酔いどれボタン鍋

真朱マロ

第1話 酔いどれボタン鍋

「珍しいボタンが手に入ったんよ、帰ってきんしゃい」


 梅雨明けのムワリとした空気の中に響いた、なまりのある祖母の声。

 久しぶりの声は電話越しでも胸の扉を叩いて、チカリ、と頭の中で何かが閃いた。

 強くも硬くもない、どちらかといえばやわらかくフワフワした祖母の声が、今の行き詰った壁を打ち壊してくれそうな気がして、その声に誘われたように休暇を取った。


 珍しいボタン、という言葉も良かったのだと思う。

 ファッションデザイナーとして採用された私は、次の企画の目玉に悩んでいた。

 だから、祖母の声を聞いた瞬間に、幼いころからなじみのある木彫りを思い出したのだ。

 

 私の故郷は木工の里として有名なのだ。

 冬物の提案に木彫りのボタンは魅力だ。

 量産は出来ないけれど限定販売品のアクセントとして、職人の手彫り細工は大きな売りになるだろう。

 問題があるとすれば、現役の木彫り職人である父親に勘当されていることだが、私には祖母の伝手がある。


 そして私は、祖母の「帰ってきんしゃい」の声に誘われるまま、週末に新幹線へ飛び乗っていたのだった。

 新幹線を降りて、各駅停車に揺られ、故郷にたどり着く。

 そこそこ雪の降るこの土地は、梅雨の名残を感じる今時期は湿度が高い。

 爽やかさが欠片もない空気も、街だと不快極まりなかっただろうけれど、懐かしい景色の中では「こんなものだ」と思う自分がいた。


 何年振りだろう?

 勢いで行動したものの、父に勘当されて以来の帰省になる。

 う~んと記憶を巡らせかけて、すぐにやめた。

 ガムシャラな新人時代はとっくに終わり、後輩もそれなりに出来た。

 今はもう、あの頃の無鉄砲なお嬢さんではない。


 それでも、辿る道は覚えている。

 ちょこちょこと小さく変わっている景色もあるけれど、ただ懐かしかった。


 慣れた道を少しそれたのは、実家を避けるためだ。

 勘当された事実があるので、やっぱり気にして遠回りしてしまう。

 行くのは祖母の家だから、実家を素通りにする後ろめたさはあるものの、ケンカ覚悟で乗り込む勇気もないのだ。

 本当なら、こうして帰省することそのものが親不幸かもしれないけれど。

 そんなことよりも、お目当てのボタンである。


 だけど祖母の家にたどりつき引き戸を開けたとたん、自分の思い違いに気付いた。

 酒と味噌の美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐってくる。

 ほのかにニンニクの匂いもするから、これは間違いなくボタン鍋で、ボタン違いだ。

 初夏の蒸し暑い時期に、グツグツ煮込むボタン鍋を用意するなんて正気を疑うけれど、実家では暑気払いに食べることが多かった。

 そして、鍋は大勢でつつくものだという認識がある祖母であるから、嫌な予感しかしない。

 ちょっと逃げたい気分でいたけれど、「遅かったんね」と奥から出てきた祖母の手には太いネギがある。


「ばあちゃん、ボタンってボタン鍋?」

 わかりきったことだけど、とりあえず確認すると、祖母は「他に何があるね?」と笑った。

「氷室開きやったんよ。ついでに冷凍庫にあった猪肉も片付けしよっと。皆待っとるけぇ。はよ、手を洗いんしゃい」

 当たり前の調子でサラッと言って、再び奥に消えた祖母の背に、私は恨みがましい目を向ける。


 やられた。

 とはいえ「サヨナラ」などと、すぐ帰るわけにはいかない。

 家族そろってのボタン鍋には用はないが、勘違いしたのは私だ。

 家の奥に向かうと、複数人の声も響いてくるから、柄にもなく緊張しそうだった。

 

 勘当されてから一度も会っていない。

 もっといえば、電話連絡すらしていない実家の面々にいきなりご対面することになってしまった。


 家族に会うだけなのに、このいたたまれなさはどうしてだろう?

 ため息をつきながら覚悟を決めて中に入ると、想定通りに母や弟たちがいた。

 顔を合わせるのも、私がデザイン学校に入学したくて家を飛び出して以来だから、本当に久しぶりだ。

 かける言葉に迷うし、何年ぶりだろう? なんて考える暇もなく、上座に座らされる。


 気まずい。

 そして私が部屋に入ったとたん、黙りこむのはやめてほしい。

 私は祖母の勧めに従い席に着いたけれど、想定通り父の姿はない。


 たった一つだけ、ポカンと抜けた空席が、酷い啖呵を切って飛び出したあの日のことを思い出させた。

 お互いに言いたいことを言って、怒鳴り合った鋭さはそろって心を深く傷つけた。

 わかり合えるなんて都合の良い事は思わないけれど、座って静かに互いの胸の内を吐き出すぐらいは、してみたかったと思う。

 でも、火に油を注ぐ勢いで頭に血が上り、思ってもないことまで、相手を傷つけるためだけに口にした。

 若気の至りでしかない私の言葉は、父の大事にしていた部分を壊したのだと思う。

 だから居ないのは当たり前だけど、実際に空席を目にすると当たり前にするには重くてしかたない。

 にぎやかなのは食卓の真ん中で、グツグツと音をたてる土鍋だけだ。


 猪肉は野生の匂いと味がする。

 生姜で臭みを消すのが一般的だが、我が家ではそれにプラスして半分に切ったニンニクを軽くあぶりコロコロと入れていて、酒と味噌で煮込む。

 水は使わず大量の酒で煮込むので匂いだけで酔っ払いそうだが、それが我が家の酔いどれボタン鍋なので、言葉はなくても立ち上る蒸気にほわっと気持ちも緩んだ。


「ちょうど食べ頃やねぇ」

 ソワソワと腰が浮いて逃げたい気持ちは変わらないけれど、ちんまりと座った祖母が土鍋の蓋を取る。

 豊潤な酒の香りが部屋に満ちて、汗が噴き出した。

「ほらほら、みんな食べんしゃい」

 銘々皿に取り分けて配る祖母があんまり普通だから、肩からも力が抜けていく。

 誰からともなく顔を見合わせ、全員がふわふわと笑った。

 鍋があんまり熱いから、湿度の高い初夏の暑さも薄らいでいく。


「ほんま、ばあちゃんには敵わんなぁ」

 パクリと大きな口を開けて肉をほおばる。

 やわらかい。肉の甘みとともに、ニンニクの利いた味噌の風味が口の中に広がっていく。立派なネギも大きめの豆腐も、良く味が染みていた。

 急ぐ必要もないのに、ハフハフと箸が止まらない。


「美味しい!」

 思わずこぼれた言葉に、漂っていた気まずい空気も、完全に溶け落ちる。

「ほんまや、美味い」と笑いあいながら、弟たちは自分の事を話しだした。

 高校生だったはずの弟たちが就職を決めたと報告するので、かなり驚いた。

 当然なのに私の中では、弟たちはずっと高校生の顔をしていたので、タイムワープしてしまったみたいな不思議な気分だ。

 そうかそうかと話を聞いて、ほんで姉ちゃんは? と振られ、テヘヘと笑うしかない。


「今回はばあちゃんにしてやられたよ。冬物企画だからボタン鍋は景気付けにちょうどいいけどね」

 木彫りのボタンをポイントにしたコートやポンチョを提案しようと思っていた事を話すと、弟たちは顔を見合わせた。

「それなら、父ちゃんに頼めばいいのに」

 弟が「あの人、職人やん」と簡単に言うので、私は肩をすくめた。

「二度とうちの敷居をまたぐなって、大事にしてた湯呑み投げ壊した人やもん。洋装の話はするなゆぅて、火がついたように怒って、また泣くわ」


 柘植や桜で櫛を作る職人だから、和装にこだわるのもわかるんだけどね。とほんのり理解はしていた。

 それに、私が卒業する前から地元の会社の事務員として勤めてほしくて、いろんなところに頭を下げて、それなりのレールを作っていたのもわかっているけど。

 私の将来を、なぜ、父の理想だけで決められなければならないのか。


 ありがたいとは思わず、全力でイヤだと叫び良い子を辞めた。

 洋服デザイナーとしての私は、父の思い描いた「理想の娘」ではなかったのだろう。

 勘当されたままの身としては、娘とはいえ自分本位な頼みごとをしないだけの分別は持ち合わせていた。

 そんな話をすると、弟たちは困ったように黙った。


「父ちゃんとあんたのことはどーでもいいけど、母ちゃん忘れたら、どうしょーもなかね。ばあちゃんにしか連絡せんていかんよ」

 急に割り込んできた母が「さみしいわ」と言って、プッとむくれた。

 再び濁りかけた空気が、母の言葉で遠くに飛んでしまうほど、子供みたいな拗ねかたをしている。

 親子の断絶がどうでもいいんか? とあきれたところで、ガラリと玄関の引き戸が開く音がする。


 ドスドスと荒い足音が近づいてくる。

 もしかして、と思うよりも早く父が現れた。

 相変わらず、不機嫌そうな顔だ。

 ドカリと空いていた席に座り、目も合わさない。

 だけど、ホレ! とばかりに勢いよく、小箱を私に差し出してくるから、息を飲んだ。


 父はずっと無言だったけれど、その中身がなにか予感めいたものがあって、私は震える手で受け取った。

 そっと蓋を開けると、やわらかな彫りたての木の匂いがした。

 大小さまざまな花を模した手彫りのボタンが、箱の中であでやかに花開いている。


 中でも特に見事なのが大きな牡丹の花。

 素晴らしい、なんて一言で言うのが惜しいほど、美しい細工物。

 言葉もなく見入っていたら、横を向いたまま父が言った。


「変な気を回すんじゃねぇ。こんくらいいつでも作っちゃる。お前も職人の一人になるんやけ、半端な仕事をしたらわしが許さんぞ」

 そして思い切ったように顔を上げると、ヒタと私を見すえた。 

「いつでも帰ってこい。お前の部屋はそのままにしとる。待っとるけん」


 父は不器用に横を向いたけれど、私は胸が詰まってしまって言葉が出てこない。

 父の頭をなでながら「ええ子や」と見守っていた祖母が笑った。

 ヨシヨシとまるで幼い子供のような扱いだ。

 フン、と父は鼻を鳴らす。


「この歳になってまで、子供あつかいか」

「いくつになっても、お前の母ちゃんやけん」


 朗らかに笑う祖母につられたのか、ふてくされ気味だった父も声を出して笑いだす。

 それにつられたのか、ふふふと母が笑いはじめ、弟までコロコロと笑いだした。

 ぎこちなかった家族の時間が、ゆるゆると溶けていく。


「凍った肉も、溶かして煮込めば、とろけるやろぅ?」

 ちょいちょいと灰汁をすくいながら祖母がつぶやく。

「ええんよ。昔のことは、許しても許さんでも。こん先も、鍋でもつついて仲直りしたらええ。じいちゃんとばあちゃんも、さんざん酔っ払いの戯言にしたてきたわぁ」

「そうなんか?」

「じいちゃんはおまえよりも捻くれ者やったけぇ、水を差さずに酒で満たして酔っ払いの戯言に変えたんよ」


 コロコロと笑う祖母に、父はキョトンと目を丸くした。

 ふぅんと興味深く聞きながら私たちも、我が家の猪肉が酒だけで煮込む意外な理由を知ってしまった。

 そして祖母は、武勇伝になりそうな祖父ゆかりの思い出話を披露する。

 父が結婚する前に祖父は亡くなっているので、私たちは興味深くその話に耳を澄ませた。

 わりと酷い頑固一徹のこじれ具合に私達は驚いたが、父は覚えがあるのか「へぇ」と相槌を打つだけだった。


「そん時は、腹が立って腹が立って、別れるって何度ゆぅたかわからん」

「そーか」

「そーよ」

「そいでも、添い遂げたんな」

「そーよ。あんたらより、激しゅうやりあげたわ。そいでも添えたんは酔いどれボタン鍋のおかげや」


 それからは特に深い話も思い出話もせずに、私たちは熱い猪肉をほおばった。

 立ち上る酒の匂いで、本当に酔っていたのかもしれない。


「つまらん意地は、酔っ払いの戯言にすればええんよ」


 ポトント落ちた、祖母の何気ない言葉が胸に落ちた。

 それからは、近況を軽く教え合うだけで、なんだか酔っぱらいの戯言みたいだ。

 私の中にあった、勘当されてから今日までの、変なわだかたまりも溶けていく気がした。

 

 鍋の沸き立つ熱さに、初夏の暑さもいつしか忘れていく。

 酒と味噌で煮込んだやわらかなボタン鍋は、私たち家族のスタートボタンなのかもしれない。



【 終わり 】

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