沈黙に積雪

けんこや

沈黙に積雪

 あかりと慎太郎は幼馴染である。


 二人とも同じ年に生まれ誕生日も近く、同じマンションの同じ棟の同じ階ということで物理的に近しい関係にあり、またその母親同士が極めて仲が良く、ほぼ毎日のように互いの家を行き来し、必然的にあかりも慎太郎も、物心がつく頃にはすでに姉弟のようにお互いの存在を身近に覚える間柄となっていた。


 性格的にはあかりのほうが達者であり、遊びをリードするのは常にあかりのほうだった。


 そうなるとついおままごとや人形遊びのようなものが遊びの中心になりそうなものだが、不思議なほど男子の遊び(例えばヒーロー戦隊ごっこやブロック遊びや公園の遊具をつかった鬼ごっこなど)に夢中になってはしゃぎまわるということが多かった。


 これは紛れもなくあかりの、男勝りともいえる性格によるものだろう。


 現に慎太郎がほかの子にいじめられていると、あかりがすっ飛んできて、ぽかぽかといじめっ子をやっつけるといった場面も一度や二度ではなかった。


 変な具合だが、慎太郎にとってあかりはいつもヒーローのような存在だった。



 ところがそんな関係も幼稚園を卒業するまでで、小学校に入ってクラスも異なると二人の距離感は急速に離れていった。


 その環境の変化はあかりにとってはさほどのことでもなかったが、慎太郎にとっては深刻だった。

 

 端的に言うと、慎太郎は小学校でいじめにあった。


 同じ学年に、屈強で狡猾で、人の優位に立つことに愉悦を覚える性質を生まれつき備えたような蛇のような生徒がいて、線が細く自己肯定感が低く自己主張を一切しない受動体質で、人よりやや遅れがちな慎太郎は格好の餌食となり、日々あれやこれやとからかわれ、あしらわれ、さげすまれ、それが丸々6年間続いた。


 そのいじめは陰湿で巧妙で、本人が我慢しているかぎり親も先生もいじめの存在に気が付かず、事実慎太郎は6年間我慢し続けた。


 が、そうはいってもそれはあくまでも保護者側の視点であり、同級生目線で見ればこのいじめの実態はあまりにも露骨で、慎太郎が毎日どんな目にあっているのか、どんな思いで過ごしているのか、あかりが知らないはずもなかった。


 だが、あかりはそうした事実を知れば知るほど慎太郎から距離をおき、関りを避け、互いに別の宇宙に住んでいるかのような距離感を保ち続けた。


 二人の小学校時代において、たった一度だけその距離感が失われた瞬間がある。


 それは小学校4年生にあがったばかりの遠足の帰り道のことだった。


 あかりが遠足の名残惜しさと徒労感を引きずるように下校をしていると、通りの向こう側で、慎太郎のクラスの男子の一団が手ぶらで悠々と歩いているのが見えた。


 その後ろを全員分のリュックと水筒をよいしょ、よいしょとぶら下げた慎太郎が、ニコニコ笑ってついて歩いてゆく。


 あかりは瞬間的に頭に血が上った。

 慎太郎に対して、である。


 あかりはつかつかと通りを渡ってその集団を押しのけて慎太郎の真正面に立つと、いきなり平手打ちをかました。


「なにを笑ってるんだ、馬鹿馬鹿、悔しくないのか、この大馬鹿やろう!」

 大声でののしりながら何発も何発も慎太郎に平手打ちを繰り返し、慎太郎に荷物を持たせていた男子たちが思わず割って入るような騒ぎとなった。


 このころにはあかりの気性の激しさは同学年の間ですっかり知られていたので、その騒ぎもとるにたらない日常のひとつとして片づけられていったが、どういうわけかあかり自身がこの出来事を痛烈なほど恥ずかしく感じてしまい、いつまでも心に引っかかり続け、以降、慎太郎がいじめられている姿を見かけても、ことさら意識を遠くに向けて無関係を装うように心がけるようになった。



 やがて春が来て、二人は小学校を卒業し、共に同じ地区の公立の中学校へと進学した。



 はたして慎太郎のいじめはどうなってしまうのか。


 中学生ともなればいじめはさらに凄惨にエスカレートし、すさんでゆくのかと思いや、意外にもそんなことはなく、慎太郎は全く予想外の方向へと運命の舵を切った。


 剣道部に入部したのである。


 それは単に剣術ものの漫画の影響といった軽いのりだったのだが、ちょうどその年から顧問が変わり、昭和の体育会系の気風をもろに受け継ぐような激しさの中で、慎太郎は鍛えに鍛え抜かれる羽目になった。


 だが、激しさに耐えるということは慎太郎の特技のようなものであり、その試練ともいうべき練習量を1年も過ぎた暁には慎太郎は見事な体力と精神力と実力をつけ、同時に体格も大きく成長し、2年、3年と進級するにつれてその面影はよもや小学生の頃のあどけなさをひとかけらも残さず、精悍なまなざしをたずえる若者へと変身をとげていったのである。


 あかりはその慎太郎の変身を心の中でひそかに奨励しつつ、しかしながら相変わらず距離を保ち続け、疎遠でありつづけた。というか、そもそもあかりはあかりでそんなことにかまをかけている余裕がなかった。


 校内における政治抗争はなかなか激しく、あかりはなまじっか早い段階で女子のヒエラルキーの頂点に君臨してしまったために、地位をキープするのに必死だった。


 対抗勢力が次々とあかりを引きずり落としにくる。あかりは何人かをつるしあげ、何人かを追い落とし、陰湿な謀略の目まぐるしい攻防の末、3年生になるころにはすっかり馬鹿らしくなってしまい、隠居をするように戦場を退き、誰ともかかわらず受験の勉強と女子力の勉強をするだけの動物になっていった。



 そしてまた春が来て、二人は奇しくも同じ高校へと進学することになった。



 高校に上がる頃にはあかりの一家は郊外の一戸建に引っ越しており、物理的な距離も遠ざかって、学校内で二人が幼馴染であることを知っている生徒はいなくなっていた。


 慎太郎は高校でも引き続き剣道をつづけ、よく汗を流しよく励み、ますます男ぶりを増していった。


 だが、いかんせん口数が少なく不器用で話題にも乏しく、教室ではいわゆる地味キャラとして平平凡凡とした毎日を過ごしていた。

 

 よく見ると慎太郎はなかなか整った顔立ちではあるのだが、そのことに気が付いている女子はおらず、校内ではただひとりあかりだけが慎太郎の精悍さと心の優しさと誠実さを知りぬいているといった体であった。


 しかし、あかりと慎太郎が言葉を交わすことはない。


 両者の間に横たわる透明な壁はますます厚みを増していた。



 あかりは高校に入ってほんの数週間の間に校内の全男子に名前を覚えられる存在になった。


 その容貌の可愛らしさはただ事ではなく、ふわりとカールした亜麻色の髪も、飴細工のような瞳も、ほんのりと口紅をのせた半開きの唇も、まるで西洋の人形のように例えられ、男子も、女子もおもわず立ち止まって二度見をせずにはいられない外見を、その頑強な精神の上にまとうようになっていた。


 この突然の変身には理由がある。


 エステサロンを経営しているあかりの叔母が、高校に入学するというこの天然素材を面白がり、入学するまでの数週間の間にプロの腕で徹底的に改造を施したのであった。


 といってももちろん整形手術などをしたわけではなく、最先端の美容術とメイク術とカットとダイエットとトレーニングとありあらゆるスタイリング技術を駆使し、もともと素養として備えていたあかりの美しさを全開に開花させたのであった。


 圧倒的に可愛いということはそれだけで勝利者である。加えて彼女は中学時代の教訓を活かし、表立ったことは決してせず、常に控え目を貫き、極力自分の居場所を学校の外に求めた。


 あかりは叔母のエステサロンで下働きのようなことをこなしながら社会を学び、美容と健康を学び、叔母の交流に引っ張りまわされながらお金の使い方やたしなみを学び、一足飛びに大人への階段を駆け上がっていった。


 すると同級生などは子供のようにしか見えなくなってくる。


 あかりに言い寄ってくる男子生徒は次々に現れたし、あかりが集団行動をとるときにはたいてい上位グループに取り囲まれるので、周囲はみな陽気で自信にあふれ、華がある男たちばかりだったが、そうした輩とどれだけ対話を交わしても、彼らの思索の薄さ、浅さにうんざりさせられることばかりだった

 そして常にその視線の奥底に、あかりを色物扱いするような光を向けてくるので、少しも油断ができなかった。


 結局、校内の男子であかりが真に心を許せるのは、いつも道場で黙々と竹刀を振っている慎太郎だけということになるのだが、あかりはそのことに気づいていなかったし、気づこうとしても別の意識が働いて瞬間的に否定をしてしまっていた。


 しかし紛れもなく慎太郎の存在はあかりの心のどこかで強い熱を帯びており、時折おかしな事件をひきおこすこともあった。

 

 例えばあかりの全く知らない女子が慎太郎になれなれしく付きまとっているのを見てしまったりすると、あかりは猛烈に怒りが込みあがって自分でも抑えがきかなくなってしまい、「実はその女子から嫌がらせを受けている」などといったあらぬ被害を身近な数人にうち漏らしたりした。


 かわいそうなその女子は、あかりを神のごとく慕う親衛隊たちによって瞬時に報復を受け、全く身に覚えのないまま二度と立ち直れなくなるほどの社会的制裁を食らわせられる羽目にあい、首謀者であるあかり自身も「いや…ちょっとやりすぎ…」と自己嫌悪に陥ったりして、自分でも何を考えどうしたいのか良く分からなくなっていった。


 ともかくあかりの、慎太郎への気持ちは誰に知られることもなく、重たい鉄板でふたをするかのように、あかりの心の奥底に強い力で抑え込まれ続けていた。



 結局、高校3年間の間に二人が言葉を交わしたのはほんの二言、三言だけだった。


 だが、そのわずかな邂逅の瞬間は、二人にとって生涯忘れることのできない、夢のような美しい情景となるのであった。



 それは2月半ばのある雪の日のことだった。


 その日あかりは委員会の仕事があって下校が遅くなった。

 

 閑散とした昇降口を一人で抜けると、外はすっかり雪景色になっていた。


 あかりはお気に入りの、マゼンダカラーの傘をぱっと広げ、マフラーに顔をうずめるようにして校門に向かった。


 雪は都内のこの地域にしては大降りで、あたりの景色をあっという間に純白に埋め尽くしていった。


 傘の範囲を外れた髪に雪が音もなく降り落ちてくる。

 早くも足元が冷えてきた。


 駅まで歩くのがおっくうだな、と思いながら校門を出ると、少し離れたバス停のところで、紺色の大きな傘が転がっているのがみえた。


 よくみるとその傘の内側に人がうずくまっている。


 よほど寒くて縮こまってしまったのか、あかりはややほくそ微笑みながらその後ろを通り過ぎようとした。


 が、しかしその傘の内側にいるのが慎太郎だとわかると、その足どりがぴたりと止まった。


 いったい何をしているのか、寒さをしのごうとしている様子でもない、もしかして具合でも悪いのだろうか…。


 あかりはそのまま通り過ぎるわけにもいかなくなり、ただ黙って慎太郎の背後に固定してしまった。


 予期せぬ出来事に、直前まで凍り付きそうだった体中が、まるで火が灯ったかのように熱くなってくるのを感じていた。



 慎太郎は足元に落ちたはずのコンタクトレンズを探しながら、後ろに誰かが立ち尽くしている気配に気が付いた。


 2Weekで今日おろしたばかりのコンタクトレンズ。しかし初めから傷でも入っていたのか、バス待ちの間に目がごろごろとしてきて、こすったとたんにポロリと落ちてしまった。

 

 足元は踏みつぶされた雪がシャーベット状になっていて、透明なコンタクトレンズはいくら探してもまったく見つからなかった。

 

 早く探さないとバスが来てしまうし、雪も容赦なく降り積もって足元を覆ってくる。


 さらに背後にはバス待ちの人だろうか、自分を見つめる視線も加わってきて、焦りと情けない気持ちでいっぱいになってきた。



 コンタクトレンズと言えば…、と慎太郎は今朝の廊下ですれ違った時に見た、あかりの青みがかった瞳を思い出した。


 カラーコンタクトを日常学校にしてくるなんてどうかしてる、と思いながらも、その異国的な容姿にはっと足が止まり、おもわずうっとりと眺めてしまったのだった。


 一瞬目が合い、慌てて伏せるようにしてその場をそそくさと立ち去ったものの、しばらく動悸がおさまらなかった。



 高校に入ってからあかりは変わってしまった。

 すっかり変わって別の世界の住人のようになってしまった。

 昔、毎日のように一緒に遊んでいたのが遠い夢のようである。


 今や、あの緑川あかりと幼馴染だと言えばそれだけでちょっとした騒ぎになってしまうだろう。


 剣道部の連中も腰を抜かして驚くに違いない。


 そういやこの前リョウスケのやつ、緑川さんと電車で隣に座っちゃったぜ!とかなんとか大喜びしてやがんの。

 アホか!こっちは隣に布団を並べて何度も寝泊まりしてたっつーの!ははは…



 と、あかりに思いを忍ばせていた次の瞬間、突然それまで背後に立ちつくしていた気配の主が、まるで白鳥が舞い降りるかのようにふわりと慎太郎の傍にかがみこんできた。



 それは紛れもなく慎太郎が脳内にありありとその姿を浮かべていた、当のあかり本人であった。



「どうしたの?」と、あかりは聞いた。


 まるで数年の時間の空白が無かったかのようだった。


 慎太郎はうろたえにうろたえ、あかりの方を見もせずに、「コンタクト落としちゃって」と言った。言ってから、自分でもびっくりするほど小声になってしまったことに気が付き、もう一度、「コンタクト落としちゃって」と言った。


 その繰り返しが面白かったのか、あかりは花の開くようにほほえんだ。


 それから二人ともその場所にうずくまったまま、無言で足元をみつめつづけた。



 雪は降り続けた。


 その粒は時間がたつにつれてどんどん大きくなり、あたりをみるみる白く塗りこめてゆく。


 雪景色の中で、あかりと慎太郎の、緋色と紺色の傘だけが、仲よく並んでポツンとその場にうずくまっている。


 それはまるで世界全体が真っ白に消失しようとしてゆく中で、赤と青の小さな傘に囲まれた二人の空間だけが切りとられ、取り残され、守られているかのような、実に不思議で幻想的な情景だった。



 コンタクトレンズは見つからない。


 あかりは黙って慎太郎のそばに寄り添い、地面を眺めている。


 寒い中、あかりにこんな捜索に付き合わせてしまっているのが申し訳なく、慎太郎はますます焦って足元に目を凝らし続けた。



 実はあかりは慎太郎が小声で「コンタクトレンズ落としちゃって」とつぶやいた最初の一言をきいたあとすぐに、その「落とした」というレンズの存在に気が付いていた。

 

 なんのことはない、慎太郎自身のコートのすそに引っ掛かっているのである。でもそうとは知らず、慎太郎は一生懸命になって地面に視線を落とし続けているのである。


 あかりはなぜか気持ちがとてもうれしくなって、一緒に探すふりを続けながら慎太郎に寄り添い続けていた。



 バスはなかなか来ない。

 雪の為にダイヤが乱れているのかもしれない。

 

 でも、このままずっと来なければいいのに、とあかりは思い始めている。


 心の中に慎太郎のこれまでの姿が次々と思い出されてくる。


 いつも自分の後ろをくっついて歩いていた慎太郎、さんざんいじめられて情けない笑みを浮かべていた慎太郎、そして一転、強く逞しく成長した慎太郎。


 ろくに話すこともなくなってしまったけれど、慎太郎のことはいつも心のどこかに存在し続けていたのかもしれない。


 あかりはまるで運命の人と今初めて出会ったかのように慎太郎の横顔をみつめ、気持ちが昂ってくるのを感じていた。



 遠くから、バスのチェーンがアスファルトを打ち鳴らすのが聞こえてきた。


 あかりはそこで初めて気付いたようなそぶりで、コートのすそにコンタクトレンズが付いていることを慎太郎に伝えた。


 慎太郎は照れ笑いをしながら本当だと言い、バスに間に合ってよかったと言いながら、コンタクトレンズをケースにしまって立ち上がった。

 傘の上に積もっていた雪がドサドサと落ちた。


 バスが到着し、乗降口が開いた。


 慎太郎は傘を閉じて、あかりにお礼を繰り返しながらバスに乗り込んだ。


 あかりは黙ったまま、ニコリとほほ笑んだ。


 扉が閉まり、バスは再びチェーンを路上にたたきつけながら、あかりの前を走り去っていった。


 バスが角の信号を曲がって見えなくなるまで、あかりはいつまでもその後部を見送り続けていた。



 それからまた日常が戻り、二人はやはり距離の遠く離れた二人のままとなった。


 時折、すれ違いざまに目が合うことがあっても、お互い一言も口をきくこともなく、高校三年間が終わった。


 高校を卒業すると、あかりは都内の短大に進み、慎太郎は予備校で浪人生活が始まり、お互い一切顔を合わすことがなくなった。



 だが、運命の力はあらゆる物理的、社会的条件をたやすく突破する。


 慎太郎が社会人になって3年目に、二人は偶然、外商先で思わぬ再開を果たすことになる。


 それからさらに2年の後に、二人は生涯の伴侶としてお互いを迎え入れることになるのであった。


 あの雪の日の情景は、二人にとってのかけがえのない美しい思い出として、その息子たち、孫たちまで代々語り継がれてゆくことになった。



《沈黙に積雪》おわり

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沈黙に積雪 けんこや @kencoya

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