【短編】顔色
上地王植琉【私訳古典シリーズ発売中!】
【短編】顔色
私は他人の顔色ばかりを伺って生きてきた。仕方がない、私は『弱い』のだ。
特筆すべき個性もなく、誇るべき特技もなく、追い求める理想も、将来の夢も希望も、生憎だが持ち合わせていない。おおよそ他人と比べて勝る要素が微塵もない私は、この非情な現実世界においてこの上ない弱者だ。
そんな私が世間に放り出されても、まるで魑魅魍魎のように蔓延る強者共に喰われるのがオチだろう。
イワシという魚は弱いから、群れになって外界の脅威に対抗している。それはまさに、弱者が生き残る術を体現していると私は思う。群衆は、ただそれだけで『力』なのだ。
私は弱いから、身を守るために人の群れに属する。グループの和を乱して嫌われたくないから、空気に流されるまま他人にひたすら合わせて、目立たないように、集団から外れないように、今日まで無難で安全な日々を過ごしてきた。
……だから、なのか。或いは、自分では気づいていなかった、私本来の『才能』なのか。
人の顔色を伺って生きている内に、いつの間にか、私には他人の『顔色』を知る能力が身についていたのだ。
― ― ―
それは突然の出来事だった。ある日、私が学校に登校すると、教室で談笑しているクラスメイトの顔に奇妙な『色』が付いていた。赤や青、緑に黄色に白など様々な種類の色が、まるで上からペンキでべっとりと塗られたように付着していたのだ。
初め私は何かの冗談かと驚いたが、誰も気にしている様子はない。その内にショートホームルームが始まり、普通の授業が始まり、そして学校が終わった。結局、誰も自分たちの顔のことには一切触れなかった。クラスの友達や教師にそこはかとなく聞いてみても、皆知らないと答えは同じだった。
私以外の者に、色は見えていなかったのだ。
この不可解な現象は次の日も続いた。その次の日も、そのまた次の日も。次第に、日によって変化するクラスメイトの色を観察することが、私の日課になっていた。
観察を始めてから一週間、私はこの現象のある法則性に気づいた。それは色が直接その人の感情に関連していることだった。
喜びを感じている時は黄色系統、怒りを感じている時は赤系統、悲しみを感じている時は青系統……というように、色はその本人の意識と密接に繋がっていた。例えば、喧嘩をしている人たちの顔色は両方とも唐辛子のように真っ赤で、クラスメイトで誕生日を祝っている時の顔色は向日葵のように黄色だった。
人の顔色を文字通り本人よりも正確に読み取れる……まさしく『異才』としか呼べないこの能力に、私は歓喜した。そして同時に、これは神からの贈り物だと理解した。
無力だった私は、『力』を手に入れたのだ。もう私は弱者ではない。
『天は人に二物を与えず』というが、その代わりに神は私に『とっておきの一物』を与えられた。
顔色には、その人の感情以上に、思っていることや考えていることが無意識の内に表れる。つまり、『顔色のパターン』の読み取りにさえ長けていれば、その人の考えていることの『全て』を知ることができたのだ。
以後、私は『顔色を読む練習』を続けた。
― ― ―
この能力を身につけてから数ヶ月後、私の人生は『好転』した。
感情を見ることで、今まで以上に危険を回避することができた。要は機嫌の悪い人間には近づかなければいいのだ。
そして、勝負事……特にトランプやボードゲーム、その他の心理戦が大きく作用するゲームにおいて、私は負けなしだった。当然だ。顔色のパターンを見ることで、相手の思考が手に取るように分かるのだから。
顔色を読むことで人間関係で上手く立ち回ることが可能となり、必然的に私の周りには多くの人が集まった。
私の手のひらで踊らされる、哀れな小魚。流されるままに生きる、人の群れ。
私はそんな力無き雑魚たちを眺めながら、『昔は、私もあの中の一人に過ぎなかった。強者から見る昔の私はこんなだったのか』としみじみ思って、彼らを心から哀れんだ。
そして同時に、もう昔には戻りたくないという強い決意と、私は選ばれた人間だという確固たる優越感が、私の中でまるで風船のように膨れ上がっていった。
― ― ―
……つまるところ、私は有頂天だったのだ。
百戦百勝、百戦錬磨……能力を使う度に私は勝利し、その精度は上がっていく。勝ち続けるということが、こんなに愉快で楽しいものだとは知らなかった。これが強者が見ている世界だと、私は酷く感激した。能力を使っていれば、数多くいるスポーツ選手のように、『勝負に負ける』という邪魔なプレッシャーを感じる必要がない。それがまた気楽だった。
その内、私にとって勝負とは『不戦勝』と何ら変わりなくなっていた。
別にこのまま不戦勝をダラダラと続けても良かったのだが、しばらくすると、私は更に能力を活用する方法を考え始めた。すなわち自分のためだけではなく、世の中の役に立つ能力の使い方だ。
何かしらの能力を持つ人間は、正義のヒーローのように、それを世界のために使わねばならないと、何かの本で読んだことがある。
もちろん私には超人的なパワーなどないから悪の組織と戦ったりするわけにはいかない。けれど、その方法を思いついた時、私は謎の正義感と使命感で満ち溢れていた。
― ― ―
その方法を思いついたのは、朝のニュース番組を観ていた時だった。連日巷で騒がれていた殺人事件の報道をダラダラと聞いていたその時、警察に捕まって連行される犯人の顔がテレビ画面に映ったのだ。
「っ!」
驚きのあまり、思わず口にしていたご飯を吹き出しそうになり、私は慌てて味噌汁を口に含んで胃の中に流し込んだ。そして目を見張って、流れるデジタルの映像に刮目した。
黒。まるで漆黒の闇ように、他の色を全て飲み込んでそこに在るかのような犯人の顔が、そこにはあった。
他の人より多少カラフルな私の視界にも、印刷物や映像に映る人物の顔色までは分からないはずだった……。この能力は、あくまでも私が直接視た者にしか効果がないはずだった……のに。
それなのに、目の前には闇。光からは程遠い、ただの暗黒。
『黒』の顔色など、私は初めて見た。それに近い色は知っている。人が『悪意』を抱いている時には、その顔色は『灰色』になる。しかし、すぐに元の色に戻ったり、他の色に変化したりする。決して色が濃くなって黒になったりすることはなかった。
だが、目の前でニヤリと笑っている殺人犯の顔色は、ほかならぬ黒だったのだ。とても信じられないが、紛れもない事実だった。
「…………っ」
その時、私はこの色の『真意』を直感的に理解した。他の色を混ぜ合わせて生まれる色、混沌として、もう二度と取り返しのつかない、その色。殺人鬼の、顔色。
殺人を犯した人間の顔は、黒くなるのだ。そしてもう二度と、他の色には染まらない。犯した罪が、決して消えないように。
その理由は分からないが、間違いなかった。そもそも、この能力だって原理が分からないのだから、謎なのは仕方がない。試しにインターネットで他の殺人犯を調べても、同様にその顔は黒かった。
殺人を犯すと人の顔色は黒になる……私の周りに黒色がいないのも当然だった。むしろいる方が異常だった。
私はそれを確信した時に、ふと画期的なアイディアを思いついた。世のため人のため、そして上手くいけば一攫千金も狙える天才的な閃き。私は早速準備を始めた。
― ― ―
その翌日、私は日除けの帽子と鞄を持って街に出た。鞄の中には水筒と作ってもらった弁当、そして交番に貼ってあるような指名手配書のコピーが入っている。
顔色が黒い人間を片っ端から捕まえて指名手配書に書かれている犯人を探す、これこそが私の作戦だった。殺人を犯す人間などそうはいない。見つけて片っ端から声をかければ、必ず犯人に辿り着く。そして、もし指名手配されていなくても、顔が黒い人間を見つけた時点で、その人は人を殺している。事件が発覚し、次のリストに上がる日も近い。
なんせ顔を確認して近くにいる警官を呼ぶだけでいいのだから、宝くじを買うよりも簡単で、遥かに当たる確率の高い賭けだ。殺人鬼が逆上して刺すかもしれない……という『リスク』は、もはや私の中に存在しなかった。私は、それ程に有頂天だったのだ。
私は街で一番人通りの多い交差点に行って、そこで張り込んだ。幸い近くには交番があるので、すぐに警官を呼ぶことができる。木陰になっている路上のベンチで一休みしながら、私はぼんやり道行く人の顔色を伺った。
― ― ―
果たして、私の読みは……的中した。
道行くカラフルな人ごみの中に、一つだけ真っ黒な人がいた。私は駆けて行って、その顔を確認する。見比べたら、手配書の一人に間違いなかった。
「すみません、一緒に来てくれませんか?」
「ああ? ――クソッ!」
男は、その一言だけで私の意図を理解したようだった。私の顔を見て、すぐに身を翻した。そして、一目散に逃げ出していく。
「待て! 指名手配犯です、捕まえて!」
私は周りを歩いていた人たちに向けて大声で叫んだ。私の声に呼応するように、交差点を歩いていた人たちが取り囲むようにして男を追い詰める。これだけの群衆に追われて、逃げきれるはずがなかった。群衆は、ただそれだけで力なのだ。
逃走の甲斐なく、男は御用となった。騒ぎを聞いて交番から駆けつけてきた警官に捩じ伏せられ、あえなく逮捕されたのだ。
この一件で、私は警察から感謝状と懸賞金であった十万円を貰った。ニュースにもなり、私は記者たちから熱烈な取材を受けた。学校でもまるで英雄のように褒め称えられ、私は有頂天を通り越して大気圏外に吹っ飛んでいくかと思った。まさにいいことずくめだった。
『やはり私の考えに間違いはなかった』と、私は己の正義感と使命感、大きいことを成し遂げたという達成感にただひたすら浸った。
― ― ―
それから、私は休みの日が来る度に交差点に張り込んで、道行く人の群れから『黒』を探すことに夢中になった。
黒は最初の『奇跡的な遭遇』以降、中々姿を現さなかった。しかし、私は探すことをやめなかった。
その感覚はまるで『蝉取り』に似ていた。蝉を捕らえること自体に意味はないが、それを行うと謎の達成感を感じられる。私が求めていたものは、虚偽の勝利で得られる優越感よりも、更に上の心地よさだった。
私は目敏く黒を見つけ出して、警察に突き出すことに邁進した。
― ― ―
そんなある日、私は一人の黒と出会った。
「…………」
その男は、まるで死人のように生気のない瞳をしていた。体格こそガッチリとしていてプロの格闘家のように引き締まった筋肉をしていたが、髭や髪は伸び放題で乞食のように小汚い格好をしていた。
私が人を殺したなら警察に自首するように促すと、その男は虚ろな目をカッと見開いた。私の肩を強く掴んで揺さぶり、顔に息がかかる程に近づいて口を開く。
「分かるのか? ……お、おお、俺が子供を殺したことが!」
「ええ。そういう能力なんです」
私が頷いて答えると、男はそうかそうかとまるで誰かに呟くようにして、俯いたまま力なく膝を折った。急に力を失った男の肩に手を当てて、私は問う。
「後悔、してるんですか?」
「してるにきまってる! ……だけど、仕方がなかった。仕方がなかったんだ! 俺が、俺が殺らなければ……っ!」
「犯した罪はもう消えませんが……よければ、話してみてください」
私が優しく語りかけると、男は頭を抱えたまま静かに頷いて傍のベンチに座った。流れる人ごみを屍のように眺めながら、ポツリと語りだす。
「俺はこう見えても自衛官だった。この国のために命を捧げると誓った者の一人だ。昔は、入隊した時は、希望に満ちていた。これから国民のために頑張るぞ、国を守るんだ、って。だけど、今は……今は、俺はもう……」
男は歯を噛み締めて、続ける。
「イラク・アフガニスタンでの有事の際、俺は特別措置法の一環でイラクに派遣された。初の海外で、最後の海外だった……。現地では酷い内戦が続いていて、いつどこから弾が飛んできてもおかしくない状態だった。銃声が鳴り止まなかった。宿営地の外に一歩でも踏み出せば、撃たれて穴だらけになった死体が普通に転がっていた。寝る時も起きてる時も、小銃は手放せなかった。そして、寝る時も起きてる時も、頭の中で銃声が響いていた。……地獄だった。殺されるのが何の罪もない市民だった分、地獄よりも酷かった。そこでは、人の命は弾の値段より軽い。手を伸ばせば、死がそこにあった。緊張は切らせなかった。武器を手放せば俺が死ぬ」
男はにわかにガタガタと震えだして、嗚咽を漏らし始めた。
「し、市内をパトロールしている時だった。道で怪我をした子供が倒れていたから、俺の分隊は車を止めて、手当をしようとしたんだ。そしたら……建物の影から銃を持った子供が出てきて……」
「…………」
「俺は思わず、その子を撃ち殺した。仕方がなかった。戦場では銃を向けられると同時に死ぬ。だから! だから、撃たないわけには……いかなかった」
男は祈るように目を閉じた。
「子供は無邪気だ。俺は現地の子供と活動を通して関わっていたからよく分かる。どんな状況下にあろうとも、助けられた子供たちの顔には笑顔があった。強い芯を持っていた。……きっとあの子供も、俺たちが別の子供を助けていたから、それにつられて隠れ場所から出てきただけかもしれない。その子に俺たちを攻撃する意思はなかった。その子に罪はなかった。俺が、全ては俺が……」
男はギュッと拳を握って、目を開けた。
「結局、銃を持っていたということで何の処罰も受けなかったが、俺は任務を終えて帰ってくると同時に除隊した。もう俺は正義じゃない。俺にはもう、人を助ける資格はない」
男はギュッと拳を握って立ち上がった。その頃には男の黒は更に深まり、もはや顔が見えない程にどす黒くなっていた。
「――お前、犯した罪は消えないと言ったな?」
顔の見えない男が言う。地の底から響くような、低い声で。
「い、いえ……そんな、私は……」
私は手を振って必死に誤魔化そうとしたが、もう手遅れだった。
「罪は償わないといけない……俺は、俺はあの子の将来を……笑顔を……俺は、俺は……俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は」
ついに、男は発狂した。まるで壊れたコンピューターのように自分の名を連呼して、最後には顔を掻きむしって絶叫した。何事かと周囲の人間が振り向く。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
男はうわ言のように繰り返して踵を返した。糸が切れた人形のように一度だけ膝を折って倒れて、それから操られるかのようにフラフラと立ち上がった。ぐにゃりとした奇妙な動きをしながら、人ごみの中に消えていく。
ひとまず狂人が去ったことに、私はほっと安堵した。そして、今日はもう捜索を打ち切って家で休むことにした。まるで今日の嫌な記憶を払拭するかのように、私はゆっくりと風呂を浴びた。実際に色が付いているわけではなかったが、風呂場の鏡に映る私の顔色は真っ青だった。風呂から上がって、テレビを見ながら夕食を食べて、ダラダラと漫画を読んで、それから歯磨きをして、その日はもう眠った。しばらく黒を探すのは止めにしよう、明日になったら全て元通りだと、自分に言い聞かせた。
― ― ―
……翌日の朝、私は思わず絶叫した。
洗面所の鏡に映る私の顔は、ススで汚れたように真っ黒になっていたのだ。
fin.
【短編】顔色 上地王植琉【私訳古典シリーズ発売中!】 @Jorge-Orwell
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます