考えてくれたのだ。愛しい気持ちが複雑に反転して、寂しさはもちろんのこと、居たたまれなさや、どういうわけか、やるせなさ、それこそ理不尽さまでこみ上げてきて、心身を維持するのがやっとの状態だった。僕は硬い表情を崩せぬまま、ノート片を受け取った。彼女はほっとした顔つきになり、微かに笑みを浮かべた。「これからもがんばってください」。そう言って足早に図書室を出て行った。

 僕は六時限の授業が終わるまで図書室にいた。立ち上がろうと、ふと窓の外へ目をやると、駆け足で自転車置き場へ向かう生徒が見えた。この春から三年生になる男の子だろうか。途中、視界を遮られて男の子の姿が消えた。彼はなかなか姿を現してくれなかった。僕は、このあと勢いよく坂を下っていく男の子を想像していた。でも、彼は女の子と並んで自転車を押して出て来た。何度も顔を見合わせ、楽しそうにゆっくりと坂を下っていく。校門を出たところで別れるのだろうか、そのままいっしょに進んでいくのだろうか。

 僕は彼女から手渡されたノート片を上着の内ポケットへ丁寧に収めた。僕以外に生徒のいない図書室をゆっくり見回した。書架が思いのほか高く感じられた。夕日が背中を照らし、机に影をつくっていた。輪郭のはっきりしない僕の影は対角線上へ長く延びていた。僕は小さい声でとつぶやいた。「ありがとう」。それほど悪くない、三年間だったかもしれない、そう思えるようになっていた。


哀切のレフティー


 勢い込んでいたのかもしれない。この内側に流れる、これまで僕を阻んできたモノどもコトどもを懸命に払い除けようと。冷静さを失っていた、とまではいかなくても、身体にも心にも無理が生じていたのだろう。少なくとも齟齬を来たしていた、あらゆるものとは言えないまでも、多くのものが。統一された、ひとまとめであったものが、心細くも離れていく、乖離していく、ちりぢりに拡散していく、すべてが矮小化していく、卑小にも…。そんな感覚と言えばいいのか。不安定で身の置きどころのない、数カ月が過ぎていった。

 本来なら意気揚々と、まではいかなくても、少しは明るい気持ちで、電車に乗っていてもおかしくなかった。僕は一応、大学へ通っていた。社会へ出るにはまだ早く、心構えができていないから、ただそれだけの理由で、いわゆるモラトリアムを享受したかっただけだった。だから、この内側を充たしてくれるような、それこそ自己実現へ向けた兆しのようなものが、そこにあると、期待すべきではなかった。楽しめるはずのキャンパスライフが虚しく、意味のないものに思えて、気分を萎えさせた。ほかの学生のように、この四年間を存分に楽しんで、あとは就職という人生の墓場へ向けて、という否応のない隷属なプロセスに違和感を覚えていたし、それこそ吐き気をもよおすほどだった。

 僕が大学生だったころはまだ、校門から校舎にかけて様々な立て看板が掲げられていた。学費値上げ反対や学生自治への介入阻止、ときの権力への対峙アピールなど、70年安保世代に比べれば穏やかで、それこそヘタレ感は否めなかったけど、まだ熱きものが少し残っていた。バブル経済に酔っていた社会から一定の距離をとって、青臭く甘ったるい空間があった。そこに、いわゆる左翼思想を懐いた、多少か結構かは別にして、勘違いした、ある意味おめでたい、希少生物のごとく若きレフティー群が生息していた。ノンポリ学生が大半を占めるなかにあって、けっして成就しないレボリューションへ向けて、イタイ幻想を抱きながらシコシコと、青い日々を送っていた。

 非合法活動を取り締まる破防法が適用されたセクトの構成員が、サングラスをかけて口元にタオルを巻いて、校門へ延びる細い道に並んでいた。見るからに危なっかしい勧誘(オルグ活動)に足を止める学生はほとんどいなかった。異質で胡散臭いモノを見るような目つきで、そばを通り過ぎる彼らにとって、それはたんに縁遠い存在、アンタッチャブルな対象だった。得体の知れない過去の遺物、これまでのいきさつはもちろんのこと、意味するところ、存在意義なんて意識の片隅にすら上らない、何ものでもないモノ、取るに足らない、無意味な現象に過ぎなかった。

 セクト間の、女々しい近親憎悪が見っともない、一部ヤクザの抗争を思わせる殺し合い、非生産的で熾烈な闘争に明け暮れた70年代安保世代に比べ、当時のレフティーたちは、社会矛盾が巧妙に隠され、複層的に潜在化していた分、ときの勢いとか、響き合う共同幻想とか、たんに見かけの、表層的な情況に対するアンチテーゼとか、そういう妙な高ぶりがなくても、虎の穴へ入っていく、ある意味、意識の高い先鋭的で前衛的な革命者だったのかもしれない。だからこそ、当時の学生たちにとって、より気味の悪い、触れてはえらい目に遭う、目指す高みが理解不能な禁忌すべき存在だったのだろう。

 でもごくまれに、田舎から出て来た純朴な青年が騙されてとか、自意識過剰な浮かれものが口車に乗せられて、ということはあったかもしれない。でも、僕も含めて強弱は別にして、一応社会に順応し当たり障りなく過ごして来た、ふつうの感覚の持ち主が彼ら例外者の列に加わるなんてこと、搾取や階級のない社会とか、誰もが自己実現の叶うユートピアとか、手渡されたチラシの檄文に踊らされて、そんな夢のような戯言を鵜呑みにするようなこと、あり得ない話だった。いまで言う、楽しいサークルを偽った新興宗教の勧誘のように、知らぬうちに、そんなつもりじゃなかった、というのではなく、見るからにヤバイ感じの、一度足を踏み入ればヤクザの世界のようにそうかんたんに抜け出せそうにない、その危うさは一目瞭然だった。そんなことで人生を棒に振るなんて考えらなかった。

 でも、だれにも心の隙というか、悪いタイミングが重なって、悪魔なのか天使なのか、妙に虚を突かれて導かれて、思いとは反対に、知らぬうちに引き寄せられて…ということにならないとも限らない。それでさえ、少し間合いを取って、あえて気を逸らしてみたならば、ずれに気づいてすんでのところで踏み止まる、たいていはそうだろう。その一方で、そうしたナローなアプローチを受け入れて、あえてダークなプロセスを進んでいく、奇特な絶滅危惧種が事実存在するから、新左翼と言われて久しい過激派が生き永らえるわけで、社会の風潮や常識、利害得失を超えて、あえて貧乏くじを引く、少し格好よく言えば嵐の中を漕ぎ出していく、そういう殊勝な状(情)況も成り立った。けっして交差しない、馴染まない、片方の比重があまりにもバランスが悪すぎる、進行度合いもあまりにも異なる、妙なパラレルワールドを形成して…。そんな解釈もできないではなかった。いずれにしても、それと併走しようなんて、思いもよらないことだった。


 「待った? 遅れてごめんね…」

 彼女が、そうだろう、きっとそうに違いない、と訝しく思いだしたのはいつから? そのときも、はっきり違和感を覚えるとか、急によそよそしく感じられるとか、じゃなくて、何となく、それこそどっちにでも取れるような、まだ疑わしき段階、スタンスを定めるには時期尚早という…。だから、話をつけようとか、もちろん行動を起こそうなんて、それとなく聞いてみようとさえも考えずに。でも、ちょっとした仕草で、くもった表情で、ためらう口ぶりから、これも同じように、何となく、もしかしてそうじゃないか、いやそうに決まっていると思い込んだり、疑心暗鬼になったりして。

 「サークル、忙しそうだけど…」

 本来なら構内で出会うはずないのに、どういうわけで? もちろん因果関係はなくて、たんなる偶然なんだろうけど。学部もサークルもバイト先も違う彼女と、こういう関係になったのは…。原因があるのなら何に起因して? こうして彼女を前にして、いつもの理屈っぽい性格が出て来て、だらだらと頭をめぐらせて。疑わしくもけっきょく、受け入れてしまって、いまから振り返ってみると、けっこうしぜんに。後悔とまではいかなくても、どこか引っかかるものが、ストンと内側へ落ちないものが、あったような気もするし、いまから思えば。もっと言えば何かに誘われて、裏に控える不遜で不埒なものに導かれて、という感じはオーバー? いや…。

 「どうする? こんどの休み…」

 もう今となっては、彼女かどうかさえ、仲の良い異性の友だちには違いないけど。二人の関係性って? ほんとうのところ、当事者どうしにもわからないし。だいいちそんなこと、意識すること自体、すでにもうってことで。そう言えば、身体を交わしたのも、だいぶ前の、それっきりで、互いに目を背けがちになって。でも気にしないふうに、こうして向き合って、たまに顔を引きつらせて、笑顔で打ち消し合って。ソーサーともどもカップを引き寄せて、おもむろに口元へ持っていく仕草に、辛うじて思いとどまって。時間を巻き返す、空間を引き寄せる、われを取り戻す、彼女を感じて、そんなふうに。

 「なに食べる? いつものところで…」

 いっしょにいるときぐらい、目先を変えようと、不安を追い払おうと、せっかくのごちそうを前に。並んでいるほうが、向かい合うより、しっくりいく、いつまで経っても。そんなふうだから、いやそうだから、この時空間を占められて、関係性を保てて。欲望を自足する姿に、ホッとするも、無力感にもさいなまれて、自虐の一歩手前で。深く関わることに、身体を超えて交わることに、穏やかに螺旋状に上昇することさえ、生理的に受け付けなくて。額にうっすらと汗を、拭う手を待ちきれずに、目を逸らして下を向く、おのれの卑小を感じずには…。

 「あのことだけど、どうすれば…」

 協力はするけど、どんな感じで、どうすれば、僕にできることなら、それでもやっぱり。この内側にある、潜んで澱んでいるものを、白日の元にさらして、このままでいられるのかと。フロイトなんだろうけど、少しユングもかすめて、人体実験をリポートにまとめる、役不足でなければ。烙印を押されそうで、出来の悪い被験者として、それこそ不具者、性格破綻者、身体的欠落者、そうしたモノどもがぞろぞろと、この役立たず…。いい機会に違いないけど、僕にとっても、いや彼女にとっては? 区切りになって、距離が縮まって、いや愛想を尽かされて。見えて来るものが、真であろうと、偽であろうと、そんなこと、たいして意味なくて。

 「それと、このまえ言ってた、あの…」

 べつに行くだけなら、ただ数が必要というのなら、それで君が助かるのなら、顔を出すのもいとわないけど。気が進まない? そんなことより、そこに興味があるなんて、それとなくわかっていたけど、いざリアルに示されると…。それも織り込み済みって? 揺るぎない感じでちょっと、だからと言って向き合い方、変えようとは、でも少し引いてしまって。きっと感じることないと、その神聖なるシンパシティ、できればこの件、この部分だけ外して、付き合うってこと、もし可能なら。それも込みってこと、じゅうぶん分かっている、そう自ら強いようと、でも自信がなくて、うまくいくか心細くて。けっこう酷な話だって、気づかぬ素振りに、傷つくまではいかなくとも、やっぱりまだ…。

 「こうして、ずっと? いや…」

 意志の強そうな、あごのラインに、不安になって、惑わされて。目に入る、その横顔に、釘付けにならずとも、吸い込まれて、遠くに感じて、どうしようもなく。埋もれていたものが、待ち構えていたものが、頭をもたげて、立ち上がって。触媒に火花が走る、無慈悲に導火線を伝っていく、内側から外郭を打ち壊して、それが覚醒へ向かって、いや、そんなこと…。ただ流動するだけで、リセットというには、心もとなくも流れ去り、戻って来て円環のごとくに。ループ状に競り上がってくる、優性なるものが、凝集して狂わしく、芯となって揺るがず。ゆっくりとスロープを、すべり下っていく、浮かんでは散り散りに、行方知れずに、追っていくしか…。

 「進むこと、退くこと、諦めるって…」

 どっぷり浸からなくても、表面をかすめる程度でも、取りあえずは、そういうことで。親分と盃かわすとか、一度足を踏み入れたからには、なんてこと、そんな冗談にもならず。肩の力を抜いて、考えを止めて、感じるところを信じて、行なうに任せて、しぜんにってことは。思いがけずに、ひょんなことから、ぬっと頭を出して、辺りを見まわして、身を低くして。そろりそろりと、用心深く一歩、また一歩、たまにはそうして、彼女に微笑み返して。かりに受けつかなくても、それはそうと、受け流すしか、生理に問われる前に、なんとか処理して、出来損ないの、この頭で。あとで付いてくるものに、信頼を寄せて、当面は無理でも、そうするしか、ないってことか、と。


 コミュニズムの、洗礼というほど、寝食を忘れるでも、衝撃でもなかったけれど、大学一回生の夏休み、マルクスに触れて。ついでにレーニンも、そうロシア革命の、前頭葉が張った、あのはげ頭の、演説上手そうな。『資本論』も『帝国主義論』も、もちろん日本語訳だけど、それでも噂に違わず難解で、ほとんど理解できずにやり過ごすも。それなりに感じることで、自分なりにニュアンスを捉えて、一筋の、とまではいかなくても、ほのかに光明を覚えて、それがけっこう、左右するとは、そのあとの道行きを。論理なんて脇において、思いのほか肌に合うというか、しっくり来るところがあって、驚きとともに、少し前衛を感じて、もしかして、と。この世のこと、前世から来世へのプロセスを、もともと神を信じていなくても考えてしまって、だから唯物論。

 キャピタリズムの、居心地悪さに、こんなものかと、思えなくなってきて、ただそれだけでも。だからと言って、貧富の差、それほど感じることなく、凡庸に程よく、悪く恵まれていて、底の底がわからないままで。搾取なんて、そうそう実感できないし、巧妙に覆われている、それこそ構造的に隠されて、潜在しているというけれど、ほんとうに。それに、自由と平等? 抽象的すぎて、この手でつかめない、感触すらも、たんに概念でしか、勝手に作られた、理想の名のもとに。かなわぬ戯れ言として、けっして引き寄せられず、これまでもこれからも、それも弁証論。

 ユートピアの、矛盾を承知で科学的と言われて来た、いまだ見果てぬ地へ、そうそう歩み出せるはずもなく。誰もが、必要に応じて、能力に合わせて、そう自己実現って? 論理に引きつけようにも、けっきょく信心の域を出ないと、宗教に体よく利用されるはめに、やっぱり夢まぼろしに過ぎなくて。共産主義という、一個の怪物、妖怪が、でなく、たんに張りぼてが、ただ幻影が徘徊している、ヨーロッパに限らず。期待を抱かせて、信じ込ませて、人生を狂わせて、放っておかれて、責任も取らずに、壮大なるトライアルと雖(いえど)も。人間の本性を見紛えて、たちの悪い冗談に堕して、きつい反作用を、無気力と神経症をもたらして、それでも無謬論。

 ニューレフトという、破れかぶれの、先鋭化した、例の70年代初めの、バールを振りかざす、仁義なき党派、その殺人狂想曲。日和見主義の、議会主義の、反革命的な、腑抜けどもに対峙している、つもりで。純化路線を突っ走り、振り返ってみると、民衆どころかネコ一匹いなくて、でも立ち止まれず、ノマドをよそおい漂うだけで。少数精鋭の、前衛のおごり高ぶりにしか、矜持をないがしろに、独りよがりを極めるも、一抹の不安から生理が滞って、それでも。反権力のジェスチャーも虚ろに、底無し沼の彼方へ響く、公安の、権力の都合のいい手段に堕して、それとはなしに自己目的に、だらしなさに、みっともなさに、そのまま自虐論。

 アナーキズムの粋な、堅気を外れた、滑稽に任侠道を往く、その果てに。何かをつかもうとか、有意義であろうとか、そんなみみっちい、しみったれたこと言われても。空振りしても、肩で風を切って大股で、有無を言わさず蹴散らして、一筋の輝く道を、しかも似非の、そこを進むしか。この身を保てなくて、野垂れ死にしようが、魂が成仏できずに、ぷかぷかと恨みがましく、そこいらに漂っても。脇差しを懐に入れて、ピストルを握りしめて、巨悪を幻視し天上を見上げて、いっきに昇っていく、彼岸へ、はかなく散って、おのれを叶えて。宇宙の塵に姿を変えて、そこにしか居場所がなくて、エターナルに、無意味に、何事もなかったかのごとく、それこそ虚無論。

 ニヒリズムをそこに、対抗して白々しく、もってくることに、潔しとしなくとも、どうしてもちらついて。矛盾があるからこそ、優性が劣性を踏み台に、そこに原動力、起因のすべてが、意志があるってことに、優勝劣敗。アンチテーゼに仕立て上げ、柔弱な賤民思想だとか、キリスト教や民主主義と同じく愚鈍な者たちの野合とか、飼い慣らされ、従属するはずの、畜群が権力を得ることの、笑うに笑えない悲劇という、けっきょく自己崩壊の…ニーチェ。ヒューマニティに信頼を寄せて、進歩の途を開こうにも、レベルを下げて迎合的に、それこそ科学と称して、許しを請おうと逃れ、矜持のカケラもなく。この身を、前衛を維持することに、躍起になって、本末転倒をそのままに、突き進んでいく、自暴自棄に、やっぱり忘我論。

 ストラクチャリズム、頭にポストを冠して、色合い変えて後継者に? 画期的でなくても、新思潮とか、主体の脱構築とか、ポストモダンと称されて、いい気になって、だけどけっきょくハシゴ外されて。資本主義の存続に、ただ手を貸して、斜(はす)に構えて自嘲するも、これも気がつけば、相手にされず、陰口たたかれ、うやむやに漂うしか、ノマドのリフレーン? そんな体たらくに、惨めに身をやつして、逃げをうつしか、持ち前の柔弱さが、線の細さが顔をのぞかせて。たゆたう? 日本人にはそんな感じで、むずかしくもなく、けっこう肌身に合って、だからいつまで経っても、ということで。コミュニズムと縁遠く、レボリューションなんて夢のまた、これまた情けない、そこに逃走論。

 イズムを超えて、そこから遠く離れて、脚をぶらぶらさせて、脱力感に身をゆだねて、リベレーション。解き放たれて、思いがけず、新事実を、天啓・啓示を、神によらず、感じるままに、取り込んで吐き出す、その繰り返し。ヒダをかすめて、ズレを生かして、非連続の連続を、螺旋状に昇らせて、散らかしながら。このインサイドをサーフェースに、重ね合わせようと、まずそこから、そうグラウンドに、漸進的に粘り強く、心身の合一へ向けて。無茶な企てと、有史以来の不可能ごとと、大仰な構えを強いられても、地を這って天を駆けめぐるしか、極小から極大へ、その逆へ、エターナルに。円環状に流動していくしか、純化しながら、機会見つけて、隙を見計らって、スパイラルに突き抜けて、少しの可能性に賭けるしか、ゆえに革命論。


 彼女は、ほとんど明かりの届かない、コーナーの片隅でうつむき、身体を硬くしていた、肩を震わせて。どうして? 何があったの? その理由、けっこうしっかり伝わって来る、でも。声をかけるとか、ましてや肩に手をやるとか、そんなことできなくて、何もしてやれなくて、仕方なく。そっとして置くしか、アイスペールとグラス数個をトレーに乗せて、そこを通り過ぎるしか、見て見ぬ振りするしか、いまの僕には、情けなくても。

 その子だけは、ほかの子と比べて、でも、わからなくて、どこが違うのか、外形的に? もちろん内側を、うかがい知ることなんて。でも、意識のどこかで、淵の方かもしれないけれど、引っかかる、どういうわけか、この夜のアルバイトで。非日常の、ちょっとした出来事に過ぎない、きっとそうだろう、思い過ごしに違いない、そう、頭を切りかえて、ほかの子に思いを馳せれば、それで消えてなくなるような、微細な存在であっても。だからなのか、この内側にさわる、襞をかすめる、いい具合に神経を逆なでる、そう意識させてくれる、そんな彼女。

 黒服の、ラウンジのボーイの分際で、そんなこと、わかっているけど、取るに足らない、卑小で下らない存在だってこと、この世界の中でさえ、いやそうだから。 吹き溜まりの、場末の、偽りの、人工的な薄明かりに、浮かび上る、映り込む、ぼやけた顔でさえ、目をそむけて。この内と外、心と体が、存在自体が、消えてなくなりそうで、どこかで望んでいたはずなのに、いざ訪れ来たると、準備が出来ていたつもりでも。放っておくと、乖離がひどくなる一方で、それこそトレーを持つ手が、グラスが小刻みに震え出し、抑えようにも、意識をそこへ、被せようと、持っていこうと、すればするほどに。

 マンションの前に停めるたびに、軽く後ろを振り返って、笑顔をつくる必要もないのに、慰めるすべもないのに、大型ワゴンの運転席で。対向車のヘッドライトで、一瞬映し出される、疲れた表情の、スマホへ向かう後部座席の、哀切な彼女ら、一日の終わりを取り集めて。一方通行の狭い道、ブレーキを踏んだまま、ドアが閉まるのを確認して、リフレーン、シークエンス、エターナル、どれも同じに思えて。道端に停まる、時が止まる、隔たりが歪む、神経に障る。「お疲れさま、です」。

 ひとり残った彼女を、同じように身体を少し後ろへ傾けて、様子をうかがうでもなく、しぜんなふうに。スマホから目を離さず、ゆっくりした動作で、後部シートに気息を、魂を、精霊を残して、ドアに手を、ステップへ足をかけて。言葉をかける、機会も暇(いとま)も、なかったわけでなく、スルーする、過ぎていく、この薄暗がりに。足をブレーキから離し、アクセルへ乗せて、ゆっくりと、このエンプティを、空しさを、この空間を先へ移して。サイドミラーに彼女が、小さくなっていく、スマホから顔を上げて、こちらを見ている、だからといって。「大丈夫なの? ほんとうに…」

 すぐ手前の信号が、偶然赤でなかったら、戻ることも、無茶なバックも、しなかったのに。彼女のいるところへ、狭いエントランスの前へ、しゃがみ込んで動かない、彼女へアプローチすることも、なかったのに。彼女を降ろした場所へ、時に逆らい、隔たりの隙を突いて、戻ることも、なかったのに。ふたたび彼女を見ることも、運転席のウインドウを開けることも、エントランスの明かりへ吸い寄せられることも、なかったのに。彼女のそばへ、ワゴンから降りて屈み込んで、顔色を、様子をうかがうことも、なかったのに。引きずるように、その華奢な身体を抱えて、エレベーターの前で、その重みを感じることも、なかったのに。「何階? どの部屋まで…」

 きれいに組み合わさった、小さなガラス玉の、宝石のような、ちっちゃなバッグから、鍵を取り出して。ハイヒールの散らばった、狭い玄関口をそのままに、身体を何度もこすりつけ、両側の壁に、ワンルームの奥へ、足の踏み場もないほどに。身体を引き離し、彼女をリリースして、踵(きびす)を返し、表情を確かめずして、出て行こうかと。どこからともなく、声にならない、微かなニュアンスを、そうかんたんには、感じ取れなくて。でも、僕を引き寄せる、どういうわけか、理由もなく、意味もなさず、漂うふたりが、重なりあって、合わさって、ただそれだけで。「大丈夫、ここにいるよ」

 カーテンの向こう側、白みだす外界の、ときの流れに、歯向かう術もなく、ただ寄添って、ぎゅっと手を握られて。胃の腑のあたりに、少しの乾きを感じ、覚醒していく、入っていく、巻き込まれていく、このふやけた、当たり障りのない、日常へ。かたわらで、身体を起こし、腕の辺りに手を、ずっとそのままに、目をつむり、動きを止めて、すべてを捨てて、後悔なんて。この瞬間(とき)に、エターナルを、非連続の連続を、時空を超えて、彼女とともに飛翔して、彼岸のとぐちで戸惑うも、もともと意味がないんだからと。でも突っ返されて、門前払いされて、苦笑して、どの辺りか知らないけど。「元気そうで、よかった」

 

 「どうだった?」。彼女は集会のあと、表情を変えずに、いつもの感じで聞いてきた。言葉を選んでいるふうを見て、さらに続けた。「まあ、すぐに返事しなくても…」。これで何度目かと、そろそろ態度を決めなければと、でも、違和感を覚えずには。いつまで経っても、彼女から言われても、いや、だからこそ、いい加減、愛想を尽かして、この腑抜けた感じや考えに。無理強いしようにも、どうしてもついていけなくて、何を守ろうとしているのか、わからなくて。それならと、いさぎよく思考を停止して、とりあえず跳んでみようか、人生棒に振ってやろうか。でも、そんな度胸、根性がどこにあるというのか、この僕のうちに。

 拡声器の声が、遠ざかっていく、スポイルされていく、同時にリリースされていく。彼女とともに校門脇の、喫茶店の前を、通り過ぎる、どこへ行くでもなく。「どうする? 寄ってく…」。彼女の誘いに、問いかけに、答えずに、先へゆく。べつに当てもなく、目的もなく、結果に期待しているわけでもなく。たゆたうだけで、バイトへ向かう、ただ時間をつぶす、しっかり時空間にしがみつく。回避することに、逃げをうつことに、飽きているはずなのに、それでも付いていく。ベクトルの向きを変えようにも、こころとからだ、バラバラでどうしようもなく。だからと言って、向き合わないわけには、彼女へ、僕自身に、ぐるっとまわって、けっきょく。「じゃあ、きょうは…」。

 「バイト、何時から?」。何気なく、というふうに、キッチンでカップにコーヒーを注ぎながら、後ろ姿の、彼女は。「ぜんぜん大丈夫、夜のことだから」。いつものように、言葉に詰まりながら、顔も上げずに、僕は。「それなら、ゆっくりと、きょうぐらいは」。コーヒーカップが二つ分、せいぜい載るぐらいの、小さなトレーを両手に、めずらしく柔和な表情で、彼女は。「ありがとう、お構いなく」。わざと距離を置くつもりも、警戒しているわけでもないのに、ここにおよんでも、僕は。「ミルク要った? 砂糖はいいよね」。こうして久しぶりに、寄ってくれたのだから、でもこの機会に、とかじゃなくて、彼女は。「いや…」。さらに言葉少なに、意識してか、僕は。

 「どうしてだろう…」。飾り気のない、無駄を排した、生活するだけの、シンプルな佇まいで。「男の子みたいで、かわいげがない?」。自嘲気味に、少し卑下するように、恥ずかしげに、それでいて、しっかり顔を上げて、女々しい僕を見つめて。「いや、飾らない性格が。クールで機能的な…」。見当はずれな、余計なことを、つい口をすべらして、でも正直なところで、べつに傷つけるつもりはなくて。「そうだよね、女としてはねぇ…」。言葉とはうらはらに、うれしそうで、女権論者として? だけどやっぱり、少しのわだかまりを残して。「でも…」。崇高なる彼女にしても、いや、そういうところが。

 「まだ、しばらくは…」。思いのほか、居心地がよくて、当分はここに、と言っても、そうそう時間を弄ぶわけには、とくに彼女と。「ごはん、食べてく?」。思わぬ展開で、しぜんの流れで、こうしてしだいに引き込まれて、そのプロセスの、どの辺りかも、ぬかるみの深浅も、見当がつかなくて。「いや、わるいし、そんなこと…」。けっきょく目的は一つの、悪巧みの、たとえそうだとしても、色仕掛けよりはまし、と苦笑するしか。「一人分も二人分も、作るの、いっしょだから」。それじゃお言葉に甘えて、と厚かましくも、軽いニュアンスに、身をあずけて、たまにイレギュラーも、けっきょく高くついても、いいかと。

 「ゆっくりしてて…」。意外な一面を、いやこっちが勝手に、彼女のことを、その本質を、ただ知ろうとせずに、やり過ごして、思い違いして、遠ざけていただけで。気がつけば、ローチェストの上の、小さなフォトフレームの中で、微笑み寄り添う三人の、色落ちした哀しみに、目がいってしまって。陰に隠れていたのでも、目立たなくさせていたわけでもなく、少し目を凝らせば気がつくはずの、くすんだ感じのぬいぐるみ、と。天涯孤独なわけはなく、そう、主義に生きると、イズムをこの身にたたき込むと言っても。小気味のいい、包丁の音に、ときに身を沈めるのも。「これは?」。べつに疑問ってわけじゃないけど。

 「ああ、それね…」。掘り返そうとか、白日の下にさらそうとか、そんなんじゃなくて、ただ話してくれるのなら。「どうぞ…。上手くできているか、自信ないけど」。その思い出を、つらいことなら、僕に話す必要なんて、遠い昔の話というのなら。「うん、おいしいよ」。けっこう手の込んだ、クリーム仕立ての、初めての味だけど、パスタをすくって。「まあ、いまとなっては…」。早くして亡くした両親とか、子犬ととも一人残されたことも、叔父さんのところで肩身の狭い思いを、果ては施設で心をこわばらせて、ふつうに死を意識して、そんなことまで。「そうか…」。ただそう返すだけで、それ以上は、パスタの味はわかるけど、言葉をなくして。

 「それだけのことで…」。なぜか既視感を覚えずには、窓のそばで向き合うことに、狭いベランダへ抜け出そうとか、小さなキッチンの前を通っていくなんて、考えも及ばずに。脱け殻を残して、離れるって、もうそんなこと、いい加減に、核心の方へ、僕をそこに、しっかり据えて。彼女を前にして、というのじゃなく、たんに媒介物として、モノでもコトでさえも、ないということで。有機物の複雑さを、思い知らされて、さっと通り越して、その先へ、不機嫌で不感症に、不確実を手にして。けっして難しくも、険しくもなく、容易に上っていけるような、緩やかな坂だって。遅ればせながら、まったく、だからと言って、なにかに障った、どこかに触ったとかじゃなく、この内側へしぜんに、すっと入って来ただけに。「ごちそうさま。おいしかった」。


 「休講だよ、知らなかった?」。肩越しに声がした、振り返ると小クラスで一緒の女子がいて。紅“二”点のうち、めがねをかけた、まじめな方で、数えるほどしか口を利いたことも、もちろんこっちから話しかけたこともなくて。「それなら、もっとゆっくり来れば…」。独り言のようにつぶやいた、第二外国語の授業がなくなって、気が軽くなるも、このあとどうしようか、一時間半も。その場に立ち尽くす、この無表情な彼女とのあいだに、何かが生じたり、湧いてきたりするなんて、あり得ないと思っていたけど。「もしよかったら…」。掲示板の前から離れようとしたとき、彼女は続けて声をかけてきた。

 僕は知らなかった、彼女が「日文研」に入っていること、まともに話したことないのだから当然、そんなこと知る由もないのだけれど。文学部でもないのに、いや経済学部だから、せめてサークルは、小さいころから本を読むのが好きだったし、太宰治とか中原中也も好きだし、やっぱり日本文学かなと、そんな感じで? いまから購読会があるというので、いっしょに来ないか、と。僕が文学好きそうに? 今回取り上げるという、文豪と言われている、耽美派の作家に興味があるように見えたのか。それならば、ほんとうにお門違い、本を読むのは嫌いじゃないけど、小説とかエッセイとか、そのときは退屈に思ってて、老後の楽しみにとっておこう、くらいにしか思っていなかった。

 同じ小クラスの男子を見つけようにも、一時限目なので難しく、まじめに図書館へ行くとか、ぼんやり学食で休憩するとか、一人で過ごす方法が、どういうわけか思い浮かばなくて。だからと言ってその場からスムーズに、しぜんに立ち去る、誘いを断る理由が、すぐに出てこなくて。彼女と変に見合ってしまって、気まずくなって、けっきょく付いていくことに、もう面倒になって。これも時間つぶしの一つに違いないと、ほぼ興味がないとは言え、この僕に彼女がなぜ、ということくらいしか、引っかかるところがなかったけど、そこに納得しようと、自分に言い聞かせて。地下の学食に一度か二度ぐらい、文学部の入る校舎には、行ったことなくて、女子が多いことくらいしか、とうぜん文学とか意識するはずもなくて。経済学部の、理屈っぽそうな、ほぼ男だけという、汗臭い感じのするサークルとは違って、気のせいか石鹸でも香ってきそうな、甘ったるさに少し違和感を覚えるも、思いのほか女子力があるのか、苦痛でなく意外に心地よくて。僕は、苦笑いを浮かべながら少し顔をこわばらせて、狭い部室の隅に座った。「では、始めます。今回のテーマは…」

 べつに勧誘しているようでも、是非入会してほしいというのでもなく、逆に異分子が入ってくるのはどうも…って感じで迎えられて。仕切っている四回生の、退屈そうな男に「次もよければ…」と言われても、微妙な笑みで受け流すしかなくて。そんな様子をよそに、うれしそうに、得意げに僕の顔を見てくる、その彼女に、ぎこちない、さらに薄い笑みを返すのがせいぜいで、とにかくその場から離れたくて。いずれにしても、サークルっていうのは、文学など文科系に限らず、テニス同好会なんて論外だけど、どれもこれも肌に、性に合わないと、やっぱりふやけた感じがして。だからと言って、こっちがちゃんとした考えの、意志と言えるほどの、しっかりしたものを持っていたわけでもなく、同じようにキャンパスで、たゆたうだけで。流れる時間も、周りの空間も、なかにいる僕自身も、ただ無碍にするだけで、漂い彷徨うだけだった。

 「どうだった? 少しは…」。テキストにした、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』って、やっぱり難しくて、風雅とか耽美とか、日本古来の美意識といっても、それでいて、いやそれだから、性愛とか官能とか、足フェチまで、でもたんに女癖が悪いだけじゃないか、と守備範囲の広さに敬意を表して、必死に失笑を抑えて。そこら辺りも含めて、真顔で議論しているのが、何とも言えなくて、身体の内側のどこかがこそばゆい感じがして。「いや、おもしろかったよ」。そう返すしか、興味があった、と取られても、ほんとうは可笑しくて、滑稽に思えて、ぐっとこらえて。だから、もう行くつもりは、もちろん入会しようとは、そんな可能性は一つもなくて。「それはよかった。また…」。うなずくでもなく曖昧に、ただ得意の、微妙な笑みを漂わせるだけで、ごまかす必要もないのに、生来の気弱が出てしまって。「じゃあ、また…」。僕は、その彼女から離れようと、見っともなくも、何ごともなかったように、徐々に後ずさりして。午後からの、三時限目の授業へ向かった。

 元から数えるほどしかいない、受講生がさらに少なくなって、でも前から三列目の、ほぼ中央に位置して、助教の抑揚のない声に耳を傾けて。経済学部では一般教養の「マルクス主義哲学概論」。唯物論とか、弁証法とか、剰余価値とか言われても、でも矛盾の純化とか、自由の本義とか、搾取の構図とか、なぜか心地よく響いて、少しはわかるような気がして、すっと内側へ入ってくるような感じがして。たいしてしっくり来なくても、少しの引っかかりを、ちょっと強引に、この身へ引き寄せる、ただ表面を撫でる、そんな感じも許容しながら、この内側で感じるモノどもコトどもに、信頼を寄せるしか、従っていくしか、依存するしかなくて。雑に板書された、かすれたワードに、イディオムに、センテンスに、フレーズに翻ろうされて、浮遊して外側へ、枠を越えて解き放たれて、それこそ自由を、ほんの少し感じて。可能性とか、自己実現とか、そういう壮大な、これまでも、きっとこれからも、縁のないような、幻影のごとくでないかも、と。ちょっとしたズレを、たんにヒダをかすめるだけの、でもスパイラル気味に、そうパラレルじゃなくて、ゆっくりと漸進的に、モラトリアムから、もしかして抜け出せそうな、一筋の光を侍らせて。「先生、これなんですが…」。講義のあと、助教のもとへ質問しにいった。

 そろそろ身の振り方を、パラダイスからヘルへ、モラトリアムからシビアなリアルへ。リクルートブックからハガキを送って、企業情報を集めて、面接のスケジュールを決めて。いざ出陣!と校門出たところの、喫茶店で顔突き合わせて、あれやこれやと、けっこう楽しそうにして。「やっぱり銀行かな、証券もいいけど」。人のお金を右から左に、増殖することしか、興味も意味もないと、詐欺まがいに巻き上げたお金を、強欲な輩と山分けして、とかいう資本主義の要、いや諸悪の根源より、ましなんだろうけど。「メーカーの方が。それもCじゃなくて、できればBtoBで」。たとえ消費者向けであっても業者をアゴで使えるし、企業向けならルート営業でラクそうだし、でもいち早く腑抜けになりそうで、それはそれで仕方ない、と。「流通は避けたいところ。高校の社会科教師って手も」。店頭に立たされるだろうし、相対的に給与が安いのも士気の上がらない理由だし、子どもでも大人でもない相手に、どんな顔してってところがあるし、なにより長時間労働で面倒なこと多そうだし。「それじゃあ、起業を見据えて、小さくとも伸びそうな会社で」。たしかにその手もあるだろうけど、五、六年で辞めたあと、けっきょく転職の繰り返しってことも、流れ流れて水商売ってこともあり得るし、そんな度胸も能力も、もともとないのに…。

 僕はひと言もしゃべらず、というより何も話すことがなくて、だからと言って聞き役にもなれず、別のところへ、違うベクトルへ向かって、いやそこへ跳ぶしかなくて。一枚のタブローを描くように、曖昧な自画像であっても、透明感をもって、青の絵の具を手放さず、完成せずとも、キャンバスに真っ直ぐ向かって。

 性懲りもなく、流動していくしか、これからも果てなく、非連続の連続を、映像のコマ送りを、地でいくように、意識を飛ばして、つなぎ合わせて、すんでのところで、カタチになるのを、辛うじて阻んで。途中で筆を置くとか、イーゼルの前から離れてとか、それこそアトリエから出て行くなんて、ありそうになかったし、だからと言って、そこに固執することで、台無しにしようとは。

 この外殻を、かなぐり捨てて、ヒリヒリする過敏な内核を、リリースする、この時空間でなく、だからと言って異次元とか、パラレルワールドとかでもなくて、澄み切った青い空を、きれいなスカイブルーを、白い画布の上に、少し不安定な画架を気にしながら、描きたいだけで。何度も上塗りしながら、濁った不純なグラデーションを、そんな作業に気が遠くなりながら、一枚一枚根気よく、仕上げていく、ときに雲も交えながら、描いていく、この青空を、僕のタブローに。(了)

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青のタブロー オカザキコージ @sein1003

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