Fly Me to the Moon

鱗青

Fly Me to the Moon

 市警の対吸血鬼掃討作戦本部長から大物が出た、と連絡を貰い、息を切らして現場に駆けつけた。

 ドアを蹴破り、まずはじめに目にしたのはガラス張りの壁の前に立つ女の姿。

 その瞬間、これは運命だと悟った。


 活気溢れる男女で満杯だったビル最上階のバーラウンジ。だが今は、累々たるしかばねが前衛芸術もかくやという思い思いのポーズをさらしている。

 最新の映像投射装置プロジェクションマッピングで大理石造りの時代がかったダンスフロアが映し出されたラウンジの床は、一面の血の海。まだ新鮮なそれの放つ壮大な鉄の匂いと光の反射で、頭がクラクラする。

「一番乗りが燻銀いぶしぎんのダンディなんて、ついてるわ」

 マンハッタンの夜景を映す壁面ガラスにしなだりかかり、引き締まった肢体の女が微笑む。身につけている濃紺のドレスの腰元まで届く黒真珠の光沢のウェーブヘアが微かに揺れて。

 蠱惑的に潤んだ大きな瞳にこれでもかと長い睫毛、明るい珊瑚の肌。歌手か高級娼婦めいた気品。艶めく唇に突き出した一対の牙だけが、女が人間ではなく吸血鬼ヴァンピーロであることを示している。

「嬉しいね。それじゃあ今度、メトロポリタンでデートでも如何いかがかな」

 私はすっかり半白になったオールバックを撫で付け、銃口を構えて更に一歩進む。このNYニューヨーク今日日きょうび、勇ましいレンジャー装備で首からロザリオをかけているのは吸血鬼始末屋ハンターくらいなものだろう。

「オペラ?あら残念。ブロードウェイだったら即決だったのに」

 女が人形のように小さなかぶりを振る。無駄な抵抗を諦めるよう呼びかける私の足元に動きがあった…尸どもが三文映画の亡者ゾンビィのように身をよじり、頼りなく立ち上がる…

 甦生リターンするには早すぎる!それになりたて吸血鬼にしても目に光も無く呻き声すら上げないときては──

念動力サイコキネシスかね!」

 女がご名答、と音にせず呟き指がピアノをくように踊った。尸どもが女の前にユラユラと集まり盾となる。

 そこへ市警のSWAT部隊が雪崩れ込んできた。吸血鬼に慣れていない屈強なだけの男達は恐怖にまんまと絡め取られ、一斉にマシンガンを構える。

 痴れ者め、止せ!と叫ぶ暇もあらばこそ。発砲音のドラムロールがけたたましく鳴り響いた。聖別弾ホーリーバレットが数限りなく浪費され、尸の群れが穴だらけにされていく。

 そして流れ弾が壁面を乱れ打ち、粉々に破壊。当然だ。

「ありがとう、皆さんにも良い月明かりがありますように」

 傷一つ受けずに女は虚空へ身を投げた。あっという間の出来事。

 後には逃げ去った女の高笑いと、室内に吹き込む高所の寒風、それに無限に続く街のあかりを眺め虚しく佇む私達が残された。

「今回の件でよく判ったよ。市警きみたちの見事な連携は吸血鬼の逃亡を幇助ほうじょする点にいて非常に優れている」

 携帯スマートフォンの向こうで本部長のうんざりした溜息。

「景気良く掃射してくれたお礼を申し述べる。お陰様で私まで地獄の門をノックするところだった」

 始末屋の私を巻き込んで殺しかけ、女(恐らく壁を自力で壊すほどの力はなかったのだ)を追詰めるどころか脱出の手助けに至った点を只管ひたすら謝り倒す本部長。彼の仕事の半分がたは通常、こうして部下の不始末を逐一指摘する私に陳謝する事に割かれる。

「まあ、こんなに早く潜伏先を割出したのは賞賛しよう。私の忠告アドヴァイスを素直に受容れた結果だがね。どうか今後もそうあって欲しいものだ」

 もう半分の仕事は官憲の権能をフルに使った標的探し。私と違い、鼻も利かず吸血鬼の事情にも暗い彼らにあれこれと指示を与える、これは私の仕事。

 腕時計を見るまでもなく、私が玄関ポーチの柱の影に潜む教会の鐘が午後六時を告げた。今日の私の出立いでたち三揃みつぞろい。こんな下町ローワー・イーストの教会に武装では、却って目立ってしまうというものだ。

 まあ、別の理由もある。むしろそちらが重要なのだが…さて首尾よくいくものかな。

 通話を切って暫く煙草をたしなんでいると、観音開きの正面ドアが騒がしく開け放たれ、ローティーンの子供達が出てきた。

「じゃあね、皆。帰りみちに気をつけて。道草を食ったりはぐれたりしてはダメよ」

 一番最後に出てきて見送るシスターの優しい声に、聖歌隊の練習をしていたらしい子供達は口々くちぐちに応える。

「はーいシスター!」

「サヨナラ!また来週ね!」

 サヨナラ、サヨナラ──子供達が異国の挨拶をしながら飛び跳ね、スキップし、あるいはクルクルと回ったりしながらポーチ付きの階段を降りていく。

 にこやかに片手を差し上げていたシスターがつましい肩の力を抜き、振返ふりかえる──そこに私が立っていた。

 尼僧服に身を包んでいても、隠しようがない水気みずけ。東洋人の美点と、洗練された都会の雰囲気を同時に匂わせる居住い。

 私は我知らず笑んでいた。標的ターゲットを前にしてそんな事をしたのは、これが初めてだ。

「ウーピーのファンかね。その衣装も似合っているよ」

 シスター…女吸血鬼は一瞬表情を凍らせたが、すぐにあの夜の妖艶な微笑を浮かべた。

「貴方こそブランドのスーツがハマりすぎ。嫌味なくらい紳士に見えるわ」

「君は日本人だったのだね」

「ご名答。それと…あの映画が好きなんて意外だわ。貴方もっと古風な趣味ではないの?首に下げたコレなんか、年代物っぽいわ」

 手を伸ばして私の胸元のロザリオに触れた。しゅっ、とあおい炎が指先にはじけてすぐに消える。

「驚いたな。特別に枢機卿すうきけいから譲り受けたものなのだぞ」

 女はムッとした様子で口を尖らせた。

にわかな半端者と一緒にしないで。真祖の吸血鬼にかかれば十字架も聖書も何程の物でもないわ」

 真祖。そうではないかと思っていたが、期待通りだ。それに反応も上々。誇りがない者に魅力など感じない。

 入って、と促された。教会の内側は掃除が行き届いており、古色蒼然こしきそうぜんながら蝋燭キャンドルの灯だけで十分明るい。

「教会、病院、警察」

 譜面台を片づけながら女が首を傾げた。

「吸血鬼が入りにくい場所のランキングさ。逆に言えばそこに居るという事はそれだけその者が強力であるあかしになる」

「面白くない豆知識。そんな物を披露する為にここを探し当てたの?」

 私は首を横に振る。懐から折畳式の銀の杭を取り出して前腕の長さまで引き伸ばした。

「先に言っておくが、私達始末屋は他人の恨み辛みでは動かない。これまで君が犯した殺人、破壊、詐欺に窃盗諸々は人界の法に当てはめて裁かれる。大人しく連行されるなら滅ぼしたりはしないよ」

 アハハハハハ!甲高い笑いが清澄せいちょうな教会の空気を乱した。…嗚呼、これもまた魅力的なハイトーン!

「流石自由と権利の国ね、従うというなら拘禁こうきんで済まされるわけ。…百年?二百年?」

けたがちがうだろうね」

「成程。それでデートのお誘いの格好してきたの」

「いや。どちらかというと求婚プロポーズかな?」

「冗談?」

 目尻に笑い涙が光る女に、また首を振る。

「君のように強く美しい吸血鬼と出会う事はこれより先には無かろうからね、一世一代の大仕事さ」

 そう、始末屋このしごとに就いてから私はずっと願っていた。

「…君は私の理想なんだよ」

 女はようよう笑いを収めた。

「貴方の獲物になれというのね」

いやかい」

「考えてもいいわ…ただし」

 尼僧服が爆発したように裂け千切れた。紫色の妖気のもやに体をすっぽり覆われ、女は両腕を挙げる。

「私、自分より弱い男について行く気はないの!」

 腕を振り下ろす。突如巻き起こった狂風が燭台を吹き消し、講壇やベンチ、あらゆるものをぎ倒す。

 それでこそ。私は腕を十字に構えてバリアのように押し返してくる妖気に向かって突進。杭を振りかぶり、女の胸を貫く!──には至らずかわされた。

 脇腹にキックを喰らう。私は玄関まで飛距離を作って吹っ飛んだ。閂を下ろしたドアに斜めに叩きつけられる。 

 床にずり落ちざま、すかさずベルトに下げていたパックから手榴弾を取出して放る。炸裂したそれは焔の代わりに大量の銀の粒子を撒き散らした。

 女の悲鳴。視界のはじに蒼い光。今度はそちらに向けて杭を構えた…が。

 ずぶり、と鈍い手応えを胸に受けた。ゆっくり見下ろすと燭台の鋭い先端が私の心臓近くに深々と刺さっている…

「残念ね。貴方なかなか強かったけれど…ただの人間には無理よ」

 靄に包まれた女が近づいてきた。私はゴボ、と血反吐を吐いた。

「せめて最期さいご御霊みたまの安からん事を…」

 女の芳しいかんばせが私の肩に近づき、ウェーブのかかった髪が私の体にまとわりついた。

 そして。

「えっ⁉︎この血の匂いって⁉︎」

 一瞬ひるんだ女の隙をく。杭を捨て激しい雄叫おたけびを上げて燭台を引き抜くと──私は女を抱き締めその首筋にかぶりついた。

 私の背広が背中から裂けた。巨大な蝙蝠こうもり飛膜ひまくが双翼を広げ、逞しい打ち下ろしと共に宙に舞い上がる。天井のステンドグラスを一直線に突き破り、ガラス片を気流に靡かせて雲一つない夜空へとミサイルのように飛翔。

 意識を取り戻した女は既に妖気を失っていた。下着だけのあられもない姿に俗に言うの状態で、力なく尋ねる。

「貴方…同胞なのになぜ…?」

「別に吸血鬼が始末屋になってはいけないという法はないだろう」

 そう。

 悠久ゆうきゅうの時を流離さすらっていた。時に血を吸い人を殺す事もあったが、もうすべて時効の彼方。

 いつしか伴侶はんりょを求めていた。強く、賢く、美しく──何よりも自分との永い時を生きてくれる相手と邂逅かいこうする事を願って。

「これで君は私の眷属となった。みだりに人を害さぬがいい。恩赦も与えられるだろう。何よりも、だね、その──」

 飛翔の速度が上がってしまう。高度もぐんぐん伸びていき、遂に雲海も越えてしまった。

「こういうのは生まれて初めてで…非常に照れ臭いのだが…私の妻となる事を誓ってくれないかね」

 私の傷はとっくにえてふさがっているが、反対に顔の方が出血しているように熱い。

 女の表情は見えなかった。だがどうやら笑っているらしい。細かく肩を震わしている…

 答えを待つ間が無限にも感じる。

 ようやく女は呟いた。

「…月がとっても綺麗ね。貴方もそう思うでしょう?」

「それは?YESか?Noかね?」

 女は私の腕の中でただ笑う。大きなウエディングケーキのような純白の満月が私達の影を遥か下方の雲に落としていた。

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