常政子二刀剣談
奇水
常政子二刀剣談
心形刀流の伊庭軍兵衛秀業の門下に、伏見十郎太政名がいる。
直参旗本伏見家の四男で、十四の頃に剣術で身を立てることを志した。
心形刀流は天和に伊庭是水軒秀明が柳生流、一刀流、武蔵流、本心刀流から編み出した流儀で、代々伊庭家に伝えられた。
八代目の秀業は、文化文政の華美奢侈の世にそれを排した古風な厳格さを持ち、そして当時台頭した撓防具を用いた稽古を取り入れる進取の気質を備えていた。
十郎太はこの秀業に弟子入りし、一刀以外、小太刀、二刀、小薙刀、居合を身につけ、特に二刀を能くした。
「二刀なら負けぬ」
と常々言って、秀業も認めたほどだ。
「しかし政名で二刀とは、出来すぎだ」
政名は宮本武蔵が若い頃に使ったと伝えられる。
若い頃に政名の諱で、後年に玄信と改めたと言う。
元々心形刀流の二刀は、武蔵流のものである。
師の「出来すぎ」という言葉は、まさにという他はない。
「男谷殿にも勝てるやも」
そう誰かが言った。
直心影流の男谷信友のことで、当時は剣術日本一と言えば彼を指す。
同時代に千葉周作、斎藤弥九郎がいて、なおそう言われたのだ。
十郎太の二刀は、その男谷にも勝ると。
当の十郎太には、まだ解らない。
幸い、男谷は試合を拒まぬという。相手がどの流派の剣士であれ、挑まれれば応じる。
(免許皆伝して挑もう)
と考えた。
ほどなく免許皆伝を授かり、剣号「常子」を賜り、「常政子」を名乗った。
彼が入門して十年目、天保三年のことだ。
◆ ◆ ◆
天保十一年の某日――
武藤左膳宣旬は、大石進種次をよく知らぬ。
大石進種次は七尺の巨漢剣士で、家伝の愛洲陰流に大嶋流槍術の技を工夫し、五尺竹刀を操る大石神影流を開いた。
また従来の唐竹面、長籠手の防具を改良して十三本穂の鉄面、竹腹巻、半小手を作った。
過ぐる天保三年に大石が江戸で試合をした時、これらは大石の五尺竹刀と左片手突きの盛名と共に、江戸に広まった。
(阿波では見ない)
面金に布団をつけたような防具と袋撓の稽古が、彼の地元の現状だ。それを不自由と思わない。
(面白くない)
彼は保守的な性情で、革新的な道具によい感情がない。
便利な道具を否定しない。ただ、普段の稽古は戦の鍛錬のためのものであるべきで、五尺の竹刀を普段扱っていれば、定寸の刀など実戦で余裕に操れる――とあれば、彼も否とは言わぬ。
だが、聞こえる話は違う。
大石を真似して、皆が長竹刀にした。それは試合に勝つためで、兵法の本道に反している。
(詮無いことだ)
どのみち彼は剣士ではない。
蜂須賀家の江戸藩邸の弓術指南である。
なのに。
「水野様のお屋敷にて撃剣を見よ」
武藤が上役にそう頼まれたのが、四日前だ。
老中首座・水野忠邦の屋敷にて撃剣の催しがあり、そこに伊庭軍兵衛が大石進を連れて着ると。
『伊庭殿か』
蜂須賀家は心形刀流が盛んで、伊庭家の練武館に近々原士の若者を入門させようという意見が出ていた。
『当代は評判の大石と交流深く、その影響を受けたという』
『私に見て参れと』
『今の江戸詰めで最も武道に通ずるのはお主だ』
丁度非番でもある。
(面倒だ)
そう思いつつ、個人の催しとは思えぬ規模に彼も素直に驚いていた。
(先年は島田虎之助との勝負があったというが)
高名な剣客同士の因縁の対決は、盛り上がって当然だ。
因縁は天保三年、大石が初めて江戸に来た時に遡る。
大石は江戸の有名道場で腕試しをした後、男谷と試合し、左片手突きで勝利した。
島田は男谷の高弟である。
いわば師の敵討ち。
(盛り上がったろう)
とは解る。
かつて大石が江戸にもたらせた騒動は、国許の武藤にも聞こえた。
世に云う〝大石旋風〟――勝海舟は「御一新以上」とまで述べている。
そしてその手に持つ五尺の竹刀が、強烈な印象を人々に与えてしまった。
(やはり)
屋敷の中、縦弐間半、横六七間の板間で試合が行われたが、そこにいる剣士の全てが総長四尺以上の竹刀を持つのを見て、溜息が出た。
(前は三尺の袋撓を皆使っていたが)
七尺もの竹刀を持つ者もいた。
(あれは確か、一刀流の近藤弥之助)
歴史ある名門の者まで長尺竹刀を使うとは嘆かわしい。
到底、身の丈に合っていない。
そして肝心の大石種次は、七尺五寸の巨漢であると聞いていたが、さすがに木偶の坊ではないと所作から解る。
手に持つ竹刀は孟宗竹の如き太さで、鍔も六寸はあろう大きさだ。長さも五尺を超えている。にも関わらずさして違和感がない。
(さすがに本家は違うか)
長さの利に溺れる愚昧でもないようだ。
それで少し期待がでたのだが。
(まるで相撲だ)
大石は上座で見ているだけだが、五尺以上の長尺同士の戦いは、すぐに押し相撲のような鍔迫り合いになった
みっともない。
(こんなものか)
ふと見れば、試合を大石は不機嫌そうに眺めている。
武藤は退屈な試合へと再び一瞥をくれる。
これは報告は辛口になるな。
と思った時。
「次は拙者に」
武藤の後ろから聞こえた。
するりと武藤の隣りを抜けた者がいる。
彼が眉根を寄せたのは、その剣士が持つのが白い皮を被せた袋撓で、長短の二振りだからだ。
「二刀」
口にしていた。
古くより伝わるとはいえ、二刀は世間では外連味が強い外之物と評価される。
(二刀流……これもまたゲテモノだな)
そう思った。
◆ ◆ ◆
(ようやくだ)
上座の水野忠邦と、大石種次、伊庭秀業へ目礼してから、伏見十郎太は二刀を中段に構えて対峙する。
ここまで、長かった。
かつて伏見十郎太は、大石種次に負けた。
九州よりきた巨漢が、有名道場の高弟を尽く破っていると聞き、十郎太は恐れなかった。
二刀流に自信を持っていたし、田舎の剣士に敗れる江戸の者を侮蔑すらした。
そして遂に練武館にきた大石に、常政子の剣号を得たばかりの伏見は挑み、敗れた。
大石の突きは見事だった。
平戸の藩主で常静子・松浦静山公は「突きは死刀」、不利な技と著書で述べている。この頃は皆そう考えていた。真剣の殺し合いも当然、試合でもほぼ使われないと。
その技に敗れ、十郎太は文字通りに突き崩された時、この上ない衝撃を受けた。
『見事です』
そう師が大石を称えるのを聞いた時、絶望もした。
より優れた者が継ぎ、太平に激しい気風を保つ心形刀流の宗家が、より優れた剣士を褒める態度はむしろ当然だったが、十郎太には耐えられなかった。
翌年、男谷信友まで大石に敗れたと聞き及び、十郎太は剣を捨てた。
その直後、
それが変わったのは、大石が再度来たと知った時だ。
さすがに大石の手の内も知れ渡り、一度目ほどの無敵ではなかったというが、それは世間の剣士が大石流を取り入れた結果に見えた。
長尺竹刀、改良面、防具という新規道具に、突き胴の技――それらを江戸の剣士は導入した
この時の剣術界を、大著『大日本剣道史』は
「天下の撃剣大石流に化す」
と述べている。
男谷もそれらを受け入れたと聞き、十郎太は身の内にある衝動を知った。
大石に勝たねば。
このまま古来の技は、無用として打ち捨てられる。
そのように復帰した十郎太を、かつての仲間は歓迎しなかった。
彼らはすでに。変化した撃剣に順応している。師までもが彼を疎んだ。
十郎太はそれでも残り、稽古を続けた。
そうして翌年のこの日、十郎太は師に改めて頭を下げ、水野家に来た。
「はじめ」
審判の声と共に、一刀流近藤の長尺竹刀が襲いかかる。
中段からの小手打ちを左小太刀で抑え、十郎太は半身の右突きを繰り出す。
喉を撃たれた近藤は、のけぞり。
「参った」
降参した。
この結果に、大石種次は目を細め、伊庭秀業はかっと目を開いていた。
続けて六人が十郎太に挑み、尽く勝った。
相手の突き、小手、胴を小太刀でそらして踏み込み、右太刀で突く。
二刀流の基本だが、その拍子の見事さは、二刀兵法の開祖・宮本武蔵もかくの如きと思わせた。
やがて長尺の剣士の全てを負かした十郎太は、改めて上座へと目をやる。
「大石殿」
と言った時、皆が十郎太の目的に気づいた。
「常政子」
伊庭秀業の声に。
十郎太はさすがに言葉を止め。
「そこまでだ」
「……解りました」
十郎太はもう一度頭を下げ、板間から出ていった。
「伊庭殿」
「私にも面子がある」
その背中が人混みの中に紛れた後、二人の大剣士は囁きあう。
万が一大石が負ければ、推挙した伊庭の面子が潰れる。
少なくともこの場で、これ以上の試合はできなかったのだ。
◆ ◆ ◆
常政子こと伏見十郎太は、剣術界から再び姿を消した。
十年後に兄の遺児を養子にして、隠居して以降は、いつ、何処で死んだのかも明らかではない。
伏見家の言い伝えでは、大石と勝負すべく旅にでたというが定かではない。
大石家の記録も、種次の孫が事業の失敗で家財を失ったため、それ以前のものは散逸している。
この日の試合についても、武藤左膳宣旬が書き残した『昨七日今八日』に僅かに記載されているのみだ
武藤は長尺の使い手たちが無様で見苦しいと、散々述べている。
(まだ、二刀流の方がマシだ)
いずれ大石流など一時の流行りに終る、むしろ二刀流が台頭するかもしれぬ。
彼はそう思いながら、水野邸を後にした。
……数年後、弘化三年に阿波より練武館に派遣された、原士の佐藤三兄弟が帰郷した。
彼らが江戸より持ち帰った防具と竹刀、そして突き胴の技は、地元の剣術界を激変させた。
『郷に帰るや剣術の改良を行い(中略)以前はお面とか籠手の他はなかりしに今や更にお突きお胴の所作を加えたれば世上佐藤式とて近隣を風靡したりきこれ剣道界の革命というべし』
と『市場町誌』にある。
伊庭家より学んだ突き胴の技は、明らかに大石流からのもので、それは長尺竹刀の流行りを超えてなお、残った。
剣道界の革命というべし――まさに、ここより近代剣道が始まったのである。
武藤が予感した二刀流の流行はついぞなく、二刀流の使い手は、21世紀になっても少ないままである。
一時の一人の勝ちなどでは、大いなる流れは変えられなかった。
所詮、歴史とは斯くの如しであろう。
常政子二刀剣談 奇水 @KUON
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