第2話 身八つ口に入れた手


 2月になると、私は一人で「禁色」を訪れるようになっていた。14日の夜、店に行くと早い時間だからか客は私の他にはマスターの古馴染みらしい壮年の男性一人だった。ハルマは、和服らしくない迷彩柄を着てグラスを磨いていた。


「月曜日に来るの珍しいね」

「チョコあげたかったからね」

 

 マスターに見つからないように、こっそりと資生堂パーラーのちっちゃな箱をハルマの手に持たせる。甘党だという彼は、悪戯をした子どものような顔をして箱をたもとにしまった。


「トモコさん、ありがと。何飲む?」

「ごめん。明日早いから、もう帰るの」

「え?じゃあわざわざ渡しに来てくれたんだ。なんか悪いなあ」

「ううん。売り上げにならなくてごめんね」

「とんでもない。店の外まで送るよ」


 先に立って歩くハルマは、私より少し背が高かった。店を出て、エレベーターのボタンを押してくれる。エレベーターホールは、近くに非常階段があるせいで隙間風が入ってきて寒かった。エレベーターはなかなか上がって来ない。


「トモコさん」


 ふと振り返ると、ハルマの手が私の頬に触れた。ほの温かい掌に、指輪の感触だけが冷たい。そのままハルマは、私に口づけた。ねっとりとした粘膜のぬめりけが心地よく、熱い。ほんの数秒だったはずなのに、体の奥が痺れて融けていくような感覚が湧き上がった。5年ぶりのキス。不快感は、なかった。唇を離したハルマは、うっとりとした表情で「おやすみ」と言うと、何事もなかったかのようにきびすを返してドアの中に消えていった。粘膜の熱さは、いつまでたっても消えなかった。






 その週の週末、私の姿は「禁色」にあった。隣には、やっぱり機嫌のいい宮津くん。相変わらず作ってもらったテキーラ・サンライズを飲みながら、ハルマと楽しそうだ。私は私で、それを見ながら変わらずビールのグラスを傾けていた。


「ハルマ、ちょっと買い出し行って来てくれ」

「わかりました、マスター」

「あ、じゃあ俺も行くよ。ちょうどタバコ切れた」


 メンソールのタバコの箱を潰しながら、宮津くんは言った。多分、ハルマと二人きりになりたいのだろう。やっぱり、ハルマが好きなんだ。「いってらっしゃい」と手を振りながら、私は自分がどこか不機嫌になっていることに気づいた。私は、残っていたビールを一気に煽った。


 ヴーヴー


 そのとき、マナーモードにしていたスマホがカウンターの上でガタガタと震えた。画面を見ると、職場からの着信だった。そっと貴重品だけ持って席を立つ。店外に出て、エレベーターホールで電話をとる。幸い、用件はたいしたことがなく、通話はすぐに終わった。溜め息をついて、店に戻ろうとする。ふいに、非常階段の方からカタッ、という音がした。見ると、階段へ通じるドアが少しだけ開いていて、そこから衣擦れの音が聞こえてくる。息をひそめて、隙間から階段を覗くと、切れかけの蛍光灯の下、渋い椿柄の着物が見える。

 ハルマだ。

 壁に押しつけられたハルマは、着物の脇にあいた穴から手を突っ込まれて後ろから体をまさぐられていた。二人の男の息遣いが荒い。宮津くんはハルマのうなじを吸うのに夢中で、こちらには気づいていない様子だ。はだけた裾から、ハルマの男らしく毛の生えた脚が覗く。こんな状況なのに、やっばりハルマはオトコなんだなあとぼんやり思った。そして、乱れていることで従来の色香がやっとハルマの体と釣り合ったような感覚を覚えた。体を捩ったハルマがちら、とこちらに視線を向けた。

 目が合った。

 ハルマは自分の口に人差し指を当てて、こちらを見てにやりと笑った。

 その手には、あの指輪がはまっている。


 急に、妙に腹立たしくなって、私は階段へ通じるドアを思い切り叩きつけるようにして閉めた。足早に店に戻ると、マスターにお札を押しつけて、店を後にした。非常階段からはもう何も聞こえない。そうして私はエレベーターに乗って、振り返らずに雑居ビルを出た。それから繁華街に近づくことさえなかった。






 年度末で忙しい最中3日間休んだ宮津くんが出勤してきたとき、あまりのやつれようにびっくりした。先月の怒りも忘れて「どうしたの」と問いかけると、どうやらハルマは急に音信不通になったらしい。店に行っても、マスターは「クビにした」の一点張りで詳しいことは教えてくれないそうだ。あの温厚なマスターが相当怒っていたらしいから、よっぽどのことがあったのだろう。私は、なんとなく合点がいった。最後に会ったとき、ハルマは離婚調停がうまく進んでいないと溢していたらしい。結局、宮津くんにも話していたんじゃないか。宮津くんには悪いけど、うまくいかないのもなんだか当然のように思えた。

 私はスマホを出して、ほったらかしていたSNSのアドレス帳から「ハルマ」の連絡先を消した。金輪際、「禁色」に行くこともないだろうと思った。

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みやつくちにいれたて kgin @kgin

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