ヘビー・スモーカーズ・フォレスト
きょうじゅ
本文
はじめ、幽霊を見たのかと思った。
とある大きな病院の、その敷地の片隅。鬱蒼と茂る森に臨んで、その喫煙所は作られていた。そこに、彼女は居た。
赤い着流しの着物をまとって、朱色の鞘の長い
「少年」
少年、なんて呼ばれたのは初めてだった。まあ、こちとらまだ16歳なわけで、確かに少年だけれども。
「きみ、未成年だろう? 煙草は肺の毒だぞ」
と言いながら、ぷかぁと輪になった紫煙を吐き出した。
「そういうあなたはどうなんですか。煙管だって煙草でしょう」
「あたしのことはいいんだよ。問題は君だ」
にぃ、と笑う。
「煙草、止められないんです」
「不良だなぁ」
また、にぃ、と笑う。
「いわゆる意味での不良っぽいことは別にあまりやらないんですけどね。煙草だけは、好きで。こっそりと。まあその」
「で、その年でマイセンの10ミリボックスかい。ほどほどにしなよ」
「マイセン? これはメビウスですよ」
「むかし、そいつはマイルドセブンと言ったのさ。略してマイセン。何がマイルドなのか、知れたものじゃないけどね」
「そういえば、親父がそんなことを言っていたことがあったような気もする」
「もう十年も前だからねぇ」
手つきを見る。煙管の葉はすぐに焼けてしまうようで、とんとん、と容器に灰を落としつつ、器用に新しい葉を詰めて、また、ぷかぁ、と吸う。実に旨そうに。
「なんでこんなところでそんなものを吸っているんですか?」
なんで、そんなものを、の方に疑問を込めたつもりだったが、こんなところ、についての回答が来た。
「中庭で吸うと、怒られるからだよ。ここは穴場だ。よく見つけたね、少年」
この病院の中庭にはもっと大きな喫煙所がある。あるのだが、未成年の僕が混ざっていると、いかにも悪目立ちがしてしまう。彼女も、似たような事情らしい。どう見ても二十歳未満ではないが。
「ふぅ。やっぱり、たまの
「小粋? 煙草を吸うのが粋だってこと?」
「そうじゃないよ。小粋っていうのは、煙管に使う、刻み煙草の銘柄さ。今の日本でも、刻み煙草はまだ何種類か売られてる。代表的なのが、小粋と宝船。あたしは小粋の方が好きでね」
「ふーん」
「なんて蘊蓄は垂れてみたけど、寿命が惜しいなら、煙草はやめた方がいいよ、少年」
「そういうあなたはどうなんです。命、惜しくないんですか」
「惜しいよ。すごく惜しい」
「だったら——」
「でも、たまの小粋は人生の救いなのさ。少年にはまだ、分からんことだよ」
にぃ、と笑う。
「子供扱いしないでくださいよ」
「子供扱いされて拗ねるのは、子供のすることさね」
「それは屁理屈というものでは」
「子供でないのなら、これの意味は分かるかい?」
煙管の煙を吐きかけられた。顔に向かって。
「げほっ! 何すんですか!」
「子供」
また、にぃ、と笑う。
なんでそんなことを思ったのか全然分からないのだけど、ああ、何歳年上か分からんけど可愛い人だな、と不覚にも思ってしまった。
で、翌日。昼ごはんの時間が終わった後に、また僕は同じ喫煙所に行ってみた。
目を疑った。そこにいたのは、同じ人だということはすぐに分かったが、今度は真っ白な病院着で、そして煙管ではなく葉巻を咥えて、知らん男と話していた。知らん男は煙草は吸っておらず、僕の方をちらりと見て、離れていった。
「今の人は?」
「また来たのか少年。今のは彼氏。って言ったらどうするのかね」
「……別にどうもしませんよ」
僕は憮然とした顔をしてしまったのかもしれない。にぃ、と笑う。底意が読めない。
「またマイセンかい」
「だからメビウスですってば。僕はこれしか吸いません」
味がどうこう言うほど他と吸い比べたことはないのだが。
「同じ銘柄にこだわるのがカッコいい、と思っているのだろ?」
「まあそうです」
「素直だねぇ」
と、唐突に、関係のない言葉が続いた。
「さっきのは彼氏じゃないよ。あたしの兄だ」
「……そうなんですか。お見舞いですか」
「まあね。差し入れって言って、これを持ってきた。あたしが小粋の次に好きなもの」
と言って、口に咥えた葉巻をくいくいと上下させる。
「それは?」
「ロメオyジュリエッタ。キューバの葉巻さ。高級品」
「なるほど。そういうのを吸うのが通っぽくてカッコいいと思ってるんですよね?」
「その通り。煙草なんてそんなものだろ、嗜好品なんだからさ」
「まあそうですけど」
にぃ、と笑う。
「ところで。煙草はともかく、煙管の煙を相手の顔に吹きかけるのには、江戸時代には深い意味があってね」
「え?」
「相手との関係にもよるけど、だいたいは『ぬしと寝てみたい』という意味で用いられたそうだよ。だから煙管は遊女の商売道具だった。差し出して、吸わないか、と誘うのも同じ意味だったんだって」
「へぇぇ……」
「で、少年」
「はい?」
「吸ってみないか?」
そう言って、朱鞘の煙管を差し出された。
「……どうやって吸うんですか、これ」
「咥えて、吸って」
「ん」
ロメオyジュリエッタの先端を、煙管の受け皿の部分に押し付けられる。いわゆる、シガーキスというやつだ。普通は紙巻同士でやるものだと思うけど。ぷかー。
「どうだい? 小粋って味がするだろう?」
「……なんとなく、その名の意味は分かる気はします」
にぃ、と笑う。いつものように。
「で、少年、どうだい? 今からあたしと」
「いいんですか?」
「いいから言っているんだよ」
「昨日、出会ったばかりですよ?」
「あたしには先がない。次の火遊びの機会なんて、もうないかもしれない」
「……僕との関係は火遊びですか」
「嫌かい? 女を教えてあげるよ」
「知ってます。シガーキスじゃない、キスのやり方も」
「ふーん」
にぃ、と笑う。手を差し伸べられた。その手を取る。森の中に導かれた。そんなに奥までは入らない。要するに、病棟から姿が見えたりしないポジションを取れば、それでいい。それだけだ。
「さて。このへんでいいな。で、少年。こういうのは知ってる?」
「……それは……知識の上でだけ」
「そう。じゃあ、君がどうして欲しいか。口に出してごらん」
「咥えて、吸って」
「ん」
さて、それからしばらく時間が過ぎて。僕は虚脱感に包まれながら、メビウスの10ミリをふかしていた。彼女はロメオなんたら。
「僕は、あなたの命になれる?」
「どういう意味で、そんなことを言うんだい」
「生きる事、諦めないでください」
「どう足掻いたって、あたしは、もうじき死ぬんだよ?」
「そういう意味じゃないです。僕が居るから命がもっと惜しいと、そう思ってくれますかって、そういう意味です」
「明日——」
「明日?」
「明日、またここで会おう。そのとき」
「そのとき?」
「あたしの名前を教えてあげる。だからそのとき、少年の名前も教えて」
「分かりました」
――そして翌日。
僕が病棟の中を歩いていると、医者や看護師たちが慌ただしく動いているのが見えた。ベッドの上に誰かいる。運ばれているところだ。なんとなく、その顔を見たくなかった。だから、僕はその人の顔を見なかった。見たら、いま思っていることが確信に変わってしまいそうだったから。
そして、僕はあの森の脇の喫煙所で、彼女を待った。
彼女は来なかった。僕は、静かに泣いた。涙がぼろぼろとこぼれて、煙草の灰の上で、じゅうと音を立てた。
三日後、僕は盲腸による入院から解放され、自宅に帰った。それっきり、煙草はやめた。今も、心の中で、彼女の声が響く。
「きみ、未成年だろう? 煙草は肺の毒だぞ」
ヘビー・スモーカーズ・フォレスト きょうじゅ @Fake_Proffesor
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