二〇二一年・告白

 寒くなったら出来なくなるよ、という靴和の言葉が決め手になった、……わけではないが、秋晴れという言葉をコピーアンドペーストして空いっぱいに貼ったような日、ブリーフが目立つ洗濯物をベランダに干して、夕一郎は靴和と共に家を出た。

 ソファで眠り、ベッドで目覚めた土曜の朝食を作っているうちから、靴和は夕一郎を求めてきたのである。朝はひんやりしているからと今年初めて丈の長いジャージを穿いてトーストを焼きながら簡単なサラダを作っている背中に、「夕くん夕くん可愛いなあ」とべたべた引っ付き虫になって、ジャージを勝手に下ろしてブリーフの上から盛んに尻を触られた。

 昨夜は両親への返信を書いていて、恋人らしい夜の過ごし方をしなかった。だから仕方がないとは思うし、こんなに求められることは言うまでもなく、努めて頬を叱咤しておかないと笑いがこみ上げて来そうなぐらいに甘ったるい幸せに決まっている。

 一日が愛し合いで潰れてもいいつもりで朝食を平らげ、洗濯を終えるなり、靴和は「外でしようよ」と言い出したのである。

「外でするの、夕くん好きでしょ」

 そんなこと、一度も言った覚えはない。この間のあれだって、ずいぶんと後悔したのだ、……僕はなんてことを……、と。ひょっとしたら、咽喉頭異常感症のトリガーとなったのはあれだったのかも知れないぞとさえ思う。

 のだが。

「あー、陽射しあるとまだ結構暑いね。せっかく夕くんの陽焼け落ち着いてきたのに、またひりひりしちゃうかもなぁ……」

 夕一郎の喉は、催した緊張に僅かにかたくなった感覚があったばかりで、極端な嫌悪感を伴うことはなかった。言うまでもなく、靴和が欲を持て余しているということは即ち、夕一郎だって前夜大人しく良い子で過ごした分だけ募るものがあるのだ。

 靴和のスニーカーは前回とは違う道を辿っていた。一旦、海岸沿いの道路に出て、

「こっち」

 とまた山に入る道を選び、

「このまま、まーっすぐ」

 ずんずんと坂を登って行く。

 なかなかの急坂で、道の両サイドに並んでいた家はすぐに疎らになり、ほどなくして、一軒もなくなった。

 元々趣味は読書の文系インドア派で健脚にはほど遠かった夕一郎だが、靴和と出会ってあっちこっち歩き回るようになってからは多少なりとも体力が付いたようで、これぐらいでは、……じんわり滲んだ汗こそ頬を伝うけれど、弱音は吐かない。動機はどうあれ充実した有酸素運動である。

 周囲に人の気配が完全になくなったところで、道を鉄のゲートが塞いだ。道の両脇に建てられた支柱から生えた、台形を横倒しにした形の鉄パイプの扉である。左の支柱のすぐ側には「茂木森林道」とおにぎりをひっくり返した形の看板に書かれている。全長三・二キロ、だそうである。

「……この間の神社が、この先にあるの?」

 うん、と得意げに頷いて、

「この間ね、……夕くんが喉をアレして、寝てた日」

 悲しい土日だった。夕一郎はひねもすベッドの上で寝たり起きたり、時間を経てもまるで消えない違和感に絶望するのに飽きて寝落ちしたり、短い夢から醒めてまた喉がごろごろすることに絶望して二度寝をしたり……、ろくでもない過ごし方をしている間、靴和が何をしていたのか把握していなかった。

「独りでいると心配でぐるぐるしちゃってさ。俺もう本当に独りダメなんだなって思った。……だから、気分転換に神社まで行って、帰りこっち通って帰って来たんだ。夕くん元気になったらまた連れて来ようって。……外ですんの、夕くんめちゃめちゃ熱くなってたし、きっと喜んでくれるぞって」

 自由な話だ。しかし靴和には自由でいてもらいたい。どうも窮屈な考え方に終始しがちで、それゆえに間違えてしまうことの多い夕一郎であるから、見習うべき点は多い。

 支柱の外側からゲートをすり抜ける。「林業関係車両以外通行禁止」と書いてはあるが、歩行者の進入を全面的に禁ずるものではないと読み取ることも出来る。そもそも、何人たりとも立ち入ってはならぬというなら神社の参拝だって出来ないではないか。バチが当たってもおかしくない立場で夕一郎は解釈する。

 ゲートは異界への入り口だったのかと思うほど、突如として雰囲気が変わった。アスファルトの路面には砂利が積もり、スニーカーの靴底は一歩踏み出すごとに少し滑る。あちこちひび割れて、亀裂からは「雑草」と一括りにするには申し訳ないほどいろいろな植物が活き活きと命を尖らせている。左手の斜面から迫り出した樹々の広げる葉によって強い陽射しは遮られ、風に混じる秋の気配が鼻へ届いた。

 しばらく左にカーブが続いた。夕一郎に合わせてゆったりとしたペースで歩く靴和が、頭上を指差した。

「これ、スダジイだよ」

「須田爺? ……あ、この木のこと?」

「黒くて小さなどんぐり付ける木」

 夕一郎は自然科学には全く疎い。口を開けて見上げたところに、肉厚な強靭さを感じさせる歯が繁っていた。あと一ヶ月もすれば、この道のあちこちに秋らしい実がたくさん転がっているのかも知れない。

「……今さ、どんぐりをさ、尖ってるとこは危ないからヤスリで削って」

「うん」

「コンドームに詰めて」

「うん……、うん?」

「夕くんのお尻に挿れたらさ、中でゴロゴロしてアナルビーズより気持ちいいかも知れないよなって思った」

 夕一郎の恋人は、とんでもないことを考える。

 セックスに用いる物品、安いものでもないだろうに、靴和は時々購入する。そんなもの買ってどうするの、とすげない態度を見せつつも、結局全部使ったことがある。靴和のそれによく似たフォルムのシリコンの物体など、「夕くん一人のときお尻に挿れていいんだよ」とも言われたけれど、一応それはしないよう努めている。

 夕一郎は自分の肛道の中でどんぐりがゴロゴロしている感覚を想像してしまった。

 全くもってろくでもないことではある。溜まっているときの靴和の馬鹿げた発言、普段ならば「馬鹿なことを」という一言で押し流してしまうところなのに、ちょっとだけ、でも確かに考えて、最終的に「いや、絶対身体によくないな」と結論づけるまでに数秒を要してしまったから、夕一郎だって溜まっている。

「……靴和さ。ここに来た日、大人しく散歩だけで帰って来たの?」

 夕一郎の問いに、一瞬答えあぐねる気配があった。彼がそれでも言葉を用意するより先に、

「ここで独りでしたんじゃないの?」

 と問うてみた。

 靴和は「夕くん楽しそうだったから」と言った。ああ、それは夕一郎がどんなに頑張っても否定出来るものではない。理性的に考えたならどうかしてる、頭おかしい、けれど、楽しかった、熱かった。

 しかし、あのとき熱い思いをしたのが自分だけだったとは思わない。

「あの日も靴和は溜まってたんだろうね。僕がくだらないことでくよくよして、ずっと寝てたから」

 夕一郎はほとんど確信しているのだった。

「『くだらないこと』とは思わなかったけどね。……誰だって、夕くんみたいな経験してたら、一番にそういう病気を想像しちゃうものだと思うし……」

 目よりも優しい印象の口元に、微笑みを浮かべて、

「……もっと奥で、だけどね」

 靴和は認めた。

「わりと、よくやる」

 その上で彼は、夕一郎の意表を突いて来た。読み切った、と思ったら、靴和はもう一枚上手だったと言うべきか。いや、夕一郎の想像よりももっとどうかしていたと言った方がいいだろう。

「ここ越して来てから、あそこの池のところまで夕くん連れて行く前にさ、一回。ああここなら大丈夫そうかなって。……でなかったらあんなとこであんなことしないよ。誰かに見られてたら困るじゃん」

 愛情と、それに基づく行為に対して、ちゃんと責任感を持っていてくれてよかったとは思う。偉いと評価するべきではなかろうけれど。

「靴和は、……そういうの、外でやるの、好きなの?」

 靴和は小さく頷いた。

 夕一郎のフェティシズムも比べてどちらが、というものでもあるまいが、困った子である。変態である。

「ちゃんと、危なくないようにしてるよ」

「それはね……、そうでなかったら困るよ」

 どちらも健康なのに、そんな理由で一緒に暮らせない事態に陥るのは嫌である。

「靴和が……、そういうことするのは、昔から?」

「こっち来てから」

 靴和が夕一郎を見初めてくれたのは、二年前。靴和が上京してから間もない時期である。ということは、

「実際にやったのは、本当に何回かだけ。そんな度胸ある方でもないしさ」

 ……というのであれば、少しだけ安心していいのだろう。

「でもね、ほら、草森山行ったじゃん、草森山っていうか、ダムの方、あっちは湯汲山って言うんだけど、ああいうね、人来なさそうなとこ行くと、結構ムラムラする」

 靴和の「探検」には、そういった側面があったのだ。まさしく危険を犯して楽しい思いをしようという、倫理的には到底褒められたものではない発想である。

「何でそんなことをしようと思ったの……?」

 偏った性癖というものは、言葉を尽くしたところで感覚を共有し合うことが難しいものだ。理ではなく情の話だからであろう。夕一郎が自分のブリーフ好きを靴和と共有出来ているのは奇跡みたいな確率だと思っている。

「見せて、見られてっていうの、したからかな……。うん、多分……、そう……」

 歯切れの悪い言葉を、一つ、深呼吸みたいな大きな溜め息で振り払って

「俺、夕くんが山王のトイレ行ったって話聴いてさ、やべえって思ったんだ。だってさ、俺もあそこのトイレ使ったことあったから。あそこに、誰かと遊べたらいいなーと思って行ったの」

 からりと、言った。夕一郎の口からは思わず「えっ」と声が出てしまった。

「じゃあ……、靴和も誰かとしたことあったの……?」

 無論、それを咎める気持ちは全くないけれど、それにしては初めての日、靴和はとてもとても初々しかったと思うのだ。

「あった……、かどうかは、夕くんの判断に任す。……ねえ、俺おしっこしていい?」

 林道が行政上どういう扱いになるのかどうか、夕一郎には判らない。ただ、他の公道と大差ないと見ていいのではないか。だから、夕一郎が認めようがこんなところでおしっこはするべきではない。

「おいでよ」

 夕一郎が隣に立つまで、靴和は側溝の前に立って、いつまででも待つつもりでいるらしかった。

「夕くんがあそこのトイレ行ったの七年前って言ってたよね。俺はまだそのころ鹿児島だから、どんなに頑張っても俺は夕くんは会えてなかったんだけどさ、でも、なんか嬉しい。いや夕くんは嫌な思いした場所だから早く忘れたいだろうけど」

 靴和はボクサーブリーフのウエストから大胆に彼の魂の分身を取り出していた。仮にそれが平常時の姿をしていたなら、もしもどこかで誰かに見咎められたとしても、問題がないとは言わないがそれでも大目に見てもらえそうだが。

 それは雄々しい勢いでいきり立っていた。

「就職して上京してきたばっかの頃にね。……遊びたいなーって思ってたんだけどさ、でも俺、触られるの怖くてさ。見せ合いがいいなと思って……、どこの誰かわかんないのに、触るのとかしゃぶるのとかしたくなかったんだよね。だから、『見せるだけ』って。手ぇ出されそうになったら逃げるって決めてた」

「……そんなこと、可能だったの」

 夕一郎はあの青シャツに絡まれた段階でもう、あらゆる選択肢を奪われてしまったのである。靴和ほど明確な線引きを設けていたわけでもなかったが、あそこまでの目に遭うことなんてもちろん全く想定していなかった。

「俺だからかなあ。ほら、夕くんみたいに可愛くねーし、相手によって向こうも執着心が違ってくるんじゃないのかな。あそこはわりと前髪系多いってネットのレビュー記事に書いてあるの読んで、あーじゃあいいなーって」

 知らなかった。しかし、夕一郎が鉢合わせた男たちも概ね似たようなタイプではあったと記憶している。

「そういうとこで、オナ見せしようかなって思って。そんなら危なくないだろって」

「なんで危なくないって思ったの」

 夕一郎が言えた義理ではない。

「若かったからかなあ……。最初は洗面台で手ぇ洗ってる人が一人いただけだったんじゃないかな、俺がきょろきょろしながら、へーこんなかぁって、とりあえず普通にトイレもしたかったから便器の前立って、そしたら手ぇ洗ってた人がさーって来てさ、……リーマンだった」

 靴和があの青シャツ男と鉢合わせなかったらしいことに、夕一郎は心の底から安堵する。あんな思いを恋人にはして欲しくない。自分と出会う前も、仮にこの子を置いて自分が死んでしまったあとも、夕一郎は靴和には幸せでいて欲しかった。

「まだ三十なってないぐらいで若いんだけど金持ってそうな、すげえいいスーツ着て、ぴっかぴかの革靴の。手ぇ伸ばして来たから、決めてた通りに『見るだけ』って言ったら、ちゃんと遠慮してくれてさ。でも、興奮して、ギンギンになってんの。なのにすげー小さい声で『おしっこして』って言ってきてさ。わーやべえ本物だって思って」

 考えてみると、恋人同士ではあっても隣の便器に並んで用を足した経験はない二人だった。夕一郎が見ている角度からそのサラリーマンは、やがて夕一郎の恋人となる靴和、……きっと当時はまだあどけなさが残って、背は高くとも可愛らしかったはずの靴和、を見て、その股間にあるものが放尿するシーンを見たいと願うことは、決して嗤ってはいけない感覚であろう。

「……してあげたの?」

「したかったしね。そしたらさ、その人、俺のおしっこしてるとこ見て、シコシコしてた。俺の、……こういうとこ見て」

 側溝に向けて靴和が気持ち良さげに放尿する様子は、夕一郎の思いを補強する。特に偏った嗜好は(ブリーフを除けば)ないと思っている夕一郎の心さえもくすぐるものだ。

「正直ね、……ちょびっと嬉しいなって思ったのは覚えてる。その人がさ、金持ちで、きっと何でも、それこそ俺のことだって金でなんとか出来ちゃうかも知れないのに、すげー興奮して、そのまま便器に出すとこ見て、……要は、丸裸の男になってんのね。だから俺も興奮した。その人、『ありがとう』って言って出て行ったよ」

 結局触られることはなかったのだ、それが判っただけでも収穫か。触られていた、すっげー気持ちよかった、なんて言われたら、夕一郎だって勝手な話ながらさすがに傷付いたかも知れないから。

「……触る? その人には触らせなかったけどさ、夕くんは触りたいとき触っていいんだよ」

 心を見透かされている気がした。あの日の山王駅のトイレにいたのが靴和だったなら、あんな酷い目に遭うことはなかったに違いないし、人生において二人で過ごす時間がもう少し増えていたと言うことも出来る。

 指先に触れて、そのまま握り込んだとき、嬉しそうに唇から吐息を漏らす。

「その……、スーツの人帰って、そのあと、靴和はどうしたの? その人のこと思い出しながら、そこで、独りで……? それとも、誰か来るのを待った?」

 背伸びをして、問い掛けを頬に這わせた唇を唇で受け止めて、

「……まあ、そうだね。正直な話、ちょっと物足りなかった。でも、来なくってさ。こう、便器で出したまんまでいるの、馬鹿みたいじゃん?」

 その姿を想像して、ちょっと笑った。誰か来ないかなー、でも、どうしよ、もう帰っちゃおうかなあ……、きょろきょろしている靴和の姿は、かなり面白くて可愛いものだったはずである。

「でも、もうちょっとだけ待ってようかなーって思ったら、一人入って来てさ。……一目見て、うわやべーって思った」

「……何が?」

「高校生、……たぶん。背ぇちっちゃくて、なんかこう、すげー綺麗な……、お人形さんみたいな子が入って来てさぁ……」

 思わず、手を止めてしまった。

「やばいって思うじゃん。さすがにさ、……俺わりと、ほら、夕くんみたいな可愛い子好きだけど、さすがにね、それはやべえって思って……」

 それは、中寉了ではないのか。

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