二〇二一年・おだいじに
長袖のセーターを持って行こうとしたら、「要らないよ、持て余す」と言われた。そのときにはまだ懐疑的だったのだけど、十月中旬の鹿児島はまだ夏の延長線上のように気温が高くて、確かにセーターは要らなかった。
志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所改め志布志市志布志町志布志の志布志市役所の建物を、夕一郎はどうしても見たいと思っていた。靴和にせがんで、東京とは比べものにならないほど元気な陽射しを受けた建物をバックに記念写真を撮ってもらった、ストールと長袖シャツの夕一郎を眺めて、靴和の両親は「変わった子じゃ」「そげんとが珍しと」と笑っていた。夕一郎もすっかり、靴和によく似た「ものずき」になってしまったようである。
志布志というのは、港町だ。市役所があるのも海岸線から程近いところ。大隅半島を丸く抉る志布志湾を望む明るい印象の町だった。一方で戦争末期には無謀そのものな特攻艇の基地もあったそうであるから、通り一遍で解った気になってはいけないことも、併せて夕一郎の記憶に刻まれることとなった。
一人息子が東京から連れてきた同性愛のパートナーを、靴和の両親は温かく迎えてくれた。少しの屈託もなかったはずはないのに、二人は口を揃えて「こんなしょうもない息子で申し訳ない」「あなたの迷惑になっていないか」という意味のことを盛んに言い、三年ぶりの帰郷となった息子のことなんてほったらかしで、大いに優しくもてなしてくれた。心地よい弾力と歯切れのさつま揚げ、いや、そもそも「薩摩」であるこの辺りでは「つけ揚げ」と呼ばれるもの、……靴和のお母さんは「ちけあげ」と呼んでいたそれの、決して派手ではないが長く深く愛されてきたことが判る味わい、それから希少価値が上がって以来駅前のスーパーで見かけてもとても手が出ないと諦めていた鰻、「背白ちりめん」と呼ばれるしらす、豚バラの煮込み、どれも、とても美味なものであった。そもそも、水も空気も美味しくて、この街で少年期を過ごした靴和勇一郎がかように健やかであるのは当然のことであるかと思われた。
夕一郎は家族の温もりに感激し、駅から乗り込んだ空港行きのバスから、いつまでもいつまでも手を振っていた靴和の両親が見えなくなってしまったとき、鼻の奥がつんとなった。
僕でいいんですか、と問う勇気はどうしても夕一郎の中に生まれて来なかった。
僕は男として生きてきて、これから先も男として生きて行くほかありません。
僕は靴和勇一郎のこどもを産むことは出来ない。だから、あなたたちにお孫さんの顔を見せてあげることだって出来ない……。
このことが、どうしても気掛かりだった。
「『夕くんの両親』から手紙が届いてたよ」
二人が志布志から帰って一週間後の金曜の夜、靴和が郵便受けに入っていたという封筒を携えて、ちょっと唇を尖らせて帰って来た。送り主は靴和の両親で、宛名書きは「生江夕一郎様」と大きく書かれている。自分の名前はその横に、ついでのように小さく書かれているのが気に食わなかったらしい。
「夕くんのこと、ほんとに息子にするつもりなんじゃないかなあ……」
こんな可愛い「勇一郎」という息子がいれば、わざわざ夕一郎を息子になんてしなくてもよかろうに。丁寧に開いた封筒の中には、時間を掛けて丁寧に書かれたものであることは明らかな文字の並ぶ便箋が入っていた。
しっかりとした筆圧を感じさせる文字となって、剥き出しの親愛の情がしたためられていた。
是非ともまた来て欲しい、勇一郎が迷惑にならなければいいがと心配しているが、どうか末永く一緒にいてやって欲しい。身体に気を付けて、あなたがずっと元気でいてくれますように。
あなたに出会えて、私たちはとても幸せだ。
大意としては、そういうものであった。
夕一郎は繰り返し、繰り返し、折にふれてこの手紙を読むことになるだろう。
夕一郎には宝物が出来た。家族という、かけがえのない宝物が出来た。
「すげえな……、『追伸、勇一郎は夕一郎さんの迷惑にならないよう努めなさい』って、マジで俺のことこれしか書いてない……」
靴和は不満げな表情を形作ってそう言ったが、声は優しい。満更でもないのだろう。
手書きの手紙の返信をプリントアウトで済ませるわけにはいかないと、夕一郎はこの日の夜遅くまで掛かって返事を書き上げた。靴和は「お袋と親父に夕くん取られちゃった」と愚痴を零しながら、珍しく映画なんて見始めたなと思ったらソファで眠りに落ちていた。仕方ないので夕一郎は毛布を持ってきて隣で眠る。もし仮に、途中で靴和が目覚めたなら、きっと抱っこしてベッドまで連れて行ってくれるはずである。
夕一郎の喉は、正確に言えば全ての違和感が綺麗さっぱり拭われたわけではない。あの医師が言っていた通り、緊張やストレスを覚えると、またごろごろするのである。ここ最近では、鹿児島に向かう飛行機が少し揺れたとき。そして、やっぱり靴和の両親と顔を合わせる直前には、ぎゅうっと苦しくなった。
しかし、それが「そういうもの」と解ってしまうと、もうまるで怖くないのだった。気は細いくせに呑気で迂闊なところのある自分が無意識のうちにストレスを溜め込まないように、身体の方から語り掛けてくれているのだと思えば、少しばかりいとおしい反応である気もしてきたし、もう靴和の両親に会うときに緊張を催すこともないだろう。そして飛行機が揺れたときには靴和がそっと手を握ってくれた。彼も怖かったのか、手のひらは汗ばんでいたけれど。
この身体で愛されて、この心で生きて行くのだと夕一郎は理解する。
遠からず、生江夕一郎が靴和夕一郎になる日が来るかも知れない。響きが全く同じ二人が暮らす家は、どこになるだろう? 夫となる人の仕事を考えればやはりこの街にいるべきだが、そう待たせないうちに志布志に引っ越すという選択肢もあるのではないか。
とはいえ、これは二人でゆっくりと考えていけばいいことだし、壮大な未来を思い描こうと頭の中に白画用紙を広げているうちに、夕一郎は眠りに落ちていた。
起きたときには、ベッドの上。
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