ナポリタンスパゲティ幻想

Kan

本編

 僕は昨日から、とある地方都市に旅行に来ていた。そして、その街に住む友人に案内されて、デパートの最上階にあるレストランに向かっているところだった。

 デパートと言っても、東京の新宿や池袋にあるものとは違い、ごくごく小さなもので、建物はどこか年季を感じさせるものだった。それでも洋品店や、食料品売り場には人の賑わいがある。

 最上階へと向かうエレベーターには窓がなく、ただ白い壁が四方を囲んでいるだけである。黒い斑点が床から伸びていて、おそらくこれは拭いても落ちないのだろう、と思わせるほどに汚れていた。

 友人は大学時代の同級生で、現在は広告代理店に勤めている。このデパートが自慢らしく、僕の隣で微笑んでいる。


「小さい頃からこのデパートにはよく遊びに来たものなんだ。さんざん遊び疲れて、最後にこれから君と行くレストランに行って、そこでハンバーグやナポリタンスパゲティーを食べたものだった……」

 友人はそれがもう二十年近く前の出来事だと語った。

「君の思い出のレストランなんだね」

「その通り。大切な思い出さ。だから是非、君にもあのスパゲティーを味わってほしいんだ」

 そんなことを話していると、エレベーターは最上階に到着した。チンと古めかしい音がして、ドアがぎーっと鈍く音を鳴らしながら横に開いた。


 最上階は、無装飾の広い廊下が伸びていて、左半分しか明かりはともっていなかった。人の姿はどこにもなく、僕はもうレストラン街は閉業してしまったのだと思った。ところが友人は構わない様子で、この廊下を歩き始めた。僕は異様な気分になりながらも、友人の後を追った。友人が廊下の角を曲がると、その奥に赤い看板が照らし出されていて「ロマンティック公爵亭」と記されていた。木製の格子に、小さな窓がいくつも開けられた扉があり、その右横のショーウィンドーにはハンバーグやスパゲティーの食品サンプルがずらりと並べられている。しかしどれもこれもひどく古いもので、黒ずんでいて、不気味な陰影をつくりだしている。

「ここ?」

 と僕が尋ねると、友人はふふふっと笑って、

「本当に何もかも変わらないなぁ。懐かしいよ」

 と言った。


(まじか)

 僕は寒気がした。友人は扉を開くと、ひとりで中に入っていった。レストランはL字に折れ曲がった細長い空間で、木製のテーブルと椅子が並び、小さな棚にフランスの花瓶やロシアの人形、イギリスの皿が飾られていて、暖色系の照明がそれらを明るく包み込んでいるようだった。

「なんだ。なかなか、いいところだね」

 と僕は友人に言った。正直な感想だった。友人は何の反応もせず、無表情のまま、店内に進んでいった。

「定員さんが来るのを待たなくていいの?」

 と尋ねると、友人は僕の顔を見て「いいんだよ」と言うと、L字の一番奥、縦長の窓のS手前の席に座った。外はもう真っ暗で、山並みは墨を塗ったようだった。宇宙のような星空が広がっている。


 しばらくして店員が現れた。店員は上品な制服に身を包んでおり、微笑みを浮かべて、僕たちの顔をみて、メニューを手渡した。

「僕はハンバーグ定食を。彼にはナポリタンスパゲティーを」

 と友人は自分のおすすめがあるらしく店員に率先して話した。僕もハンバーグでもよかったのにな、と思いつつも彼がよく食べていたというお勧めのナポリタンスパゲティーを楽しむことにした。


 それから僕たちは大学時代の思い出話をした。時が経つのも忘れて、話しているうちに、どれほどの時間が経ったのだろう、店員がハンバーグ定食を運んできた。友人はそれを受け取ると嬉しそうに、鉄板の上でじゅうじゅう音を立てているハンバーグをナイフで切って、フォークで刺して、ふうふう言いながら食べ始めた。

「ああ、美味しい。これは懐かしいなぁ」

 続いて、店員はナポリタンスパゲティーを運んできた。山盛りになったスパゲティーはトマトの色、そのままの真っ赤な色に染まっている。僕はフォークでくるくると麺を巻き取って、一口食べた。舌が焼けただれてしまいそうなほど熱かったが、実にケチャップの味が濃厚で、麺が香ばしく、僕は夢中になってそのナポリタンスパゲティーを頰張った。

「本当に美味しいなぁ」

 と僕が言うと、

「そうだろう。ちょっと普通じゃないぐらい美味しいスパゲティーじゃないか」

 と友人は自慢げに言った。

「たしかにそうだ」

 と僕は答えた。


 友人と僕は、店員にお礼を言うと、レストランを後にした。僕はひどく奇妙な気持ちになった。美味しいことは美味しかった。いや、本当に異様なおいしさがそこにあった。ところが味そのものは何の変哲もないナポリタンスパゲティーだった気がする。それなのにあんなに美味しいと感じたのは不思議だと思った。一体、あの中になにが入っていたのだろう。

「最高のお店だった。ありがとう」

 と僕は友人に告げた。


           *


 友人はその日以降、連絡が取れなくなった。なにかが起こったことは分かっていた。しかしそれがなにかは分からなかった。ただ、鉄板の上のハンバーグを切り分ける友人の姿が何度も浮かんでは消えた。


 僕は東京に帰ってきていた。あれから何日がたったことだろう。東京のアパートで、僕はなにかわけのわからない不安に襲われていた。長閑な春の日差しが畳を暖めていた。

 電話が鳴る。僕は受話器を取った。なにか言葉が聞こえる。それが何を意味しているのか分からなかったが、僕は友人が死んだのだと思った。

(死んだんだ)


 アパートの一室で僕は天井を見上げている。こうして狭い部屋の中にいるのは、あまりにも窮屈で、息ができなくなってくる。僕は外に出て、新鮮な空気を吸おうと思った。

(今に恐ろしいことが起きる)

 僕はコートを羽織ると、外に飛び出した。汚らしい路地裏がずっと続いている。この道の先を右に曲がれば、大通りに出ることができる。そのうちに僕は後ろから誰かに追いかけられているような気持ちになって、次第に足を速めた。後ろを見ることができない。しばらくして後ろを振り返った僕はほっとしてため息をついた。


 大通りに出て、僕はひたすら何ものかから逃れようとして歩き続けた。電化製品を販売している店の前に通りがかったとき、テレビでニュースが放送されていた。

「……さんが何ものかに殺害されました。遺体は、三つに切断されていて……」

 僕はそこで耳を塞いだ。やっぱり友人が殺されたのだと思った。友人はあの時、ハンバーグをナイフとフォークで切り分けていたから、今度は何ものかに自分の体を切り分けられてしまったのだろうと思った。

(やはり、あの店に行ってはいけなかったんだ)

 僕はそう思った。


 僕は、気持ちを落ち着かせようとして喫茶店に入ることにした。大通り沿いにあったのは最近、流行りの喫茶店で、入店すると縦長の空間に、カウンター席とテーブル席がずらりと並んでいた。店員に案内されて、隅のテーブル席に座り、僕はブレンドコーヒーを頼んだ。

 腕を組みながら、入店してくる人々の顔を窺う。僕はずっと、自分の心拍音を聞いていた。そうしていると女性の店員がブレンドコーヒーを運んできた。店員はにこやかに微笑む。

「ご注文の品はこれでお揃いですか」

 僕は曖昧に微笑んで頷いた。女性の店員の顔は、人間離れしているほど美しく思えた。しかしなにかほころびがある気がした。店員は踵を返すと、そのまま僕から離れていった。


 僕はしばらく胸を押さえて静かにしていた後、ブレンドコーヒーを一口飲むと、椅子にもたれかかって額の汗をぬぐった。

(なにかがおかしい……)

 僕は、しばらくテーブルの上を見つめていた。テーブルの上の面積が大きくなったり、小さくなったりしているように思えた。それから僕は、カウンターの向こう側に立っている男性店員をちらりと見た。

(あっ!)

 僕は叫び声を上げそうになった。男性店員の顔はもう人間のものではなかった。真っ赤なナポリタンスパゲティのようになって、もじゃもじゃと頭の形に絡み合っていたのだ。

 僕は両手で顔を覆うと、テーブルの上に伏せた。自分の頭がおかしくなってしまったのかと思った。そして、うううとうめき声を上げた。ひどい吐き気がした。足音が近づいてくる。先ほどの男性店員が僕の肩をさする。そして心配をしているらしき声をかけてきた。

「大丈夫ですか。具合が悪いのですか?」


 見上げると、ナポリタンスパゲティの店員がこちらを覗き込んでいる。今や、頭の形すらとどめておらず、麺は肩から垂れ下がり、スーツの上にのっている。本来頭がある位置には何もなかった。ぽっかりとそこには空間があった。

「救急車を呼びましょうか」

「あああ」

 僕は震えた声を出して、体を後ろに反ると店員から離れようとした。ナポリタンスパゲティは床に伸びてきている。僕はわっと叫び声を上げて、店員の手を振り払うと立ち上がった。


 空気が凍りつく。店内にいる人々全員がこちらを見ていると思った。はっとしてあたりを見まわすと、どれもこれもナポリタンスパゲティの顔である。僕はしばらく凍りついていたが、鞄を投げ捨てて、一目散に店外に駆け出した。

 外に飛び出ると、大通りには車が走っていた。車の窓が開いていて、ナポリタンスパゲティが漏れ出してきていた。僕は頭を押さえて走り出した。歩道の先を見ると、ナポリタンスパゲティが黄色いワンピースを着ていて、青いリードの伸びている先には、ナポリタンスパゲティの塊が転がって蠢いていた。僕は、立ち止まって叫び声を上げると、反対方向に駆け出した。

(みんな、みんな、スパゲティになっちまう!)


 二十階建てのビルが建っていたところだった。下の方はビルだけれど、上の方はナポリタンスパゲティになって、もじゃもじゃと垂れ下がってきていた。


 生き物も、建物も何もかもナポリタンスパゲティになってしまうのだと思った。僕は四方から伸びてくるスパゲティの麺から必死に逃げ惑った。大通りに面したビルはすべて、スパゲティになって道路に麺を伸ばしてきていた。僕は叫び声を上げながら、走り続けた。足が麺に取られて転ぶ。そして僕は気を失った。


           *


 瞼を開くとあたり一面、ナポリタンスパゲティの海で、僕は麺に絡まりながらどこかに運ばれているところだった。白っぽい空から巨大なフォークがゆっくりとこちらに下ってくるのが見えた。僕はぼんやりとしながら、そのフォークがスパゲティの麺に深々と突き刺さるのを見た。スパゲティの麺がくるくると巻き取られ、巨大な塊となって、宙に運ばれてゆく。


 ハンバーグを食べた友人がハンバーグのようにばらばらに切り取られたように、僕はスパゲティの麺のようにフォークに巻き取られて、何ものか分からないものの口に運ばれるのだろうと思った。その何ものかというのが何者なのかは分からない。世界を超越した存在。神というのはこういう存在のことだろうと思った。自分の手足はもはやスパゲティの麺になってしまっていて、どこからどこが自分なのかも分からなかった。曖昧な意識で、僕は自分がナポリタンスパゲティになったことに後悔し、どうしようもない残酷な自分の運命に想いをめぐらせていた。


 しばらくして、巨大なフォークが自分に向かって下りてきた。その時が来たのだ。自分はフォークに巻き取られて、天に向かって運ばれた。今や僕はナポリタンスパゲティ以外のなにものでもない。その時、僕はすべての終わりが来たことを悟った。そして一体、自分が何に食されようとしているのか、死ぬ前にそれだけは見ておきたいものだと思った。


(一体、それは何なのか……?)

 僕が見上げた先には大きな丸い影が浮かんでいた。次第にそれが近づいてきて、大きく大きくなってゆくのだった。僕はそれがはっきりと見えてくるにつれて、すべてを悟って、泣きたいような、笑いたいような気持ちになった。


 ……それは巨大な、自分自身の顔だった。

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