【二刀流】白衣を着た死神

ながる

黒い白衣

 久々に飲み会で気分よく酔っぱらった帰り道。ビルとビルの間の暗がりで何かがキラリと光った。

 一度通り過ぎたものの、何となく気になったので数歩戻って覗き込む。硬貨でも落ちてたらいいなと思ったのだ。

 目を凝らしても、もう光るものは見えなかった。その代わり、うずくまっている人、のような。


「どうしました?」


 声をかけつつ踏み入れば、黒っぽい塊はぴくりと反応した。

 後から思えば、一人で暗がりに入り込むなど不用心にもほどがある。少し行けば交番もあるのだから、先にそこに駆け込めばよかったのだ。

 しかし私は酔っぱらっていた。気が大きくなっていたのと、職業柄、倒れている人を放っておけなかった。

 飲みすぎで動けなくなっているのかもしれない。近づけば、うずくまる人の陰に、もう一人いるのが分かった。

 手前の人が、ゆっくりと身を起こして振り返る。


「……酔っぱらってる、みたいで」

「え? あれ? 黒神くろかみ先生?」


 ネオンの照り返しにぼんやりと浮かんだのは、同じ外科病棟に勤めている黒神医師せんせいの顔だった。知り合いだという安心感に遠慮なくさらに近づいて、ぐったりと倒れている人物を覗き込もうとした、のだが……暗がりに落ちていた何かにつまずいて、とっさに伸ばした手で黒神先生をどついてしまう。

 「わっ」とバランスを崩した先生が膝をつき、同時にカランと何かが落ちた音がした。


「す、すみません!」


 ぎゅっと背中を抑え込む形になってしまって、慌てて先生が落としたのであろう、鈍く光る物へと手を伸ばす。

 ――メス?

 疑問に、拾い上げる前に手が止まった。黒い柄の、少し変わったメス。先生の手が素早くそれを拾い上げて、ポケットから出したケースに流れるように収納される。それが内ポケットに消えていくまでを目で追って、窺うように彼の顔に視線を移せば、薄く微笑む端正な顔に迎えられた。暗がりで、ネオンの照り返しの明かりだからか、ひどく冷たく見える。穏やかで陽だまりのようだと、よく聞く評価とは真逆の感覚に、思わず彼から手を離した。

 何故そんなものを、と聞いていいものか。


「あ、えっと、その人、怪我は」


 そうだ調べてしまえばいいと、彼を跨ぐようにして意識のなさそうな人物へと近づいた。派手な柄のシャツにジャケット、いかにもなチンピラに目立った外傷はない。暗くて定かではないが、メスで切り裂かれたような感じもない。脈をとる振りででき得る限り確認して、ほっとした。

 それも束の間、脈が弱くなっていることに気が付く。呼吸もかろうじてという程度。


「お兄さん、大丈夫ですか? お兄さん?」


 声をかけても反応がない。


「救急車呼んだほうがいいですね」


 黒神先生は言いながら、もうスマホを耳に当てていた。

 救急車が来るまでの間に二人で広い場所にチンピラを運び出して、応急処置を開始する。病院に着くまでにも容体は悪くなる一方で、処置も虚しく彼は助からなかった。どっと疲れが襲ってくる。せっかく楽しかった気分も台無しだ。


「君が悪いわけじゃないよ」


 穏やかな声と共に、目の前に紙コップが差し出される。コーヒーのいい香りが鼻の奥をくすぐった。


「そう……ですね」


 どこかで無理やりにでも割り切らなければ、この仕事は続けられない。全てを救えればいいけれど、それは神の所業だ。落ち込みそうになる意識を逸らすために、私は彼に指を突き付けた。


「それ、コートじゃなかったんですね。お仕事中……では、ないんですよね?」


 長袖Tシャツにジーンズ、その上に羽織っているのは白衣だった。白衣だけど、白くない。真っ黒の白衣。


「うん。プライベート用っていうか。なんか、落ち着くから」

「メス、も?」


 チンピラに外傷はなかった。ようだ。ならば、聞いても大丈夫な気がした。

 黒神先生は目を細めて人差し指を私の口の前に立てる。


「そう。外聞悪いから、あんまり言わないでくれると助かる」


 暗闇で見たのと同じ薄い微笑みに「何に使うのか」とは、聞けなかった。


 *


 同僚の看護師数人に囲まれたのは一週間ほど過ぎた頃だったか。

 チンピラが運ばれたのは別の病院だったのに、看護師ネットワークは侮れない。


「黒神先生とデートしてたって本当ですか!?」

「いや、してないし」

「わんこ系は好みじゃないって言ってたじゃないですか!」

「そうそう。私はどっちかというとワイルド系の方が……」

「狡いです!!」


 うんざりしつつ、一から説明してみたけれど、疑いは晴れないようだ。


「塚井さんの勤務予定とか聞かれた人もいるんですよ? もういっそ、引導を渡してくださいよ~」

「引導って……ってか、なにそれ気持ち悪っ」


 本気でドン引けば「気持ち悪くなんてないです!」と、謎の擁護に回られる。どうすればいいのか。


「じゃあ、どんな人だっていうのよ?」

「人当たりはいいけど、付き合いは希薄。外科手術成功率ナンバーワン! 患者さんの評判もいいし、手術に入ればメスさばきは右も左も綺麗。縫合も丁寧だって」

「右も左も?」

「どちらでも使えるそうです」


 器用なのね、とその程度の感想しか出てこない。まさか両手にメスを持って「二刀流」などと振り回したりはしないだろう。

 ともかく。こちらは興味ないし、あの日以来、仕事の会話以外してもいないということをなんとか解ってもらった。

 解ってもらった、はずなのに、黒神先生と院内ですれ違うだけで視線が痛い。

 理不尽だ。


 *


 理不尽を抱えたままひと月。他に娯楽はないのかと、まだたまに掛けられる質問に

いなを返す。ただでさえ気の張る夜勤に、愛想を振りまく元気もない。今日はなんだかお腹の調子もイマイチだ。

 駆け込んだトイレでしばらくサボって気を取り直す。珍しく静かな夜でよかった、かもしれない。

 仕事仕事、とトイレのドアを開けたところで、目の前の病室にするりと消えていく黒い裾が見えた。ドアは音もなく静かに閉まる。

 トイレから半歩踏み出した状態で固まりながら、長井さんの個室だと冷静に判断した。大腿部の骨折で入院しているご高齢の患者だ。こんな時間に誰が。看護師ではなかった。

 すぐに後を追って、うるさくない程度に勢いよくドアを開ける。


「――誰っ……!?」


 差し込んだ廊下の薄明かりに鈍く反射した銀色が滑った。

 おや、という顔で振り返った人物の左手にはメス。振り抜いた形のまま私に突きつけられる格好だ。


「あー……やっぱり、縁付いちゃったか。ちょっと、待ってね」


 こちらを見たまま、今度は右手が動いた。くるりと、何かを巻き取るような。

 彼はそのまま優雅に近づいて、メスを持ったまま私の袖口を引くと、そっとドアを閉めた。

 しー、と子供にするように唇の前で指を立てる右手にはやはりメスが握られたまま。白い柄の、メス。袖口を掴んだままの左手に視線を落とせば、前に見た黒い柄のメス。


「……黒神先生、なにを」


 あの日の夜のように黒い白衣を着た黒神医師は、その端正な顔以外は黒いシルエットそのものだ。柔らかそうな少し癖のある髪が触れそうな距離まで近づいて、彼は囁く。


「おまじない」


 この場の闇よりも昏い瞳で覗き込まれて、ぶるりと背中が震えた。

 反射的に彼を押しのけて、長井さんへと駆け寄る。外へ逃げださなかったのは、職務の方が恐怖より勝ったから、だろうか?


「あー……困ったな。だいぶこんがらがってる」


 あまり困った様子のない口調にイラつきながらも、長井さんの様子を確認する。

 ……特に、変わったところはなかった。穏やかな寝息を立てているだけ。ペンライトであちこち照らしても、切り裂かれたものは見つからなかった。

 本当に、「おまじない」だったのだろうか。

 振り返れば、思案顔がにっこりと笑った。


「無理には切れないか……仕方ない。巻き込もう」


 腕をとられて、病室を出る。

 出たと、思った。ドアの先は集中治療室ICUだった。熱傷の子供が痛々しく管理されている。


「離れないでね。カメラに映って困るのは君だよ」


 黒い白衣の内側に、まるで抱き寄せるようにして抱え込まれても、抵抗できなかったのは右手の白いメスのせいだと言い訳を用意する。

 彼はそのまま横たわる子供の上で白いメスを閃かせた。淡い、木漏れ日のようなきらめきが、メスから零れて子供の胸に降りかかる。

 うかつにも、綺麗だなどと見惚れてしまった。

 それだけで彼は回れ右をした。出口に手をかけた彼を見上げて、最低限の疑問を口にする。


「何をしたの? どういうこと? あなたは――」


 背を押され、踏み出した先は私が黒い裾を見たトイレの前だった。彼は私の頬に軽く口づけると離れながら笑う。


「俗にいう、死神、かな」


 何を、ばかな、と開いた口は声になる前に遮られる。


「塚井さん!?」


 背後から同僚の声が近づくのを感じて、何故キスそんなことをされたのか悟る。男子トイレのドアに意地悪く笑って消えていく黒神医師の姿を追いかけるに追いかけられず、私は俗世間の波に揉まれるしかなかったのだった。




 数日後、長井さんが亡くなり、ICUの子供は持ち直して順調に回復している。あの夜のカメラに、私たちはもちろん映っていなかった。

 その後も夜勤の日に時々見る、病室に滑り込む黒い白衣の裾を追いかけるべきか私は迷う。

 医者と死神という相反する二足の草鞋をどういうつもりで履きこなしているのか……聞いてしまえば、逃れられなくなる気がして。




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