二〇二一年・姑息な羽虫となって
夕一郎が床に伏してしまったから、鹿児島行きの話は一旦ペンディングされざるをえなかった。月曜の朝、不安そうに何度もドアのところで振り返りながら靴和が出ていくときに「大丈夫だよ。仕事も休みもらったし」とぎこちなく笑って見せる自分の汚さを存分に味わってから、夕一郎は身支度を整えて家を出た。
土曜日曜とベッドの上で育てた姑息なアイディアを実践するために、靴和の乗ったバスの一本後に乗って駅に出て、電車を乗り継いで、かつて住んでいた街である笹塚の耳鼻咽喉科に赴いた。わざわざここを選んだのは、今の住まいから離れていたところの方がいい、そして診察券を持っていたからという理由である。
「何ともないようですが」
丸い鏡の付いたレンズ……、額帯鏡、という名が付いているそれを上げた医師は、夕一郎のことを覚えていた。上京してきた翌年から酷い花粉症に苦しむことになったこの患者に、優れた治療を施してくれた救世主の初老の紳士である。
「喉に違和感というのは、どういうこと? 痰が絡むような感じ?」
優しい声に、夕一郎は曖昧に頷く。喉に異物感を覚えてから、確かに咳払いの数が増えている自覚もあった。
「鼻も見せてもらいましょうか。……うん、詰まっているという感じはなさそうだな。寝るときにエアコンを付けっぱなしにしていませんか」
風邪の症状の一種であると疑われているのだろう。夕一郎は首を振った。
「ちょっと様子を見ましょう。喉は綺麗ですけど、そういう自覚症状があるならばね。気になるなら、詳しい検査をしてみてもいいけれど、うちだと設備がない……。紹介状を書いてあげましょうか」
迷った末に夕一郎は固辞した。処方されたのはちょっとした痛み止めと、以前の申し出がカルテに残っていたらしく、「胃は荒れやすい方でしたね」と胃を守る薬も。相変わらず食欲は全く湧かなかったが、喫茶店に入って薬を服むためにクッキーだけは食べた。しばらくすると喉の違和感は、痛み止めのお陰か少しばかり和らいだ気もする。
夕一郎の姑息なアイディアとは、こうである。
恋人が薬を服用し始めたとなれば、靴和の心配は一線を超えるだろう。夕一郎が「大丈夫」という言葉を繰り返せば繰り返すほど、彼はその言葉を信じられなくなるだろう。
最後には、彼はきっとこう問うはずだ。
夕くん、いったい何を隠しているの。本当は、すごく、すごく苦しいのを我慢してるんじゃないの。
実はね、と告白する病名、……何というものであるかは判らないけれど、あの青シャツの男に植え付けられた毒の名前を告げたとき、いちばん恐ろしく思われるのは結局のところ、靴和に捨てられてしまうことよりも、その前段階として靴和に激しく怒られることなのだ。
嘘を、不義理な秘密を、膨大な言葉で責められることなのだ。
この汚い身体ではどのみち彼と一緒には居られない。捨てられるのは嫌だけれど、どうしたってそれが避けられないのであれば、せめて少しでも静かで、優しい終わり方がいい。酷く怒られて、罵られることは避けたい……。病身ならば、せめてそれは避けられるのではないか……、そんなこどもじみた考えに基づいて夕一郎は行動することに決めた。
決めた、と言っても。夕一郎はやはりすぐに紹介状を書いてもらって、自分の病名と正面から向き合うことには不安があった。しかし具体的なことが判らないままでは次の一歩も踏み出すことは出来ないと考え直してカフェを出て、……やっぱり書いてください、紹介状、と頼みに戻ったけれど、耳鼻科は昼休みに入っていて、開くのは三時。土日はずっと靴和に食事を作らせてしまったから、今日ぐらいは自分が何か作らないと。
もう、人生であと何回作れるか判らない、恋人のための夕飯を。
そのためには、遅くとも六時には最寄りの駅に着いていなければいけない。やはり一先ずは、奇跡的に症状が痛み止めで完治することを期待して数日様子を見て再受診するのが現実的なのだろう。もっとも夕一郎は知らなかったが、痛み止めは症状を緩和することを目的に服用するものであって、原因の排除には働かないものなのだが。
富緑駅に戻って、私鉄の改札口に向かう前にICカードの残高を思い出してチャージしようと券売機の列に加わったところだった。
「あの」
不意に、声に背中を叩かれたのは。
「覚えていらっしゃいますか」
ポケットからICカードの入った長財布を取り出したままの格好で、夕一郎は小柄な少年に暫し言葉を失った。
彼は顔貌の下半分を隠す黒いマスクのせいで自分が誰だか判ってもらえないのではないかと懸念したのだろう。少し周りを気にして、マスクを顎まで下ろした。そんなことをしなくても、夕一郎は彼が誰であるか、漆黒の髪と、細い目と、涙袋の紅みを見て即座に判ってしまった。
つまり、誰だか判らなかったのではない。はっきりと解りすぎたのが問題である。
「山王駅のトイレでおしっこ漏らした人ですよね」
小さな、本当に小さな声ではあったけれど、夕一郎の心臓を抉って、彼は無表情に言った。
かつては毎週通っていた富緑駅の東口を、夕一郎が歩くのは本当にずいぶん久しぶりのことだった。少年に導かれるまま、自分の穿いている下着とよく似たものを穿かされている天使の上を、そうと気付く余裕も通り過ぎて、横断歩道を渡ってすぐのところにあるカラオケに夕一郎は導かれていた。
部屋に着くなり、
「ナカツルリョウと申します」
と少年は言った。
いや、「少年」と言っては失礼だ。あの日、やはりまだ高校生だった彼は、もう二十二歳の青年になっていたし、声がわりもしていた。
しかし夕一郎が一目で思い出せた通り、あのとき纏っていた冷たく静かな美貌は全く失われず、寧ろ時間の経過によって一層磨きが掛かったかに思われる。まさしく息の止まるような色香めいたものが、地味なグレーのカットソーと紺色のデニムから滲んで隠せない。
ナカツルリョウ、漢字で書くと「中寉了」だそうだ。寉、という漢字は初めて見たが、「鶴」の異体字のようだ。鶴を思わせる美少年の名字にその文字が入っているのは少し面白いが、読みづらい名前だ、なんてことを「名前は生江」のくせに夕一郎は思った。
彼は受付でオーダーした烏龍茶が出てくるまでしばらく黙り、グラスを二つ置いた店員が去るなり、
「あれからお変わりありませんか」
と機械的な声で問うた。
「ずっと案じていたのです。あのような酷い目に遭われたのみならず、お身体を害するようなことになってはいなかったかと」
黒い瞳の奥の脳からものすごいスピードで言葉が生産され、それを整頓して正しい形に並べ替えたものを聴かされている、という感じを夕一郎は受けた。機械的で四角い声なのだ。
それでいて、義務感だけで言葉を掛けてきたのではないだろうということが理解できる。冷たいのだけれど、決して金属的な声ではない。
「先ほど駅で、あなたをお見掛けしました。あの青いシャツの男はこのところ宿木橋の発展場によく現れているようです。もしあなたが宿木橋に遊びにいらして、どこかのお店やあるいは発展場でうっかりあの男と鉢合わせることになったら、とても嫌な気持ちになるかと思い、不躾なことだと自覚しながら声を掛けてしまったのです。ごめんなさい」
ぺこり、と音がするような頭の下げ方をされて、
「いいえ、……おそれいります」
歳下であると思いながらも、夕一郎は反射的に敬語を用いてしまった。
「あの、……えっ……、あの、それだけの理由で、僕に声をかけた、……んですか?」
「申し訳ありません」
「いえ、いいえ、あの、別に……」
夕一郎が戸惑っていると、顔を上げて、ほんの少しだけ中寉は笑った。中寉の笑う顔を見るのは初めてであった。笑うことで冷たさが素早く拭い去られて、たちまち人懐っこい顔になる。本当に大学生か、成人か、と思うような、無垢な顔立ちである。
すぐに彼は、元の冷ややかな顔に戻った。
「よろしければ、教えてください。あなたはあれからお元気でしたか。ああいうことがあった後に、身体に変調を来したことはありませんでしたか」
言葉遣いは極めて丁寧だが、へりくだっているというよりは、敬語を使わないとうっかり無礼なことを言ってしまうおそれのあることを自覚しているからではないかと思われた。清楚な様子に見えるが、遠慮はない。それこそ、あのトイレに明確な目的を持ってあんな若い時分から足を運んでいたような子である。すんなりと理解出来る相手であるなどと思ってはいけないに決まっていた。
「身体の、……変調」
中寉は頷いて、夕一郎の顔をじっと見つめた。下衆な興味を向けられているわけではなさそうだ。表情の読み難い目は、少しも揺れずに夕一郎を見つめていた。
硬くなっていた心が、少し動いた。
「……あの、これは、関係あるか判らないんですけど……」
という、もし仮に今後、精密な検査を受けることになったなら枕詞として用意していた科白を夕一郎の舌は紡いでいた。中寉はじっと夕一郎の言葉を待っている。
「……喉が、おかしい、おかしいっていうか、……なんかこう、ゴロゴロして、苦しい……、っていうのが、ここ何日か続いています」
「ここ何日か」
どうしてこの少年が鶴のように思われたのだろう? 髪と肌と目元、黒白赤という色の取り合わせだけではなさそうだ。表情の少ない顔のせいか。
「あなたが」
というところで言葉を切って、あ行の形に口を開けたまま夕一郎を見詰めている。
「……生江夕一郎、生江、が名字で、下の名前が夕一郎です」
中寉は納得したように頷いて、すぐに言葉を繋いだ。
「生江さんがあそこのトイレで酷い目に遇ったのは、確か七年前のことでしたね。僕は、あの一件の直後に問題が起きなかったかと懸念したのですが、あなたはあれからずっと最近に至るまでああいう場所で繰り返し遊んでいて、ひょっとしたらリスクがあるかもしれない男とそういうことをしてきたという解釈でよろしいのでしょうか」
慌てて夕一郎は首を振った。
「とんでもない! あの、あそこみたいなところに行ったのは、あの時が最初で最後の一回きりで、……宿木橋には行ってましたけど、そういうことは全然……」
あの体験に味を占めて、ああした場所を見付けては勇んで突入していくようになる者もいるのかもしれないが、……二年前から、宿木橋のバーで出会った人と付き合っている、というところまで含めて、夕一郎は話した。
「それは、おめでとうございます」
事実を一つ、丁寧に祝福する言葉を挟んでから、
「検査は受けておられますか」
中寉は再び案じる言葉を向けた、
「それは、うん、半年に一回……」
「これまで、異状が見つかったことは」
「一度もないです。でも……」
現にいま、夕一郎の喉は。
「では、関係ないと思います」
中寉はあっさりと言い切った。専門家でもないのに、無責任に。しかし、あまりに迷いがなくて、ちょっと信じてしまいそうになるような物言いだった。
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