風穴を埋める熱量の在り処
北溜
88 Soichiro
―――ぽっかりと、穴が開く。
息継ぎをしないまま生きてきた僕にとって、そんな体感は、これまでに経験した事がなかった。し得なかった。何故なら世に起こる事象の全ては、僕の中に生じるパッションの源泉で、僕の中で僕の叡智の糧となり、言論と言う名の、世に突き刺す銃創として、刺した後に駄目押すように発射される銃弾として変換され、時に激しく疎まれつつも、アウトプットされ続けてきたのだから。
それが、この醜態だ。体たらくだ。
―――ある男が、死んだ。
その事象が、例外的に僕を揺るがす。
虚無。
失望。
遺失感。
たかだか一人の男の死を目の当たりにして、ここまで腑抜けてしまう自分に、正直なところ、自身で驚愕している。
似たような事が、無くはなかった。
例えば、思えばその男が原因で交流の絶えてしまった、僕と同じように戦争を実体験として知る古い知人が逝った時、強烈な寂しさと物足りなさが、僕に降りかかってきた。もっと、ちゃんと、話がしたかった。ジャーナリストとしての矜持などと言う、突き詰めればただの保身でしかない虚勢を張り続けて、絶えた関係を修復出来ず、心の芯の部分では繋がっていたであろうその知人の想いの全てを、引き出す事ができないままに、失った。それを悔いた。心底悔いた。
が、それでも、だ。
その時にここまでの遺失感を抱くことは無かったし、そもそも僕のアイデンティティの命綱でもある、好奇心という名の熱の塊が霞む事など、微塵もなかったのだ。
今、直面している、その男の死という現実は、そこから生じるこの僕の中の揺らぎは、確実に僕の好奇心を蝕んでいる。くすませている。
とは言え今のこの心情を、理解できなくはない。
それは、大袈裟ではなくその男の存在が、今の僕という人間性を象る様々なものの、根幹にある、出立点にある、という事実、恐らくはその事実が、この揺らぎの根源だ。
そうなのだ。
僕の心は一度、その男に殺されている。
その男は過去、僕の作家になろうという志を、いとも容易く捻り潰した。僕という人間を知らないままに、小さな書店の片隅で、僕の胸を抉り、僕の志に止めを刺した。才能と言うものは時に凶器となって、何の容赦も躊躇も、意志や意図すらもなく、慈悲などと呼ばれるものの最も遠く離れた場所から、人を傷つけるのだと知った。
それでも僕は、字に縋った。未練がましく綴ることに縋った。みっともなかった。女々しかった。そんなことはわかっていた。痛感していた。でも、どうしても捨てられなかった。だから足掻いた。必死だった。そして、僕は気づいたのだ。
創作物に潜ませて、僕が世に知らしめたかった事の本質。
そもそもその本質を、何かに“潜ませる”必要など、あるのか。
否、だ。
戦中から戦後の原体験が生んだ僕のイデオロギーの土台。その、僕の胸の中にずっと
そう。ジャーナリズムだ。
その諦観こそが今の僕の原点で、その思考に至らせたのは、間違いなくその男だ。その男は、言葉で僕を殺すと同時に、僕を甦らせもしたのだ。
そんな男の、死。
僕という存在の、核の部分の遺失。
床が抜けて落下していくような、このネガティブな浮遊感の発祥はきっと、その死にある。
◆◇◆
「先生」
背中に僕を呼び止める声がぶつかる。
僕は普段、そんなふうにはあまり呼ばれない。が、僕を必ずそう呼ぶ男を知っていた。そしてその声色は、まさに彼のものだった。
「だから、その呼び方はやめてくれって言ってるだろう。先生という呼称で、一般的に最も想起される職業が嫌いだって、前から何度も言ってるじゃない」
振り向きながらそう返すと、彼は柔らかく、どこか無邪気な笑顔で「そうでしたね、すみません、先生」と言う。そもそも彼には、僕に対するその呼称をやめる気などないのだ。
某テレビ局の廊下。
僕が司会を勤める番組の、次回のテーマを決める会議に参加して、帰路につくところだった。
声をかけてきた彼は以前、その番組のディレクターのひとりだった。まだ若かったが、頭の切れる男だった。なので必然的に相応の業績を残して、若くしてそのテレビ局の、長寿で看板的な歌番組を製作する組織へと引き抜かれた。以来、無沙汰が続いていて、久しぶりの対面だった。
「そっちはどうなの? うまくやってるの?」
久しぶりだったからどこか少し照れがあって、そんな有り体な事を訊いてしまう。らしくないな、と思う。これも僕が、死んでしまったあの男のせいで、沈んでしまっているからなのだろうか。
「なんか、先生ぽくない、有り体な問いかけですね」
見透かすように彼は言う。切れる男なのだ、本当に。
「で、ちょっとご相談なんですけどね」
そして不意に、どこか意味深に笑みを消して深刻そうな表情を浮かべると、彼はそう言った。なるほど、偶然鉢合わせたのではなく、待ち伏せされていたのだと気づく。
「実はちょっと先生に、諭して欲しい人間がいるんですよ」
諭して、という言葉に、あえて、とはいえさりげなく、アクセントを置く言い方をする。何が僕の行動原理を刺激するのか知っていて、そう言う事がさらりとできる、器用で、あざとい男だ。
「諭すって、誰を? 何を?」
訪ねると彼は、挑発するように唇の片端をつり上げた。
「先生って、そういう前提条件みたいなの、気にする人でしたっけ?」
「つまり何も聞かずに首を縦に触れ、と」
「何者かを諭すって、それだけで、先生は昂る人だと思ってるだけですよ」
やはり、見透かされている。癪だがその通りだ。例え今、あの男のせいで腑抜けてしまっているとは言え、僕は僕のその、本能にも似た性分に逆らえない。そして逆らえないことを知っていて、こういう吹っ掛け方をする彼のずるさを、ほんの少し、呪った。僕は躊躇いながらも、首を縦に振る。
「じゃあ、こっちです」
僕の返事を受けると彼は再び柔らかく笑んで、廊下の先へと僕を先導しながら、事の顛末を説明し始めた。
「相手は今夜、ボクの番組に出演する19歳の女の子なんですけどね、こっちの演出が気に入らないって、聞かないんですよ」
「随分若いな。アイドルかなにか?」
「それなら楽だったんですけどね。良くも悪くも彼女たちは事務所の奴隷ですから。ボクらが事務所にちょっと圧をかければ何でも言うこと聞きますし」
さらりと、無慈悲な事を言う。そんな冷酷さを躊躇無くさらけ出せる豪胆さも、この業界に限って言えば、優秀さのひとつではある。
「だったら出演させなきゃいいじゃない。番組の尺なんて、どうとでも調整できるでしょ? 君なら」
そんなにシンプルな事ではないと、なんとなく想像できてはいた。だから彼は、僕を待ち伏せてまで巻き込もうとしているのだ。が、それでもそんな、逃げ口上のような言葉が無意識に口を突く。やはり今の僕は、どこか思考的に愚鈍だ。死んだあの男の影が、脳裏にちらつく。
「その子、例の動画サイトで今、すごい勢いなんです。まあそれで、今回の出演オファーを出したんですけど、彼女の出演を予告で流したら、彼女のファンからテレビに露出するな、しろって、賛否両論噴出して、炎上してまして。この状態で今さら出さない、なんて事できないんです。テレビ人として」
大仰な困惑を浮かべて、彼は言う。そこに胡散臭さを感じる。何か、言葉に発していることとは別の、彼の真意が見え隠れする。
「で、どんな音楽をする子なの? 彼女は」
それを探るように、とはいえ直接的では面白くないから、遠回しな質問をぶつけてみる。
「まあいわゆる、パンクってやつですね」
「そういうジャンルの連中は、良くも悪くも自我が強いから、折れないでしょ。その、こっちの演出ってのを、だったら諦めた方がいいんじゃないの? 何をやらそうとしたの?」
「口パクです」
さらりと彼は言う。さらりと言うが、そこまで単純なことではないんじゃかな、と僕は思い巡らす。
口パクという演出法を、否定するつもりはない。が、本気で表現というものを、それこそ命を賭してまで体現しようとする人種は、それを激しく嫌悪する。個人的な見解ながら、いわゆるパンクと称される表現手法を好む人間たちは、
「その彼女に、歌わせるのはそんなに駄目なの? こっちが折れるしかないんじゃないの?」
彼は、それが判っていてそうはいかない、と目で語りながら苦笑を浮かべる。
「まだ若いってのと、パンクってジャンルの特徴的なものもあって、パフォーマンスにかなり
言って彼は、溜め息を吐く。やはりどこか、胡散臭さが漂っている。
「僕をこれに絡ませることで、なんか、企んでる?」
僕は焦れて、直接的に聞いてしまう。すると彼はまた、挑むように笑んで見せた。
「やっぱり、先生にも難しそうですかね?」
この男は、という念を込めて彼を睨んだ。
難しいと断定したことを、覆す。つまり挑戦だ。それはこれまで僕が僕という存在を肯定してきたメソッドに他ならない。彼はそれをよく知っていて、あえて僕がその彼女を諭すという状況から、逃げられないように仕向けている。
ただ、僕もある意味、単純な人間だ。
彼のその挑発に乗せられて、あの男の死で燻っていたはずの僕の好奇心が、ふつふつと沸き立ち始めた。
「ここです。どうします?」
たどり着いた楽屋のドアの前で、彼が訪ねてくる。
答える代わりに僕は、ドアノブに手を掛けた。
◆◇◆
彼女は、金髪で目鼻立ちのメリハリが強い、どこか日本人場馴れした顔つきをしていた。とはいえ仄かに、アジア人特有の造形も携えている。恐らくは、欧米人との混血なのであろう。
楽屋の、畳敷きになった小上がりの一番奥で、気だるそうに壁に寄りかかって、彼女は、部屋に入ってきた僕と彼を乾いたまなざしで見つめていた。
「自分で口説き落とせないからって、助っ人つれてきたの?」
彼女は言った。その声色に、乾いてはいるけれど、どこか挑んでくるような熱を感じた。そんな不遜で挑発的な姿勢が、むしろ胸を疼かせる。
「この人のこと、知らない?」
彼が尋ねると、彼女は横に首を横に振る。面倒そうに、小さく。
僕は思う。その方がいい。僕を知っていることで生じる先入観で、歪なバイアスのかかった論議を展開せずに済む。
「この人は・・・」
だから僕は、僕の素性を明かそうとする彼を制して、論戦の口火を切った。
「君は何を目的に、音楽をやってるの?」
わざとらしく、少し諭すような口調で尋ねた。
まずは彼女の、人となりを探ってみたかった。
こういう、僕のような世代が、彼女のような世代の行動原理を探るような質問は、お前らに判るはずがない、というお決まりの保身的なスタンスで、僕らの世代ごと、大抵の場合は拒絶される。それを判っていて、敢えて訊いた。彼女もそんなありふれた若者なのか、確認してみる意図があった。
「ここに沸き上がってくるものを、吐き出すため、かな」
でも、なのか、期待通り、なのか、彼女は違った。
真っ直ぐにそう答えた。
寄りかかっていた壁から背を浮かせ、胡座を組んで、僕をじっと見据え、「ここ」という言葉に胸に手をあてる仕草を添えて、彼女は微塵もたじろがずに僕を見た。
凛としていた。
畏怖も媚も自棄も無かった。
純粋な潔さだけが、そこにあった。
面白い。
興味を激しく刺激された。
だから僕は、彼女の前に腰を下ろし、向かい合って同じように胡座をかいた。腰を据えた。
「だとしたらその君の大切なものを、こんな俗物的な番組に出て、汚すこともないんじゃないの? テレビってのは観る側を選べない。囲いの中で君のファンだけに向けて表現するのとは訳が違うんだ。テレビというスコープの中で、君の表現を観る側が受け入れなかった時、どんなことが起こると思う?」
僕の問いを受けて、彼女は少し思案するように左上にまなざしを向け、もう一度それを僕に戻してから「苦情がくる、とか?」と返した。僕は首を横に振る。
「無反応だよ。存在しないものとして扱われるんだ。それが表現者にとっては一番怖いし、辛い」
そのリアクションを受け止める覚悟はあるか。僕は暗に、僕のまなざしにその問いを込めて彼女を見た。彼女はそれを跳ね返すように、ほくそ笑む。
「そう言う怖さって、むしろ刺激的で、いいじゃん」
僕を見据える彼女の目が、ぎらつきを増す。
彼女はそのリスクを、覚悟するまでもないとでも言うように、既に全部飲み込んでしまっているのだ。少し甘く見た。彼女の中にあるのは、ありふれた底の浅い人間性じゃない。それでも、僕も引き下がれない。
「なるほど。じゃあひとつ確認なんだけど、大前提として、君は君の表現を通して、観る側に受け入れて欲しいと思ってるか?」
「当たり前」間髪入れず、彼女は返す。「だからアタシは今ここにいる」
「それなら君は尚更、彼の言うことを聞いた方がいい。彼が君に課そうとしている演出は、君の表現が最も多くの人の称賛を得るための手段なんだ」
「もしかして、口パクのことを言ってる?」
「そうだ」
「論外。ありえない」
「何故?」
「逆に聞くけどさ、なんでそんなに口パクに拘んの?」
「君が未熟だからだ。彼がいうには、君のパフォーマンスには
僕の言葉に、彼女の瞳のぎらつきが、鋭さを増す。静かに、小さく息を吐いてから、少し怒気の籠った声色で、彼女は言った。
「プロとかアマとか、あんたら大人の卑屈な世界観を押し付けんなよ」
まなざしで、僕を刺す。
「でも君は、その大人の価値観の世界に踏み込もうとしてるんだろう? この番組が正にそうだ。表現をマネタイズして、稼ぐ。大人の価値観だ。世界観だ。そこには投資が返ってこないってリスクがあって、それを回避するのが彼のミッションだ。だどすると、その彼の土俵で相撲を取ろうとしているのに、彼の手法に従わない君の主張は、ただのエゴだ」
僕も負けじと、論で押し返す。彼女も怯まない。
「エゴを蔑ろにして何が表現だよ。表現ってのはもっと自由だ。プロとかアマとかコミットとか何とか、そんなハリボテの虚勢の檻の外側にあるべきもんだなんだよ」
「それで、無反応と言う拒絶を突きつけられたら、どうするの?」
「そうなったら、それでいいじゃん。取り繕って着飾ったニセモノのアタシを受け入れるほど、アタシはアタシに対して、残酷になれないってだけ」
残酷、という言葉の響きに、僅かに湿り気が潜む。彼女の顔に、少しだけ、陰が落ちる。でも僕は、容赦しない。
「なぜそれが、残酷なの? 表現なんて突き詰めれば、本質は承認欲求でしょ? 彼はそれを世間に認めさせるプロで、彼の手法に乗っかれば、承認される可能性はぐっと上がる。それでいいじゃない。だってそれが表現の本質的な目的なんだから」
「違う」きっぱりと、彼女は言い切った。それだけは認めないという圧が、言葉に宿る。「アタシ自身で腹落ちできてないハリボテのアタシが受ける称賛なんて、裏を返せばリアルなアタシの否定でしかないじゃん。やっぱりそれは、残酷だよ」
リアル、という単語が胸に引っ掛かる。
彼女の言には、確かに理があった。それは表現者の当たり前の本能だ。だからそれ自体を否定するなどという烏滸がましい事はできない。とは言え社会は、それを在るがままに受け入れるほど、単純ではない事も、また真理だ。
「ただこれはね、ビジネスの話でもある。責められるのは彼なんだ。彼の手法を拒否して失敗した時、彼はプロとして、その責任を追わなきゃなんない。君が責められることはない。彼だけが責められる。そこに罪悪感はないの?」
「大丈夫」腹の据わった声で、彼女は言う。「アタシの声は絶対に届く。そうやってアタシがアタシを信じなくて、何が表現だよ。絶対に届かすから、あんたたちは、ふんぞり返ってアタシにベットしときゃいい」
「でも、もし失敗したら?」
「そん時は、一緒に地獄に落ちればいい」
言って、彼女は笑った。
不思議な笑みに、僕は思わずフリーズした。
それまでの論議がまるで存在しなかったかのような、微塵の怒気も反抗心も拒絶心も孕まない笑み。
言葉の意味するところとは裏腹に、その笑みは、赤ん坊のように無垢だった。とてつもなく純粋だった。一抹の汚れすらなかった。そしてどこか、既視感もある。得体の知れない懐かしさを感じる。僕は、その彼女の笑みに気圧されていた。言葉が継げなかった。目に見えない何かが、僕を金縛った。
「アタシにとってアタシの中にあるこの、アタシというリアリティは、アタシの命そのものなんだ。だからこれが打ち砕かれたなら、死んだっていい。そう言う覚悟の上にたって、アタシは表現してる。だからアタシを使うなら、アンタらも覚悟しろってこと」
リアリティ。
その言葉が、僕の胸を抉る。
思わず、天井を仰いだ。
胸が熱くなった。
そうだ。そうなのだ。
彼女は、あの男と同じだ。
それが彼女の笑みの、既視感の正体だ。
―――情けない対米従属を辞め、憲法を改正し、軍隊を持って自立するべき。
あの男が初めて参院選に勝った時、僕と対談したあの男はそう言った。僕は真っ向から、リアリティがないとその主張を否定し、大喧嘩になった。当たり前だ。当時、戦後の日本の歴代の首相達は、それに連なる全ての政治家達は、安全保障の全てを米国に委ね、その神話を信じて疑っていなかったのだ。かく言う僕も、疑わなかった。それが常識だった。通説だった。だから、自立などと全くリアリティを感じない、とあの男に向かって僕は叫んだ。
あの男は揺るがなかった。譲らなかった。まっすぐに僕を睨み、淀みのない挑発するようなまなざしを向けて、あらゆる論説を僕にぶつけた。あの男にとってその主張は、彼の存在を象るまさに命綱で、揺るぎないリアリティでもあったのだ。
そして今、僕は実感している。思い知らされている。
近々の歴代米国首相が連なって、世界の警察を辞める、米国第一、と宣言し、更には東欧で起こった危機が、それまでの神話に止めを刺して、あの男が主張してきたリアリティは、多くの人が信じるリアリティに、変わりつつある。
それと、本質は同じなのだ。
彼女の口にする、誰がどう反論しようとも揺るがない、彼女が彼女である事を証明する彼女の中のリアリティは、あの男があの男たりえる為に主張したリアリティと、同質の熱量を伴っている。
今、それが、その熱が、僕の中にどっと雪崩れ込んでくる。ぽっかりと空いていた僕の胸の中の穴をあっという間に埋めて、溢れて、流れ出す。
「ちょっと、どうしたんだよ、じいちゃん」
ふと彼女に声をかけられ、我に返った。
その時ようやく、頬が濡れていることに気づいた。
思わず、可笑しくなった。
「参った。僕の負け」
言って頬を拭い、思いきり笑った。久しぶりに、心の底から笑った。どこか、清々しさがあった。
「ホントに、だいじょうぶ?」
怪訝そうに僕を見る彼女に、だいじょうぶだいじょうぶ、と返す。
「これはね、もう僕の敗けだ。とりあえず、やりたいようにやりなさい。彼の代わりに僕が全部、責任を持つから」
彼女はどこか少し困ったような顔をして、僕と彼を交互に見る。
「もしかしてじいちゃんって、この局の偉い人、とか?」
「違う違う。僕は部外者。でも僕が暴れるって言うと困る人がいっぱいいるから、そうやって脅すと大概どうにかなっちゃうの。ねえ」
言いながら彼を振り返ると、「そうですね、ボクがまずもって困りますねえ」と返し、なんだか嬉しそうに、彼は笑った。
◆◇◆
「そもそも君は、彼女に口パクやらせる気なんて、なかったでしょ?」
楽屋を出てすぐ、一緒に見送りに出てきた彼に聞いた。
その時になってようやく、僕は彼の真意を悟った。
「バレちゃいました?」
そう返して、彼はいたずらっぽく笑う。
「口パクで彼女をけしかけて、僕にそんな彼女をけしかけた、ってとこでしょ? そんなに気を使わせるほど、僕は変だったのかな?」
自分でそう聞いておいて、多分そのくらい変だったんだろうな、という実感もあった。
「こないだSNSで、視聴者からの難癖に、先生、ごめんなさいって、あっさり謝っちゃってたじゃないですか。あれ見た時、ああ、ちょっとヤバイなって、思ったんです。ショック療法みたいな乱暴なことしないと、ボクの好きな先生じゃなくなっちゃうかもって。そんな時に彼女が現れて、先生にぶつけてみたら面白いんじゃないかって」
言って、彼はからからと笑う。そこに彼の、僕に対する気遣いを感じた。素直に、ありがたいと思った。
僕を巻き込んだ罪滅ぼしのつもりなのか、結局彼は、局の玄関まで見送りに出てくれた。
自動ドアが空くと同時に、強い風が吹き込んでくる。
冷たい。だが、どこか少し、仄かに、暖かさを孕んでいる。もうすぐ春が来るのだ。
今、僕の胸に空く穴はない。だから僕は、その風を真正面から受け止めて、踏ん張る。
彼女と論議して、悟った。
あの男のような熱量のある人間が、この先、この国に現れるのかと、僕はどこか悲観していた。この国を愛しているからこそ、その予感は絶望にも近かった。でも違うのだ。この国の人々の中に、わずかではあるかもしれないが、僕の胸の風穴を埋めるに足る熱量を発する魂が、確かに引き継がれている。
彼女がそう、気づかせてくれた。
だから確信できる。断言できる。
日本はまだ死んでいないし、まだまだ、死なない。
風穴を埋める熱量の在り処 北溜 @northpoint
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