思い出食堂

甘凪まつり

仲直りとほくほく余り物コロッケ


 問一、学生の本分は勉強なのか?


 答えはイエス、と言いたいところだが、生憎の所そうではない。

 成長期も佳境に入った男子高校生の有り余る体力と気力、およびその他諸々を勉学だけに費やすのは、あまりにも非効率だと思うのだ。

 机に齧り付くだけではなく、周囲に溢れる刺激的なものを吸収し、自らの糧としていく。それこそが本来の「勉強」ではなかろうか?


『この成績だと志望校の判定は厳しいぞ』

『あんた、またテストの点下がったの?』

歩夢あゆむ、だから勉強しなさいっていつも言ってるじゃないの! あんたって子は遊んでばかりで──』


 だが、言い訳を並べても納得出来るのは自分だけだ。


 担任の先生、姉、それに母親。

 うつつを抜かす俺に彼らの言葉がちくちくと刺さる。それは抜け落ちることなく、鈍い痛みとなって俺を責め立ててくる。

 高校に入学してからというもの、俺の成績は緩やかな滑り台のように下がっていく一方であった。そんなことは当人である俺が一番よく知っていたし、ここらでブレーキをかけねばと思いつつ、何もしなかったのもまた俺である。


 現状に対する焦りはもちろんある。

 入学したての頃は、少し背伸びをした高校だからと部活にも入らず、まるで額にはちまきを巻くように、気合いを入れて勉強に励んでいたものだ。

 だが、努力が必ずしも実を結ぶとは限らない。

 覚悟と実力の釣り合いが取れず、段々と下がっていく成績に目を背けるようになってしまったのだ。

 今更真面目なフリをして筆を握っても、付け焼き刃の知識はメッキが剥がれるように脆く崩れ落ちてしまうことだろう。


 つまるところ、俺は落ちこぼれ路線まっしぐらなのだった。


「はぁー⋯⋯」


 ため息をつくと幸せが逃げるぞ、なんて。

 期待とストレスで重くなった体から少しでも逃げてくれるのなら、幸せでなんでも構わないと本気で思った。


 家に帰れば母親のお小言が待っている。

 こんな時間まで遊んで、少しは勉強でもしたらどうなの? と。ああもう、分かってるようるさいな。

 重い足取りとは裏腹に、空腹を知らせるサイレンが低く唸りをあげる。どれだけ滅入っていても、空気の読めないこの腹はぐうぐうと主張するばかり。家に帰りたくない一心で寄り道をしすぎたせいか、夜もすっかり更けてしまった。

 だが腹が減っては戦もできないし、母親の攻撃にも耐えられない。


 喧嘩をしても食卓には暖かいご飯が並ぶ。

 それがどれほど贅沢でありがたいことかは理解はしているけれど、親不孝者の俺には些か窮屈で、重圧が喉につまるようだった。

 簡単に腹を満たしてから帰宅して、さっさと自分の部屋に篭城してしまおうか。黙秘権を行使すれば母親も今晩は諦めるだろう。それもいつまで持つかは甚だ疑問ではあるが。


 そんなずるい考えが頭をよぎった時、ふと暖かい香りが鼻腔をくすぐった。

 ひとたび肺いっぱいにそれを吸い込めば、心までじわりと広がっていく。懐かしくて安心するような香りに、俺は思わず足を止めてしまった。


 チカチカと街頭だけが照らす薄闇の中に、幼い頃に七五三の撮影で訪れた古びた写真館があった。

 築十数年の年季が入った建物はすっかり営業時間も過ぎているはずなのに、なぜか煌々と電気がついており、零れた光が夜道を照らしていた。

 そして、これがまた不思議なのだが、この美味しそうな香りは目の前の写真館から漂ってくるのだった。

 

「食堂に変えたのか⋯⋯?」


 冷静に考えれば、そんなことあるはずがなかった。

 写真館と銘打って看板も出しているのだから、ここは正真正、写真館に違いない……のだけれど、深く考える前に、既に俺は写真館の戸に手をかけていた。

 腹の底まで見えてしまいそうな空腹状態で、こんなに美味しそうな匂いを嗅いでしまったのだ。入るという選択肢以外は存在しない。得体は知れないが、そんなことは余り関係がなかった。

 根拠はないが、大丈夫だと思う。

 俺の腹にある第七感くらいがそう告げている。それよりも腹が減った。

 とにかく、この空腹と虚無感を満たしてくれるのなら何でも良かった。


 戸を引こうと力を込めようとした、その寸前。

 スパン!! と風を切る勢いで戸が開け放たれた。


「あら、お客様?」


 出鼻を挫かれ、行くあてのない左手が宙をひらりとさ迷った。

 俺の足を向けさせた微かな匂いが一気に押し寄せてくる。これは味噌汁だろうか。それに、揚げ物をしたあとのような、独特の焦げ臭さが俺の体をふわりと通り抜けていく。

 それはどこか懐かしく、昔を思い出させるようなあたたかさであった。


 店内は木造のカウンターに、畳の小上がりだけという、こじんまりとした造りであった。

 食堂としてはさして問題ないが、何度もいうようにここは写真館だったはずだ。意を決して入ったのだが、想像と違う景色に呆気に取られてしまう。

 奥では包丁とまな板が、リズム良く小気味いい音を響かせていた。


 本当に、ここは写真館なのだろうか? と店内を見回そうとした所で、膝に硬い何かが当たった。


「ちょっと、お客様かって聞いてるの! 冷やかしなら帰ってちょうだい!」


 小鳥のように愛嬌のある声が俺を目掛けて飛んできた。その勢いたるや、思わず避けた後ろの壁に穴が開くかと思った程である。

 俺の腰ほどの背丈しかない小柄な少女が、丸いお盆を携えて仁王立ちをしていた。なるほど、俺の膝小僧を叩いたのはそのお盆か。

 いや、人をお盆で叩くんじゃない。結構痛かったんだぞ。


「冷やかしじゃないっつの! なあ、ここって写真館⋯⋯だったよな?」

「写真館? 何それ、全然違うわよ」


 少女はこてんと首を傾ける。


「ここは『思い出食堂』。あなたの思い出を料理する食堂よ。ようこそいらっしゃいませ」


 少女はウェーブがかかった栗色の長い髪を揺らし、カウンターに座らせるように俺を促した。

 どう大目に見ても小学生にしか見えないのだが、写真館にこんな子供がいただろうか。いや、待てよ。あの店は確か、夫婦だけで経営していたはずだ。

 じゃあこの少女は一体、何者なのだ?


「って、何が思い出食堂だ! わけわかんねぇこと言いやがって、じゃあコロッケでも作って出せんのか?」

「なぜ?」

「いや、食堂って言うからには料理の一つでも出せるだろ」

「なぜコロッケが食べたいの?」

「それは──」


 ──なぜだろう?

 理由を聞かれて、俺は咄嗟に返すことが出来なかった。


「この食堂にはメニューなんてものはないの。だって、お客様の『思い出』を料理にするんだから」


 確かにカウンターのテーブルにも、壁にも。この店のどこにもメニューらしきものは存在しなかった。

 その気概はいっそ清々しく思えたが、食堂を謡うにしては致命的ではなかろうか。だが、そんな疑問も、少女の口から発せられたよく分からない言葉に身を潜めるばかりであった。

 客の「思い出」を料理にする。全くもって意味が分からない。写真館が食堂になってしまったことも謎だが、俺には少女が言っていることの半分も理解できなかった。

 これってもしや、夢なのか?


「それで、どうしてコロッケなの?」

「別に、大した理由はねーよ⋯⋯」


 なにも、コロッケにそこまで拘っているわけではない。

 簡単で、材料もそこまで凝ったものじゃなくて、それこそどんな家庭にもありそうな。そういうものから、たまたまを選んだだけだ。


 ただ、何を食べたいかと聞かれたから。

 いつも姉と取り合いになっていた、母親が余り物で作ったコロッケが食べたいと、そう思ったことは嘘ではない。


 無骨な形に成形されたジャガイモがサクサクの衣を纏い、添えられたキャベツやトマトが主役を皿に歓迎する。

 それも普通のコロッケじゃない。カレーだとか、その日の余り物を混ぜて作ったものだ。傍から見れば手抜きだなんだと指摘されそうなものだが、俺も姉も、いつも違う味がするコロッケが楽しみで、それこそ喧嘩してまで取り合ったものだ。

 あっという間に腹に消えたコロッケを見て、母も笑ってくれていたっけ。


「まあいいわ、とにかく、どんなコロッケが食べたいの?」

「ジャガイモの食感が分かるぐらい、ごろごろしてるな。母さんがよく余り物を入れるんだけど、俺はカレー入りが好きだった。あと肉はあんまり入ってなかった。高いから──って、ん? 何か話の趣旨がズレてないか?」

「そんなことないわ、バッチリよ」


 少女は俺の隣に座り、頬杖をついてにまにまと笑っていた。

 百歩譲ってこの小学生が店員なのは良いとして、客に対してその態度はどうだろう。俺は友達じゃないんだぞ。

 見たところ店員は彼女だけのようだし、これは随分な人手不足とみえる。

 むしろこの手狭さでは人を雇うことが赤字に繋がるのかもしれない。だからって暴力を振るうような少女を店先に立たせるのもどうかと思うのだけど。

 というか、食堂になってしまった写真館の謎についてはひとつも教えてくれなかった。

 もう、ここはそういう所なのだろう、と諦める他なかった。


「じゃあ後はよろしくね、創一郎」


 うんと伸びをした少女は俺との会話に飽きてしまったのか、今は自分の髪をくるくると弄るのに夢中なようだ。

 いよいよ、どうしてここに足を踏み入れたのか分からなくなってきた。食堂って食事を提供してくれる所だと思うのだが。

 注文もしていないことだし、もう家に帰ってしまおうか。大体、こんな怪しい店で出てきたものを食べるというのも、いささか抵抗がある。うん、そうしよう。

 今回はご縁がなかったということで、この食堂のより一層のご活躍を楽しみにしております。


「はいはい。ご注文はコロッケで良いのかな?」

「うわっ!!」


 カウンターからひょっこりと出てきた顔に驚き、俺はお化けと遭遇したように驚いてしまった。会ったことは無いんだけど、そのくらい驚いたということだ。

 年下なのに当たりの強い隣の少女とは違い、カウンターを挟んで微笑む青年は、よく分からないこの状況の中で唯一のオアシスと言っても良かった。

 癖毛の強い焦げ茶色の髪に手ぬぐいを巻き、青年──創一郎と呼ばれた男──は「驚かせてごめんね」と優しく目を細めた。


「そんな声を出すなんて失礼ね。今からあなたのコロッケを作るのは、この創一郎そういちうなのよ」

「いや、失礼とか何とかをお前に言われちゃ世話ないっつーの。年上の俺に敬語を使ってから言うんだな」

「知ってるわ。敬語って、相手をうやまうのでしょ? なら使う必要はないわよね」

「こ、こいつ⋯⋯!」


 ツンとそっぽを向く少女にわなわなと震える。

 今時の小学生はこれが普通なのだろうか。確かに齢十歳といくつの少女に敬語のなんたるかを説いても、半分も理解出来るか怪しいものだ。

 それにしたって、面と向かって尊敬できないと言われるとは。彼女とはまだ顔を合わせて十分と経っていないはずなのだが。

 それほどまでに頼りなく見えるのだろうか。とほほ。


「こら、まもり」


 まもりと呼ばれた少女はバツの悪い顔で口を噤む。

 そして俺に説明を始めた。


「分かったわよ。改めて説明するわ。ここは『思い出食堂』、あなたの思い出を料理するの」

「その、思い出を料理する、ってのが分からないんだけど。俺の記憶にある料理を再現するとか? まあそんなわけないか」

「あら、よく分かったわね。その通りよ。見た目の割に勘がいいのね」

「今見た目の割にって言ったか?」

「言ったけど? つまり、あなたの思い出にある料理をそっくりそのままお出しするわけ」


 ぽくぽくぽく、と頭をひねってみる。

 しかしながら、たった十七年ぽっちの人生を送ってきた俺にはついぞ理解が出来なかった。


「いやいやいや。普通に考えて無理だろ。話を聞いただけで? レシピもないのに? 全く違う環境で?」

「出来るのよ。だってここは普通じゃないんだもの」


 話し方はともかく、態度はともかく。

 まもりの真剣な声に、俺はそれ以上言葉を返すことは出来なかった。


「⋯⋯わーかったよ! そこまで言うなら食っていこうじゃねえの、腹も減ってるし。ところで値段はいくらだ?」

「そんなものいらないわ。ねえ」

「うん。お代は構わないよ」

「ま、ますます怪しい⋯⋯」


 一体どれだけのメリットがあれば無銭飲食を勧められるのか、まるで分からない。観念してカウンターに腰を落ち着けた俺は、その奥で手を動かし始めた創一郎を観察ことにした。


 ジャガイモを茹でている間に玉ねぎをみじん切りにするその手つきは、確かに手馴れているようであった。

 プロの料理を間近で見た事はないけれど、創一郎のはどちらかと言えば、俺の母親に似ているような気がした。見慣れた自宅の台所で料理をしてくれているような、不思議な感覚に囚われる。


「ぷぷ。泣いているの?」

「うるせえやい」


 玉ねぎが染みた目を擦ると、茹で上がったジャガイモの噎せ返るような匂いが立ち込めた。

 粒が残るくらいにジャガイモを潰すと、どこにあったのか、鍋の底に残っていたカレーを混ぜ合わせる。そうだ、母親はいつもカレーを作ったらそれくらい残してくれて、コロッケに混ぜてくれたのだ。

 炒めた玉ねぎとひき肉をそれに混ぜ合わせ、大きめにタネを成形していく。姉と取り合いになるのが嫌で、大きくしてくれって頼んだのは俺だ。そのせいで揚げるのが難しいと、文句を言われたのも記憶にある。

 粒の残った潰したジャガイモも、俺の下手くそな手伝いから生まれたものなのに、俺の手伝いに母親がたいそう喜んだものだから、俺の家ではそれが定番になったのだ。


 じゅうじゅう、しゅわしゅわ、ぱちぱち。

 完成が近づくにつれて音が変わっていく様はまるで音楽のようで、揚げ物は危険だからと遠くから聞き耳を立てていたのを覚えている。母親の指揮する演奏会の観客になったようで、俺も姉も母親の料理の邪魔だけはしなかった。

 そう、コロッケだけじゃない。働きながら二人の子どもを育てて、その上愚痴もこぼさずに、家族が満腹になれるような料理を一生懸命考えていた母親のことを俺は知っている。


「どうぞ、母さんの余り物コロッケ⋯⋯で間違いないかな?」


 湯気の立ったコロッケが出来上がる。

 不格好でやたらと大きいそれを箸でさくりと割った。カレーの匂いがふわりと記憶を刺激する。


 これは俺の母親のコロッケだった。

 何故こんなことが出来るのか、理屈は全然分からなかったけれだ、そんな疑問は今や大したことではなかった。


「ああ、うまいなぁ⋯⋯」


 しみじみと、つくづくと。

 体の隅の隅までじんわり広がっていくようだった。

 少し焦げた端なんてそのままで、咀嚼する度に雁字搦めになっていた何かが解けていくような気がした。

 帰ったら母親と話してみよう、と。素直にそう思えるくらいには気持ちが落ち着いていた。


「お気に召したかな」

「すん⋯⋯っげーうまかったです!!!」


 創一郎は立ち上がった俺に思わずたじろぐ。

 育ち盛りの男子高校生のお腹がコロッケひとつで満たされるわけもない。空腹は食べる前と変わらないのに、それでも、不思議と心は満タンに充電された気分だった。


「マジのマジで俺ん家のコロッケだったんだけど、どういうこと!? もしかして俺の母さんだっりするんすか!? 嘘でしょ!?」

「ふふんっ、だから言ったでしょ! さっきの言葉を取り消してもいいのよ?」

「ああ!!!!」

「うるさっ」


 何故か創一郎より胸を張っているまもりは顔を顰めて耳を抑える。

 俺は興奮冷めやらず、カウンターに勢いよく手を着いた。代金はいらないと言われたけれど、この気持ちを何とかして形にしたい。

 お礼もできて、尚且つこの料理をまた拝むためには。


「──俺、ここでバイトしたいっす!!」


 シン、と訪れた静寂に創一郎がぱちくりと瞬きをする。しかしそれもほんの一瞬で、まもりが制服の裾を乱暴に引っ張った。


「はぁああ~!? ウェイトレスはわたしだけで充分なんだけど!?」

「ウェイトレスって、カフェでもあるまいし。ところで、どうすか!? 体力と記憶力とその他諸々いい感じに自信があります!」

「ちょっと! 話聞きなさいよーっ!」


 俺とまもりが取っ組み合いになって大騒ぎする中、創一郎は困ったように俺達を眺めていた。


「バイトなんて出来るわけないわ! だってあなた、もうここに来られないんだもの! それでどうやって働くって言うのよ!」


 かちゃん、と箸がカウンターから転がり落ちる。

 取っ組み合って──というより、まもりに馬乗りになられて髪を引っ張られたり、頬をつねられていただけなのだが。

 いくら生意気だからといって、女の子には手を出しません。姉を持つ弟はそういうように躾られているのである。


「ここは俺ん家までの帰り道だぜ。行こうと思えばいくらだって行けらぁ」

「そうじゃないのよ。──ここは、そういう場所じゃないんだから」


 俺に乱暴を働いていた手が緩む。

 その隙にまもりをひょいと持ち上げてカウンターに座らせるが、意外にも反抗しては来なかった。不機嫌さながらに口を尖らせる彼女は、口を開かなければ年相応の少女に見えるものだった。


「喜んでくれてありがとう。でもバイトは⋯⋯えーっと、名前を聞いても?」

「ああ、歩夢っす。字はこう」

「ありがとう歩夢くん。改めて、ぼくは『思い出食堂』の店長をしている創一郎です。バイトの話は嬉しいけれど、きみに限らず難しい話なんだ」


 油性マジックを借り、紙ナプキンに名前を書いた。

 創一郎は申し訳なさそうに眉を下げている。


「ここはね、現実には存在しない店⋯⋯なんだと思う」


 創一郎はカウンター越しに湯呑みを差し出してくれた。つい怪訝な顔をした俺に苦笑いを向け、どこか遠くを見つめている。


「きみの言う『帰り道』にこの食堂は無いんだ。いや、違うな⋯⋯正確に言えば、あるにはある。だけど、きっと、きみが外に出てしまえば無くなっているはずなんだ」


 俺にも分かるように言葉を選び、噛み砕く。


「なんて言えばいいのかな⋯⋯。実際のところ、ぼくも理解してるわけじゃないんだ。分かってることと言えば、ぼくの家の台所が、この食堂と繋がっているってことなんだけど」


 言葉の意味は分かる。しかし理屈は分からない。

 創一郎の説明が右の耳から左の耳へと通り抜けていく。


 創一郎自身にも身に覚えは無いらしいのだが、ある日突然、自宅の台所の暖簾をくぐるとこの食堂が彼を出迎えたのだという。

 いきなり眼前に広がった非現実を前に腰を抜かした創一郎であったが、頬をつねっても目覚めず、何度入り直してもこの食堂に辿り着くものだから、泣く泣く認めざるを得なかったらしい。

 だからといって、少なくとも俺だったら「そうだ、店長をやろう」とは思えない。

 順応性が高すぎやしないか、創一郎。


「⋯⋯つまり? 俺の町にある建物が、ここに繋がったってことっすか?」

「そういうことなんだろうね。ぼくの家の台所も、何も無ければただの台所だし。ぼく達は奇跡のような可能性で出会った⋯⋯ってことなのかな」

「ふーん、よく分かんないっすね!」

「あなたねぇ~!」


 静かに座っていたまもりが口をぴくぴくと引き攣らせていた。

 どうやら創一郎が説明している間、随分と喋るのを我慢していたらしい。


「また来るって言った人達が帰ってきたことなんて一度もないのよ! そんなに信じられないなら、外に出てみたらいいじゃない!」

「信じないとは言ってねぇーだろ! お前はなんでそうつっかかってくるんだよ?」

「お前って呼ばないでくれる!?」

「なんて呼べばいいんだよ!」

「まもりでいいわよ!」

「おう! じゃあまもりだな! よろしくな!」

「そうよ! こちらこそね!」


 ガシッ! と俺とまもりは仲直りにみせかけた固い握手をする。

 勢いに流されてしまったまもりは、頭上に疑問符を浮かべて手のひらをじっと見つめていた。


「確かに、俺の母さんの料理をそのまんま再現したくらいだから、そういう世界があっても不思議じゃないよなぁ。この食堂に来た時にできるようになったんすか?」

「いや、それは元々特技みたいなもので⋯⋯」

「創一郎は聞いただけで、その人が思ってる通りの料理が作れるのよ。ふふん、参ったかしら?」

「いちいち偉そうだな」


 さらりと言ってのける創一郎だが、それは特技の枠に納めていいものなのだろうか。

 履歴書の資格の欄に記入しても問題はなさそうだし、なんなら存分に自己アピールしても良さそうだ。

 なんとか目玉焼きを焼けるだけの俺とは雲泥の差、月とスッポンである。


「ま、バイトが出来ないのは残念っすけど、せめて皿くらい洗わせて下さい!」

「ありがとう、じゃあこのエプロンを使ってね」


 創一郎の料理がもう食べられないなんて、本当に勿体無い。欲を言えば毎日でも通いたいものだが。まあ、そういうことなら仕方が無い。

 自分でも驚くほどすんなりと受け入れられたものだ。子供の頃、ゲームや漫画の世界に行きたいと本気で思っていたからなのか、俺は創一郎の奇想天外な話を心のどこかでは信じたいと思ったのだろう。


 それに。

 俺に暖かいご飯を振舞ってくれた創一郎やまもりの話を、馬鹿らしいと一蹴することは出来なかった。


 たった一時、たった一食だけ。

 不思議な体験ができたと思うことにしておこう。

 この戸を開けたら、夢から覚めてしまうのかもしれない。本当はもう家に帰っていて、物が溢れている自室で居眠りをしているのかも。


「ご来店ありがとうございました。またの機会⋯⋯はないんだけど、きみの思い出がまた、より良いものになりますように」

「コロッケ美味しかったわ。さようなら」


 ちゃっかりと賄いのコロッケを頬張るまもりがひらりと手を振った。

 立て付けの悪い戸を開いて食堂を後にすると、見慣れた町の夜が俺を包み込んだ。

 そういえば帰る途中だったなあ、と振り返ると、そこにはとっくに明かりを消し「CLOSE」の札を出している写真館があるだけだった。


 そうだ、ここに食堂なんてなかったっけ。

 なら彼らの話は本当だったのだろう。


「──ごちそうさまでした!」


 パン! と手を合わせる。

 もう二度とあの食堂、そして、あの二人に会うことはないのだろう。まもりの言っていた意味が今になってひしひしと分かる。

 ああ本当に、ひと時の美味しい夢だった。


 名残惜しくも帰宅した俺は、母親から逃げずリビングに足を踏み入れた。

 今ならお小言でもお叱りでも何でも受け入れよう、と相応の覚悟で帰宅したのだが、母親と姉は俺を見ておかえりの一言もなく、人を指さして笑い転げた。


 全く、人を指さすなと創一郎も言っていたのに。一体何がそんなに可笑しいのだか。

 やれやれとため息をついて視線を下げ、ようやく事態を把握する。


「──あ、エプロン⋯⋯」


 学生服とエプロンという奇抜なファッションで帰宅した息子と弟を見て、笑うなという方がどだい無理な話であった。

 俺が逆の立場なら絶対に後世まで語り継いでいたと思う。

 だからもう、分かったから、笑うのはやめてほしい。


「母さん、俺、久しぶりにカレーのコロッケが食いたいんだけど⋯⋯」

「あら、珍しい。じゃあ、手伝ってくれる?」

「⋯⋯もちろん」


 勝手に感じていた居心地の悪さが、油で弾けて消えてゆく。

 コロッケを作り終えて食卓を囲む頃には、母親といつものように会話ができるようになっていた。

 創一郎が作ったものとやはり同じ味なのだけれど、今日は一段と美味しく感じられた。


『君の思い出が、より良いものになりますように』


 今日の出来事だって、俺にとっては思い出となる。

 いつかあの出逢いを思い出し、俺は彼らに思いを馳せるだろう。


 もう二度と会えなくても。

 いつかまた、俺の思い出を聞いてくれますか?

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思い出食堂 甘凪まつり @omoti07

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