モノ忘れ探偵とサトリ助手【二刀流】

沖綱真優

二刀流

 中島健太、二十六歳男性。

 地味な名前に、地味な容姿。

 彼女もいなけりゃ、車も持たず、今日という日がそれなりに楽しければ良いんじゃね、という例の考え方の人間だ。


『没個性でも、勤め先が良ければオンナくらいできるって』


 褒めどころを見つけられなかった母の兄、つまり伯父が、高校生時分の健太相手に、へらり笑ってこう言ったが、大企業になど就職できるはずもなく、二十六社目の面接でなんとか内定をもらった会社は、入社前日の三月三十一日に倒産、あえなくフリーターの身となった。


 それから、四年。

 紆余曲折経て、現在は興信所勤務——。



 *



「先生、須藤さんがお見えです」

「ふむ、」


 正木善治郎先生は、興信所の所長いわゆる私立探偵だ。

 先生はデスク前で身だしなみの最終チェックをして、四角い鏡をパタリと倒した。

 ノリの効いた白シャツに、ライトグレーツイードのウェストコート。

 少し年季が入っているが着こなしはスタイリッシュ、呼び方もベストやチョッキなどとは決して言わない。


 健太が生まれる前にはもう有名な探偵で、頭髪の方はすでに後退していたらしい。

 衣服よりよほど念入りに手入れした髪は、天然物に見える。


 先生は、シャツの腕を左右順番に伸ばして整えてから、健太が棚から取り出しておいたファイルを手に立ち上がり、


「お通ししてください」


 といった。

 健太は事務所のドアを開けて、依頼人である須藤氏を招き入れた。


 須藤氏は、ブランドなど分からない若造である健太が見ても高級なスーツを着こなしている。

 暗い玄関先では濃いグレー無地に見えた生地は、実は主張しないストライプが入っていて、白いチーフをきちんと胸に挿している。お連れしてソファを勧めながら、品とはこういうものかと感心した。


 挨拶を交わして、先生も重い尻をソファに埋めた。

 どこぞの重役だという五十過ぎの紳士は、健太の用意した煎茶を一口含むと、湿らせた喉から緊張した声を出した。


「先生、お願いした件ですが」

「須藤明里さんの素行についての調査報告ですが……アレですな。

 いわゆる……イチロー的な」


「イチロー?野球選手の?」


 依頼人の顔にはてなマークが浮かぶ。

 いつもの事だが、健太にも何だか分からない。

 しかし、次の瞬間、これもいつもの事だが、健太の背中を電流が駆け上り、脳を経ずに口からひとつの答えが飛び出している。


「先生、それはおそらく大谷選手のことですね」


 正木先生は、鳩が豆鉄砲を食らってもしないような唖然とした表情で、


「いま、そう言っただろう」


 という。


 一方の須藤氏は憮然と、


「それで、やはり浮気でしたか」


 と、今のやり取りを無視して尋ねる。


 先生は、ファイルから写真を二枚取り出し、裏向きに置いた。

 一枚目を捲る。

 一枚目は須藤氏が持ち込んだ写真で、カメラに向かって微笑む奥様が写っている。


 奥様、須藤明里さんは三十代後半、焦茶色に染めた髪とナチュラルメイクが、落ち着いた顔立ちによく似合っている。

 ダークグレーのワンピースは少し地味だが、明里さんの品の良さを引き立てている。


『この写真の、妻が浮気をしていることを確認していただきたい』


 三週間前、須藤氏はそう依頼したのだ。


「二枚目の写真を、表に返して頂けますかな」


 須藤氏は何度も眺めてきたであろう一枚目の写真から視線を上げ、探偵を見た。

 秒に満たない間、ふたりの視線は交わり、氏は自分から視線を外して咳払いひとつ、写真を手に取る。


「なっ。やはり、妻が目的だったのか」

「ああ、手には取らず、置いて、並べてください」


 写真を見て、思わず立ち上がった須藤氏に、先生は静かにいった。


「何様だ、あんたは。落ち着いて、人ごとだと思って、これが、この、証拠をっ」

「浮気の証拠、ではありませんよ。ひとまず話を聞いていただけませんか」


 激昂する須藤氏を、先生はやんわりと諌める。

 須藤氏は渋々腰を下ろし、二枚目の写真を一枚目の隣に並べた。


 二枚目の写真の明里さんは、一枚目とは別人のようだった。薄茶色の髪色、遠目にもハッキリとした目元、口元、つまりそれだけ濃い化粧を施しているわけで、それから、春らしいライムグリーンのシャツと白パンツが若々しく、別人もしくは歳の離れた妹のようだ。


 そして、二枚の写真の最も異なる点、須藤氏が拳を振り回さん勢いになった原因、明里さんの隣には青年の姿がある。

 薄茶色のレンズに隠れて目元はハッキリしないが、オーバーサイズの白シャツにジーンズの着こなしが、男の健太から見ても格好いい。


 青年と腕を組んだ明里さんは美しく微笑む。

 傍目には恋人同士、夫婦にも見えるだろう。親しげでリラックスした微笑み。


「これを、証拠として突きつけてやる」


 収まりきらずにもう一度立ち上がって、須藤氏は唾を飛ばした。


「この方を、ご存じですね?」

「……会社の秘書室に勤務している社員だ」

「須藤さんとのご関係は?」

「私と?関係などあるわけがない」

「しかし、半年ほど秘書だったではありませんか。関係ない、はずがない。あるいは」


 言葉を切った正木先生はじっと須藤氏を見詰め、須藤氏は激昂で赤みがかっていた顔を青く変えてソファに沈み込んだ。


「だから……探偵など雇わずに別れれば良かった……」

「須藤明里さん、奥さまは浮気も離婚も否定された。だから、証拠を求めた、と依頼の際に仰いましたが」

「しかし、妻の浮気の証拠だけでなく……私を、ゆするのだろう」

「ご冗談を。プロフェッショナルの仕事に対しては、契約通りの金額をお支払いいただければ十分です。ただ、」

「ただ?」

「話は最後まで聞いていって欲しいものですな」



 *



 その後、須藤氏から契約の倍の金額が振り込まれた。


「先生、あの三人は上手くいくのでしょうか」

「少なくとも、須藤明里さんは確信したのでしょうね」


 明里さんは、夫との関係を断ち切らせるために浮気相手に近づいたのではなかった。

 夫が身も心も消沈しているのを見かねて、再び関係を持たせるため、仲を取り持つために近づいたのだ。それは自分が満足するためでもある。


 夫を愛してはいるが、一回り以上離れた夫に満足できない妻。

 妻を愛してはいるが、別の立場での満足も得たい夫。

 愛する男に一度は捨てられたが、妻も一緒に愛することを条件に再び愛人になった青年。


「三人ともが、二つの立場を維持したい。ならば、二人では不可能だったのです」

「あの秘書さんは、須藤さんひとすじでは?」

「いえ、彼もまた別方面の興味をお持ちだった。

 世の中にはいろんなイチローさんがいるのですよ」


 先生はついに二刀流という言葉も思い出さなかった。

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