二〇二一年・天使の店

 富緑駅東口広場の天使に、薄衣とブリーフみたいな下着だけではなくて、しっかりした生地の服や、更に大きなお世話を焼くなら小さな足にぴったりの毛糸の靴下でも履かせてあげたい季節になった。手袋もいい。天使だってこの時期は指先がかじかんで辛かろうし、彼は手袋を嵌めても右手の指先で宿木橋界隈を指し示しているはずだ。

 手袋や靴下は緑と赤がいいかも知れない。もうすぐクリスマスである。その中にあって色彩としては地味な夕一郎と靴和が、それぞれグレーと黒のマフラーを外して扉を引くなり、

「いらっしゃいませ」

 という声とともにやって来たのは、純白のワイシャツに黒いスラックス、そして同じく真っ黒なギャルソンエプロンをしているせいで、肌の白さと腰の細さが際立つ中寉了だった。

 二人が丸く開けた口から言葉を発するより先に、

「なるほど、左様でしたか」

 彼は涙袋の赤味をほんのりと微笑ませる。

 いまの「なるほど」に含まれているものを二人してキャッチすると、結構強いアルコールで隠さなければならないほどの頬の火照りを自覚しないではいられない。まさかこんなところで、こんな形で再開するなんて思ってもみなかった。

 実は、「久し振りに宿木橋行かない?」という靴和の提案を受け容れたとき、夕一郎はどこかで中寉と鉢合わせることがあるかもしれないと考えていた。富緑駅で会ったという事実から、中寉が山王だけでなく宿木橋に縁ある人間であることは想像に難くなかったから。

 一方で靴和は中寉と宿木橋の関連は知らず、あの子は「山王ティールーム」の精霊か何かだと思っていただろうから考えなかったはずである。

 それにしたって……、二人が出会ったバーで働いているなどとは思わないではないか。

 夕一郎は靴和が、俗に言うところの「見せオナ」をした相手が中寉了であると看破したことも、僕もその男の子のこと知ってるよ、ということも話していなかった。縁、という言葉に思いを馳せると、わざわざ話さなくてもいいか、という気がしていたのだ。こうして不意の再会を果たしてみると、黙っておいてよかったなと、くすぐったいような気持ちが湧いてくる。

 夕一郎はあの頃文庫本の隣にあって、なかなか減らなかったスコッチウイスキーをハイボールで頼む。靴和が頼んだビールと、グラスを当てて、小さな音を鳴らした。席数が少し減ったことやカウンターにアクリル板が設置されたことを除けば、店の雰囲気は以前とさほど変わりない。しかしもう一人の、中寉同様に「美少年」と評していいはずの人懐っこいボーイは辞めてしまったのか姿が見えなかった。

 カウンターの中で二人のドリンクを作ったバーテンダー、この店の主人らしい男も変わらずにいた。三十になるかならないかぐらいに見える男、……主人であろう……、とは思うのだが、夕一郎は話をしたことは一度もなかったし、一度しかこの店に来たことがない靴和もそれは同じだろう。あまり愛想のいい顔はしていない、しかし靴和と同じぐらい背が高くて、スタイルのいい男である。バーテンダーの技倆について論じられるほどバー通いの経験があるわけではないが、バーに来た客が「バーに来た!」という満足感を得るには十分な雰囲気がこの店にはあると思うし、それを形作っているのは、年齢よりもバーテンダーとしての仕事のキャリアを感じさせる彼の仕事に依るところが大きいようだ。『緑の兎』は宿木橋の店であるがゆえにゲイバーとして見るべきだけれど、仮にどこか違う街にそのまま移転しても全く雰囲気を変えずに営業できそうである。

 どこかのテーブルから珈琲のオーダーが入った。バーであっても、アルコールだけではなくソフトドリンクが提供されるのは常道だが、バーテンダーは珈琲豆を計り、使い込まれたミルでゆっくりと挽き、鼻の長いケトルで沸かした湯で丁寧淹れる。夕一郎も靴和も珈琲は大好きで、芳しい匂いに、アルコールじゃなくてあっちにすればよかったかと顔を見合わせる。生ビールを注いだりシェイカーを振ったりする姿はプロフェッショナルの誇りが静かに漂うし、珈琲を淹れているところはカフェのマスターを思わせる紳士的な知性が香った。こんな風にじっくり見るのは初めてだったので、意外な気がする。

 しばらく観察していて気が付いた。

 主人が何か短く中寉に指示を出す。

 ぴたりと動きを止めてその声に耳を澄ませた中寉は、

「わかりました、マスター」

 とあの淡白な声をほんの少しだけ潤わせて応える。

 ひょっとして、「プラスティックで出来ている」という中寉のパートナーは、この主人ではないだろうか……? そう思わせるぐらい、中寉の横顔には無垢な敬意と好意が満ちて見えた。

 靴和のおかわりを運んできてくれた「マスター」の顔を観察していたら、目が合った。

「あ……、あの」

 言葉を用意していたわけでもなく、これは咄嗟の言葉。

「僕たちは、ここで知り合いました。二年前です。僕は何度かここに通っていて、ここで本を読んでました。その日初めてこのお店に来たこの子と知り合って……」

 ほんの微かに、笑みの一種であろうものを主人は頬に立ち上らせた。

 心の底から出てきたものではなくて、顔のパーツのどこをどう動かしたらどういう表情になるかパーフェクトに解っていて、ただマニュアル通りに作り出したもの。機械的である。そもそも毎週金曜日の夜にやって来て、このカウンターで文庫本を読んでいた夕一郎が記憶されていたかどうかも怪しい。

 ただ、プロフェッショナルはそんなことはおくびにも出さない。

「あの、パートナーになって、……来月、この子の実家のほうに引っ越すことになったんです。それで、東京を離れる前に、ここに来ようって」

 隣で靴和が慌てている。大仰な祝福の言葉でも言われたら呆気なく困ってしまうことは、夕一郎も靴和もお揃いである。どちらもこのバーでしか出会えなかったような、控えめなところがあるので。

「……左様でしたか。それは、おめでとうございます、そして、ありがとうございます」

 優しげな言葉だが温もりはない。なるほど、ミスター・プラスティック。

 中寉は少し離れたところでじっとパートナーである主人の横顔に視線を注いでいる。中寉も中寉で、何を考えているのか判らないタイプの男である。

 その点ではこの二人もお似合いなのかもしれない、なんて勝手に思う。二人きりのときは一体どんな風に過ごしているのだろう? べたべた甘える中寉、応じて優しい口付けをするマスター……、これに関しては、全く想像さえ出来なかった。

「お二人の前途に幸多からんことを祈念いたします」

 臨機応変さを感じさせるマスターの言葉に、「こちらこそ、ありがとうございます」と夕一郎は返した。

 靴和は先月、仕事を辞めた。

 何か問題が生じたわけではない。就職した段階で彼が目標として設定していた貯蓄の額に達したと同時に、大好きなスニーカー販売の現場から離れなければならない辞令が下ることとなって、「あ、じゃあ辞めます」と、……もちろん、ちゃんと夕一郎に相談してくれた上で下した判断である。

 夕一郎の仕事は人流が元に近い水準まで回復してしまって以後も、ずっとオンラインで済ませられるものであるから、別に東京という場所に拘る必要もない。

 それならば、二人の息子を大切に思ってくれる両親の元で暮らすのがいいのではないか。

 靴和の家は、茶農家である。以前は「意外かも知れないが」なんて枕詞が付きものだったが、もうすっかり有名になっている通り、鹿児島は茶の名産地であって、志布志市は県内二位の生産量を誇るのだ。

 靴和家の畑を継げるのは、一人息子の勇一郎しかいない。

 じゃあ、行こうよ。

 夕一郎は言った。靴和はまだ少し躊躇っていた。茶農家の苦労を息子にさせるのは……、と両親は「お前の好きなようにしろ」と大学への進学、そして上京しての就職を、寧ろすすめていたそうである。一方で靴和は靴和で、「いつかは俺が継がないと」という思いはあったそうだ。親父とお袋が守って来た畑を、美味しいお茶を、いつかは。

 ……このあいだ行って判っただろうけど、向こう、めっちゃ田舎だけどいいの?

 いいの? じゃなくて、「俺について来い」ぐらいのこと言ってもいいんだよ。

 この言葉と夕一郎からのキスを皮切りに、またいつものように熱くて深い夜になった。愛し合う場所はどこでもいい。二人が二人でいられる場所がすなわち、二人が幸せになれる場所なのだ。夕一郎にとっては愛しいパートナーと彼の両親の住む街であるから、そもそも居心地の悪かろうはずもないではないか。

 志布志に引っ越すのは年明け早々の予定である。

「引っ越してしまわれるのですか」

 主人に代わってやって来た中寉に問われた。

「この人の故郷の、志布志というところに」

「志布志、鹿児島ですか。お兄さんは鹿児島の人だったのですね」

 んん、と小さく靴和が頷いた。彼が中寉と知り合いであることが、いまのやり取りで露見する。この子が例の、という言葉を、今夜すごく申し訳なさそうに言うのだろうか? じゃあ僕が「あの子いま下の毛つるつるなんだよ」と教えてあげたら、どんな顔をするだろう? 中寉が陥没乳首であることを教えてもらったお礼になるかは判らないけれど。

「どうかお幸せに。もしまた東京に来ることがあったら、是非またこの店にいらしてくださいね」

 中寉が、こちらはきっと、心からのものである笑顔を浮かべて言った。黒いサラサラの髪に、真っ白な雪色の肌、それでいて目を引く涙袋の薄い赤味、……やっぱり鶴に似ている。

「中寉くんも」

 いまの言葉で、夕一郎が中寉と知り合いだったことも露呈した。靴和の口の開く、ぽかん、という音が聴こえた気がした。

「ここで働いていたなんて、本当にびっくりしました」

「一昨年の六月からお世話になっているんです」

 二年前の六月、ということは。夕一郎と靴和がここで出会ったのが二年前の五月の下旬であった。

 ほんのタッチの差だったのだ。

「中寉くんは、僕たちのキューピッドです」

 彼は目を丸くして、それから少しはにかんで言った。

「恐縮です。僕も、お二人に負けないぐらいに幸せになってみせます。ああ、そうだ、生江さん。お耳を拝借してもよろしいですか?」

 パートナーに聴こえないように手を翳して、ほんの小さな声で内緒話。

「ブリーフって、いいですね」

 中寉は思わず彼の腰の辺りに目をやってしまった夕一郎に、見惚れるぐらいに愛くるしい笑顔を惜しげもなく披露して、「マスター」のもとへ戻って行った。

 酷く気まずそうな横顔でビールの残りを流し込んだ靴和が何か言いかける。夕一郎はカウンターの下で彼の指に指を絡めた。

「僕たちは、天使のいる店で出会ったんだね」

 ブリーフを穿いた天使のいる店で。

 靴和は言葉を飲み込んで、優しく微笑んで握り返して来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼にうつしてしまうぐらいなら、どうぞ「死に至る」と言ってください。 415.315.156 @yoiko_saiko_ichikoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ