二〇一四年・山王ティールーム
夕一郎は、靴和に黙っていることがある。嘘をついたことがある。
「僕は靴和以外の誰ともこういうことをしたことがないんだ」
嘘、である。
しかし、嘘、と責められることには少しばかり抵抗したい気持ちもある。
ただ、それを定義するのは自分ではないことを夕一郎は理解していた。靴和が夕一郎の言葉を「嘘」と言うなら、やっぱりそれは嘘以外の何物でもありえない。
夕一郎は一度だけ、男としたことがある。
相手の名前は知らない。どこの誰であったのか、……もっと言えば、相手は一人ではなかった。
更に言うならば、したい、と願ってした訳ではない。いや、厳密に言うならば、「したかった」ことは認めるけれど、ある瞬間以降は「したくない」と思ったし、後になって、つまり今ははっきりと「したくなかった」とも思うのである。
全部が全部、徹頭徹尾勝手な話ではあるけれど、本当の気持ちだ。
それを明確にあやまちと呼ぶことはしたくない。仮にあの日、相手のうち誰かと良好な関係を築くことができていたなら、いまとは違う人生があった。辿らなかった道にどんな景色が広がっているか、誰にも判らないし、評価のしようもない。確かなのは、靴和と出会って以降、この二年と数ヶ月が幸せなものであったということばかり。
七年前。
まだ、世界がこんな形になるなんて知らなかった頃、夕一郎の世界のどこにも「靴和勇一郎」は存在しなかった頃である。
都心のターミナルの一つである山王駅の北口地下通路の、突き当たりにあるトイレに、当時まだ大学生だった夕一郎は立ち寄った。通っていた大学から当時の下宿先であったアパートに帰ろうとしたとき、山王を通ることにはならない。定期区間外のその駅へわざわざ赴いたのは、知った顔に鉢合わせるリスクを出来る限り避けたいと思ったからだ。
ではなぜ山王駅に立ち寄ったのか。
北口地下通路のトイレが、発展場になっているという情報を、インターネットで得たからだ。
自分が同性愛者であることを自覚した夕一郎は上京を機に独り暮らしを始め、自身の欲と向き合う自由を手に入れて以降、最初の半年近くを、「ブリーフを購入し着用する」という地味でかつ孤独な行為に費やした。地味で孤独であるということは極めて安全であるということと同義であり、一方でやがて退屈さに倦むことも避けられないことまで含意する。
ブリーフの上から自身の形作る膨らみに触れる。自分がブリーフを着用しているということを誇りに思いながら刺激しているうちに、たちまちそれは激しい熱を帯びるようになる。あとはその熱源を早々に窓から出して(何せ、激しい興奮に至るまであまり時間もかからないもので、大切なブリーフを汚してしまう懸念もある)後は右手で握って動かすだけ。そんなインスタントなやり方で満足出来ていた時期もあったのだが……。
こうした悦びを、自分の右手ではなく誰かの手によって授かってみたい、という思いが、徐々に頭を擡げ始めたことは、ごく自然な話であった。
パートナーが欲しい、という願いを抱いたのは、宿木橋に通うようになるずっと以前から夕一郎の胸の裡に息衝いていた。
独りで過ごす時間に終止符を打ち、いよいよ実際的な行為に舵を切ったのだ。航路の最初の停泊地として、発展場となっている駅のトイレが相応しかったのかどうかは、数年経った現在でも夕一郎には判らない。公平に見て、運がなかっただけと言うことも出来そうだし、やっぱり無茶だったと判断の軽率さを省みることも出来る。
山王駅はよく知られている通り、富緑駅と同じほどに規模が大きく、混雑した駅である。国内ターミナル駅の乗降人員数一位が富緑駅、四位が山王駅だそうだ。
しかるに、北口地下通路は動線からは外れたところにある。具体的に言うと、私鉄各線との乗り換えは南口と中央口に集中しているし、繁華街として栄えているのもそちらだ。夕一郎は上京して来て一度だけ、休日に美術館に行くために降りたことがあったが、美術館があるのも南口だったし、帰りに買い物と食事を済ませたのは中央口の駅ビルだった。東京は人が多くて疲れるなあ、なんて思って帰途に就いた。かつての靴和のように、東京にまだ不慣れだった頃が夕一郎にもあったのだ。
一方で北口はと言うと、めぼしいランドマークは何もなく、改札を潜る人の数も少ないようだ。あとで知ったところによると、北口に広がるのはいわゆる風俗街だ。
南口と中央口には改札内外に立派なトイレがあるが、北口は改札周りにトイレがない、しかし一個もないのはどうなのだという観点でとりあえず設けられたのが、この地下通路のトイレであるらしい。
そこに目を付けたのが、日常の中に一瞬の出会いを求める人々だった。
夕一郎がそこへやって来たとき、閑散とした通路でありながら、男子トイレの前には人待ち顔でスマートフォンを弄っている男の姿があった。
夕一郎は不織布のマスクをして現地に臨んでいた。もとより、花粉の飛ぶ時期のことで、マスクを着用していることが当時としても悪目立ちしない春の日だった。緊張に、手のひらはうっすら汗ばみ、しかし不安よりも期待のほうがずっと大きい。スマホ男の前を通り過ぎて、入るなりすぐ左に右に折れて導かれる男子トイレの中は、心なしか外よりも気温湿度とも少し高いような気がした。
外のひとけのなさが嘘のように、トイレの人口密度は高かった。
左手の壁沿いに小便器が五つある。そのうちの四つまでが塞がっていた。一番右の便器だけが開いていて、四人がずらりと並んでいる光景が異様であることは、男ならば判るだろう。後ろ姿は、左からスーツ、スーツ、シャツとジーンズ、スーツ。……すぐに夕一郎は、便器と男たちの間隔がずれていることに気づいた。一番右のスーツの男なんて、そこで用を足そうとしたなら壁にびたびたとぶち当たるレベルだ。
奥に三つある個室は全部が塞がっていた。
二つある洗面台の片方では、青いシャツとグレーのジーンズを合わせた男が手を洗っていた。自分と同じぐらいだろうかと夕一郎がそっと視線をやると、鏡の中から見つめ返してきた顔は、もうちょっと歳上に見えた。その隣で髪を整えていた男は、夕一郎がその後ろを通り過ぎるのを待ってトイレを出ていった。
夕一郎の用意は周到だった。ここに来る前に何度か別なトイレに入ろうかというタイミングはあったけれど、それを堪えてやって来た。もしここが思うような場所ではなかったり、怖気付いてしまったとしても、あくまで僕は用を足しに来たんですという顔でいればいいと思って。
唯一空いている右端の便器の前に立ち、ジーンズの中のブリーフから自身を取り出す。……緊張で竦み上がっていた。左から数えて三人目と四人目が、ちらりとこちらを伺った気がする、いや、四人目は間違いなくこちらを見た。その視線の向きから、夕一郎の横顔を見て、目隠しのない便器と身体の隙間を覗こうとしていることは明白だった。
意図しないタイミングで羞恥心がこみ上げてきた。
こういう場所では、自分の小用を覗こうとして来られるものだという情報は既に得ていた。相手に応じる気があるならば、見せてやればいい、……それで言葉を伴わず交渉成立。もし嫌だと思ったなら。
男の目はもう一度夕一郎の横顔に向いた。夕一郎の視線はその男と絡むことはなかった。男は興味を失したように再び密着する左隣の男に戻ったのである。
これは少なからずショックなことだった。
別に自分の見目が飛び抜けて麗しいなどとは思っていなかったが、左隣のフリーター風の男よりは、多少は……、なんて思ってしまった。
恐らく、この男の示した反応が夕一郎のこの後の行動に影響を及ぼしたのだ。
……おしっこ終わったら帰ろう、と若干の失望と安堵の溜め息を吐きながら、自分の容器の中身を便器に注ごうとした、まさにその瞬間だった。
洗面台にいた青いシャツの男が、便器と便器の隙間、もっと言えば夕一郎に興味を示さなかった男との間に身を捩じ込んで来たのは。
どんな男であったか、覚えている。淡々と情報を並べるならば、身長は夕一郎より少し高いから百七十に届くか届かないか。やや肉付きがよく、顎の丸みが目につく。白くて柔和な雰囲気の顔立ちをしている中に、目が少し、陰険に見えた。
先程、男に興味を失されることがなかったなら、そういうことはしなかっただろう……、と夕一郎は回顧する。逆にじーっと見詰められていたなら、却って怖くなって、それこそおしっこを済ませてそそくさと退散していた公算が高い。
僅かに得意な気持ちを抱いたことを、夕一郎は認める。
僕に興味がある人が、ちゃんといるんじゃないか……。
ここで踏み切れなかったらこれから先もずっと僕は独りだぞ、という強迫観念めいたものを自分に押し付けたことも否めない。独りの退屈さには飽きていた、ここで何もないまま終わってしまうのだとしたら、僕は何のためにここに来たのだ……。
夕一郎は僅かに左足を引き、自分の陰茎がいままさに肉体の中の容器に溜まっていたものを吐き出すために、蛇口の役割を為そうとしているところを見せることを選んだ。
青シャツ男の視線が夕一郎を舐めていた。顔を、そして下半身を。彼は夕一郎の下着がブリーフであることに気付いただろう。……嗤われるだろうか、懸念が頭を過った。
杞憂に終わった。男はほとんど密着するほど夕一郎に身を寄せて、自身の左手でジッパーを下ろす。便器のないところで放尿するつもりでそうしたのではない。彼は自らのペニスを披露した夕一郎に、返礼のつもりか、自身の備えた物体の様子を見せようと意図したに違いなかった。
後になって思えば彼は、夕一郎がこのトイレに特定の目的を携えてやって来たのか、それともここがどういう場所であるか知らずにただ用を足しに来ただけなのか、洗面台から見定めようとしていたのだろう。隣の男が覗こうとしたときの反応で、自分と同類であるという確信を得たのだ。
また同時に青シャツは、夕一郎が全くこういう場のコミュニケーションに慣れていない男であることも見抜いていただろう。動きの一つひとつのぎこちなさ、目に現れている気の弱さ、……とても容易い存在であるということを自覚出来ていないのは、夕一郎だけだった。
夕一郎は尿意も忘れ、呆然と男のものに視線を向けていた。赤黒く熟成した印象で、既に激しい力を集めていきり立ったそれを目にした瞬間から、夕一郎の頭の中は真っ白だ。青シャツの男のそれは、夕一郎を見て、いかに興奮しているかを思い知らせてくる。眼窩に直接その物体を押し込まれて、脳にまでその温度と硬度を伝えてくるかのような衝撃があった。
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