二〇二一年・願わくは出来るだけ健やかに

 靴和は咄嗟にその場から離れようとした。しかし、数秒前まで、先程のサラリーマンのように自分の相手をしてくれる男が現れることへの期待を捨て切れずにいたもので、ボクサーブリーフの中へ自身を仕舞うことだって一苦労である。そういうときの男というものは本当に厄介で、鎮まれ鎮まれと念ずれば念ずるほどかえって硬度を増してしまう、言ってしまえば聞かん棒である。しかしながら、自分の夫となる男がある程度はまともな道徳心を備えていてくれてよかったとは思う。

「……したらさあ、その子、俺の隣に来んの。……ほらあそこ、おしっこのところ、五つあるじゃん。俺がしたのは右から二番目でさ、リーマンと同じ真ん中に来たわけ」

 少年は、困惑する靴和の横顔を見てから、黒いスラックスのベルトを外した。見なくても、音を聴けば靴和にも判る。まさかまさかの同類項。しかし、靴和には少年に自分の相手をさせようなどとは思わない。一刻も早くこの場を立ち去ろうと思って、どうにかボクサーブリーフの中に自分のものを仕舞うことに成功したところだった。

「帰ってしまうんですか」

 妙に淡白な声が、靴和に問い掛けた。

 人形が口を聴いたってそんなにびっくりはしないんじゃないか、と思うぐらいに靴和はびくんと身を強張らせた。少年は不貞腐れたように唇を尖らせて、身体の向きを便器から三十度ほど靴和へと向けていた。つまり、自身のボクサーブリーフの中身を全く何の躊躇いもなく靴和に見せていた。

「もしよろしければ、僕の『相手』をしてくださいませんか」

 淡白な表情と声のままで、少年は言った。上背も顔立ちも、そして靴和に向けて晒されたものも、ほとんどこどものような印象ではあるが、性器の根元には控えめながら黒い毛が生え揃っていたし、声は高めとはいえ変声期を終えている。

「……白状するとねえ」

 靴和は自嘲の笑みが浮かんでいた。

「マジでヤバかった。ほんとにね、『いいの?』なんて言いそうになっちゃった。なんかこう、すごい、……めっちゃくちゃな美少年ってわけじゃないんだと思う、いや、きれーな顔してたし間違いなく顔面のレベルは超高いんだけど、でも、なんつーかそういうんじゃなくってね……」

「……雰囲気が性的だったとか」

「あー、そう、そうだね……、そうだねえ……。なんか、息出来なくなりそうな感じ。変なんだよ、ミステリアスっていうのかな。目とか見てると、なんか頭っていうか、……魂? 持って行かれそうになんの」

 それは、中寉了だろう。

 夕一郎は『緑の兎』という名のバーで靴和と出会ったことに、あまり大仰なラベルを貼りたいとは思わない。そんなものに頼ったのではなくて、靴和という人間に宿る心の出来の良さと、あと夕一郎の少しばかりの努力によって、二人の幸せは出来上がっていると思うから。

 しかし、お互い出会う前に中寉と会っていたという事実には、何か、それめいたものを感じてしまった。

 いや、東京近辺に住んでいるゲイが、あまり詳しくないままにどこかでそうしたことが出来る場所はないだろうかとインターネットで探そうとしたとき、「山王ティールーム」と俗称されるあの発展場トイレが選択肢に挙がる可能性は低くはない。そして、中寉はどうもあのトイレを根城にしているらしいから、実のところちっとも運命などではなさそうだけれど、……それにしても。

「その子と、……靴和、したの?」

 うーん……、と靴和は、はぐらかすのではなくて考え込む。

 靴和は「いやでもあの、君はこどもじゃん、俺は大人なわけで、そういうのはすごくヤバいっていうか」と、どんな風にどれだけ慌てたか夕一郎にも容易く想像出来るぐらいに困ったのだ。

「誰かに見られたら困るという意味ですね」

 中寉は納得した様子で言い、「あちらに入りましょう」と、個室に向けて靴和の袖を引いた。

「入ったんだ?」

「まあ……、うん。でも、あのね、これ言い訳にしかなんないのわかって言うんだけど、マジで指一本触ってない。怖くて触れなかったっていうか……」

 中寉が相手ならば、触っていたとしても別に夕一郎はいいのだけど、……だって彼の魅力に抗って理性を保つためには、人間ではなくてプラスティックでなければならないだろうから。

 中寉は、靴和に譲歩してくれたそうである。個室の中に導いても、両手を上げて「無理」という態度を崩さない靴和に、きっとあの、何を考えているのか読み取りにくい表情でひとまず納得した。

「わかりました。僕は自分の性欲は自分で処理します。そして、お兄さんにも指一本触れません。ですが」

 一度ボクサーブリーフの中に仕舞い込まれていた、「こども」の印象の物体を、中寉は再び靴和に披露した。そこが、少年の陶磁のように冷たい印象の顔や瞳からは想像もつかないレベルの興奮を表現していることを見たときの気持ちを靴和は

「息止まるかと思ったよね……」

 という言葉で表現した。

「ちっこいの。包茎なんだよ。毛もあれ手入れしてんのかな、短くしてて、……そう、ショタコンが見たら涎垂らしてしゃぶり付きそうなぐらい可愛かった。でも、それがピンって上向いてんのはさ、なんて言うか……」

 やばい?

「やばい……、うん、やばいし、罪深い感じがした」

 恐れ慄いた靴和ではあるが、中寉は一貫して冷静な様子だった。目の前の少年が冷静であるはずのないことは明白な証拠とともに見せられているのだから解っていなければいけないのに、靴和はどうしても、中寉にかつがれているのではないかという疑念を消すことができない。

 夕一郎も知っている通り、あの子はこちらにそういうことを勘繰らせる顔である。

「もしお兄さんの気持ちが少しでも熱を帯びることがあったら、どうぞ、あそこの小便器で他の人とするみたいに僕をオカズにしてください」

 中寉はそう宣して右手でカッターシャツを捲る。真っ白な腹から胸を晒し、この国の男子のそれとは思えないぐらい淡い色をした乳輪までをも晒した。

 少年は乳頭までも印象的だった。色も含めて、非常に特徴的な乳輪だった、と靴和は回顧した。

「陥没乳首って言うのかな。乳首が乳輪の中に埋まっててさ、でも、乳輪自体がちょっと、こう、膨らんでる感じ……」

 そういう乳首を、夕一郎は見たことがなかった。中寉のものであれ、他の誰かのものであれ。

 ただ、夕一郎自身この恋人に、男でありながら乳首を弄られることを悦びと解釈できる身体になってしまって久しいので、そういう乳首が極めてエロティックに映ってしまうであろうことは理解出来る。

 夕一郎は、ここではたと、ある可能性について気付いた。

 しかしこれについては、まだ指摘しないでおく。

「珍しいですか? こういう乳首を見るのは、初めてでいらっしゃるんですか?」

 そこまでずっと無表情だった少年が、初めて、ごく小さなものではあるにせよ、微笑みを浮かべて見せた。

 夕一郎も知っている通り、中寉の微笑みというものは、とてもとても甘くて、愛嬌と人懐っこさがある。あの顔で微笑まれて、なお(靴和の言葉を信じるならば)指一本触れないというのは、相当な苦行である。

 シャツの裾を顎に挟んで、膨れてどことなく艶を帯び、桜桃の尻にも似た場所に両手の人差し指と中指を当てる。二本の指で挟み、解すように幾度か揉んだ末に、上下に割り開くと、まず右の、そしてやや遅れて左の乳頭が、眠りから覚めたように顔を覗かせた。

 ごく小さな乳首が、きちんと二つ。

「ほら。別にそう面白いものではないでしょう」

 このとき、中寉の乳輪は刺激を与えたせいか全体が淡い朱を帯びていたそうである。そしてその間、彼の露出した下半身では無垢な印象の幼物が何度も脈打ちを繰り返していたと靴和は言う。

 ……先程思い付いた可能性、我慢し切れなくなって、夕一郎は言った。

「きっと、靴和が乳首好きなのってそのせいだね」

「……なのかなあ……」

 特徴的な乳頭を自らの指で刺激するところを、中寉は恥じらう素振りもなく靴和に披露した。あくまで淡々としていた少年はそういうときにはさすがに息を乱し、表情を濡らした。

 アンドロイド感があると思った、という靴和の言葉に、夕一郎は内心で深く同意してしまった。彼の肌が呼吸に震え、声を漏らすたび髪が震え、あからさまに人間でしかないことを告げてくるにしても。もしくは、その温度のギャップが見ている者の気持ちを煽るのかもしれない。

「そんで、……えー、我慢出来なくなって、その子の見てる前でオナニーを、しました……」

 繰り返しになるが、出会う前の話である。

 そして恋人が居ようとも、どんな薪を燃やして自慰を行ったとして責めるようなことはしてはいけない。それは男女問わずあらゆる人間に認められた天賦の自由権である。

「触んなかったけど、それだけは、我慢したんだけど。でも、なんか、さ、おっぱいでオナニーしながら、あの子俺のこのへん」と靴和は自身の股間を大雑把に指で囲んだ。「ずっと見てて。俺がギンギンになってるのバレてたと思うし」

「まあ……、靴和の大きいからね」

「うん……」

 過去の罪を悔やむと言うよりは、時々思い出して微苦笑する……、という顔で靴和はいた。夕一郎は彼が罪を犯したとは思わない。

「見られながらするの、気持ちよかった?」

 うー、と靴和は唸る。

「見られて、っていうか、俺も見てたし……」

 このときの体験が靴和の性癖にかなりの影響を及ぼしたことは疑いない。

「……たまにいるよな……、夕くんもわりとそうだけどさ、肌とか、視線とかそういうのが、たまらなくこっちの心を煮立たせるような子……」

 いることは認めるが、僕は違う、あんなすごいわけがない……、どう言葉にしたらいいのか判らないでいるうちに、一つ、額にキスが降りて来た。

「夕くん、興奮してんだね」

「……靴和に触ってるから」

「そう。あと、外だしね」

 中寉に対しての嫉妬心は不思議と湧いてこない。どんなにパートナーを愛している男の心をも、有無を言わさず鉤爪を食い込ませて引き寄せる力を持っているのが中寉了である。あの若さで、もう何人となく男を食らい、ひょっとしたら数多の家庭を崩壊させた実績さえあるのではないか。

 そうではなくて。夕一郎は例えば中寉が特徴的な胸先を見せたことや、そうしながらあの「可愛らしい」と評していいはずの短茎を震わせていたことを想像して、……実際にそれを見て興奮する靴和を更に想像して、興奮するのだ。

 迂遠な心の旅である。

「俺が、……高校生か、下手したら中学生かもしれない、こどもだよ? そんな子がしてる目の前で、もう何も考えられなくなって……」

「……思い出して興奮してるの?」

「違うよ、……夕くんがそうやって、エロい手つきで触ってるからじゃん……」

「そう……?」

 あの子の半分も可愛くないことは申し訳ないけれど、

「僕には、触ってもいいんだよ」

 これだけは、靴和にとってはプラスなことであるはずだ。

 少し微笑んでキスをくれた靴和の左手が夕一郎に絡んだ。

「おしっこして」

 最初の高級なサラリーマンみたいに言う。夕一郎は拒まなかった。前回も求められたことである、ものずきな恋人だ。

「あ……、すっげ……」

 斜め上を向いた砲身から噴き出した一条を目にした瞬間、靴和が右手の中で強張る。それを感じるとこんどは夕一郎だって反応を示す。夕一郎の夫になる男はどうやらおっぱいだけでなくおしっこも好きな、困った男であるらしいと判ってしまった。

 とはいえ、悪いものではない。

「もっと、……聴かせて、靴和。その子の話」

 放尿をし終えたものを震わせて言った夕一郎のこめかみに、靴和の唇が当てられた。

「……その子が、おっぱいから片手離して、自分の触り始めてさ。それ見て、もう、頭真っ白になりながら扱いてた……。あの子は、俺を見てた。俺がしてるとこめっちゃ見てた……」

 偉い、と言っていいはずである。あの性的な少年の媚態、あるいは漏れる声混じりの息や音や、纏っているにおいさえ感じながらも、魅入られ切るところまでは行っていない。……自分だったら、と考えて、夕一郎は恐ろしくなる。「抱いてください」と言われたなら、たぶん、そのまま……。

「あの子は、『ここに』って言ったんだ」

 僕のここに出してください。

 中寉は背中を向けて自身の尻を突き出してそう強請った。それに応えることは、靴和にとっては少しも難しいことではなかったと言う。

 靴和にとっては衝撃的な体験、しかし少年にとっては……、恐らく日常の一ページでしかないのだろう。比べてどうするという話ではないが、夕一郎のほうが多少は記憶に残りやすい姿を彼に晒しただろう。

「ありがとうございます」

 中寉は靴和が白い尻に散らした雄の破片をトイレットペーパーで拭き取って、今の今までしていたことが何であったか、靴和でさえ忘れてしまいそうになるぐらいさらりとした表情に戻って、ぺこりとお辞儀をした。

「は……、いや、あの、俺の方こそ、ありがとう……、ありがとうっていうか……、ごめんなさい……」

「そうですね。あんなに誘ったのに結局指一本触れていただけませんでした。ここに通うようになって何年も経ちますが、こんなことは初めてです。率直に、かなり悔しいと申し上げておきます」

 ちょっとばかり機嫌を損ねた様子で唇を尖らせていたが、最後にはにこりと愛嬌のある笑みを浮かべた。

「でも、楽しかったです。お兄さんに見られていて、気持ちよかったですし、お兄さんも僕が見ていて気持ちよくなってくれたのだと思いますし。新鮮な体験でした」

 靴和は「もったいないことをした」とは思わなかったそうだ。そして、中寉に恋をすることもなかったそうだ。

「犯罪だし。手に負えんもん、あんな子と付き合ったら……」

 中寉が靴和の手に負えるかどうかは置くとして、前段はどうであろうか。靴和は「就職したばかり」の頃だと言った、とすると。

 靴和が高校生だと信じて疑わなかった中寉了はその時点では十九歳か二十歳である……。

「……そうだね、その子と付き合わなくって正解だったかもね」

「そうだよ。その子とやってたら、俺は夕くんと会えてないし」

 どうやら夕一郎は、靴和にとって重要なある点においてはあの中寉をも凌駕しているらしい。無論、勝った負けたの話ではない。ただやはり、そんな「手に負えない」中寉のパートナーがどんな冷血漢であるのかという点は、少々気になるところではある。

「夕くん、……どうする?」

 ずっと靴和の、中寉の話を聴いてしまった。夕一郎の雄芯は中寉の白い尻に靴和が放ったという辺りで、じんと痺れるほどの昂りを催している。自分が中寉の尻にぶちまけることを、靴和が自分に思い切り放ってくれることを、どちらも想像して、まもなくピークを迎える。

 それなのに、

「もうちょっと我慢出来る? この間の池とこまで歩いて行けば」

 残酷なことを靴和は言った。

 夕一郎の身体というものは、いつだって彼が想定しているよりもう少し弱い。

 だからどんなことでも壊れてしまうと怖がるのだ。

「ここはさ、おしっこまでって感じかなって思うんだ。ゲートからそんなに離れてるわけじゃないし、万が一誰か来たら隠れられるところもないから」

 自分も先端を濡らすほど盛らせておいて勝手な言い草ではある。

 小憎らしいことであるが、言っていることの中身は正しい。いっときの快感のために全てを手放せるほど軽い人生を送っているわけでもないので。

 靴和は腰を引き夕一郎の指を解いて、「俺も早くあそこ行きたい」なんて言う。ずるい、もう一人では仕舞えない自分はまるで、靴和よりもっと変態みたいで、

「夕くんは、そのままがいい?」

 ……その解釈を否定することも出来なくなってしまう。

「誰かに見られちゃったらやばいの、判るよね?」

 本来なら夕一郎が靴和に向けて言うはずだった言葉である。大人がこどもに噛んで含めるように言われて、何とも苦い気持ちになった。しかし、靴和はあんまりにも意地悪である。

 腫れた肌を秋の風が擽る。その細やかな感触は、自分がいま、屋外にいるという事実を心の核に刺してくる。

「ちゃんと、向こう着いたらしてあげるよ。いっぱいいっぱいしてあげる。俺も早く脱ぎたいし、夕くんのこと抱きたいからね」

 もう、靴和の言葉に抗うことは出来なかった。

 中寉との記憶を、何度も靴和は使ったのだろうと夕一郎は容易く想像することが出来た。

 しかし靴和はあれぎり山王駅のトイレには行っていないのだろう。

 もう一度あの美少年に会えるかも知れない、……会えたに違いない、けれど、その望みに縋ることはしなかった。かなりの後悔もしたはずである、なんであのとき触んなかったんだろ、触ってもらわなかったんだろ。付き合うわけじゃないんだから、逆にそれぐらいしたってよかったかもしれないよなあ、なんて考えただろう……。

 靴和の手によってブリーフの中に仕舞われて、ジーンズを上げられた。普段は大して嵩張るものでもないのに、夕一郎には自分の熱が酷く窮屈に感じられた。靴和の手に引かれて歩き出す、……踏み出す一歩が股間に響く。さわさわと風が頬を撫ぜて、まるでおしっこの漏れそうなこどもになったみたいな心持ちになる。倒木に塞がれた神社の石段を登り、朽ちかけた本殿を周り込むときにはもう、ブリーフの前が濡れていることを覚えていた。

「もうちょっと。もうちょっとだけ我慢したら、夕くん、好きなだけいっていいよ。すっぽんぽんにしてあげる。お外だけどさ、フルチンになって、好きなだけ気持ちよくなっていいんだよ」

 周りに誰もいないのに、靴和は囁く。ヴォリュームはとても小さい、しかし下腹部に降り積もっていくのを感じる。

 屋外でありながらこんなにも猛り狂う欲を持て余した身体であることを、

「誰か見てたらいいよね」

 靴和が寿ぐ。

「夕くんのブリーフの前、きっともう我慢汁で濡れてるんだ。いっつもそういうところも綺麗にしてるのに、恥ずかしい染み作っちゃったとこも、……あそこにすっごいエロい子がいるなあってさ。見られたくって興奮しちゃってる恥ずかしい子がいるんだなあって」

 自分自身の足の僅かな運びにさえ、だらしなく漏れて止まらない腺液か、ひょっとしたら尿さえ溢れてブリーフを汚すことを止められない。頭上の樹々の葉の間から強い陽射しが顔や髪に当たるたび、夕一郎は繰り返し自分に病的で異常な性癖が芽吹いてしまったことを知らされる思いだった。

「あの日、誰にも触らせなかったけど、でもって俺も誰にも触んなかったけど、夕くんはいいよ、夕くんだけ、……俺が愛してるのは、夕くんだけだから」

 僕と会うまで、靴和と会うまで、とりあえずまあ結果的には綺麗な身体でいたわけだ。けれどそれは多分、さほど重要なことでもない気がする。どんな二人であれ、出会った。容易くはない道を、時に無謀な道を選んで痛い目に遭ったのが夕一郎である。そんな夕一郎に繋がる細道から危うく転落しかかったのが靴和である。けれど、出会えたのだからもう、それも全て必要な足取りだったのだ、辿り着いたのたから。

 容易くはない道。

 もう、頭の中は空っぽだった。特に下り坂をどう辿ったかも曖昧である。しかし、夕一郎は気付けばあの枯れた湧き水の畔にいた。汗びっしょりのシャツを靴和に捲られている。「ほら、ばんざい」と促されるままに腕を上げて、上半身裸になる。続いてジーンズのベルトがようやっと緩められた。ジーンズを下ろしたところで、靴和はすぐ気が付いただろう。

「間に合わなかったね」

 ジーンズの生地にまで顕れることは避けられたけれど、それはブリーフが夕一郎が漏らしたものを、その頼もしい生地の重なりによって堰き止めてくれたからだ。尊い仕事を果たした結果として、酷い穿き心地と化した下着を肌から剥がすように下ろしたところで風と太陽に晒された夕一郎の陽茎は粘液を纏い、一度の放熱では到底足りない勢いで震えていた。

「夕くんは……、マジでさ、可愛い、マジで可愛過ぎる、あのお人形さんみたいな男の子よりももっとずっと全然可愛いよ」

 心底から嬉しそうに靴和は言って、自身もシャツを脱ぎ捨てる。くっきりと雄の熱の輪郭を浮かび上がらせる彼の灰色のボクサーブリーフにも濡れ滲みが浮かんでいた。靴和も自身の熱を外へ解き放つ。一層勢い付いたかに見える熱の前に、夕一郎は膝の汚れることも気にせずひざまずいて顔を寄せた。

「ねえ、……夕くん、外って熱いね」

 汗の味のする靴和の肉芯で口中を満たしながら、陶然と夕一郎は鼻声で応じる。靴和の手のひらは夕一郎の熱っぽい髪を撫ぜる、……指先にまで愛が篭っているのを感じる。

「俺、嬉しいんだ。夕くんが俺みたいになってる。俺さ、……あそこのトイレとか、さっきの林道の奥とかで、すげー興奮した、すげー変態だって思う。でも、夕くんも俺と同じになってくれてる……」

 病的なまでの熱を靴和から享けて、夕一郎も自身に手を伸ばしたくて仕方がない。それを止めるためには靴和の腰と尻にしがみつくように腕を回している以外に方法は思い付かなかった。

 夕一郎は止めどなく学んでしまう。恋人が熱いと言った、同じ熱さを身に宿して、……堕ちていく。けれど二人でなら、そこはただ熱いばかりで、もう怖さも感じないのだ。

 舌に喉に絡む潮の味に酔いしれて、もっと、もっとと願いながら頭を動かしているうちに、激しい脈動と共に喉を撃つ勢いで靴和が達した。どんなに痛烈なものであっても、夕一郎には優しく感じられる射精だった。

 靴和がこんなに興奮してくれるなら、これほどの熱をくれるなら、……遠からず、僕はこの探検の道の先でしか満足出来なくなってしまうのではないか……。

 それも悪くない。

「ありがとね。……夕くんのも早く綺麗にしてあげなきゃいけないのにさ、俺の先にしてくれんだもんなぁ、優しいよなあ……」

 靴和によって立ち上がらされた視界には、人影こそないものの、斜面の下方に建つ家であったりマンションであったり、人の仕事の片鱗が見える。そして真上を見上げれば、山を超えて送電線が走っているのも見える。前回も思ったけれど、とんでもないところだ。人の暮らしのあるところで……、

「僕は、勃起してる……」

 知らず、自分の状況を説明するための言葉がぽろりと漏れて、夕一郎は慌てて口を手で塞いで真っ赤になった。

「ん……、そうだよ。夕くんブリーフの中で射精しちゃってべとべとになっちゃってるところ、外なのに勃起させちゃってるんだよ」

 靴和の舌はしばし、夕一郎に快感を齎す清掃器具となる。亀頭から茎表面のベタつきを、傘の裏や付け根や袋までをも丹念に、しかし、夕一郎を達させることのないよう、慎重に……。特に後者が難しかったのではなかろうか。靴和には、夕一郎の膝が危なっかしく震え、つまりこのペニスが今にも二度目の精を解き放ってしまいそうに思われたはずである。

「はい、綺麗になりました」

 甘やかす声で言い、ひょいと立ち上がる。夕一郎の「清掃」に用いた舌を、靴和は夕一郎の舌で洗うつもりなのだ。普段ならそんな意地悪はしない男なのに、夕一郎が一つ階を登って追い付いたタイミングで、もう一段上がって、こっちおいでと手を差し伸べられているみたいだ。

「……独りでして見せて。ここで、……俺もお手伝いするからさ。お外で、すっぽんぽんで。誰かに見てもらおう、俺の愛してる夕くんがめちゃめちゃエロくて可愛いところ」

 理性はもう、ブリーフの中に大半を漏らしてしまった後である。鼓膜の中にもしまだ残滓があるのならと、靴和の言葉で満たされて零される。

 晩夏の陽射しに拮抗するほどの熱を帯びた肌を、とりわけ靴和の唾液で照りの艶を纏った淫茎に、潮焼けした海風が真っ向から吹いた。

 靴和の両手の指が夕一郎の乳首を摘まむ。中寉の陥没乳首はさぞかし清楚な見た目だったのではあるまいか。それに引き換え夕一郎のそれは、はしたなく勃ち上がり、痼りとなって色付き、生白い肌に在って離れたところからでも目立つはずだ。

 ここに淫乱が居る、という事実は、そもそもこの姿で明白であるけれど、細かく見れば左右の乳頭をパートナーの指に転がされて、誇るべきところもないくせに反り返って大きな態度でいる場所の先端から糸引く涎を垂らしていることで、より具体的に理解されるだろう。

 無論、夕一郎の、成人男性としてはあるまじきほど蕩け切った表情からも。

「誰かが見てるよ、……もっと見てもらおう。今度さ、二人で一緒に山王行こうか。あそこの連中に見てもらおう。夕くんも俺も、誰にも指一本触らせないで、俺たちが愛し合ってるとこ、見せ付けに行こうよ」

 そこに存在する無数の視線はもう、夕一郎にとって煽る風にしかならない。握り込んだ潤熱はせっかく靴和に綺麗にしてもらったばかりなのに、もう腺液が伝ってぬるぬるになっていて、だらしなくはしたない身体であることを自分で思い知る。

「夕くん、そのときは、……まず電車の中でしようね」

「でんっ……」

 さすがに聞き捨てならなくて訊き返した。

「さっきみたいにぬるぬるにしておいてさ、……本番の出しちゃってもいいよ。そしたら、トイレでさ、他の人たち見てる前で脱がせてあげる。この子、我慢出来なくてブリーフの中でいっちゃったんだって思ってもらえるよねぇ」

 いつぞやは、射精と放尿を晒した夕一郎である。

 あのときよりも人間として退化しているとさえ言えるだろうか? 変態の、淫乱の、……夕一郎はその日も靴和によってジーンズを脱がされたときに、そのぐだぐだになったブリーフの中で勢いの全く収まらない欲望のありようを晒すことになる。

 僕はブリーフの中で我慢できずに達してしまいました、……そんな自分の姿を、見ず知らずの人々が見て、欲を募らせる。

 どうぞ、使ってください、このはしたない裸を見て、……この恋人に開発されてしまったおっぱいも、心も、全部……、全部!

 想像して、靴和の手のひらの中で脈打った。

「この、めちゃめちゃエロいお兄さん、俺の恋人なんだよって、……想像するだけで射精しそう。みんなに見てもらおう、夕くんがどんだけ可愛いか……」

 夕一郎の手元で音が止まらない。とても危険なことをしている、探検、冒険、二人で行き着く先は、しかし何処であっても此処と同じ、幸せが満ちている。

 独りでは到底掴めない幸せを、夕一郎は靴和と辿り着いた場所で手にするのだ。

「言って」

 耳を食んで、靴和が言った。

「っく……、いく……!」

 甘い声で、夕一郎の心へ蜜のように甘い命令を垂らして、絡ませて、「もっと」と。

「いくっ、いく……、いっ……」

「外で?」

「外、でぇ、……外でっ……外なのに、出っ、ちゃうっ、出るっ、出てるっ……!」

 危険なほどの悦びが炸裂する。自身の熱に怯んで手を離したのか、それとも脈打ち弾む勢いに右手が付いて行けなくなって解けたのか、夕一郎には判然としない。ただ、宙高く射ち上げた雄潮の、二回目とは思えない量の夥しさと濃さが、夕一郎が没義道の快楽に溺れた何よりもの証拠である。

「おっと」

 膝から力が抜ける、というかほとんどもう、腰が抜けているに近い状態だったかも知れない。靴和の腕を頼りにどうにか座らせてもらったけれど、飛散した理性の再構築は全く進まなかった。

「……ごめんね夕くん、本当は少し休ませてあげなきゃいけないんだろうけど、もう俺も我慢出来ないや……」

 夕一郎にいま出来ることは限られていた。緩やかに導かれた靴和の腹の上に跨る。自分で自分の身体を支えることにも難儀する足の間に、靴和の指が挿し入れられた。かつては少しの痛みが走るたびに慄いて萎えてしまっていたのに、いまや何の苦もなくそれを受け容れてしまえるぐらいに煮立った身体の底。靴和の指に掻き回されているうちに、自分のしたことの危うさについて考察するべき脳は三度快感に染め上げられる。

 夕一郎の肉芯は緩んだ瞬間だってあったのかどうか。恋人の指が内壁から雄の敏感腺の辺りをぎゅんと押したときには、細まった尿道から澄んだ潮が短く噴き出す。顔にそれを浴びた靴和が、嬉しそうに指を増やして言った。

「夕くん、どこまでエロくなっちゃうんだろうね……」

 あのバーで声を掛けたときには、ここまで淫らな身体の男であるなどとは思っていなかったはずである。無論、夕一郎だって自分がこんなになってしまうなんて思わなかった。

 はしたなさの極致の姿を晒して、喜んでいる靴和を見るのが嬉しい。もっともっと靴和を喜ばせたい、一緒に、果てなく幸せになりたい、……そのためになら何だってして生きて行く覚悟が夕一郎の中に芽生えていた。

 そのためには、元気でいなければ。

 健康でいなければ。

 一先ずは、靴和と生きて行けば大丈夫。靴和は夕一郎の栄養であり、太陽である。

「靴和、……靴和、もう、お願い……、もう、我慢無理……」

 靴和の指が抜かれた。駄々を捏ねるように自身の両手で靴和のためだけの孔を割り開きながら、靴和の胸やら顔やらに放尿を止められない自身の泣き虫加減はきっともう、認めて誇るべきなのだ。

 ごめんなさい、なんて言うものか。

「いいよ。……でも、もうちょっとちゃんと言える? 言えたら夕くんの願い叶えてあげる」

 もう、迷いなんて微塵もない。切って刻んですり潰して、こなごなだ。

「靴和のっ、……挿れてっ……僕のお尻にぃ、靴和の欲しいっ」

 後で思い出して、それがベッドの上なら、布団を掻き集めて頭に被って「ギャー!」と叫び声を上げるような言葉を、躊躇いなくほざいた身体を、心を、

「夕くんって……、マジ最高」

 靴和が念願の熱を以って穿つ。

 心臓を貫き頭蓋骨の頂にまで届くようだ。けれど、靴和の輪郭の孔が空いた思考で夕一郎はこんなことを思う。

 まだまだ、「最高」じゃない。

 僕は今にもっとすごくなる。靴和と一緒にいろんな探険をして、誰も想像も出来ないぐらいの危険を冒して、誰にも至れぬほどの真の高みに至るのだ。

 靴和と二人でなら、それが出来る。靴和と二人でしか辿り着けない場所がある。

 考えることとは無関係に、

「あ……っ、あっ、ぃあっ、ん、くつっ、わ、靴和ぁっ……、好き……好き……好きっ……好きっ」

 言葉は幼稚で身体同様丸裸で、呼吸に伴って勝手に溢れてしまう。素直なこどもになった気持ちである。

「うん、好き、大好き。もう、ずっと、……ずーっと愛してるよ、夕くん……」

 本能のままに汗だくの裸身を靴和の腰の上に躍らせているうちに、太陽は真上を通り越していた。健やかであるがゆえに突き突かれ果てることもない。日々の探険によって鍛えられ、そもそも若い靴和の体力と回復力は素晴らしく、夕一郎だって靴和と一歳しか違わないのだから、まだまだこれから、その気になれば陽の沈むまでここで裸を結び合っていることだって出来るはずだ。

 しかし、こんなに注いでもらっても腹は減る。

 それもまた健康の証であろう。

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