『トメの味』≒『お袋の味』
「まだあの食堂続いているのか・・・」
久しぶりにランチを食べに外に来ていた
この一年間、太田はこの食堂の存在がなんとなくずっと気になっていた。繁盛しているようには見えないうえに、入るにはとても勇気がいるような汚さであったが、食堂から出てくる人の様子は、皆恍惚としており、中には目に涙を浮かべている人もいたからである。一体どのような料理を出すのか、ネットで口コミを必死に調べようとするが、どのサイトにも『トメの味』の口コミは載っていなかった。
「うーん、最近仕事もうまくいっていないし、今日こそは入ってみようかな」
太田は『トメの味』に入る決心を一年越しにした。商社での仕事が最近あまり思うようにいかず、何か切り替えが必要と感じていたことも影響していたのかもしれない。
「いらっしゃい。私がこの食堂を運営しているトメです」
中に入ると、一年前に見かけた90歳くらいの女性が出迎えた。以前見たときと姿は変わっていないようであったが、なぜか親近感のようなものを太田は少し抱いた。
「さあ、料理をお持ちしますからそちらで座って待っていてください」
そういうと、トメはすぐに厨房に入って行ってしまった。
「え、あのメニューは?」
太田は大声で尋ねるが、その声はトメには届いていないようであった。
「参ったなあ・・・。ちゃんと食べられる料理が出てくるかな・・・」
太田は料理を待っている間、不安が募っていた。幼いころに母を失ってしまった太田は、父と二人で暮らしている間にかなりの偏食になってしまっており、食べられない食材がかなりあった。そのため、普段はメニューを見て、自分が食べられるものを見極める必要があったのである。
「お待たせしました。トマト肉じゃがです」
しばらくしてトメが料理を持ってきた。
「え・・・トマト・・・」
太田はトマトが大の苦手であった。母親が生きていたころは食べられていたはずであるか、ある時からまったく口にできなくなっていた。その理由は太田自身も覚えていないが、とにかくトマト風味がするものは徹底的に避けてきていた。
トメが出してきた料理には、はっきりとトマトの姿が見えたうえに、汁もトマトの色に少しなっていた。トメは料理を出すとすぐに厨房に戻ってしまったため、太田はトマトが苦手であることを伝えられなかった。
「うぐぐ・・・どうしよう・・・」
もう20年間は食べてきていなかったトマトを目の前にして、太田は
「あれ、なんかこの料理良い匂いがする」
少しトマト肉じゃがの匂いを嗅ぐと、不思議とトマトに対する嫌悪感がなくなっていった。それどころか、何となく懐かしい匂いのように思えてきた。
「よし、食べてみるか」
ついに決心がついた太田はトマト肉じゃがを口に入れた。
口に入れた瞬間、太田の目からは大粒の涙がこぼれてきた。そして小さかった頃の記憶が次々と
「ふふふ、いろいろ思い出したかな」
気が付くと、太田のそばにトメが立っていた。
「この料理についての説明はそんなにいらないかしらねえ。普通の肉じゃがと違ってトマトも一緒に煮込むのが、このトマト肉じゃがの特徴よ。醤油やみりんとトマトって不思議と合うのよね」
しみじみと語るトメの目にもなぜか涙が浮かんでいた。
「そして何よりも、このトマト肉じゃがはしっかりと時間をかけて煮込むのが大事なの。だからこそ、豚肉もじゃがいもも玉ねぎもこんなにも柔らかくなるの。本当に愛情がないとこんな料理作れないわよねえ。私が
「え、梨香子・・・」
ハッとした太田はトメの顔をまじまじと見つめる。
「そう、梨香子はあなたのお母さんであり、私の大事な娘でもあるわ。そして今日は梨香子の命日よ」
太田の中ですべてが繋がった。トマト肉じゃがは、母親が小さい頃によく作ってくれていた料理であり、太田の大好物であった。そして、母親が交通事故で亡くなってしまった後、父親が作ったトマト肉じゃがの味があまりにも母親のものと違ったため、そこからトマトが苦手になっていたのである。そして、今目の前にいる女性は、梨香子の母親、すなわち太田の祖母である。小さい頃はよく会っていたが、母親の死後は会うことは全くなかった。最後に会ったときから、トメはかなり老けてしまっていたが、それでも昔の面影はあるし、どことなく母親にも似ていた。
「隆二、ようやくあなたに会えて嬉しいわ。あなたも私も梨香子の死は記憶から消し去りたいことだったから、これまで梨香子に関することは一切避けてきたわ。私は隆二とは二度と会わないと決めていたし、トマト肉じゃがも作ってこなかった。だけどね、どんなに忘れようとしても事実は事実であることに変わらないということにこの年になってようやく気付いたの。あなたが、トマト肉じゃがを食べて涙を浮かべたのがすべて物語っているわ。」
トメは涙ぐんで言葉を詰まらせた。太田も何を話してよいかわからず、ずっと無言でいた。
「どんなに悲しい過去のことでも、記憶から消し去ろうとするのではなくて、それを乗り越えたときにこそ、何か新しい未来が見えるような気がするの。それを、梨香子が天国から叫んでいるような気がして・・・。それを隆二にも伝えたくなって、だから私はここで食堂を始めたの。隆二、また会えて嬉しいわ」
「おばあちゃん・・・」
太田はトメのことを抱きしめた。母親のことを思い出すのは悲しいことも多かったが、同時に心がとても温まった。太田の中で何かが吹っ切れて、仕事やこれからの人生に対するやる気のようなものもみなぎってきていた。
数日後、太田が再び食堂のあった場所を通ったときには、『トメの味』はなくなっていた。建物もなくなっており、更地になっていた。太田はトメの世話をしたい気持ちもあったが、きっとどこかで楽しく暮らしているような気がしていた。そして、太田の心の中には、トメが、そして母親の梨香子がいつまでもいることを心強く思っていた。
魔の食堂『トメの味』 マチュピチュ 剣之助 @kiio_askym
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