二〇一四年・美少年
夕一郎は動けなかった。斜めの角度からブリーフから零したものを晒し、……ただ微かに震えている。どうしたらいいのかは、全く判らない。
背後で個室のドアが空いた音が聴こえた。出てきた足音は二つで、片方が手を洗い始める音がする。もう片方は、そのままさっさと出て行ったようだ。
青シャツが夕一郎の右肩に手を回してきた。彼が顎でしゃくった先、今の今まで二人の人間が同衾していた個室がぽっかりと口を開けている。
引き返すならこれがラストチャンスだ。そう思ったから、一瞬、たじろぐ。夕一郎の表情に怯えが走ったところを青シャツは感じ取ったのかも知れない。夕一郎の、気の弱さの象徴に男の手が絡んだ。お前が見せてきたんだろう、と、男がちょっと怒ったような気がして、選択肢はたちまち萎んだ。
触って、と男が息だけで言った。ここに来る前に立ち食いそばでも食べたのだろうか、めんつゆの臭いがした。自分の急所を掴まれて、まだ何も出来ないでいるうちに、男は焦れったそうに夕一郎の右手を自身の怒張へと導いた。じっとりと湿っぽく熱く、夏の夜みたいな手応えだと思った。
男に指を絡めて、手のひらを押し返してくる脈動に夕一郎は息を呑む。気付けば夕一郎は男に導かれるまま、青シャツと向き合っていた。青シャツはめんつゆ臭い息を漏らしながら夕一郎を手で刺激する。自分の急所に自分以外の誰かの手が、明確な目的を持って触れることなど天地神明に誓ってこのときが初めてだった。とても大きな羞恥心、しかし、悪質な興味と興奮にすべてが覆われる。
怖い、けれど、嬉しい、と思った瞬間が確かにあったことを、夕一郎は認める。僕で興奮する人がいる、僕を認めてくれる人がいるんだ、人生で初めての成功体験と呼んでもよかった。
それを甘く感じていられたのは、ほんの一瞬だけだったけれど。
一番左とその一つ隣の小便器を使っていたスーツの二人組が、気付けば夕一郎のすぐ側まで来ていた。片方は二十代だが、もう片方は髪に白いものが目立つ。二人はどちらも、紺とグレーのスラックスから自身の怒張を晒して立っていた。のみならず、黄色いネクタイを締めた若いほうは自身のそれを左手で、どこかの企業の社章を襟に裏返して付けているもう片方のそれを右手で扱き上げているところだ。二人が自分たちを興奮の材料にしていることは明らかだった。
青シャツは夕一郎の手から腰を引き、背後に回り込むと、めんつゆ臭い息を夕一郎に嗅がせながらスーツの男二人の見ている前で夕一郎のペニスを激しく扱き始めた。夕一郎の痴態を見せびらかすことで、所有権を主張しようという魂胆かもしれない。
これは、とても厄介な話ではあるけれど、……青シャツの右手は上手かった。
ずっと独りでいたし、そうした器具も用いたことがない、だから夕一郎にとって性的な快感とは自分の右手によってもたらされるものを意味していたし、それが最上級である。
マスクの中で息が熱く蒸れて、吐息に声が混じった。夕一郎のそれは青シャツの手の扱く動きに応じて、滲んでくる液体が音を立てる。生江夕一郎という大学生が見ず知らずの男たちに囲まれて、ブリーフから剥き出しの暗器を晒して高まっていることを証す音だ。その音を、姿を、マスクの中から溢れる熱っぽい息を、すべて観察されていることで、いっそう昂るがゆえに鳴る音だ。夕一郎を目で犯す男たちが扱く手のスピードも上がった。彼らはこのまま夕一郎の恥態を眺めながら悦びを得るつもりだろう。
夕一郎の鈴口から滲み出て、青シャツの右手の動きによってより高い音を立てて鳴る淫らな粘液の音が彼らを煽るのみではない。夕一郎自身も自分の鳴らす音を漏らす声を俯瞰しながら煽られているのだ。この尋常ならざる状況に、嵩んだ羞恥心も恐怖心も全部が全部、快感に変換されていく……。
「っく……、いく……、……いく……っ」
白髪混じりの方が、夕一郎の亀頭に翳したその手に、もちろん断ることもあらかじめ謝ることも出来ないまま、失禁するように放った。思考という思考を手放して、膝を震わせてどうにか立っているだけの夕一郎の前で、裏返し社章の白髪混じりが手のひらを汚したものを持て余す素振りもなく自身の口に運ぶのが見えた。
青シャツの手が離れるなり、夕一郎は清潔であるはずもないトイレの床に膝から落ちた。硬い痛みに意識が繋がったとき、目の前には青シャツの、凶悪なフォルムの物体が突き付けられていた。
言葉はなくとも解った。お前のこといかせてやっただろう、だったらお前もするのが礼儀だ。
マスクを剥ぎ取る青シャツの手に抗う術を持たなかった。自分の欲求は満たしてしまった後であるものだから、きっちり本来の記号を取り戻した羞恥心と恐怖心、そして自分への嫌悪感に圧し掛かられながら。
嫌だ、と思うのがどれほど勝手なことであるかぐらい、このときの夕一郎にも理解できていた。
やり方なんて知らない、判らない。舐めればいいんだろう、歯を立てなければいいんだろう、この人は、……僕の口で射精するつもりなのか、そもそもこれ、ちゃんと洗ったのか。仮に何らかのそれらしい臭いや味を感じたら、泣いてしまうかもしれないと思った。だから息を止めて、縮れた毛が鼻の頭に当たる不快なくすぐったさに耐えながら、青シャツの赤腫れた蛇を口に収めた。
上顎を圧されて、胃液が出そうになった。口で酸素を得ることなど到底叶わない苦しさに声もなく喘いだ夕一郎が必死に舌を動かすと、まるで大人がこどもを褒めるようなやり方で、青シャツの手が夕一郎の髪を撫ぜた。
スーツ姿の二人がいつしか青シャツの左右に立ち、夕一郎の頬に付きそうなほどの距離で、それぞれ鈴口を濡らした熱源を扱いている。鼻を衝く臭いを堪えているうちに、青シャツが腰を引いた。左右の男に目配せをする。左の黄色ネクタイが、右の裏返し社章が、当然の権利のように自身の熱のかたまりを夕一郎の口に差し出してきた。
へたりこんだ夕一郎の腰を背後から抱えて立ち上がらせる腕があった。夕一郎に興味を示さなかった男が、ブリーフの外に晒されたまま萎縮した夕一郎の陰茎を掴む。戸惑う声を上げた瞬間に、黄色ネクタイの性器が口中に侵入し、喉奥を突いた。その苦しさ噎せた瞬間、夕一郎の先端から本来ならば精液よりもずっと早くに解放の刻を迎えていなければいけなかった清澄な液体が堪えきれず迸った。
誰もそれを咎めることはなかった。黄色ネクタイが口中で三往復し、裏返し社章が二往復したところで、背後の男が夕一郎の上半身を羽交いにして起こした。あまりのことに竦んで皮を被るほど縮み上がったものが青白いタイルに水溜まりを作っていく様子を、男たちは、……まっすぐ捉えることも出来ないが、視界の端で愉快そうな表情を浮かべて観察していた。
この段階ではもう、夕一郎は完全に動転しきっていた。
「ごめんなさい」
謝る言葉が、ほとんど反射的に零れてしまったのは、もともと心がそれほど頑丈ではないからか。その心が、もうひび割れて、弱さが隠しようもなく漏れ出してしまったからか。
贖罪の口に、青シャツの欲肉が再び突き入れられた。夕一郎はそのとき、人間の体温と柔軟性を持つ無料のオナホールとして定義されていた。一方で夕一郎は複数の頭を持つ蛇に代わるがわる貪食されている感覚である。
「ごめんなさい」
たった六文字も上手に言えなくなってきた。喉に青シャツの、恐るべき射精が叩きつけられる。人間というよりは雄の本能を具現化したような、勢いの強い射精を思いきり味わって、鼻に突き抜けて、……夕一郎は水溜まりに膝を落とし、意識さえ危うくなっていた。その口に、顔に、黄色ネクタイと裏返し社章が次々と労うような言葉を掛けながら、膨大な熱を浴びせかける。最後には、当初夕一郎に何の価値も見出ださなかった例の男がずいぶんといとおしげに髪を額を撫ぜながら、介助のように夕一郎の口に性器を差し入れて、出来の悪い息子に言う声で「吸って」「もっと舌を動かして」と言葉を口中粘膜に染み込ませてくる。
その男が果て終えたときにはもう、青シャツはいなくなっていた。一つはまだ塞がっていたはずの個室は両方とも空になっていて。
人間としての意識を取り戻したとき、夕一郎の膝の濡れたジーンズを、焼け石に水ではあるけれどハンカチで拭いているのは、さっきまでそこにはいなかった少年だった。
当時の夕一郎よりもずっと歳下に見えた。意識を取り戻すには十分なほどに、鮮烈な美しさを纏った少年であった。
高校生であることは明白だった。いや、下手をしたら中学生? 白いワイシャツに、黒いスラックス。薄い肩に私立校の章の入った鞄を掛けている彼は、じっと夕一郎を見詰めて訊いた。
「あなたはこういうこと、されたいと思って来たんですか」
声変わりをしたのかしていないのか、判然としない、潤いを帯びた高い声だった。少々非難めいた口調の彼に、夕一郎は応えることは出来なかった。
「どうして止めなかったんですか」
彼は唯一残っていた最初の、……夕一郎に興味を示さなかった男、夕一郎を後ろから抱え、最後に口へ射精した男、を鋭い視線で睨んで、呵責の言葉を向ける。
「ここではそういうことをしてはいけないと、あなたもご存知のはずでしょう。もしこんなことが外に漏れたら、ここはたちまち閉鎖されてしまうことにすら考えが至らないのですか」
少年の言葉を受けた男は「いや……、まあ……」なんて言葉を濁しながら後ずさり、手も洗わずに出ていった。
矢の鋭さをはらんだ少年の視線が夕一郎に向いた。
「あなたは、ここがどういうところか知ってていらしたんですよね?」
夕一郎が答えられないでいるうちに、彼はポケットから出した小さなスプレーを夕一郎の膝に振り掛けた。夕一郎がはしたなく床に溢し、ジーンズの膝に染み込んだものを、僅かな芳香が覆う。
「こういうところは、向き不向きがあるので。ただやりたいだけでないなら、そして、そういう目に遇うのが平気でないなら、もういらっしゃらないことをおすすめします」
どことなく、鶴を思わせる顔の少年だった。
癖のない漆黒の髪は天井の蛍光灯を浴びて天使の輪を形作っている。細い眉と、長い睫毛を備え静謐で知的でどことなく和風な雰囲気のある目元、……涙袋の目尻側が、ひょっとしたら少し寝不足なのか、ほんのりと赤く染まっている。しかしそれ以外の肌という肌は真っ白だ。「お人形さんみたいな」という形容を美しいこどもに向けてすることもあるが、床の間に、ガラスケースに入れて飾られた日本人形のようであると思った。
それが褒め言葉になるかは判らないが、このとき泥沼から彼の細い腕に引っ張り上げられたような心持ちの夕一郎にとってこの少年の美しさは間違いのない癒しだった。
少年は顔に満ちていた鋭く道徳的な怒りを少し萎ませた。あまりに情けない姿を晒す夕一郎への憐憫が浮かんできたのかもしれない。
「普段は、こういうところではないのです。本来はもうちょっと、もうほんの少しは、公共のルールを守って遊ぶための場所です」
少年はごく丁寧な言葉遣いを選んで言い、洗面台で手を洗い始めた。
「でも、あなたは何もご存知なくて、可愛いから、周りも調子に乗ってああいう真似をしたのだと思います。もういらっしゃらない方がいいです」
偉大に見える少年の隣、夕一郎は鼻を啜ってこくんと頷き、手を洗った。
水を止めた少年は夕一郎より低いところから見上げて、
「触られたところは、よく洗っておくことをおすすめします。それから、家に帰ったらしっかりうがいをなさるべきです。大きなお世話かもしれませんが、無責任な男も中にはいます、あの青いシャツの男は素性が知れません。身体にもし、どこか少しでも変だと思うところがあったら、早めに病院に行かれた方がいいですよ」
と言った。少年に感謝して、あとはもう、逃げるように、……臭いを気にしながら家に帰り着いて、忠告に従ってしっかりうがいをし、全身を洗っている最中に、怖くなった。
少年の言っていたことの意味が、やっと理解できたのだ。
彼は夕一郎が、性病をうつされた可能性について言及したのだ。
あれからただの一度も、ああした場所には近付いていない。意図せざる入場が一度あっただけである。宿木橋からの独りの帰り道、尿意を催して入ったトイレが明らかにそういう場所で、しかし気付かぬ振りをして小便器の前に立ったことはある。トイレを、本来の目的で使用している夕一郎の隣にはあの日のように一人の男がやって来たが、夕一郎が無視を決め込んでいるとすぐに諦めた。個室は塞がっていたが静かだったし、洗面台に夕一郎が近付くと、手を洗っていた男はすぐに外へ出ていった。本来はこういう礼儀の場所なのだと知った。あの日、不慣れな夕一郎があっけなく我を失ったこと、……そしてこちらが何も知らないことを見抜くや貪食することにためらいのなかった青シャツのせいでああなったというだけ。
夕一郎はずっと不安だった。靴和と出会うよりも前にも検査を受けに行ったことは一度や二度ではない。何かの異常が明らかになったことはなかったし、あの少年に言われたように何かあったらすぐに病院へ行こうと決めていたのだが、幸いにしてそういったことはなかった。
それでも、何かの幸運によって発症を避けられているだけだったのではあるまいか。
僕の喉には、あの人が植え付けた種が詰まっている。うがいをしても、長い年月を経ても洗い流されることなく息づいていたそれが、いよいよ発芽のときを迎えようとしている。どう考えても夕一郎の喉の違和感は、あの青シャツの男の精液が放たれて苦しみを味わったとき、いちばんひりついた部分である。舌の付け根のもう少し奥、口と食道の境界線辺り、物理的に腫れている感覚がある。痛みのないことが、かえって不気味だ。
思考の彷徨がもう一歩進んだ先には、また新しい絶望があった。
それは、靴和に自分の病気をうつしてしまった可能性だ。
都合のいい油断にあぐらをかいて、数えきれないほど靴和と愛し合ってきた。
交わしていたのが、愛だけではなかったとしたら。
しかし、どうして本当のことを打ち明けられるだろう? どんな言葉を用いればいいのだろう? どうやって許しを乞えばいいのだろう? ようやく寝入ったらしい靴和の寝顔を盗み見て、激しい喉の膨張を覚えた。気道を狭めて腫れ上がり、呼吸さえ出来なくなりそうなほどの。
靴和を失いたくない。靴和と一緒に過ごす時間を、手放したくない。たとえそれが、嘘が紅く滴るものでしかなかったとしても。
トイレで喉に指を突っ込んで吐いた。胃液によって、膨張した喉の肉芽が剥がれ落ちることを期待したのではない。そんな容易いものではないと思ったから、いっそその場所が傷付いて、破れて、芽吹き加減の種ごと吐瀉物と一緒に出てきてくれないか、と。
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