杜の都の思い出話②

 大学を無事四年で卒業した私は、結局一度もナポリタンを味わうことがないまま社会人となり、数年を地元で過ごした。そして社会の荒波にもまれ水出しコーヒーの味も忘れかけた、ある日のことだった。


 ひょんなことから私は、再びその地を訪れる機会を得た。


 高校時代の後輩が「仕事の研修で仙台駅前へ行くことになったが、道中の運転に自信がないので、ナビ役を頼みたい」と言ってきたのだ。

 これが可愛い女子の後輩の頼みなら、ドライブデートに一も二もなく賛同するところだが――あいにく相手は一個下の男であった。可愛くはなくとも可愛いがっていた相手であることに違いはないのだが――普段であれば、わざわざ休日に後輩のナビ役などごめん被ると断るところだった。


 だがしかし。


 私はそこで思い出したのである。

 あの店のナポリタンを。


 幸い社会人となった身であるので、時間を犠牲に得た資金は大学時代あのころと比べようもない。水出しコーヒーにナポリタンをつけて、食後のデザートにアイスクリームを食べても余裕綽々しゃくしゃくだ。

 そう思った私は、とりあえず水先案内人の役を引き受けてやることにした。


 そして道中。


 後輩の道案内もそこそこに、念願のナポリタンとの対面を控え私の想像は膨らんだ。


 どんな見た目なんだろう?

 王道の、ケチャップまみれのオレンジ色した見た目かな?

 定番の赤いウィンナーはきっとあるだろうな。

 醤油が隠し味ってよく聞くけど、あの店もそうなのかな?

 楽しみだな――ナポリタン。


 などと、私はかつて夢見た風景に思いを馳せながら道案内をした。その結果、後輩は無事に予定時刻のに目的地へと到着することができ――礼の代わりに悪態を口にしながら走り去っていった。そんな彼を温かく見送ると、私は思い出の、名も知らぬ喫茶店へと足を運んだ。


 ――ところが。


 見つからない。

 確かに数年来の訪問である。しかし、その程度であれだけ通った店の姿を忘れるはずがないのに――なぜだか見つからないのである。

 こんな時に店名を知らなかったことが仇になるとは思わなかった。店名を覚えてさえいれば、道行く人に尋ねることも、地図で調べることもできたというのに。

 一時間近く汗をかきながら周囲を探索して――やっとその場所にたどり着いた私は、思わず絶句した。


 店構えが変わっていたのである。


 純喫茶という言葉を具現化したかのような外観は時間の流れに押し流され――「喫茶店」から「カフェ」へと、その姿を変貌させていた。

 白壁もレンガもなく、そこにあったのは目にも鮮やかなビビットカラーに包まれた、それはそれは店舗であった。そこがかつての喫茶店と同一であると私がかろうじて判断できたのは、店頭に飾られた黒板のメニューに「水出しアイスコーヒー」と記載されていたからであった。

 かつてのウォルナットの扉に比べ、幾分か軽くなった気がするドアを開き、店内に歩を進めると――座席はかつてのままであったことに、私は一瞬安堵した。

 だが――そこに座る客層がまったく様変わりしていたことに気付くと、私の心は再び乱された。

 カウンターを占拠していた年配の常連客の姿は見当たらず、テーブル席のすべてに腰掛けるのは、老いも若きも女性客ばかりであった。

 あの時の落ち着いた雰囲気はどこへやら、そこかしこに響く嬌声に、有線放送から垂れ流されるアップテンポな流行りのJ-POP。

 外観同様に、店内の装いも空気も――すべてが変わってしまっていた。カウンターの中に置かれた水出しコーヒーの機械だけは残っていたが、かえってそれが、時代の変化を感じさせてならなかった。


 そんな失意によって若干の居心地の悪さを感じる中で、私はかつて憧れたカウンター席に座り、それでもせめて在りし日の念願を果たそうとメニューに目をやると――さらなる衝撃が待っていた。


 ――無い。


 無いのである。


 あれほど焦がれた、ナポリタンの文字が。


 代わりにメニューに記されていたのは、おそらく健康にすこぶるよいであろうと思われる、ボタニカルな香りのするサンドイッチの名前ばかりであった。ケチャップで彩られた和製イタリアンの名前など、どれだけ見渡しても目にすることはできなかった。


「――ご注文は?」


 カウンターの中から、見知らぬ若い女性が声をかける。

 そういえば、あのころカウンターの中にいたのは、笑顔が素敵な中年の女性であったな。何度目かの来店時には、我々に声をかけてくれたっけな。

 新しい何かに気付くたび、いちいち過去がフラッシュバックする。


「水出しコーヒーをください」

「水出しコーヒーでよろしいですか?」

「――はい」


 憧れたナポリタンはすでになく――思い出のコーヒーすらも、名前が変わってしまっていた。

 学生時代と同じように一杯のコーヒーで粘ってはみたが――あの時と同じ味だとは、到底思えなかった。

 間接照明を排し、通りに面した大きなガラスが日光を明るく取り入れる。

 代わるがわる訪れる客を眺めながら、後輩の研修が終わるまで私は、文庫本を読みながら居座った。たいそう迷惑な客であったろうとは思ったが――そうすることで、この店に対する失望をいくらかでも軽減したかったのである。

 いくら外観やメニューが変わろうとも――あの頃と同じように過ごすことはできたのだ、と。


 はたしてその時が訪れ、後輩から研修終了のしらせが私の携帯電話を鳴らしたのを合図に、私は重い腰を上げて会計を行った。


「ポイントカードはお持ちですか?」

「い、いえ――」

「よろしければお作りしますが、どうしますか?」

「――じゃあ、お願いします」


 ポイントカードを作ったのは、単なるたわむれである。もう二度と、この店を訪れることがないのは解り切っていたが――最後に何かしらの思い出を持って帰りたかったのだ。

 ほどなく手渡された赤いカードには、店名がはっきりと記されていた。しかしアルファベッドで彩られたその名は、きっとあの店とは同じではあるまい。そして私は、あの喫茶店の名前を知る機会はもう無いのだと知り――挫折感にも似た寂寞せきばくの思いに支配されながら、外へ出た。


 *


 夕暮れが染める帰り道。

 樹氷で有名な蔵王ざおうを含む、奥羽おうう山脈を東西に貫く高速道路を走りながら――ぼんやりと思いを馳せた。


 名前も知らない喫茶店の、見たこともないナポリタン。

 青春の代名詞とも言うべきそれは、朱夏の訪れとともに――夕焼けのオレンジ色の中に溶けて消えてしまった。


 *


 その後、あの店を訪れたことはもちろんなく。

 ポイントカードの行方も、ようとして知れない。

 おかげで店名は忘れたまま、今もこうして覚えずじまいである。

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夕焼けナポリタン ささたけ はじめ @sasatake-hajime

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