第7話 第38回有馬記念(G1)
トウカイテイオーの休養は長引いた。引退して種牡馬になるという噂も流れたが、どうやら復帰が確定したようだ。復帰の舞台は暮れのグランプリ有馬記念。1年ぶり、いや364日ぶりの復帰戦となる。
1年か…長いな。俺にもこの1年、本当にいろいろなことが起きた。
春から彼女は看護学生となり寮生活になった。それまでは同じ地下鉄沿線に住みデートがしやすかったのだが、隣の県に引っ越してしまった。彼女の寮は電車を使うと3、4回乗り換えて軽く2時間はかかる。車でもたっぷり1時間以上かかることもあり、デートの回数は減った。元より看護学生は忙しいし。
デートが減ったために俺が趣味の競馬に集中していた頃、彼女も新たな趣味を始めだした。身長158㎝体重45㎏にも満たない華奢な彼女は、馬は馬でも「鉄の馬」であるバイクを乗り始めた。しかもモトクロス。人口で作った山をジャンプしたり、泥だらけになるヤツだ。確か彼女はスポーツ歴ほぼゼロだったはず。漫画を描いていた腐女子なのだ。どういう心境でモトクロスを始めたのかはわからなかった。
夏の終わりに彼女がケガをした。モトクロスの練習中、ジャンプの着地に失敗して骨折したのだ。案の定というか何というか。退院後のデートで、彼女の方から別れ話を切り出された。しばらく考える時間が欲しくて、冷却時間を置くことにした。しかし12月に入ってすぐ、彼女とは正式に別れてしまった。
我が世の春は終わりを告げた。原因はいろいろあったのだろうが、一言で言えば「俺が優しくなかった」のだ。何よりも彼女を一番に考えてやれなかった。わがままだったのは、俺の方だった。
代わりと言うには憚られるが、ちょうど別れ話の後、秋に入ってすぐにJRAによる在宅投票システム「PAT方式」が当選した。もうWINSまで行って馬券を買わなくても、自宅で馬券が買えるようになったのである。専用端末もしくは専用ソフトを購入して利用するのだが、当時パソコンを持っていなかった俺の端末はファミコン。なんとファミコンで馬券を買うのだ。テレビに映る画面は、荒いドットで描かれたチャチな文字と数字。まったくお金を賭けている感覚がない。
最初の1ヵ月は酷い有様だった。月曜日が決済になるために、銀行でお金の出し入れができるのは火曜日から金曜日。PATが手に入った当初は銀行に行くのがめんどくさいので、1ヵ月分の予算を入金していたが2週間で底をついた。余計なレースに深く考えずに突っ込んでしまったり、金額を押し間違えたこともあった。券売機の馬券と違って、PATの買い間違いは払い戻しができない。環境が変わったせいか、ギリギリまで買い目を考えてしまったせいか、たまたま運が悪かったのか、理由は定かではないがとにかく外しまくった。
彼女と会わなくなり、俺は競馬に没頭していった。毎週月曜日に駅の売店でのみ販売している「競馬ブック」を買い、週末の出走馬の情報をチェックするのが習慣となった。秋に創刊された「週刊Gallop」も買いはじめた俺は生活がほぼ競馬一色となり、休日は一歩も外に出ないようになった。
彼女と別れ、世間のクリスマスムードをガン無視して迎えた有馬記念。現役最強と目されていたメジロマックイーンは故障で引退してしまったが、出走14頭のうち8頭がG1馬という豪華な顔ぶれとなった。
主役はビワハヤヒデ。菊花賞を勝ったばかりの4歳馬で鞍上は岡部幸雄騎手。ここまで10戦して6勝2着4回と、パーフェクト連対を誇る現役最強に近い馬だ。
対抗に直前のジャパンカップを勝った、勢いのある騙馬の5歳レガシーワールド。前年の有馬記念と宝塚記念を勝っているメジロパーマー。メジロマックイーンと同い年同じ馬主ということで、マックイーンの代替として注目されている。競馬では抽選滑り込みの馬とか、代替の馬が連対に絡むことはよくあることだからだ。
さらにメジロマックイーンの春の天皇賞3連覇を阻止した、前年の菊花賞馬ライスシャワー。ダービーでビワハヤヒデを競り負かせ、鞍上の柴田政人ジョッキーに悲願のダービーを獲らせた4歳馬ウイニングチケット。桜花賞、オークスの二冠を制し、三冠目のエリザベス女王杯も3着と健闘した4歳牝馬ベガ。前年の朝日杯3歳ステークスでビワハヤヒデをハナ差で退け、前年の3歳チャンピオンになった〇外4歳のエルウェーウィン。以上のG1ウィナーの他にも前年の有馬記念3着で「ブロンズコレクター」の異名をとる5歳馬ナイスネイチャ、毎日王冠と秋の天皇賞2着の5歳馬セキテイリュウオー、古豪7歳馬ホワイトストーンと役者が揃う。
トウカイテイオーは単勝4番人気となっているが、複勝は8番人気と相変わらずの過剰人気だった。未だかつて1年ぶりの出走でG1を勝った馬など皆無。鞍上は前年の有馬記念を11着した時と同じ田原成貴騎手。割り引いて考えるのは当然だろう。彼女と別れた俺に「競馬はロマン」などという甘い考えはない。
世間のムードは混戦一色。中には「本命不在」とまで言い切っている記者もいた。まあトウカイテイオーも含めG1馬が8頭もいるのだから、絞り切れないのも仕方がない。ここ数年の有馬記念は荒れていたからだ。3年前のオグリキャップの時も馬券的には固かったが、オグリキャップは1番人気ではなかったのだから「荒れた」と言ってもいいだろう。
しかし俺の本線は何日も前から決まっていた。軸はビワハヤヒデ。ただしビワハヤヒデが勝つのではない。2着だ。理由は簡単で、ビワハヤヒデの過去の成績を重視した結果だ。ビワハヤヒデは朝日杯3歳S、皐月賞、ダービーとG1で2着していた。「馬が若かったせい」と言う記者もいるが、俺は関西馬のビワハヤヒデは東への遠征が苦手だと読んだのだ。しかしそれでも2着には絶対に来るはず。ならば勝つのはどの馬だろうか?
俺には有馬記念のゴール前の映像が、脳裏に鮮やかに描かれている。4コーナーから直線にかかるところでビワハヤヒデが抜け出す。そこへ外から何かの馬がビワハヤヒデと並びかけ、残り2ハロンで2頭の叩き合いで外の馬が勝つ。未来のことなのに、はっきりと映像になっていた。ここまで鮮明に未来のレースのゴール前を予想できたことは今までなかったのだが、何かが降りてきたようにこの時だけはわかっていた。しかし勝つのがどの馬かがわからない。G1勝ち馬だけでもビワハヤヒデの他に7頭もいるのだから。
順調ならば、あるいは全盛期だったらトウカイテイオーで間違いない。しかし1年ぶりでG1を勝てるほど、競馬は甘くない。俺は買い目が決まらないまま、有馬記念のテレビ中継を見ることにした。
WINSの券売機に並んでいた頃は、午前ですでに馬券は買っていた。それでも券売機の前には大勢の人が並び、混雑は激しかった。当時は馬券を買うだけで、どっと疲れたものだ。今の俺は自分の部屋でテレビを見ながら、まだ買い目を決めかねている。ファミコンの電源を入れたまま、テレビの解説に耳を傾けていた。PAT
俺の関心はトウカイテイオーだけ。トウカイテイオーの取捨だけが、俺の中で決めかねていた。
パドックが終わり、本場馬入場から返し馬。何となく良さげ。ここで解説の大川慶次郎氏のコメントが流れる。「さっきね、返し馬の時にね。特にトウカイテイオーがいいとか悪いとかじゃなくてね。馬がすごく嬉しそうでしたね。芝を走ることがね…」
キターーーーーーッ!!!
間違いない。トウカイテイオーは100%勝つ。いや、120%と言ってもいい。去年の有馬記念の様にはならない。「勝ってほしい」ではなく「絶対に勝つ」と言う確信があった。テレビに映るトウカイテイオーから躍動感が伝わってくるのだ。
トウカイテイオーの単勝にする必要もない。2着もビワハヤヒデで間違いないのだから。トウカイテイオー→ビワハヤヒデの1点勝負。当時馬単が発売されていたら、間違いなく馬単1点で勝負しただろう。競馬人生で後にも先にもここまで自信を持ったレースはない。不安は一つもなかった。
有馬記念の予算は1万円。さらにPATに残っている全財産をもつぎ込もうと残金を確認する。「10,300円」…予算以外に300円しか残ってなかったのかよ!!俺のバカバカ。5万だろうが10万だろうが、有り金全部つぎ込むつもりだったのに。
ないものは仕方がない。気を取り直して俺はファミコンの十字キーを操作して画面の中山9R馬連4━13と10,300円を入力し、ファミコンのAボタンを迷うことなくポチった。
第38回有馬記念(G1) 1993年12月26日 5回中山8日目9R 4歳以上オープン 14頭(芝右2500m / 天候 : 晴 / 芝 : 良)結果
1着 3枠 4番 トウカイテイオー 田原成貴騎手 2:30.9 ━ 4人気
2着 8枠 13番 ビワハヤヒデ 岡部幸雄騎手 2:31.0 1/2馬身 1人気
3着 7枠 12番 ナイスネイチャ 松永昌博騎手 2:31.6 3.1/2馬身 10人気
払い戻し
単勝 4番 940円 4人気
複勝 4番 470円 8人気
13番 140円 1人気
12番 450円 7人気
枠連 3‐8 960円 4人気
馬連 4‐13 3,290円 11人気
━ 完 ━
俺のトウカイテイオー物語 高戸 賢二 @tomo52
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