閑話 秋月潤


 その日は、雨だった。


 土砂降りという程ではないが、傘がないと風邪をひいてしまいそうな量の雨露を、秋月潤は事務所の窓から紅茶を片手に覗き込んだ。


「そろそろ来るかなぁ」


 そう呟きながら紅茶を一口飲みこむと、自身のデスクに座って仕事を始めた。


 今日の翻訳は複数人で作業分担をする必要があるもので、普段は自宅で翻訳作業をやっている秋人も事務所に来て仕事をする予定となっていた。


 秋人を待ちつつ翻訳を進める潤は、ふと自身の職について考えた。


 翻訳という仕事は、ただ外国語が話せれば出来る仕事ではない。例えば日本語を英語に翻訳するにしても、その翻訳した文章を読むのがアメリカ人なのか、イギリス人なのか、あるいは英語を母語としない人なのかにもよって、文法、スペリング、そして表現を細かく変えなければならない。


 これだけでもかなりの言語知識が必要となるが、より良い翻訳をするには更に文化知識も必要となる。有名なところで言えば「いただきます」や「ごちそうさま」などの食事に対する挨拶表現は、英語圏にない文化である。こうしたその国独自の文化的表現をどう翻訳するのか工夫を凝らすには、やはりただ外国語を話せるだけではなく、それぞれの国に対する深い造詣が必要となる。


 秋月潤は翻訳のプロフェッショナルであるが、しっかりと満足のいく翻訳が出来るようになったのはつい最近の事であった。各分野の専門用語を学び、様々な国を旅してまわり、異文化に対する理解を深め、ようやくプロフェッショナルと呼べる技術を身につけることが出来た。


 故に、秋月潤は「適切な翻訳をするには、言語能力以外にも様々な経験と知識が必要である」をモットーとし、後身の人材育成の際にも旅行や海外移住、大学院進学等を強く勧めている。長い時間はかかるが、努力に近道はなく、こうした一歩一歩の積み重ねがプロフェッショナルへとつながる。そう信じて自分自身にも、そして後輩の翻訳家たちにも言い聞かせていた。


 しかし、やはり何事にも例外はあるらしい。


「ごめん叔父さん、ちょっと遅くなった」


 傘をたたみながら事務所に入って来た甥っ子である秋人を見て、潤は立ち上がる。


「構わないよ、この雨だしね。さっき紅茶入れたんだけど、秋人も飲む?」


「あぁ、うん。じゃあお願いします」


 潤はすぐさま棚からティーカップを取り出し、ティーポットに入れた紅茶を慣れた手つきで注いだ。その間に秋人はパソコンを立ち上げると、翻訳の資料をさらさらと眺めて確認した。


 入れ終わった紅茶を秋人のデスクにそっと置くと、秋人は一言「ありがとう」と言って紅茶を一口飲んだ。


「それで、今日の翻訳なんだけど――」


 画面を見ながら潤が説明を始めると、秋人はうんうんと聞きつつも、顎に手を置いて何やら深く考え込んでいた。


「という感じなんだけど、大丈夫?」


「う~ん……」


 説明を終えた潤が秋人の方を振り向くと、秋人は何やら気になることがあるといった様子だった。


「ねぇ叔父さん、この翻訳なんだけど、クライアントはイギリス人で上流階級出身なんだよね? それならもう少しかしこまった表現を使った方が良いような気がする。一般階級ならこれで十分だと思うんだけど、上流階級では気にする人がいるかも」


「ふむ、なるほど……。そうだね、もう少し丁寧な書き方にしとこうか」


 潤の返答を聞くと、秋人はすぐさま作業に移った。


 何事もなかったように潤も席について作業を再開するが、内心はかなり驚いていた。


「(全く、才能と言うのは恐ろしいものだね)」


 初めて秋人が翻訳を手伝いたいと言い出した時、潤はその気持ちを嬉しいと思いつつも、仕事を任せることは出来ないと考えていた。


 長くイギリスに住んでいた秋人は、英語も日本語もネイティブだ。だが、だからといって翻訳ができるわけではない。知識も経験も足りない秋人では、ボランティアならともかく、仕事で翻訳をやるには厳しいだろうと、そう考えていた。


 しかし、そんな考えはすぐに変わった。なかなか食い下がらない秋人に対し、とりあえず一度翻訳をやらせてみればその難しさに気づいて諦めるだろうと思い、あえて難易度の高い書類を渡した。すると数日後にはまるで熟練の翻訳家によって訳されたかのような訳文が出来上がっており、潤はその結果に脱帽した。


 今まで翻訳をやったことのなかった少年が、どうやって。気になった潤は秋人に尋ねたところ、「翻訳の本を読んで勉強した」と、一言だけそう答えた。


 ありえない、と、正直最初に潤はそう思った。本を読んだだけで出来るほど、翻訳の世界は甘くない。翻訳を十分にこなせるようになるには、長い時間が必要なのだから。


 しかし、だ。他の子ならともかく、秋月秋人ならばありえるのだろうと、潤はすぐに考えを改めた。何故なら彼は、秋月秋人なのだから。


「ところで、そろそろ試験があるらしいね」


「え? あぁうん、そうだね」


 突然潤に話しかけられ、秋人は顔を上げる。


「自信のほどは?」


 秋人は腕を組んで深々と考え出した。


「う~ん……、多分今回もほとんど百点取れると思うよ。そんなに難しい内容じゃないし」


 それは驕りなどではなかった。単純に、客観的な推測から来る答えだった。


 雪菜やクラスメートがいる前ならもう少し発言に気を使ったかもしれないが、叔父相手にはそういった余計な気回しはしなかった。


「なるほど……」


 潤の方も、秋人の発言を驕りとはとらえなかった。むしろ当然か、といった表情だった。


「一応言っておくけど、今回の案件、提出期限に結構余裕があるから、試験の後でも大丈夫だよ。勉強の方を優先してもらって構わないから」


 思わぬ叔父の気づかいに、秋人は少し微笑んだ。


「大丈夫、テスト期間中も普通に翻訳の方をやっておくよ」


 その表情から、秋人が無理をしているわけではないと分かり、潤は安心して胸をなでおろした。


「そうか、分かったよ。でも本当に、勉強との両立が厳しそうだったら仕事の手伝いはしなくていいんだからね。勉強だって、好成績を取る必要はないよ。秋人はもう、秋月本家にいた頃とは違って――」


「叔父さん‼」


 言葉を遮るように出された大声に、潤は口を閉じる。


「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫。俺はもう、大丈夫だから」


 どこか遠くを見ながらそう話す秋人に、潤は少しだけやるせなさを覚えた。


「(やはり、秋人はまだ秋月本家に……)」


 囚われている、という言葉は使いたくなかった。たとえ頭の中でだろうと、その言葉は彼にとって、呪いとなってしまうだろうから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水川雪菜は英語を学びたい フィリップ ヴァーグナー @PhilippWagner

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ