二〇二一年・石の摘出

 丘の上の、海の見える病院、と言うと詩的に過ぎるだろうか? 悲しい物語が寂しい終わりを迎える舞台としては、あまりにしっくり来てしまう気がして、ちょっと痛ましい気持ちに夕一郎はなってしまった。

 海側の病室の窓はオーシャンビューであるようだ。季節ごと、日々にさまざまな表情を見せてくれる海が心に数々の感慨を与えてくれることは、マンションの窓からいつも見ている夕一郎もよく知っている。海の見える街に住んで、もう、未来も海のあるところで暮らせたらいいと願うようになってしまっている。それが実現可能なことであるかは、全く判然としないけれど。

 現実的な話をするならば、地域では一番規模の大きいこの病院もウイルスの感染が最も猛威を振るっていた盛夏の折には大変な忙しさであったに違いない。

 病床が足りなくなったり、従事者たちが寝る間もないほど駆け回らなければならなくなったり、……隔離されて家族に看取られることもないまま息を引き取る患者も多くいたのではないか。こうして朝に来て、当たり前のように受診できる状況がとても恵まれているという事実は、決して忘れてはいけない。

 夕一郎はあてがわれた検査の全てを終えて、待合室の長椅子に座っていた。

 隣には、会社を休んで付き添ってくれた靴和がいる。

 昨晩、帰ってきた靴和はまず、夕一郎が食事を拵えて待っていたことに驚き、そして心底から安堵した様子を見せた。彼が夕一郎の作ったアジフライと小松菜のおひたしとなめこの味噌汁を美味しい美味しいと平らげるのを見届けてから。

 夕一郎は靴和に全てを話した。

 靴和と出会うずっと前にあったこと、金曜の夜から抱えている体調不良の詳細、今日、笹塚の耳鼻科に行ってきたこと、帰りに富緑駅で中寉という青年に出会い、彼から言われたこと、……全てを余すところなく。

 靴和の表情は一定の幅から逸脱することはなかった。いや、夕一郎が話し始めてすぐ、彼は自分の感情がテーブルから零れて床を汚すことにならないよう、堰を設けたのではないだろうか。余計な言葉は挟まず、時折相槌を打つだけになって、……最後に彼は、

「明日一緒に病院行こう」

 と言った。

 朝一番に受付を済ませたのに、検査に次ぐ検査を経て、もうすぐ昼になる。

 まず症状を聴いた医師は夕一郎の喉にファイバースコープを挿入し、撮影した画像を夕一郎と靴和に見せながら、特定の所見はないことを告げた上で、続いて甲状腺のスキャンを行うと宣した。

 喉、と漠然と言葉にしている一方で、夕一郎ははっきり特定の部位に異物感を感じていた。なんらかの病変がある可能性は排除出来ないと、血液検査のための採血がなされ、その結果を待つ間にMRIの検査が入れられた。MRI、「Magnetic Resonance Imaging」の略である。人体を輪切りにして、病変の有無を検査するものであるというぐらいの知識は夕一郎にもあったし、医師ははっきりとこう言った。

「甲状腺に腫瘍がないかどうか」

 ……ああ、それがあったのか。

 夕一郎は迂闊にもその可能性を全く考えていなかった。そもそも甲状腺がどこにあるのかも明確に把握していなかったのだ。扁桃腺と前立腺は明瞭に把握していたけれど……。

 靴和に感染させる(あるいはさせた)可能性にばかり気を取られていたが、自分自身の命に関わる病気かもしれないとは思っていなかった。さすがに少し怖い気もしたが、癌ならば靴和にうつるものではないな、とも思った。

 検査に伴って必要だという書類に署名させられた。よく読むと、この検査において、極めて低確率ながら死ぬ可能性があると書かれていたが、それ自体は別に怖くなかった。

「少し熱く感じるかもしれませんが、そういうものなので特に心配はいりません」

 という言葉を訊き返す暇もなく頸部に造影剤を注入された。熱くなるとはどういうことか。……まもなく、首から耳にかけてが、そこだけ陽射しを浴びているみたいにかーっと熱を帯びた。奇妙で不慣れな感覚に戸惑っているうちに、MRIで身体を輪切りにされる。あっという間の出来事であった。

 そしていま、医師の診断を待っているところである。

 靴和はじっと座っている。夕一郎がMRIに臨むときには、「頑張ってね」と言ったし、戻ってきたときには「おかえり」と言った。しかしそれ以外、……昨日の夜から今朝まで含めて、彼はほとんど喋っていなかった。靴和はどちらかと言えば、なんて言葉を用いるまでもなく、かなりおしゃべりな方である。男のおしゃべりは嫌われるよと母親によく苦言を呈されたと言っていたが、夕一郎と話をしているときの靴和の顔はいつも悦びに満ち溢れ、煌めいている。夕一郎も聴いているだけでその煌めきの粉が自分に移って、一緒にきらきらしているみたいな気持ちになれた。

 靴和は怒っているのだろうか、あるいは失望しているのだろうか。どんなに怒っていたっておかしくない、失望されて当然だとも思う。しかし、……それならばどうして、こうやって一緒に来たのだろうか。ずっと、俯き加減でいる。表情は窺い知れない。

「前にさ、……夕くんと、初めて会った日にさ」

 不意に、彼が顔を上げた。意外なことに、彼は薄い笑みを浮かべていた。

「志布志に、『志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所』っていうのがあるって言ったの、覚えてる?」

 相変わらず、早口言葉みたいな話である。夕一郎はなんとなく、中寉は一度聴いただけで、「志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所ですか」とつっかえずに鸚鵡返し出来そうだ、と思った。

「あれ、なくなっちゃったんだって」

 緩い苦笑いを靴和は浮かべた。

「志布志市役所そのものが越してきて、だから支所じゃなくなって、一個短くなっちゃったんだって」

 なぜ今、靴和がそんな話をしようと思ったのか、夕一郎には判らなかった。靴和から言葉が継がれることはなく、じっと考えているうちに、「生江さん、五番の診察室へどうぞ」と名前が呼ばれた。

 靴和が立ち上がる。夕一郎も、ワンテンポ遅れて立ち上がった。医師の傍のボードには、夕一郎の頸部が輪切りにされたモノクロ写真が貼り出されている。夕一郎にはもちろん、その写真を見たって何も判らない。ただ靴和はスツールに座った夕一郎の隣で、写真から何かを見付けようとしているように、……いや、見付かっては困る何かを見付けないようにしている様子で、じっと視線を向けていた。

 医師は少しも勿体ぶることはせず、

「異状は見付かりませんでした」

 と宣告した。

「血液の方も、まあ健康的な数値に収まっています。もう少しお食事をしっかり召し上がった方がよさそうですが、それはまあ、特に気にするほどのことではありません」

 無事であるならば、それに越したことはないはずである。

 しかし、

「そんな」

 なんて言葉が思わず溢れてしまうのは、いまこの瞬間も夕一郎の喉がごろごろと石の詰まったような感覚を訴えることをやめないからだ。はっきりとした胸苦しさも伴っている。これほど明確な症状がありながら「異状なし」なんてことはあるはずがない。

「生江さんは、喉が苦しいと、異物感があって、詰まっているような、と仰っておられましたね」

 フェイスシールドとマスクごしの医師の言葉に、ぐっと顎を引くように頷く。

「物理的に何かが詰まっているとか、組織の一部が炎症を起こしているとかではないことは一先ず申し上げてよろしいかと思います」

 呆気に取られた夕一郎の喉の半ばまで、目の前の医者を罵倒する言葉が出かかっていたかもしれない。押し留めることが出来たのは、それはやはり喉に何かの炎症があって、引っ掛かったからではないのか。

 だってこれでは、……これでは、まるで僕が異常感覚の持ち主みたいではないか。ないものをあると言って騒ぐ、とても恥ずかしい奴みたいじゃないか!

 医師は静かにボードの写真を外した上で、

「いんこうとういじょうかんしょう、ではないかというのが、現状から見た私の判断です」

 胸ポケットのペンを取り出し、何かの錠剤の名前が入ったメモ帳を一枚取って、走らせた。

 咽喉頭異常感症。

「読んで字のごとく、具体的な異常が顕れていないにも関わらず、喉に異常な感覚を催す病気ですね」

 夕一郎は唖然とした。

 隣で靴和もマスクの中の口を丸く開けているはずである。

「梅干しの種が詰まっているような感覚があるもので、『ばいかくき』という名前でも呼ばれます。あと『ヒステリーきゅう』なんて名前で呼ぶこともあります」

 梅核気、ヒステリー球、続けて医師はメモにペンを走らせた。梅干しの種、という形容は、あまりに見事に夕一郎の感覚を表していた。

 昔からある病気、と言われた。名前がちゃんとあると判った。

 たったそれだけのことなのに、夕一郎は自分の喉が安全圏に運び込まれたような気になった。

「つまり……、あの、何かの病気でこうなっているんではなくて、……こうなっている、こう感じているってこと自体が病気ってことなんですか」

 夕一郎の質問に、医師はあっさりと頷いた。

「先ほども申し上げたとおり、今日の検査をした限りでは、例えば何かに感染して炎症を起こしていて、物理的にその部分が狭くなっているということはありません。つまり、感覚の問題である可能性が高いということですね。……強い不安や緊張、ストレスを感じている、という人に見られることがある症状です。あるいは、癌に対して不安を感じているような人のケースもよく見られます。……あと考えられるのは、逆流性食道炎のような胃の病気ですね。胃酸が上がってきて、この辺り」

 と医師はまさに夕一郎が異変を感じていた場所に自身の左手を当てた。

「に違和感を覚えることもあります。生江さんは胃はあまり強くないと仰っておられましたね」

 はい、と掠れた声で夕一郎は認めた。解熱鎮痛剤や風邪薬でも胃が荒れてしまうし、抗生物質を飲むとしばらく腹の調子が上向かなくなる。

 だから耳鼻科でも痛み止めと一緒に胃薬が処方された。

「ひとまず、お薬を、ちょっと多いですが四週間ほど試して頂いて、様子を見てみましょう。変化がなければまたいらしてください。以上でよろしいですか?」

「あの……、あのっ」

 ずっと身を硬くして医師の話に耳を傾けていた靴和が、ここで声を上げた。はい、と医師は顔と身体を靴和に向ける。最初にこの部屋に入った際、この付き添いの男は何であるか、という質問をされる前に、「家族です」と靴和は言った。到底そうは見えまいが、医師は鷹揚だった。

「……もしも、……いえあの、あることなのかどうかもわかんないんですけど、えっと……」

 靴和の目が、医師の顔と夕一郎の頭部とを行き来していることは、見なくてもわかった。

「これが、性病である可能性はありますか」

 夕一郎は、自分で訊いた。靴和が身を強張らせた。医師は夕一郎には視線を戻して、

「……お心当たりがおありですか」

 と、これまでより丁寧な口調になって訊き返した。

「七年ほど前に、少し。素性の知れない相手と」

「七年前」

 夕一郎の言葉の途中で医師の頬が緩んだことは、フェイスシールドとマスクの向こうであってもはっきりわかった。

「そういったトラブルで、今回生江さんがお感じになったような喉の違和感に繋がるケースも確かにありますが、ちょっと現実的ではないかと」

 きっと、これぐらいの情報ならばインターネットを探せばすぐ出て来るのだろう。極端な情報を選り分けて、慎重に見て回った先の、しかるべき場所で夕一郎を待っていたのかも知れない。

 そうすることが難しいなら、とっとと病院にかかるべきなのだ。

「失礼ですが」

 医師は、夕一郎だけを見て問うた。

「生江さんの周囲に、……現在あなたも関係のある方の中に、そういった症状をお持ちのかたが……」

「いません」

 これは即答出来る。ふむ、と納得した顔で医師は頷き、

「もし生江さんのストレスの原因がそういったものである場合、……そして、ない場合でも、咽喉頭異常感症は精神的な苦痛を緩和することが改善に繋がることケースも見られますから、一度カウンセリングを受けてみられるのもよろしいかも知れませんよ」

 診察は、これで終わりだった。

 MRIの費用に飛び出した目玉をしまうのに手間取りはしたものの、処方箋薬局で漢方薬と、制酸剤をどっさり受け取って、あとはスムーズに家に帰り着いた。

 素人がふんわりとした解釈をするならば。

 標準よりも少しばかり細い神経を持ち合わせていることは夕一郎自身否定出来ない。

 この身体に、七年前の山王駅トイレでの事件、去年からの世界の動揺、全く別種のストレスであっても、本人が自覚できる以上に心を疲弊させていたのだとしたら、病的な症状にまで発展する可能性はあった。

 そこに、靴和のプロポーズを受けた。靴和の両親に会う、という予定が組まれた。緊張を催さないというのは不可能である。

 これが引き金となって、夕一郎の喉は梅干しの種が詰まったような違和感を訴えるようになったのだ。

 呑気なことに、夕一郎はこの喉の異物感を「癌かもしれない」とは思わなかった。しかし、そもそも夕一郎がインターネットで病気を調べないようにしていたのは、「それは癌で死にます」調の情報に触れることを恐れていたからである。

 意識出来ないレベルでも、徹底して気の弱い夕一郎だった。そして気の弱さも、どうやらこの病気のトリガーになるらしいことは確認した通り。

 であるならば。

 医師が挙げたとおり、……「喉がごろごろする病気」であるという結論の前に、素直に膝を揃えて座り、すみません、と頭を垂れるのがどう考えても妥当である。

 ずっと黙っていた靴和が、手を洗いながら泣き出した。

「靴和」

 濡れた手をタオルで拭い、まだ拭い切れていないままの両手に、夕一郎は抱き締められた。

「死んじゃうのかと、思った……、夕くん、死んじゃったら、どうしようって……、思った……」

 激しく波打つ彼の胸に強く身体を収められているうちに、夕一郎も泣けてきた。

「ごめん……、ごめんなさい、……ごめんなさい、心配掛けて、ごめんなさい……」

 あなたは、愛されている。

 中寉の言葉が蘇った。

 僕は愛されて生きている。

 喉の苦しい「感覚」は不幸なものでしかない。けれど、引き換えに絶対に忘れてはいけないことを、忘れてはいけないと知ることが出来たのならば、……せめてそれだけでも得られたことを、きっと少しぐらいはいいことだと思わなければいけない。

「マジで、……マジで、癌とかじゃなくて、よかった、怖い病気じゃなくてよかった……、よかったよう……」

 心からの安堵の言葉を繰り返し繰り返し口にする靴和が、いつか何かの病気に罹ったら。……そのとき夕一郎は昨日今日の靴和のように、冷静さを保っていられるだろうか? 大丈夫だよという顔で、落ち着いて、医師の話と向き合うことが出来るだろうか?

 性病であると夕一郎は思い込んだ。昨晩打ち明けられた靴和は癌だと思ったのだろう。実際に授かる病名がどんなものであろうと付き添って、一緒に受け止めようと靴和は選んだ。

 どんなに恐ろしいものであろうと、夕一郎と共に背負って行くこと。

 それはもうその時点で、靴和がこれから先も夕一郎と共に生きることを決めていたことを意味する。元気な時ばかりではなく、病む時があったとしても、耐えることのない愛を携えて同じ道を歩むのだ、と。

「夕くん、……お願いだよ、どうか忘れないで。俺は夕くんのこと好きっていうのは、……夕くんの全部が好きになれるようにするよってこと……。夕くんの、過去も、これからも。いまの夕くんは、昨日の夕くんがいなかったら、ここにはいないんだからね……?」

 こんな日があった、といつか思い出すときが来る。

 今日の記憶だってきっと、明日の二人が幸せに過ごすためには欠かせない。靴和に抱き締められながら、夕一郎は何であれ生きていなければいけないのだと知る。

 どんなことがあろうと、この男の心を守るために、僕は能う限り長く、共に生きていなければならないのだ。

「行こうね。俺の、生まれた街、俺の育った街。一緒に、夕くん、連れて行くから……」

 僕がまたいつか間違える時があったなら、そのときはどうか、思い切り叱ってください。

 たっぷり処方された漢方薬には、半夏厚朴湯、という名前が付いていた。比較的苦味が少ない顆粒剤で、これと胃薬を飲み始めてしばらくすると、徐々に夕一郎の症状は寛解して行った。

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