二〇二一年・まだ幸せな者

 彼は、あくまで淡々と語る。

「僕自身も色々な人を見てきましたが、リスクのある相手と無防備に行為をした結果として喉がごろごろするという症状を来した人はこれまでお会いしたことがありません」

 根拠は科学的な知見ではなく、中寉自身の経験である。とはいえ、夕一郎はこの男の重ねて来た経験がひょっとしたら科学を凌駕するものである可能性さえ否定できない。ミステリアス、という言葉を選ぶのは安易に過ぎると思いたくなるような、計り知れなさが中寉にはあった。

「偶然いなかっただけという可能性を否定し切れるものではありませんが、こんなに長期に渡って潜伏するというのは非現実的ではないでしょうか」

 正直、そうなのだ、と信じることが出来たならどんなに楽だろう? しかし、他に思い当たる節が一つもないのである。

「今回の症状が出て、病院には行かれましたか」

 午前中に耳鼻科で診てもらった、という話を、夕一郎はした。そこでは異状は見付からず、痛み止めが処方されたということも。

「想像することが難しいのですが、喉がごろごろするというのは具体的にはどういう感覚なのですか。唾を飲み込む時に痛いとか、むず痒さがあるとかでしたら、僕も人生で何度か経験したことがあるのですが」

 一連の言葉を発する間、中寉がどこで息継ぎをしているのかさえ夕一郎には判らなかった。人の温もりを纏っていることは間違いなさそうだが、振る舞いは機械のようだ。美しい相貌と無駄のない言葉にばかり気を取られかかったけれど、どうにか夕一郎も、言葉を探す。

 土日ベッドの上で無為に過ごす間、夕一郎が感じていたのは、

「なんか……、ええと、何かが、詰まっているみたいな。塊が喉にあって、それがぐーっと膨らんで硬くなったみたいな……、そんな感じです」

 自分でも、初めての現象であるが、強いて言葉にするならそうなる。

 ずきずき、ちくちく、ひりひり、しくしく、がんがん……、日本語には痛みを表現する言葉がたくさんあるが、相応しいものが見付からない。

 そもそも、痛みではないのだ。圧迫感、異物感はあるけれども。

「塊、と仰ると」

「丸い、玉みたいな……。ごろごろするんです、ここらへんで……」

「それであれば、何か飲んだり召し上がったりすることも難しいのでしょう」

 気の毒そうに中寉は言ってくれたが、そういうことはないのである。

 食事も喉を通らない、なんて言葉もある通り、食欲は全くなくなってしまったのだが、飲み下す際には苦しさを感じないのである。寧ろ、食事をすることは少しばかり夕一郎の喉の違和感を軽減させることにも繋がるようだ。

「それは不可解なことですね。喉の、何らかの形、生江さんのお言葉をお借りするなら、丸い玉の形に腫れているところが、食べ物を通すと引っ込むのでしょうか」

 中寉は相変わらず声にも顔にも表情をあまり覗かせないが、心配してくれているのだということは、はっきりと夕一郎に伝わってくる。

「拝見しても構いませんか。僕はもちろんお医者さんではありませんし、何が判るというものではありませんが」

 夕一郎拒まなかった。耳鼻科医が見付けられなかったものを素人が見付けられるとも思わなかったし、実際スマートフォンの光を頼りに覗き込んだ中寉も「何もありませんね」と呟いて座り直した。

「しかし、ご不安でしょう。パートナーがいらっしゃるのでしたらなおのこと」

 中寉の言葉は的確に夕一郎の真ん中を突いてきた。悄然と頷いて、ごろつく喉から嘆息して、しかし卑屈な笑いを浮かべて、

「大好き、なんですけど。……親に、僕を紹介するって言ってくれたんですけど。でも、僕は、まだ話してないんです、このこと……、山王のトイレでのことも。だから彼は僕が綺麗な身体だと思ってて、……話さなきゃいけなかったのに、ずっと僕は黙ってました。だから……」

 夕一郎の言葉が途切れても、中寉にはきっと全てが伝わっていた。

 中寉は表情を変えず、

「生江さん、ちょっといらしてください」

 と立ち上がった。

 自分の言いたいことだけ言って、夕一郎が従うまで待っているというのは、とても横柄な態度である。それでいながら言葉は謙虚なものであるし、表情は無に等しいので、こちらを戸惑わせて、なお知ったことかと言うかのようだ。

 連れていかれたのはフロアの隅にある男子トイレであった。

「待って、あの、ちょっと……!」

 個室に、中寉はごくスムーズな動きで夕一郎を押し込み、自らも入って背中で扉を閉めた。

「いかがわしいことをしようと言うのではありません」

 声のヴォリュームを小さく絞って、

「ですが、生江さんのパンツの中を見せてください」

 と、どんなに真面目な顔で声で言おうともいかがわしいとしか受け止められないような言葉を、中寉は夕一郎に聴かせた。

「ぱんっ、パンツの中って……!」

「おちんちんとお尻の穴を見せてください、と申し上げています」

 中寉は少しも表情を動かさなかった。無表情に成人男性の股間にぶら下がっているものを「おちんちん」なんて可愛らしい言葉で表現する様子はとてもシュールである。多分、これが許されるのは中寉了をはじめ、ごく限られた者たちであろう。

「何の自慢にもなりはしませんが僕はあのトイレであったり他の場所であったりで、一般の人たちよりもかなり多くの本数の陰茎を見ています」

「本数……」

「全くもって何の自慢にもなりはしませんが、事実です。ですから、生江さんのパンツの中で、生江さんがまだ自覚なさっていない何らかの異変が生じていることを見付けられたなら、素人であっても専門医への受診を勧められます。またお尻の穴に関しても同様に。こちらはご自身で観察されることも難しいでしょう。何も」

 ここで中寉は言葉を切った。廊下に漏れてくるどこかの部屋の歌声が大きくなった、トイレのドアが開いたのだろう。足音に遅れて小便の音がしばし聴こえて、手を洗い、ペーパータオルが引き抜かれる音、……そしてまた一瞬大きくなる歌声、が済むまでじっと黙っていた中寉は、

「ないようであれば、ひとまずそちらの方面の病気をご心配なさるには及ばないのではないかと申し上げることは出来ると思います」

 止めていた言葉の蛇口を開いて残りを聴かせた。

 夕一郎の戸惑いによる沈黙を、彼は肯定と見倣したらしい。

「失礼します」

 待って、と声を上げようとしたところで、またドアが開いた。夕一郎は慌てて口をつぐみ、結果として中寉は何の問題もなく夕一郎のベルトを下ろし、フェティシズムの表現であるところのブリーフを見ても何ら表情を変えず、それをジーンズごと太腿まで下ろす。

 細くて冷たい指が夕一郎の萎縮したぺニスを摘まんだ。

 靴和には「可愛い」と言われる。靴和は夕一郎の何に対しても可愛いと言うが、特にこの場所を評して言うときにはやけに熱っぽい声になる。相対的なサイズ差に基づいてのものであろうが、靴和に比べればだいたいの男は……、とは思う。そもそも夕一郎は自身の備えているものに自信が全くなかった。身長含めてもう一回りぐらいはあって欲しいものだと思っているうちに成長期が終わってしまって、なんだか育ちあぐねた感のある輪郭である。

 可愛いけど、ちゃんと形は大人だし、俺夕くんのすごく好きだよ。

 そんなことをしょっちゅう言ってはその場所を愛してくれるのが、夕一郎のパートナーだ。

 不慣れな相手である中寉の美しい顔が、真剣な眼差しが、夕一郎を見詰める。指先の動きは性的ではなかった。あくまで観察という行為を徹底的に行う冷ややかな目が、夕一郎には少し怖く思われた。

 一分半ほど続いた観察が終わるころ、二人目の用足しの客は出ていった。それを待ち構えていたように、

「お尻の方もよろしいですか」

 中寉が言う。夕一郎は拒む気力を失っていた。しょんぼりと背中を向けると、中寉のが躊躇いなくブリーフを下ろす。両の親指に割り開かれて、覗かれている間、個室のドアに当てた両手に顔を埋めて息を止めているほか思いつかなかった。幸いにして、こちらは短い時間で終えてくれたけれども、一年分ぐらいの恥をまとめてかいた感覚だった。

「どちらも大変お美しいと思います」

 そう言って、彼は丁寧な手つきで夕一郎のブリーフとジーンズを上げて、ベルトを元通りに戻した。夕一郎は今さら真っ赤になって、ただ彼が個室を出て手を洗う様子を、ばかのように見ていることしか出来なかった。

「ああ、ごめんなさい」

 手を綺麗に洗い終えたところで、中寉が謝って来た。一度トイレのドアから顔を出した彼はこちらを向くと、素早くジーンズのベルトを外してボクサーブリーフの中から自身を露出させた。

 どうして彼がそうするのかという理由も夕一郎には判らなかったが、十秒ほど意味不明な沈黙が終わってから彼は元の通りジーンズを上げて、いかがわしい真似なんて一切していませんという顔ですたすたと部屋まで戻って行った。

「生江さんのだけ見せていただいて、僕のを見せないというのは、何だか違うと思ってそうしました。僕のはあの通り、どうということのないものですが」

 はあ……、と部屋のソファに座り直して、狐につままれたような気持ちでいる。

 夕一郎の股間にあるものを「美しい」なんて言葉で評した中寉のそれも、あのトイレに通っているとは到底思われない美しいものであったと思いながら。

「生江さんのおちんちんにもお尻にも何の問題もないと思います」

 ぼうっとした夕一郎に構わず、中寉は淡白な声で言った。

「あなたに狼藉を働いた青シャツの男が何らかのキャリアであるかどうか、僕に知る術はありません。あの男は息が臭くて乱暴で、僕の好みではありませんので。生江さんとあそこでお会いしたぐらいの時期からあの男はあちこちの発展場に現れては、あなたのように、あるいは僕のように、前髪系で線の細い男に欲を押し付けて晴らすという悪事に手を染めてきたのです」

 七年前には「素性の判らない男」という表現だった記憶がある。

 口振りから想像するに、中寉は、あの青シャツのことを執念深く追い続けているのだろうか? 言葉の途中で中寉の目に鮮烈な怒りが走る瞬間があった。

 何のために……?

 そういえば、中寉はあの日、夕一郎に対しても少し怒った顔を見せた。

 ……あなたは、ここがどういうところか知ってていらしたんですよね?

 青シャツの「狼藉」の被害者であると理解してからは、態度を軟化させてくれたけれど。

 ……普段は、こういうところではないのです。本来はもうちょっと、もうほんの少しは、公共のルールを守って遊ぶための場所です。

 あのときの彼の言葉には、夕一郎にとっては呪わしい場所となったあの発展場トイレへの擁護の響きが伴っていたように聴こえた。それゆえに、場を荒らした青シャツに対して憤慨していたのかも知れない。

 単なる邪推であろうか。

 中寉はそこには留まらなかった。個人の事情、夕一郎も中寉も、パンツの中よりも心の中の方がプライヴェートの度合いが高くて当然だ。

「それでも、いま生江さんが感じていらっしゃる異状はあの青シャツをはじめとするあの場にいたマナー違反の者たちに起因するものではないのではないかと僕は感じました。寧ろ別の病気を疑ったほうが宜しいのではありませんか。きっとあなたのパートナーは、青シャツやあそこにいた者たちや僕が遊んで来たような者たちや他ならぬ僕とは違って心優しくすぐれた人なのでしょうから、きっととても心配していらっしゃると思いますよ」

 ここまで言って、中寉は久しぶりににっこりと微笑んだ。笑顔になるとやはり別人みたいな愛嬌がある。

 彼の言葉は、羽虫のごとき夕一郎の姑息さを細い指先で潰していた。

 童顔によく似合っていたな、と今さらのように目の前の男の秘部を、夕一郎は思い返していた。

 白くて、清潔感があって、しかし、包茎だった。一般的には嫌われる要素であるけれど、不思議なことにそれが却って愛嬌になっている。

 そして、手入れをしているのだろうか、毛が一本も生えていない、つるつるで、何より白っぽかった。これは二十二歳という年齢を考えたら驚異的なことと言っていいだろう。

 そのせいで夕一郎は、いまになって申し訳ないような罪深いような気持ちを催してもいた。まるで中学生に上がったばかりの男の子のパンツの中を見てしまったかのようだ。もう一度中寉の年齢を確かめておいた方がいいだろうか? いやでも、見たいなんて言ってないのに見せて来たんだものな、僕は悪くないよな……。

「生江さんはブリーフがお好きなのですか。あの日もあなたはブリーフを穿いておられましたね」

 微笑みのまま、中寉はそう訊いて来た。夕一郎は少し面食らったが、今さらそれを隠せる相手でもないし、否定したところで嘘だということはすぐに露見しそうだと思って、縮こまりながら頷く。

「僕は……、はい、ブリーフが、好きです」

「あなたのパートナーもきっとお好きなのでしょうね」

「……はい、その……、好きだと言ってくれていますね」

 中寉は珍しく少し考えるための沈黙を挟んだ。更に珍しいことに、少しばかり自信なさげに、

「僕にもブリーフ、似合うでしょうか」

 彼は夕一郎に問うた。

 弾かれたように顔を上げて、

「それは……、はい、それはもう、間違いなく、絶対に」

 勢い込んで何度も頷いてしまった。

「実は、僕はまだ穿いたことがないのです。でも、生江さんのブリーフを見ていたら、とても凛々しくて格好良くて、清潔感もあって、羨ましい気持ちになりました」

 こんな美少年の心だって捉えるブリーフ、……身に着けているのが自分でなかったなら、もっと求められたかもしれない。

「僕には、どんなブリーフが似合うでしょうか」

 質問に、金曜以降で久しぶりに生命力を取り戻したみたいな気持ちになって、

「どんなのでも似合うと思いますけどやっぱり白が一番だと思います中寉くんはお肌がとても白くて綺麗なので。ただサイズはしっかり選ぶべきだと思います。僕も油断するとオーバーサイズでだらしない印象になってしまいがちなんですけどある程度フィット感があった方がシルエットも綺麗ですし。中寉くんはお尻小さめだし後ろから見た時のラインとかも意識したらいいかなって」

 うっかり、早口で捲し立ててしまった。ブリーフのこととなると我を失いがちであるのは、何ともみっともない話だ。

 しかし中寉は真剣な顔でふむふむと頷いて、

「気持ち小さめかなと思うぐらいのでいいということですね。僕は身長が百五十七しかないのですが、服選びでもメンズで合うものってあまりなくて困っています」

 引くどころか寧ろ身を乗り出して質問を返して来た。

 これは、とても嬉しい。

 ジーンズはレディースだろう。カットソーもサイズ以上にゆったり感がある。

「……それなら、いっそキッズ用を買うのもありかも。百五十七センチなら、百五十のでいいと思います、百四十だとお尻が窮屈かな……。ちょっと大きめのスーパーの、こども服売り場に行くと、もうどんどんボクサーブリーフに場所取られて少なくなっちゃってますけどブリーフちゃんと売ってます。買うのにちょっと勇気要るかも知れないですけど、いざとなったら通販で」

「それは大丈夫です。パンツ買うだけですよね? 別に恥ずかしくはありません」

 確かに、夕一郎が買おうとしたら目的意識が強く出過ぎてしまうだろうけれど、中寉が買うとしたら本来の目的を自然に果たすようにしか見えまい。

 それは、とても羨ましいことである。夕一郎は未だにネット通販でしか買わない。靴和は「駅のとこのスーパーで買ったんだけどさぁ、さすがにこれぐらいのパンツ穿くこどもがいるようには見えないじゃん? だから、『うちに泊まりに来た従弟が着替えを忘れたから買って行くの』って自分に言い聞かせながら買ったよう」と百六十のキッズ用を買ってきた、……頼んでもいないのだが、今日夕一郎が穿いているのがまさにそれである。こども用のを穿かされている、という思いには妙な具合に羞恥心を刺激されるが、恋人の不必要な勇気の結晶を身に着けていると思えば誇らしい。

「中寉くんにも、パートナーがいるの……?」

 はい、と少しだけ誇らしげに頷く。そもそも、いないはずがなかった。愛しい人が見てくれるからこそ、ブリーフの白さは一層眩い煌めきを放つものである。

 ブリーフを穿いた中寉が、山王のあのトイレのような場所で不特定多数の男の目に晒されるのではなく、彼が真に愛しく思う相手に愛でられることを想像して、夕一郎は我がことのように嬉しくなった。

「きっと中寉くんがブリーフ穿いたら、すごく可愛いって言ってくれると思います」

 夕一郎が思いのまま言うと、ちょっと肩をすくめて「だといいのですが」と笑みを萎ませた。

「きっと生江さんのパートナーは、あなたが穿いているブリーフを、あなた自身が愛するのと同じかそれ以上に愛しているのでしょうね」

 そう、なのだろうか。

 そうなのだ。

 靴和は、自分でブリーフを穿くことは選ばない。自身の着用することでフェティシズムを満たす夕一郎も、靴和に強いて穿いてもらおうと思ったことはない。

 けれど、靴和は夕一郎のブリーフを愛している。それはブリーフという物質に対する愛ではなく、夕一郎がブリーフを穿いているということに煽られる心を持つがゆえのことだ。裸の夕一郎を愛するのと同じ気持ちでブリーフを穿いた夕一郎を愛しているのが靴和である。

 彼はシャワーを浴びる前でも夕一郎を抱こうとしてくる。夕一郎のことをその日も守り続けたブリーフに、感謝の気持ちを告げるような唇でキスをする。それを変態的と呼ぶかどうかは、個々人の価値観に委ねればいい。

「僕は生江さんが羨ましいです。僕も、僕のパートナーにもっと興味を持ってもらいたいと常々思っていますので。僕のおちんちん、ご覧になったでしょう?」

 ちょっと緊張して、

「びっくりしました。あの、すごく、……可愛いと思っちゃっていいのかわかんないけど、でも……」

 しかし、素直に思いの丈を吐露することを夕一郎は選んだ。

「あんな風に僕がヘアを全部処理しても、僕のパートナーは顔色ひとつ変えてくれないのです。こうしたらこどものおちんちんのように見えて可愛いだろうかと思ってしたのです。僕はご覧になった通り小さいですし、皮も被っていますので。いえ、彼は小児性愛傾向のある男というわけではないのですが、でも可愛いと思ってしたのです。しかし彼は『ああ、また馬鹿なことをやっているな』という目で見ただけです。僕に関心がないのです。もちろん髪を切っても気付きやしません。そういうプラスティックみたいな男が僕のパートナーです」

 愛しているのだろうな、と夕一郎は思わずにはいられなかった。中寉はきっとその人のことが愛しくて愛しくて仕方がないのだろう。ひんやりとした第一印象はもうすっかり拭われた。恋人の気を惹くために、どんなことだってしてしまう健気さを備えた中寉は、夕一郎と少しも変わらない、恋する男だ。

「あなたの全てをまるごと愛するあなたのパートナーが、多少あなたに余計なものがこびりついていたとして、あなたの手を離したりなどすることはないと確信します。生江さんが大事な人と重ねて来た時間は、そんなに軽いものではないはずですし、これから先も続いていくに違いありません」

 淡々と、淀みなく、しかし色々な種類の表情を披露してくれながら中寉が言う間、夕一郎は考えていた。

 僕は靴和を愛している。

 靴和は僕を愛している。

 同じことなのに、だから吊り合いが取れているのに、その愛を自分から萎ませようとしていたことに夕一郎は気付いた。

「大丈夫ですよ。あなたは愛されている」

 中寉の微笑みが滲んだ。恐怖が拭い去りきれたわけではないけれど、愛されている、……愛されている、ずっとそこにあることを忘れた瞬間だってなかったはずの事実が自分の手の中にあることを実感した瞬間、夕一郎は靴和に謝らなければいけないと思った。

 仮に許してもらえなくっても、結果的に捨てられることになったとしても、……そうであるならば、愛を返す時間が足りないならば、なおのこと。

 それにしても。

 駅前のスーパーで買い物を済ませて家に向かうバスに揺られながら、夕一郎はぼんやりと思った。

 中寉が「プラスティック」と称した彼のパートナーというのは、一体どういう人なのだろう、どういう神経をしているのだろう、……そもそも、神経が通っている人なのだろうか? あれほどの美貌を持つ者を側に置いて、全く興味を示さないなんて、……本当に同性愛者なのだろうか? もったいない。

 中寉の言った通りだ。夕一郎がブリーフのローテーションを崩すと、たとえ同じメーカーの、ワンポイントさえない白無地であっても靴和は敏感に気付いてくれる。靴和は、とても温かい心を持った人だ。

 唯一無二のパートナーが、……まだ今の時点では「いる」と言える自分は、どんな異状を抱えていようともそれだけで、誰かと比較することに意味を見出せなくなるほど幸せ者なのだ。

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